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真のキリスト教

第二章 あがない主について

95節-113節

95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113


95・ [Ⅴ]主はあがないのみわざをとおして、みずからを、義 Justitia とされた。

 
功績と義は、ただ主にだけありますが、それは、主がこの地上で、父なる神にささげられた従順によります。これはとくに、十字架の苦難によるものと、現在キリスト教会では教えられ信じられています。しかも十字架の苦難が、あがないのわざそのものと見なされていますが、これはあがないのみわざというより、主ご自身の栄化のみわざです。それについては、次の「あがないについて」の項目で述べるつもりです。
 主がご自身を義となさった〈あがないのみわざ〉とは、霊界で行われた最後の審判のことで、そのとき、善人と悪人、ヒツジとヤギが分けられました。龍に味方するケモノと行動をともにする連中は、天界から放逐されました。ふさわしい者たちからなる新しい天界が造られ、ふさわしくない者たちからは、地獄が造られて、天界と地獄の両方にわたって、万事秩序をとりもどしました。そしてとくに、新しい教会が創設されました。
 あがないとは、以上のようなみわざのことで、主はこうして、ご自分を義となさいました。「義justitia 」とはほかでもなく、神の秩序によって万事をととのえること、秩序にはずれたものに秩序を回復させることです。というのも、義とは、神の秩序そのものだからです。それは、
  「このように、すべて正しいことを成就するのは、〈わたし〉にふさわしいことである」(マタイ3・15)と主は言っておられますし、旧約聖書にも、
  「見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起こす日がくる。かれは王となって世を治め・・正義を世に行う。・・・その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」(エレミヤ23・5、6、33・15、16)。
  「わたしは義をもって語り、救いをもたらす力がある」(イザヤ63・1)。
  「ダビデの位に座して、・・・公平と正義とをもって、その国を安らかにする」(イザヤ9・7)「シオンは、正義をもってあがなわれる」(イザヤ1・27)とあります。

96・ 現代の教会で指導権をにぎっている人たちは、主の義について、まったくちがったふうに語っています。つまり人間の心に、主の義を刻みつけることが、救いの信仰につながるわけです。主の義は、主のものであり、主に由来するものですから、そのものとして、まぎれもなく神のものです。それは、どんな人間にも結びつけられるというものではありません。神の愛と神の英知である〈神のいのち〉をのぞいては、なにか救いにいたるものをつくり出すことは、できません。主は、その愛と英知をもって、人間ひとりひとりの中に入ってくださいますが、人が秩序にしたがって生活しないかぎり、その〈いのち〉は内在していても、救いにつながっていくわけでは、決してありません。ただ真理を理解し、善を実行する能力だけは与えられます。秩序にしたがって生活するとは、神の掟を守ることです。人がそのような生活をし、それを実行するとき、初めてその人は義を得ます。それは、主がもっておられるあがないの義ではなく、主ご自身を、義として、受けるのです。それは、次のような人のことです。
  「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天のみ国にはいることはできない」(マタイ5・20)。
  「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである。天のみ国は、かれらのものである」 (マタイ5・10)。
  「代の終わりにあたって、み使いたちが来て、義人のうちから、悪人をえり分けるであろう」 (マタイ13・49)。
 その他にもありますが、〈みことば〉で「義人 justi」というと、神の秩序にしたがって生活してきた人たちのことです。なぜなら、神の秩序は、正義に他ならないからです。主があがないのみわざをとおして、義となられたという、その正義は、そのものとして人間の手柄にしたり、人間に刻みこんだり、人間に適合させたり、結びつけたりはできません。
 それは、光が入っても眼のものではないし、音がひびいても耳のものではないし、また意志は、それによって動く筋肉のものでもないし、思考力は、それによってしゃべっている唇のものではないし、さらに空気があっても、それは呼吸する肺臓のものでもなく、熱カロリーが生じても、それは血液が本来もっていたものではないのと同じことです。その他にもいろいろありますが、流入 influere とか付加 se adjungere とかは、結合 se cojungere とは違ったものであることを、だれでも自然に感じとることができます。ただし、人が正義を実践するとき、その程度に応じて、義を獲得します。正しいことや本当のことへの愛に動かされて、隣人に接する程度に応じ、その正義を実践することになります。人が実践する善そのものの中に、すなわち役立ちそのものの中に、義が宿るのです。主は、木はすべてその実から分かると言われましたが、人が意志する目的や心づもり、意図や原因を知って、その人の行いに注目するとき、その行いから人柄が分かります。天使たちは、みんなこの点に注目しますし、この世の知恵者もみんなそうです。
 大ざっぱに言って、地上に生えてくる産物にしても穀物にしても、その花とタネおよびその役立ちから識別できます。すべての金属はその優良度から、すべての石はその性質から、すべての土地はその土質から、食糧も、地上の動物も、空をとぶ鳥も、みんなそれなりの質から判別します。人間はどうでしょう。人間の行いの性格や由来については、「信仰について」の章ではっきりさせます。

97・ [Ⅵ]主は、そのみわざを通して、みずからをおん父に合体された。それは、おん父としてみずからをご自身に合体されたことであると同時に、神の秩序によるものである。

 この合体 unio は、あがないのみわざを通して全うされたわけですが、これも主が、ご自身の人間性をとおしてなさったことです。それを実行なさるにあたっては、おん父を意味する神性が、ますます身近になられ、おん助けと協力をなさり、ついには神性と人性は二つでなく、一つになるまで、みずから合体なさいました。この合体こそ栄化ですが、これについては、これから述べていきます。

98・ おん父とおん子、つまり神性と人性は、主のうちにあって、霊魂と肉体のように一つになっています。これは現代の教会の信仰からも、〈みことば〉からも分かります。それにもかかわらず、百人のうち五人、千人のうちの五十人もこれを知りません。
 それというのも、「信仰のみによる義認」の教えが原因です。これは、名誉や利得を得ようと、学識からくる知名度を求めて、大多数の教職者が、懸命になっているところからくるものですが、それも今や、かれらの心のすみずみまで、しみとおってしまいました。この教説は、有毒のアルコール成分のように、かれらの精神を泥酔させて、その結果、エホバなる神が地上に下り、人間性をおとりになったという教会でも一番大切な教えが、まるでよっぱらいが考えるように、分からなくなってきています。神と人間がひとつになることで、初めて結合があり、この結合から救いが成立します。 神をみとめ、受けがうことこそ救いです。そして神こそ、天界にあるすべてのすべて、教会にあるすべてのすべて、また神学上の問題のすべてですから、当然です。
 しかしまず、おん父とおん子、神性と人性が、主のうちにあって、霊魂と肉体のように合体していることを説明し、そのあとでこの合体が、相互補足的 reciproca であることを説明しましょう。霊魂と肉体のような一致合体であることは、神論として全キリスト教会で受けいれられているアタナシオス信条で確認されています。それは次のとおりです。
 「われらの主イエス・キリストは、神であり人であります。たとえ神であり人であっても、それは二つでなく、一つのキリストです。それが一つなのは、神性がみずから人間性をとられたためです。またそれが完璧に一つであること、つまりは一つの人格 una persona なのは、霊魂と肉体でひとりの人間になっているように、神と人が、一人のキリストになっているためです」と。
 ただしここでは、永遠からの神のおん子と、時間のなかでお生まれになったおん子との合体が意味されています。この合体は、永遠のむかしからいます一つの神との合体を意味し、しかも三つの神ではなく、一つの神であるという意味なら、信条は〈みことば〉とも符号します。〈みことば〉には、父エホバによってみごもられたとあり(ルカ1・34、35)、そのためにこそ、霊魂といのちが宿ったのです。だから、次のようにあります、
「ご自身とおん父はひとつである」(ヨハネ10・30)。
「ご自身を見た者は、おん父を見、みとめたことになる」(ヨハネ14・9)。
「あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも、知っていたであろう」(ヨハネ8・19)。
「わたしを受けいれる者は、わたしをつかわされた方を受けいれる」(ヨハネ13・20)。
「ご自身は、おん父のふところにまします」(ヨハネ1・18)。
「父がおもちになっているものは、みなご自身のものである」(ヨハネ16・15)。
「とこしえの父と、となえられる」(イザヤ9・6)。
「ご自身に、万民を支配する権威がある」(ヨハネ17・2)。
「天においても地においても、いっさいの権威が授けられている」(マタイ28・18)。
 それだけでなく、〈みことば〉にある多くの箇所から、おん父とご自身との一致合体は、霊魂と肉体とのあいだの一致合体とおなじであることが、はっきり分かります。したがってご自身については、旧約聖書のなかで、たびたびエホバとか、万軍のエホバとか、救い主エホバと言われています(83節参照)。

99・ 以上の一致合体が相互補足的であることは、次の〈みことば〉からはっきりします。
「(ピリポよ)、わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。・・・わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい」(ヨハネ14・10、11)。
「そうすれば、父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」(ヨハネ10・36、38)。
「それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります」(ヨハネ17・21)。
「(父よ)、わたしのものは、みんなあなたのもの、あなたのものは、わたしのものです」(ヨハネ17・10)。
 これは相互補足的な一致合体です。というのは、ひとつのものが他のもうひとつに、おたがいに近づいていくのでなければ、二つのあいだに一致結合はないからです。天界でも、この世でも、人間でも、そのすべてにわたって、結合という結合は、ひとつが他のひとつにたいし、相互補足的に接近する reciproca accesio 以外のなにものでもなく、そのさい、一方は他方とひとつになることを願っているわけです。このようにして、それは両者からなるそれぞれに、同質的・共感的なもの
homogeneum et sympathicum つまり心をひとつにした調和が生まれます。
 このような相互補足的な結びつきは、人間ひとりひとりの霊魂と肉体とのあいだにあります。またこのような結びつきは、人間の霊と肉体の感覚・運動器官のあいだにもあります。心臓と肺臓との結びつきもこれです。またこの結びつきは、意志と理性とのあいだにあります。人間のうちにある肢節・内臓にもすべて、個々にあっても、相互にも、この結びつきがあります。精神作用の場合、内面からみずからを愛するすべてのあいだに、この結びつきがあります。というのは、この結びつきは、ありとあらゆる愛や友愛に刻まれたものだからです。愛は、愛することを欲し、愛されることを欲します。
 このような相互補足的な結びつきは、この世にあって、内部でしっかり結びあわされているあらゆるものに存在します。
 太陽の熱と木石の熱とのあいだにも、動物の生命にある熱と、そのあらゆる繊維にみなぎる熱とのあいだにもあります。土地と植物の根とのあいだにもありますが、それは根と樹木、樹木と果実のつながりにも言えることです。また、鉄分と磁石のあいだや、その他いろいろのものにあります。
 このような結びつきも、ひとつが他方に向かって、相互補足的に接近していって、初めて行われるもので、それがなかったら、内的な結びつきはなく、外的なものにすぎません。外的結びつきの場合、時がたつと相互離反が起こり、やがて相互が、相手を識別することさえ、できないまでになっていきます。

100・ 結びつきが結びつきとして成立するためには、相互補足的でなくてはなりません。ということで、主と人間との結びつきは、このような結びつきであることについては、次の箇所からはっきりしています。
  「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる」(ヨハネ6・56)。
「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしとつながっていよう。・・・もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶように なる」(ヨハネ15・4、5)。
「だれでも戸をあけるなら、わたしはその中に入って、かれと食をともにし、かれもまたわたしと、食をともにするであろう」(黙示3・20)。その他。
 人が主に近づき、主が人に近づかれるのは、このような結びつきによります。ここには、れっきとした不変の法則がありますが、それは、人が主に近づけば近づくほど、主は、人に近づかれるということです。ただしこれについては、「仁愛について」と「信仰について」の各章で、くわしく述べるつもりです。

101・ [Ⅶ]神は、このようにして人となられた。それは、一人格の神人 Deus Homo in una persona である。

 神エホバが人間になられたこと、つまり一人格の神人になられたということは、この章に入ってから、各節で述べてきたことから結論づけられます。それもとくに、次の二つの箇所からです。つまり、「宇宙の創造主エホバは、人をあがない救うため、この世に下って、人間性をとられた」(82~84節参照)、および「主は、そのあがないのみわざを通して、みずからをおん父に合体された。それは、おん父として、みずからをご自身に、相互補足的に合体されたことでもある」(97~100節を参照)の以上です。
 このような相互補足的な一致合体から、はっきりしていることは、神は人間になり、しかも一人格の神人になられたことがはっきりします。神人の一致合体は、霊魂と肉体との一致合体と似ていることからも、それが分かるはずです。これが、アタナシオス信条に由来する今日の教会の信仰によることは、前(98節)で述べました。これはまた、和協信条 Formula Concordiae と呼ばれ、正統派福音主義の書物の冒頭にかかげられたかれらの信仰にもかなっています。和協信条では、聖書や教父たちの書物、それに理性をとおして、キリストの人間性が、神の威光と全能と遍在にまで高められたこと、キリストにあっては、人間が神であり、神が人間であるとされています(同書607、765ページ参照)。さらにその章では、エホバである神が〈みことば〉のうちにあって、その人間性の面で、 「エホバ」、「神エホバ」、「万軍のエホバ」と言われていること、それがイスラエルの神であると述べられています。だからパウロは、
  「イエス・キリストのうちにこそ、満ちみちているいっさいの神性が、肉体をとって宿っている」(コロサイ2・9)と言っており、ヨハネも、
  「神のみ子イエス・キリストは本当の神であり、とこしえのいのちである」(ヨハネ5・20、21)と言っています。
 ここにある「神のみ子」とは、まさしく神の人間性であることは、(92節以降で)前述しました。さらに、エホバなる神は、ご自身を「主」と呼ばれています。というのは、
  「主はわが主に言われる、『わたしの右に座せよ』」(詩110・1)とあり、また、
  「ひとりの男の子がわれわれに与えられた。・・・その名は神、とこしえの父である」(イザヤ9・6、7)とあるからです。
 「おん子」が人間性の面での主であることは、ダビデによっても知らされます、
  「わたしは主のご命令をのべよう。エホバはわたしに言われた、『おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。・・・おん子に口づけせよ。さもないと、主は怒って、あなたがたを道で、滅ぼされるであろう」(詩2・7、12)と。
 ここでは、永遠のむかしからましますおん子のことでなく、この世に生まれたおん子のことを言っています。なぜならこれは、主がやがて来られるとの預言で、そのために、エホバがダビデに告げられたご命令であるわけです。その詩篇には、
「わたしは、わが王を聖なる山シオンに立てた」(詩2・6)とあらかじめ述べ、
  「わたしはもろもろの民を、嗣業としてかれにあたえる」(詩2・8)と続いています。だから「きょう」とあるのは、「永遠のむかしから」の意味でなく、一定の時をしめしています。エホバにとって、未来は現存しているのです。

102・ 主はその人間性において存在されましたが、主はいまでもマリヤの子でもあると信じられており、こんなふうにキリスト教の世界では、たわごとを口にしています。マリヤの子であったことは事実ですが、今でもそうだと考えるのは、本当ではありません。というのは、あがないのみわざをとおして、母からくる人間性 humanum は、すでに脱ぎすてられ、おん父からの人間性 Humanum を身につけられたからです。だからこそ、主の人間性は神性を帯び、そのうちでは、神が人にましまし、神人にましますということです。母からの人間性を脱し、父からの人間性を身に帯び、こうして神人になられたということは、主がマリヤをご自分の母と呼ばれなかったことからも分かります。
「イエスの母はかれに言った、『ぶどう酒がなくなってしまいました』。イエスは母に言われた、 『婦人よ、あなたは、わたしと、なんのかかわりがありますか。わたしの時は、まだきていませ ん』と」(ヨハネ2・(3)、4)。その他にも、
「イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、『婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です』。それからこの弟子に言われた、『ごらんなさい。 これはあなたの母です』と」(ヨハネ19・26、27)。
 かつて一度、かの女を認めなかったことがありました、
「イエスに『あなたの母と兄弟たちが外に立って、あなたに会いたがっています』と告げる者がいたが、イエスは、『神のみことばを聞いて、それを行う者こそ、わたしの母であり、兄弟であ る』と答えた」(ルカ8・20、21、マタイ12・46~50、マルコ3・31~35)。
 主はかの女を「母」と呼ばないで、「婦人」と呼んでおり、またかの女をヨハネの母になさいました。他の箇所で、ご自身の母と呼ばれているところがありますが、ご自分の口から出たものではありませんでした。

(2)このことはまた、ご自分をダビデの子とみとめられなかったことでも確かめられます。福音書には、次のようにあります。
「イエスはパリサイ人にお尋ねになった、『あなた方はキリストをどう思うか。だれの子なのかかれらは『ダビデの子です』と答えた。イエスは言われた、『ではどうしてダビデがみ霊に感じ てキリストを主と呼んでいるのか。つまり、「主はわが主に仰せになった。あなたの敵をあなた の足もとに置くまでは、わたしの右に座していなさい」と。このようにダビデ自身がキリストを 主と呼んでいるなら、キリストはどうして、ダビデの子だろうか』。イエスにひと言でも答えう る者はなかった」(マタイ22・41~46、マルコ12・35~37、ルカ20・41~44、詩110・1)。 (3) わたしはこれに新しいことを一つ、つけ加えておきます。
 「わたしに一度、母マリヤと話す機会がありました。あるとき天界で、わたしの頭上に、絹でできたような白いころもをまとった姿が通り過ぎていくのを見ました。かの女はしばらく立ちどまって、かの女が主の母であったと言いました。主はかの女からお生まれになったこと、主は神となって、かの女からとられた人間性をすべて脱ぎすてられたこと、したがって今はご自分の神として礼拝していること、しかも主には、神性のすべてが宿っているため、だれも主を、かの女のおん子として、認めてほしくないとのことです」。
 以上のことから、エホバは、その最初から最後まで、人間になられたという真理が、いま輝いてみえてきます。したがって、
  「わたしはアルパであり、オメガである。・・・今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にまします方」(黙示1・8)。
 ヨハネは七つの燭台の中央にまします人の子を見たとき、
  「その足もとに倒れて死人のようになった。するとかれは、右手をわたしの上に置いて言った、 『わたしは初めであり、終わりである』と」(黙示1・13、17、21・6)。
  「見よ、わたしはすぐに来る。・・・それぞれのしわざに応じて報いよう。・・・わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終わりである」(黙示22・12、13)。
 イザヤも次のように言っています、
  「イスラエルの王エホバ、イスラエルをあがなう者、万軍のエホバはこう言われる、『わたしは初めであり、わたしは終わりである』と」(イザヤ44・6、48・12)。

103・ それにつけ加えるもうひとつの秘義があります。霊魂はおん父よりのもので、それが人間そのものです。母に由来する肉体は、人間そのもの homo in se ではなく、人間に由来するもの ex homine です。それは、肉体の衣装であり、自然界にあるものから出来あがっています。
 人間はみんな死んでから、母親から受けた自然的なものを捨てて、父親からくる霊的なものを保持します。ただしその周囲には、自然界の最高に純粋なものからなっている一種の縁どり limbus があります。天界に入る人たちの縁どりは下にあって、霊的なものは上にありますが、地獄にやってくる人たちの縁どりは上にあって、霊的なものは下にあります。
 とりもなおさず、天使人間 homo angelus は天界を源に話をしますから、その話は善と真理であるのにたいし、悪魔人間 homo diabolus は、自分の内心から話しているときは、地獄を源にして話しており、口先で話しているときは、天界から話していることが分かります。内は地獄、外は天界です。(2) 人の霊魂こそ人間それ自身であり、霊魂はその由来からみて、霊的なものです。だから父祖の精神、霊魂、才能、性向、愛情など、子々孫々に伝わり、時代から時代へと受け継がれては、特異性を示します。したがって、多くの家族の場合、いやむしろ種族をみても、その始祖から判別されます。ひとりひとりの子孫の顔には、まぎれもない共通のイメージがあります。そのようなイメージは、教会のもつ霊性をとおして、初めて変えていくことができます。
 ヤコブやユダがもっていた共通のイメージは、かれらの子孫のうちにとどまって、他の種族から判別され、それが理由で、かれらは今にいたるまで、自分たちの宗教に固執しています。人がみごもる源になっている精子のなかには、父親の霊魂の接木か苗木のようなものがあって、自然界からの諸成分からなる包皮のうちに、完璧な姿でくるまっています。人の肉体はこのようにして、母親の胎内で形成され、父親か母親に似た姿をとりますが、絶えず自己成長のために働きながらも、父親のイメージは依然としてのこります。だからそれが直接に、次の子孫にみられない場合、後代の子孫にみられるようになります。

(3) 精子のなかに父親のイメージが完全に宿っているわけは、前述したように、霊魂はその起源からみても霊的であり、また霊的なものは、空間と共通するものが何もないからです。だから、微小な物体のなかにも、大きな物体のなかにあるのと同じように、霊魂は存在しています。
 主について考えてみると、この世にあって主は、あがないのみわざを通して、マリヤからとられた人間性は全部脱ぎすてられ、父からの人間性を身につけられました。これが、神人 Divinum Humanumです。主にあって人は神であり、神は人なのです。

104・ [Ⅷ]この一致合体に向かうことこそ、主の自己卑下であった。そして一致合体それ自身は、主の栄化の状態をあらわす。

 主は、そのご在世の当時、自己卑下 exinanitio 、栄化 glorificatio と言われる二つの状態にあったということは、教会でも知られています。前者の自己卑下の状態については、〈みことば〉のあちこちに記されていますが、とりわけダビデの詩篇、それに預言書にあります。とくにイザヤ(53章)には、くわしく出ています、
  「かれは死にいたるまで、自分の魂をむなしくし」(イザヤ53・12)と。
 これはまた、おん父のみまえでなさった、へりくだりの状態でもありました。ご自分の心のなかでおん父に祈り、そのみこころが行われるよう口にされ、ご自分の行い・み言葉のすべてが、おん父のものだと言われました。
 おん父に祈られたことについては、マタイ26・39、44、マルコ1・35、6・46、14・32~39、ルカ5・16、6・12、22・41~44、ヨハネ17・9、15、20を参照のこと。
 おん父のみこころを行われたことについて(ヨハネ4・34、5・30)。
 ご自分の行い・み言葉が、すべておん父のものであると言われたこと(ヨハネ8・26~28、12・49、59、14・10)。
 十字架上ではむしろ、「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てられたのですか」と呼ばれたこと(マタイ27・46、マルコ15・34)などです。
 この状態がなかったら、十字架につけられることは、不可能だったでしょう。栄化の状態こそ、一致合体の状態です。三人の弟子たちの面前でご変容になったときや、奇跡を行われたときは、そうでした。また何度かおん父とご自分はひとつであり、おん父はご自分のうちに、ご自分はおん父のうちにあり、おん父のものはすべてご自分のものであると言われたときなども、その栄化の状態でした。なお、「万民を支配する権威」(ヨハネ17・2)とか、「天においても地においても、与えられたいっさいの権能」(マタイ28・18)、その他多くの場合などは、完全な一致合体のあとでした。

105・ 主には自己卑下と栄化という二つの状態があったことは、神の不変の秩序によることで、一致合体へむかうには、それ以外の進展はありえなかったからです。神の秩序とは、人が神のうけ皿として自分をととのえ、神がおはいりになる器か住まいになり、人間自身が神の宮になって、そこに神がお住まいになることです。
 それを始めるのは人間自身ですが、それも、神によって行われることを、認めなくてはなりません。それを「認める」といいました。それは、神が人間のなかで、〈あらゆる愛の善〉と、〈あらゆる信仰の真理〉を、生々しく出現させておられるにもかかわらず、その神の現存と働きは、「感じられ sentire」ません。したがって「認める agnoscere」わけです。人間が〈自然的な人間〉から〈霊的人間〉へと進歩・発展していくには、だれでもこの秩序にしたがいます。主もまた、自然的人間性が神的人間性になっていくため、そのようになさいました。
 主がおん父に祈られたのは、そのためです。おん父のみこころを行われたのも、ご自分の行いと言葉をすべておん父のものとなさったのも、そのためです。また十字架上で、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」といわれたのも、そのためです。十字架上では、神は見かけ上不在でした。
 そのあと、別の状態がやってきます。それは、神とむすばれる状態です。この点では、人間の場合もおなじですが、そのとき人は、神を〈みなもと〉として行うことになります。つまり、もう以前のように、自分が欲したり行ったりする善は、すべて神のおかげだとし、自分が考えたり話したりする真理も、すべて神のおかげだとする必要もありません。というのは、そのことが人の心に刻みこまれ、自分の行為にも言葉にも、そのすべてのなかに、植えつけられているのです。
 主は、そのようにして、ご自身をおん父に、おん父をご自身に一致合体なさいました。ひとことで言うと、主は自らの人間性を、栄化つまり神化なさいました。これは、主が人間に再生のいのちを与えられたということ、すなわち人間性を、霊化なさったということです。
 人間はだれでも、自然的人間から霊的人間になっていくもので、二つの状態を経過します。第一段階が終わって、第二の段階に入ります。すなわちこの世から天界に入っていきます。それについては、自由意志について、仁愛について、愛と信仰について、改善と再生についての各章で、くわしく述べるつもりです。
 ただここでは、「改善」と言われる第一段階では、人はみずからの理性的理法にもとづいて行動する、完全な自由をもっています。また「再生」と言われる第二段階では、おなじような自由をもってはいますが、主に由来する新しい愛と、新しい理知にもとづいて、欲し、行い、考え、話すようになります。それでも、理性は意志によって動かされているわけで、意志が理性によって動かされているのではないことに注目していただきたいのです。善と真理の結合、愛と信仰の結合、人間の内部と外部の結合とは、このことを言っています。

106・ 以上の二つの過程は、宇宙にあるものによって、いろいろ表わされています。それは、神の秩序だからですが、その神の秩序が、この宇宙の個々全体をふくめ、もっとも細微なものにまでも充満しています。
 第一の段階を表わすものとして、人間にはそれぞれ幼児期、少年期、思春期、青春期、青年期がありますが、それは、両親のまえでの謙虚・従順をまなび、教師や牧師から教えられるときの状態です。第二の状態は、自らの判断と選択ができ、自分なりの意志と理性がつかえるようになった段階ですが、それは自分の家の主人になったことでもあります。
 第一の状態は、国王とか君主になるまえのプリンスの状態、つまりは、王子や太子の状態であるとともに、政務を担当する人になるまえの一市民、職務執行まえの平職員の状態です。それはまた、祭司になるまえに踏まなくてはならない教職者養成課程の生徒のようですが、各自そのあとで、教会の牧師になったり、さらに司教になったりします。また人の妻になるまえの乙女、マダムになるまえのメイドのようでもあります。商売人にとっての見習い時代、指揮官になるまえの一兵卒時代、マスターになるまえの徒弟時代です。
 最初は奴隷的状態ですが、あとになって自分の意志と理性がつかえるようになります。この二つの状態は、動物界でもいろいろの形で表されます。最初は、動物もトリも、自分の母親とか父親のそばにいて、いつもそのあとに従い、親から養われ、導かれます。それから、親もとを離れて、自分で自分の面倒を見られる時代がきます。イモムシでもおなじで、最初は這って木の葉で養分をとり、そのあと脱皮してチョウになります。
 以上の二つの状態は、植物界にある実体によっても表わされます。発芽し、枝をのばし、葉をひろげていくのが、第一の状態ですが、実をむすんで、新しい種を生産するのが、第二の状態です。これは、真理と善の結合にたとえられます。樹木の成長は、どの面からみても真理に相応していますが、果実は善に相応します。ですから、第一の状態にとどまったままで、次の第二段階に入らない人は、葉ばかりひろげて、実をならせない木のようです。〈みことば〉にも、
  「切られて、火の中に投げこまれる」(マタイ7・19、21・19、ルカ3・9、13・6~9、ヨハネ15・5、6)とあります。また自由になりたくない奴隷についての掟があります、
  「戸あるいは柱のところに連れて行って、主人は、きりでかれの耳を刺し通さなければならない」(出エジプト21・6)と。
 主にむすばれるのは自由人であって、奴隷ではありません。主は、
  「もし子があなたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となる」(ヨハネ8・36)と言っておられます。

107・ [Ⅸ]それ以降は、キリスト信者の場合、神であり救い主である主を信じ、主だけに向かわないかぎり、天界に入れない。

 イザヤ書には、次のようにあります。
「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起こすことはない。・・・見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする」 (イザヤ65・17、18)
 また黙示録にも、
  「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のた  めに着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。・・・すると、み座にいますかたが言われた、『見よ、わたしはすべてのものを新たにする』と」  (黙示21・1、2、5)。
 その他の箇所として、
  「小羊のいのちの書にしるされている者をのぞいては、だれも天界に入ることはない」(黙示13・8、17・8、20・12、15、21・27)。
 ここにある「天界」は、肉眼で見上げる天空のことではなく、天使のいる天界のことです。「エルサレム」とは、天空から降ってくる都のことではなく、天使のいる天界から、主がおさずけになる教会のことです。「小羊のいのちの書」とは、天界でひもとかれる書物のことではなく、〈みことば〉のことです。これは、主のみ力によるもの、主にかんする〈みことば〉です。「造り主」・「おん父」ととなえられる神エホバは、この世にくだり、人間性をとられました。それは人間に近づき、人間とむすばれるためでした。以上は、本章の始めで証明・確認されたところです。
 いったい人間に近づき、そのたましいに触れることができる者がいるでしょうか。ところが、人間そのものに近づき、顔と顔とをあわせ、口ずから話しかけられた方がいるのです。神であるおん父と、おん子の関係はそれであり、神であるおん父は、たましいがその肉体に宿るように、おん子に宿られました。

(2) 主・神・救い主である方を信じなくてはならないことは、次の〈みことば〉からあきらかです。
「神は、そのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった。それは、み子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠のいのちをえるためである」(ヨハネ3・15、16)。
「かれを信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである」(ヨハネ3・18)。
「おん子を信じる者は、永遠のいのちをもつ。おん子に従わない者は、いのちにあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネ3・36)。
「神のパンは、天から下ってきて、この世にいのちを与えるものである。・・・わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は、決してかわくことがない」(ヨハネ6・33、35)。
「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠のいのちをえることである。そして、わたしはその人々を、終わりの日によみがえらせるであろう」(ヨハネ6・40)。
「そこで、かれらはイエスに言った、『神のわざを行うために、わたしたちは何をしたらいいでしょうか』。イエスはかれらに答えて言われた、父が『つかわされた者を信じることが、神のみわざである』と」(ヨハネ6・28、29)。
「よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠のいのちがある」(ヨハネ6・47)。
「イエスは叫んで言われた、『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が、川となって流れ出るであろう』と」(ヨハネ7・37、38)。
「もしわたしがそういう者であることを、あなたがたが信じなければ、罪のうちに死ぬことになる」(ヨハネ8・24)。
「イエスは言われた、『わたしはよみがえりであり、いのちである。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる。また生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない」(ヨハネ11・25、26)。
「イエスは言われた、『わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである』」(ヨハネ12・46、8・12)。
「光のあるあいだに、光の子となるために、光を信じなさい」(ヨハネ12・36)。
「かれらは、主のうちにとどまり、主はかれらのうちにとどまるであろう」(ヨハネ14・20、15・1~5、17・23)。
 以上は、信仰をとおして行われます。パウロは、「ユダヤ人にもギリシャ人にも、神にたいする悔改めと、わたしたちの主イエス・キリストにたいする信仰とを、強く勧めてきた」と記しています (使徒20・21)。
  「わたしは道であり、真理であり、いのちである。だれでもわたしによらなくては、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14・6)。

(3) おん子を信じる者は、おん父を信じます。なぜなら、前述したように、おん父は、人間のたましいが肉体のうちにあるように、おん子のうちにあるからです。それは次の箇所からも、はっきりします。
「もし、あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたであろう」(ヨハネ 8・19、14・7)。
「わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである」(ヨハネ12・45)。
 「わたしがつかわす者を受けいれる者は、わたしを受けいれるのである」(ヨハネ13・20)。
  「わたしを見て、なお生きている人はないからである」(出エジプト33・20)。
 ですから、主は次のように言われています、
  「神を見た者は、まだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあ  らわしたのである」(ヨハネ1・18)。
  「父のもとにいる者のほかは、だれも父を見ることはない。その者だけが父を見たのである」   (ヨハネ6・46)。
「あなたがたは、まだ父のみ声を聞いたことも、そのみ姿を見たこともない」(ヨハネ5・37)。 アジア、アフリカの二地域、それにインドでは、ほとんどの人が主を知りませんが、ひとりの神を信じ、自分の宗教の掟にしたがって生きるかぎり、その信仰といのちがもとで、救われます。というのは、知っている場合に責任があるわけで、知らない場合には、責任がありません。目の不自由な人がころんでも、とがめられないのと同じです。主は言われます、
  「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見え  る』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(ヨハネ9・41)と。

108・ それ以外に、わたしが目撃した結果、立証できることがあるので、確認のためここにご紹介します。現在、神・救い主なる主を信じる人たちから、新しい天使的天界が、主のみ手によって建てられています。かれらは直接主に近づいていきますが、それ以外の人たちは、しりぞけられます。だれでも、死後は霊界に入っていきますが、今後キリスト教世界から霊界に入り、主を信じないで主にだけ近づいても、邪悪な生活をして、偽りで自分の心を固めてしまっている場合、けっして受けいれられません。天界への第一歩でしりぞけられます。それで顔をそむけ、地界の方へ体をむけ、そっちへ行って、『黙示録』のなかで「龍と偽預言者」といわれている者らに合流します。
 キリスト教界でも、主を信じない人は、その祈りが聞きいれられません。かれらの祈りは、天界では、炎症をおこした肺臓からでてくる悪臭のようです。それがあたかも、芳しい香りのように受けとられていますが、天使のいる天界へはのぼっていきません。燃えるほのおの煙が、一陣の突風で吹き落とされ、目のなかに入るように、あるいはまた、修道僧のガウンにあおられて、流れる香炉からのけむりのように、受けとられます。三一の神を、ひとつに結ばれたものとしてでなく、バラバラなものとしてとらえている信心は、そのときになると、みんなそんなふうになります。
 本書の主要目的は、主にあって、この神聖なる三一性が、むすびあわされていることを、述べることです。ここでわたしは、あたらしいニュースをつけくわえておきます。
 何ヶ月か前、主は十二使徒を呼びよせ、かつて自然の世界でなさったように、この福音をのべ伝えるよう、全霊界におつかわしになりました。ひとりひとりの使徒には、それぞれの地区が割りあてられ、かれらはそのご命令を一生懸命に実行しました。ただし、これについては、本書の最後にある 「代の終わり、主の再臨、新しい教会について」の章で、とりあげることにします。

 ま  と  め

109・ 主の到来 adventus Domini 以前の教会は、すべて表象の教会 ecclesiae repraesenta- tivae で、神の真理も、陰のもとでしか、見ていない状態でした。ところが、主がこの世に来られ、主によって教会が創立されましたが、ここでは神の真理を見るだけでなく、光のもとで見ることができるようになりました。そのちがいは、夕方と朝のようです。主の到来以前の教会の状態は、〈みことば〉では「夕方」と言われ、主の到来後の教会の状態は、「朝」と言われます。
 主は、この世に来られるまえ、教会に属する人にとっては現存されていましたが、ご自分を代表する天使たちをとおしての間接的現存でした。この世に来られてからは、教会に属する人にたいし、直接に現存されています。というのは、主はこの世にあって、神的自然性 Divinum Naturale も、身に帯びておられるからです。その神的自然性のうちにあって、人々にたいし現存しておられます。
 主の栄化とは、主がこの世でおとりになったご自分の人間性の栄化であって、この栄化された主の人間性が神的自然性です。つまり主は、この世で身につけられた肉体の全部をともなって、墓から復活されました。墓には何も残されませんでした。自然の人間性 Humanum Naturale は、最初から最後まで、ご自分にともなって行かれました。だから、ご復活ののち、幽霊を見ていると思っていた弟子たちに、言われています。
  「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしなのだ。さわって見なさい。霊には肉や骨はない  が、あなたがたが見るとおり、わたしにはある」(ルカ24・37、39)
 以上で、主の自然的肉体は、栄化によって神のものとなったことが分かります。だからパウロも言っています、
  「キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神性が、肉体をとって宿っている」(コロサイ2  ・9)と。また、ヨハネも、
  「神のみ子イエス・キリストは、ほんとうの神である」(Ⅰヨハネ5・20)と言っています。全霊界では、主おひとりが、完全な意味での人間 plenus Homo であることを、天使たちは、わきまえているのです。

(2) 教会内では周知のことですが、イスラエル人とユダヤ人のもっていた信心は、たんに外面的なもので、主がやがてお開きになる内面の信心を覆いかくしていました。このような信心は、主の到来のまえにあって、それなりに正しい姿で本当の信心を表わす以前の型・前兆のようなものです。主ご自身、古代人にお現れになりました。というのは、ユダヤ人にたいして、
  「あなたがたの父アブラハムは、わたしのこの日を見ようとして楽しんでいた。そしてそれを見  て喜んだ。・・・あなたがたに言っておく。アブラハムの生まれる前から、わたしはいるのであ  る」(ヨハネ8・56、58)と言っておられます。
 これは、天使たちを通して行われたことです。ただしそのときは、単に表象としてあらわされました。そのため、かれらの教会は、どれもこれも表象の教会になりました。
 主がこの世にこられたあと、そのような表象は姿を消しました。その内的根拠はこうです。すなわち、この世にあって主は、神的自然性 Divinum Naturale を身につけられましたが、それは内部の霊的人間だけでなく、外部の自然的人間も、身につけられたということです。この二つが同時に示されたということは、それなくしては、人間は陰のうちにあるのとおなじで、両方が同時に示されたことによって、ま昼の光に照らされたわけです。
 内部の人間だけで、外部が同時に示されなかったとしたらどうでしょう。また、外部の人間だけで、内部が同時に示されなかったとしたら、どうでしょう。眠って、夢を見ているようで、めざめても、夢をかき集めているような感じです。そこから、いろいろな想像の産物がうまれます。それはまた、夢の中で歩いている人のようで、何かを見ても、それをま昼の光のなかで見ていると、思いちがいをします。

(3) 主がこの世に来られるまえの教会と、そのあとの教会とでは、月や星の光で、夜書物を読む人と、太陽の光で書物を読む人くらいに、その状態がちがいます。前者の場合、ただ青白い光だけで、視線がさまようのにたいし、後者の場合は、燃えるような光ですから、誤ることがなく、はっきりしています。主については、次のように記されています、
「イスラエルの神は語られた、イスラエルの岩はわたしに言われた、『・・・朝の光のように、雲のない朝に、輝きでる太陽のようだ』と」(サムエル下23・3、4)
「イスラエルの神」とか「イスラエルの岩」とかは、主のことです。その他の箇所にもあります。 「エホバが、その民の打たれた傷をいやされる日には、月の光は、日の光のようになり、日の光は七倍となり、七つの日の光のようになる」(イザヤ30・26)。
 このように言われているのは、主の到来後の教会の状態のことです。一口に言うと、主の到来前の教会は、顔に厚化粧をし、見せかけのあでやかさで、美しく見える老婦人のようですが、主の到来後の教会は、その状態が生来の美しさをあらわしている乙女のようです。また、主の到来前の教会の状態が、ミカン、リンゴ、ナシ、ブドーなどの果物の皮か、その味にたとえられるのにたいし、到来後の教会の状態は、果物の中身と、その味にたとえられます。その他これに類することが言えます。 主が神的自然性を身にまとわれてからは、内部にある霊的人間性と、外部にある自然的人間性の両方を、同時にあらわされたことが、以上ではっきりしました。人間の内部 internus homo が、ともに外部をあらわしていないと、陰でしかないものになります。それは、外部が内部をあらわしていない場合も同様です。

110・ ここで次のようなメモをつけ加えておきます。第一のメモ。
わたしはある日、霊界で、空中にあった鬼火が地上に落ちて、そのあたりがパッと明るくなったのを見ました。それは、俗に「龍 draco」と呼ばれている流れ星でした。落ちた場所は確認しておきましたが、鬼火はいつものように、太陽がのぼるまえの明けがた、消えていきました。夜中に落ちた場所に、朝になって行ってみました。すると、その土地には、硫黄、鉄くず、粘土などを混ぜた臭いがします。するとそのとき、二つの天幕が張ってあるのを見ました。一つはその場所のま上でした。もう一つは、その横にあって、南に向いていました。うかがい見ていると、天界からいなづまのように落下して、天幕の中につっこんだ霊がそこにいます。その天幕は、流れ星が落ちた場所のちょうど上に張られてあり、わたしは、そのそばにある南向きの天幕のそばにいました。その天幕の入口にわたしは立って、もう一つの天幕の入口に立っている霊を見ていました。わたしはそこで、「どうしてまた、天界から落ちたのですか」と尋ねると、かれは答えて、「わたしは、龍の天使だということで、ミカエル天使団から追放されたんだ。前世で心に固めた信仰にもとづいてしゃべったわけだが、そのなかに、父である神と、子である神が、別のものであると言った。ひとりの神ではないわけだ。現在のところ、天界では、神は人間のたましいと体が一つであるように一つだ、とみんな信じている。それに反対して何か口にすると、鼻をつく悪臭、耳をつきさすキリのように感じられるそうだ。そこに、困惑と苦痛がまき起これば、反乱者は追放令をうけ、抵抗しても、ダメということになる」と。

(2) それでわたしは、「どうして、みんなと同じように信じなかったのですか」というと、かれは、「心に固めてしまうと、刻みこまれたようになるからだよ。それは心にくっついたまま、取り去ろうにも取り去れない。神についての考えは、心に固まってしまえば、とくにそうだ。天界での自分の場所は、神についてどんなふうに考えるかによって、決まるということなんだな」と答えました。
つづけてわたしは聞きました、「おん父とおん子が別のものであるとは、どうしてですか」と。
するとかれは答えました、
「それは〈みことば〉にもある。おん子は、おん父に祈られたでしょう。十字架にかかるまえだけじゃない。十字架上でもそうだ。おん父のまえで、自分を卑下なさった。人間のたましいと体が一つであるようには、いかないよ。だいたい、一心同体であるものが、相手に向かってするように祈ったり、相手のまえでへり下ることがあるだろうか。そんなことは、だれだってできやしない。神のおん子なら、なおさらだ。それだけじゃない。わたしの時代じゃあ、キリスト教会の全部が、神性を三つのペルソナにわけている。そのひとつひとつの人格がそれ自身として一つのもの unumper se なのだよ。だから人格 persona というのは、そのもの固有の存在を維持しているものと定義されている definitur quod sit quod proprie subsistit」と。

(3) わたしはそれを聞いて、答えました、
「お話をうかがったところから、あなたは、父である神と、子である神が、ひとつであるということがどんなことか、まだお分かりではないことに気づきました。それがお分かりでないから、教会が神について固執している偽りのうちに、ご自分の心を固めてしまったのです。主のご在世時、主も普通の人間のように、たましいがあったことをご存じでしょう。そのたましいは、父である神から来たものでなくて、どこから来られると思いますか。それは福音書からも明白です。
おん子と言われているのは、人間性のためで、その人間性は、おん父の神性によってみごもり、おとめマリヤから生まれました。母親はたましいを産みだすことはできません。そんなことは、人間誕生の法則にもそいません。また、この世の父親がするように、父である神が、ご自分のうちからたましいを産みだして、そのあと子に引継がせるといったようなこともありません。なぜなら、神はおんみずからの神的本質そのもので、それはひとつで、分割できないものだからです。分割できないからこそ、神ご自身であられるわけです。だから主は、おん父とご自分がひとつである、と言われました。また、父はわたしのうちにおり、わたしは父のうちにおるとか、そのようなことをいろいろ言われています。アタナシオス信条には、それが遠まわしですが、言及されています。神を三つの人格に分けてしまったのちにも、キリストのうちにあって、神は人間にまします、つまり神性と人間性があり、二つではなく、人間のたましいと体のように、一つであると言っているのです。

(4) この世にあって主が、話し相手にたいしてするように、おん父に祈られたり、おん父のまえで、別人のまえでするように、自分を卑下なさったのは、どんな人でも、神とむすばれるようになっていくときの、創造以来の恒久不変の法則です。神の掟ともいえる秩序の法則にしたがって、生活し、それによって人が神に結ばれていくように、神はご自身を人間に結びつけ、自然の人間をかえて、それを霊的人間になさることこそ、その秩序でした。このようにして、主はご自分をおん父に一致合体され、父である神は、ご自分を主に一致合体なさいました。主は、みどり子のときは、みどり子のように、少年のときは、少年のようになさいました。「主は、知恵においても恵みにおいても、完成されていった」と記してありますね。またその後、おん父に祈られましたが、それはご自分の名、つまりご自分の人間性が栄化されるためだったのです。栄化 glorificare とは、ご自分との一致合体によって、神化することです。
主の自己卑下 exinanitio とは、一致合体へむかっていくご自分の進展のことですが、この自己卑下の状態で、おん父に祈られました。

(5) これと同じ秩序が、創造以来、人間ひとりひとりの中に刻まれています。人は、〈みことば〉からの真理をとおして、自分の理性をととのえていき、神からの信仰をうけいれることができるような形にしていきます。また仁愛の行いをとおして、自分の意志をととのえていき、神からの愛をうけいれることができるような形にしていくのです。それは、技術工がダイヤモンドを削っていくのもおなじで、光を美しく反射させるためです。神を受け入れ、神とむすばれるように自分をととのえるとは、神の秩序にしたがって生活することで、神の掟とはすべて、その秩序の法則のことを言います。主はこの面で、完全に実行なさいました。そして神性を、満ち満ちるまで受ける器となさいました。だからパウロは、
「イエス・キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神性が、肉体をとって宿っている」(コロサイ2・9)
と言っており、また主ご自身にとっては、
「おん父のものはすべて、ご自身のもの」(ヨハネ16・15)なのです。

(6) なお、心にとめておくべきことですが、人間にとって、主だけが能動的 activus であって、人間は受動的 passivus であるにすぎません。人が能動的になるとすれば、主からくるいのちの流入があるからです。主から絶えず流れてくるこのような流入あってこそ、人間は自分で活動しているように見えます。だからこそ、人間に自由意志があるので、その自由があるのは、みずから主を受けいれる準備をし、主と人間とのあいだの相互協力なくしてはありえない結びつきに、そなえるためです。相互の協力といいましたが、これも人間に、自由選択があるからです。しかも信仰によって、あらゆる活動は主のおかげだと思います。

(7) そのあとでわたしは、「あなたは、仲間の方々と同様、唯一の神を認めますか」と尋ねたところ、かれは、「はい、認めますよ」と言ったので、わたしは言いました。
「残念ながら、あなたは心のなかでは、どんな神も認めていないのじゃないですか。あなたがおっしゃることは、全部思いめぐらしから出ているのではないでしょうか。神はひとつであると口で表明しているときは、三つの神の考えはタナあげにし、他方では、唯一の神であるという宣言をしながら、その宣言とちがったことを考えているのでしょう。だから、神なんか存在しないことになります。ということは、考えていることを口にしたり、口にしていることを考えたりするといった心の経路が、何もないことになります。したがって、神については、自然こそ神だと結論づけているのでしょう。主については、その霊魂は、母親か、ヨセフから来たものということでしょう。こういった二つの考え方は、天界の天使たちは、身震いするほどきらっています」と。こんなふうに言うと、その霊は、『黙示録』(9・2~)に記されている底なしの淵に連れさられました。そこでは、龍の使いたちが、自分たちの信仰について、ああだ、こうだ、と言いあっています。

(8) その翌日わたしは同じ場所に行ってみました。すると、天幕があったところに、硫黄と鉄と白粘土をまぜあわせ、泥クズにして出来た人間の像が立っていました。一つの像は、左手に笏をもち、頭に冠をかむり、右手に書物をもっています。宝石でできた鎧の胸あてをななめにつけ、背後にあるもう一つの像にむかって、マントをひるがえしています。とは言ってもこの像が身につけているものは、幻想です。ふと声がしましたが、それはある龍が言ったことです。「この像は、われわれの信仰が女王であることを表わしており、その背後にひかえている像は、その召使いの仁愛をあらわしているんだ」と。
背後にある像は、おなじようなクズの混ぜものを鋳て作ったもので、女王像のうしろになびくマントの端の触れるところに置かれていました。手にした紙きれには、「近づいてマントに触れるな」と書かれています。するとどうでしょう。急に天から雨が降ってきて、像が二つともびしょ濡れです。硫黄、鉄クズ、白粘土の混合物からできているものですから、泥クズに水が浸透したときのように、どろどろに溶けていきました。像の腹の中に火が燃えあがって崩壊し、やがてそれが土葬のあとの塚と化しました。

111・ 第二のメモ。
自然の世界に生きているあいだ、人間には外部と内部の考えがありますから、言うことも二通りです。内部の考えを出発点として話をすることができますし、同時に外部の考えをもとに、話すこともできます。しかも内部からでなく、内部と全くちがったことを話すこともできるのです。だからこそ、見せかけや、おべっかや、偽善がうまれてくるわけです。
ところが、霊界では、人間の話すことは二通りでなく、一通りで、思ったとおりに話します。そうしないと、声色ががさついて耳ざわりだからです。でも、黙っていることは可能で、思っていることを、おおっぴらにしないだけです。偽善者の場合、英知がある人のなかに入ると、その場所から離れるか、部屋の隅にかくれるかして、目立たないようにして、口をつぐんだまま座っています。

(2) このようなことについては、あるとき霊界で、多くの者が集まって、「思っていることしか口にできないのは、神や主について正しい考えをしていなかった者にとって、しかも善人と一緒のときはつらいことだ」と言っていました。
その集まりのまん中には、改革派の人たち、しかも教職者が大勢いましたし、そのそばには、修道士といっしょにローマ教皇派の人たちもいます。かれらは、そんなことはつらいことでも何でもない、とすぐ口にして、「思ったとおりを口にしないわけにはいかないでしょう。もし万一考えていることが正しくなかったら、唇をつぐんで、黙っていればいいのです」と言うと、教職者の一人が、「神や主について、正しい考え方ができない人っているんですか」と言っていました。
ところが、集まっていた者の何人かは、「ためしてみよう」と言って、三つの人格の神を表明している者にむかって、内心ひとりの神を考えているかどうか、たずねてみました。ところが、かれらには、それができないのです。唇が変なふうにいろいろからまって、自分の考えに合致しない音声は、出せません。かれらは三つの人格の神、つまりは三神を考えていたからです。

(3) 愛から遊離した信仰で心を固めてしまっている人に、「イエス」のみ名を口にするよう言っても、できません。でも、キリストとか父なる神を口にすることはできました。それで自分でも肝をつぶして、そのわけをたずねたところ、かれらは、おん子を通して父なる神に祈ってはいますが、救い主ご自身にむかっては、祈っていなかったことが分かりました。「イエス」とは救い主のことです。

(4) 主の人間性を考えながら、その「神人性 Divinum Humanum」を口にしてみるよう言われましたが、そこにいた教職者は、だれ一人それができません。しかし信徒のなかに、それができる人がいました。それでこれが議論の対象になりました。
 それでまず、かれらのまえで福音書の次の部分が読まれました、
「おん父はすべてをおん子のみ手にゆだねられた」(ヨハネ3・35)。
「おん父はおん子に、肉にたいするすべての権能をお与えになった」(ヨハネ17・2)。
「あらゆるものは、おん父から、わたしに、さずけられている」(マタイ11・27)。
「天においても地においても、わたしにいっさいの権能があたえられた」(マタイ28・18)。
そこでかれらに、「キリストは、その神性においても、人間性においても、天地の神であると心にとめて、『神人』と言ってごらんなさい」とすすめてみましたが、それができません。かれらが言うには、理性でもって考えたことを、ある程度思いにとどめておくことはできても、それを承認することはできないし、口にすることはできないとのことです。

(5)② そのあとで、主が人間性の面で神エホバの子であり、いと高きものの子であると呼ばれているルカ福音書の部分(1・32、34、35)や、そのほか、「神のおん子」とか、「ひとりご」と言われているところを聞かされました。
それから、以上を考えにとどめておいて、神のおんひとり子がこの世にお生まれになり、それが、おん父が神であるとおなじく、神にましますこと、「神人」と呼ばれるお方であるといわれました
が、かれらは、「それはできませんね。内部にあるわたしたちの霊的思考力が、自分とちがった考えを、そばによせつけないのです」と言いました。そこで、自然の世界でやったとおなじようには、自分の考えを分離できないのに気がついたわけです。

(6)③ そのあと、主がピリポに言われた〈みことば〉が、かれらのまえで朗読されました、 
「ピリポが『主よ、わたしたちに父を示してください』と言ったところ、主は、『わたしを見る者は、父も見るのです。わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにいるのを信じないのですか』と問われます(ヨハネ14・8~11)。
その他また、父とご自分はひとつであること(ヨハネ10・30)などにも、言及しておられます。
以上を念頭において、「神人」と言ってみるように言われましたが、かれらの考えが、人間性の面でも主が神であることを、根っから承認したものではなかったので、腹立たしいほど舌がもつれ、無理にでも口を開いて言おうとしましたが、それができません。それというのも、霊界ではみんな、自分がそうだと思った考え方と、舌が動いて出る声とが、ひとつになっています。思ってもいないことを口にすることができないのです。つまり、考えていることと、しゃべっていることが、一つなのです。

(7)④ それからまた、キリスト教界ではどこでも認められている教義のなかから、かれらあてに朗読されました。
「主にあっては、神性と人間性が、二つではなく、一つです。人格としては一つで、人間の霊魂と肉体のように、一致合体しているのです」と。
これは、アタナシオス信条からのもので、公会議で承認されたものです。
「ですから、主の人間性には、その霊魂が神であることから、その神性を認めるのをさまたげるものは何もありません。それは、あなた方が地上で認めていた教会の教義なのです。それに、霊魂は人間の本質であり、肉体は人間の形 forma でしょう。そして本質と形は、その働きを一つにします。それは、存在 esse と実在 existere の関係、結果を生む能動因 causa efficiens と結果それ自身 ipse effectus との関係に比べられます」と言われました。
以上を念頭に、「神人」と発音しようとしましたが、できません。主の人間性について、内部で考えていたことが邪魔になって、それを声に出したくても、とってつけたような真新しい考え方を消してしまうのです。

(8)⑤ そこで、ヨハネによる福音書から、かれらのため、次の句が引用されました、
「〈みことば〉は神とともにあった。神は〈みことば〉であった。・・・そして〈みことば〉は肉となった」(ヨハネ1・1、14)。また、
「イエス・キリストは、本当の神であるとともに、永遠のいのちである」(Ⅰヨハネ5・20)。
パウロからの引用として、
「イエス・キリストのうちに、満ちみちているいっさいの神性が、人間の肉体をとって宿っている」(コロサイ2・9)と。
かれらもこれと同じように考えるはずであると言われました。つまり〈みことば〉にまします神は人間であること、しかも本当の神であること、みずからのうちに、満ちみちているいっさいの神性が、人間の肉体をとって宿っている、ということです。かれらもそう考えたのですが、ただ外面的な思いにすぎなかったので、内面からの抵抗があって、「神人」と発音することができず、結局「神人」という考えをもつことは不可能だと、はっきり言いました。ともかく、神は神、人間は人間であって、神は霊である以上、霊については、風かエーテルのようなもの以外、何も思いつかないと言うのです。

(9)⑥ おしまいになって、かれらに言われたことは、
「あなた方は、主が次のようにおっしゃったのをご存じでしょう、
『わたしにとどまっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたのうちにとどまるでしょう。
・・・わたしのうちにとどまり、わたしがそのうちにとどまる場合、その人は、多くの実を結ぶことになります。わたしから離れては、あなた方は何ひとつできないのです』(ヨハネ15・4、5)と」。
英国教会の教職者がそこにいたので、みんなのまえで、聖餐式で使う祈祷文の一つから引用して、朗読してもらいました、
「というのは、わたしたちが霊的にキリストの肉を食べ、その血を飲むとき、わたしたちはキリストのうちに宿り、キリストはわたしたちのうちに宿ります」と。
「ですから、主の人間性が神性をともなったものでなければ、以上のことは、言えないとお考えでしたら、心のなかでもそれを認めて、「神人」と発音してみてください」と言ってみましたが、
かれらの心には、神は人でありえず、人は神でありえず、しかも、主の神性は、永遠のむかしからましますおん子の神性からくるもの、人間性は、他の人間の人間性と同じものであるという考えが、根強く刻みこまれているため、どうしてもそれを口にすることができません。それで、かれらに言われたことは、「どうして、そんなふうに考えることができますか。〈永遠のむかしから、神より生まれ出たおん子〉のような方がいらっしゃるなど、理性的な精神にとって、考え及ばないことではないでしょうか」と。

(10) ⑦ そのあと、福音主義の人たちにむかって、アウグスブルグ信条にしても、ルターにしても、次のことを教えていると言われました。
すなわち、神のおん子とキリストのうちにある人間の子は、人格的に一つであること、その方は人間本性の面でも、全能であり遍在であること、人間本性の面で、父なる神の右に座し、天地万物を統轄し、すべてを満たし、わたしたちとともにましまし、わたしたちのうちに住み働いておられること、人が見分けられる本性をとおして、人が見分けられない神性が礼拝されているだけでなく、キリストのうちにあって、神が人間であり、神人であるから、礼拝の対象としても、何のさしつかえもないということです。
それを聞いて、かれらは、「本当にそうでしょうか」と言っては、あたりを見まわし、「そんなことは初めから知りませんでしたね。だから『神人』という言葉が出てこないのです」と言うのがやっとでした。それから口々に、「それを読んだり書いたりしたことがあります。しかしながら、それについて、自分のなかで思いめぐらしてみても、言葉だけで、その考えは心の中になかったのです」と言いました。

(11)⑧ それからローマ法王の教派に属する人たちに向かって、次のように言いました、
「あなた方は、おそらく『神人』という名をお使いになっておられるでしょう。ミサでは、パンとブドウ酒のなかに、またその小さな部分にまで、キリストの全体がましますと信じ、ホスチアをいとも神聖なる神として顕示したり、もってまわられたりなさるとき、その方を拝しておられます。それに、マリヤを神の母、すなわち神の産みの親と呼んでおられるでしょう。だからこそ、神を産むということ、つまり神人が認められていることになります」と。
それで、かれらも「神人」という言葉を発してみようとしましたが、できませんでした。というのは、キリストの肉と血についての考え方が物質的で、キリストの人間性が、その神性から分離されうるといった信仰をもち、しかも法王のもとでは、キリストの人間としての権能があっても、神としての権能は移譲されていないというふうに、実際に分離されたものだったためです。
そのとき一人の修道士が立ちあがって、いとも聖なる童貞マリヤと、自分の修道院に属する聖人にかんして、「神人」をあてはめて考えることが可能だと言いました。
すると、もう一人の修道士が近づいてきて、「いまわたしが自分の心の中で温めてきた考えで、『神人』と言える場合がありますが、それはキリストよりもむしろ、至聖なる法王についてです」と言いました。
ところが、そのときローマ法王の教派に属するものが、何人かでその修道士をひきもどし、「恥知らず!」と言いました。

(12) そのあと、天界が開かれ、舌が燃える炎のようになって下ってくるのが見え、それがある人たちの心を動かしました。そのときかれらは、主の神人性を祝って言いました、
「三神の考えを取り去り、主のうちに、満ちみちているいっさいの神性が、人間の肉体をとって宿っているのを信じなさい。おん父と主は、霊魂と肉体がひとつであるようにひとつです。神は、風とかエーテルのようなものではなく、人間です。そう信じるとき、あなた方は天界とむすばれるのです。そして主によって、『イエス』のみ名を口にし、『神人』と言うことができるようになるでしょう」と。

112・ 第三のメモ

ある朝のことです。夜が明けてから目を覚まし、家のまえにある庭に出ると、太陽がまばゆく輝いて昇ってくるのが見えました。太陽のまわりを取り巻いている日暈を見ていると、最初ぼんやりしていたものが、金色に光り輝いてはっきりし、そのしたから、ザクロ石のような雲が昇ってきて、太陽の燃えるような色を照りかえしています。わたしはそのとき、銀色の翼をもち、金色の顔をしたオーロラを描いた最古の伝説を、いろいろ思いめぐらしていました。
そんな思いを楽しんでいたところ、霊のうちに入っていきました。わたしはある人がおたがいに話しあっているのを聞きました、「あの改革者と話しあってみませんか。かれは、教会の教職者たちのなかに、争いの木の実を投げいれ、信者たちは大勢それに向かって走り、教職者たちはそれをとってわたしたちの目の前にかかげたのです」と。その木の実とは、『新しい教義の簡潔な解説 Summaria Expositio Doctrinae Novae Ecclesiae 』という小冊子のことでした。
それから、かれらは、「この本は今まで、だれも考え出したことがないような分離派の考えだ」と言いました。するとかれらの中の一人が、「分離だって。それは異端ですよ」と叫んでいたのが耳に入りました。するとまた、その傍にいた者が割りこんで、「黙った方がいい。これは異端でなく、〈みことば〉の引用がたくさんあります。信徒のことをわたしたちは門外漢とは言っていますが、かれらはその中の〈みことば〉に注目し、それに従っています」と言いました。

(2) わたしは霊のうちにあったので、それを聞いて近づき、「わたしはここにいますけれど、何かご用ですか」と言いました。その中の一人は、ザクセン生まれのドイツ人だったことを、あとで聞きましたでした。かれは権威調で、次のように言いました、「父なる神は全宇宙の創造者であること、そのおん子は仲介者であり、聖霊は働き手であるということは、全キリスト教会にわたって、何世紀にもわたって築きあげられた信心で、これをくつがえそうとする厚かましさは、どこからくるんですかね。あなたは、われわれの言う人格性から、最初にして最後の神をひき離すつもりですか。主ご自身言っておられます、『あなたがたは祈るとき、次のように祈りなさい、「天にましますわれらの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ、み国を来たらせたまえ・・・」』と。だから、父なる神にわたしたちは祈るように命じられているんじゃないですか」。
これを聞いて、しんと静まりました。それに賛同する連中はみんな、敵の艦隊を目前にして、「さあ、戦おうぜ。必ず勝つんだ」と言っている海の戦士のように立っていました。

(3) そのときわたしは、立ちあがって次のように話しました、
「みなさんの中で、神が天から下り、人となったことをご存じない方はいないでしょう。『〈みことば〉は神とともにあった。神は〈みことば〉であった。・・・そして〈みことば〉は肉となった』とあるからです。あなた方のなかで、次のことを知らない人はいないでしょう。(と言って、わたしに話しかけたあのボスがいる福音主義者たちに目を向けました)。すなわち、乙女マリヤから生まれたキリストのうちにあっては、神は人であり、人は神であるということです」と。ところが、それを聞いてみんなガヤガヤ言い始めたので、わたしは、
「あなた方はご存じでしょうが、以上は和協信条 Formula Concordiae と呼ばれているあなた方の告白する教義で、何回も確認されたものだということです」と言いました。するとあのボスはみんなに向かって、その信条を知っているかどうか尋ねると、かれらは、
「キリストの人格については、その書物からわずかしか学んでいません。だけど信仰義認の項目では、うんと学んだつもりですよ。それが書いてある書物なら、何でも安心です」と言います。そこでかれらの中の一人が、思い出したように口を切りました、
「たしかに書いてある。それに、キリストの人間性が神の威光を帯び、神のもつあらゆる属性を身につけ、高められたとあるし、キリストはまた、人間性をつけたまま、おん父の右に座しておられるということです」と。

(4) これを聞いて沈黙がつづきました。みんなが異論をもってこないようなので、わたしは、「それでは、おん子のないおん父、おん父のいないおん子とは、一体どんなことなのでしょう」と問いかけると、かれらの耳には痛かったと見えたので、続けて言いました、
「主が言われたあの〈みことば〉を聞いてみて下さい。今まで注意して考えたことがなかったのなら、今考えてください。主は、『父とわたしはひとつである』とか、『父よ、わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはすべてわたしのものです』とか、『わたしを見る者は父を見る』とか、おっしゃいました。おん父はおん子のうちにあり、おん子はおん父のうちにあって、それは人間の霊魂と肉体のように一つである、つまり一つの人格であるということです。アタナシオス信条にも同様のことが記されていますが、その信条を信じておられるなら、以上はあなた方が信じていることです。
でも今まで申しあげたことの中から、主が言われた『父よ、わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはすべてわたしのものです』ということだけにでも、注目してください。これは、おん父の神性は、おん子の人間性のもの、おん子の人間性は、おん父の神性のものということ、つまりはキリストのうちにあって、神は人であり、人は神であること、それは霊魂と肉体が一つであるように、一つであるということではありませんか。

(5) それと同じように、人間はだれでも自分の霊魂と肉体について、次のように言うことができます、つまり『あなたのものはすべてわたしのもの、わたしのものはすべてあなたのものです。あなたはわたしのうちにおり、わたしはあなたのうちにあります。わたしを見る者はあなたを見ます。わたしたちは、人格においても、生命においても、一つです』と。
それは、人の霊魂は、人間の全部にくまなく行きわたっているし、霊魂のいのちは、肉体も生かしていて、そのあいだには緊密な関係があるからです。だから、おん父の神性はおん子の霊魂であり、おん子の人間性はおん父の肉体である、というわけです。子の霊魂は父からくるもの、子の肉体は母からくるものでしょう。おん父の神性と言っていますが、これはおん父ご自身のことです。おん父ご自身とその神性は全く同じです。一つのもの、分割できないものでもあります。だからこそ、天使ガブリエルはマリヤにむかって言いました。すなわち、『いと高き者のみ力があなたを覆い、聖霊があなたに臨むでしょう。あなたから生まれ出る聖なる方は、神のおん子ととなえられるでしょう』と。いま、「いと高き者の子」とか、また他のところでは「ひとり子」と呼ばれています。
あなた方は、その方をただマリヤの子であると言って、その方の神性を考えまいとしていますが、そのように神性を拒否するのは、教職者や信徒の学者たちです。かれらは形而上のことに心を上げ
ることによって、自分の名誉名声をねっています。それが神の栄光にみちびく光をくもらせたり、
消し去ったりしているのです。

(6) そこでいま、主の祈りにもどりましょう。『天にましますわれらの父よ、願わくはみ名をあがめさせたまえ。み国をきたらせたまえ』とあります。ここにいらっしゃるみなさんは、ここで言われている父は、その方の神性だけを示しているとお考えでしょう。しかしながら、わたしはこの方の人間性も認めます。おん父のみ名というのは、その人間性のことだからです。主は『父よ、あなたのみ名に栄光をあらわしてください』と言われましたが、それは『あなたの人間性』のことなのです。それが実現するとき、神のみ国が到来します。あの時機に、この祈りを唱えるよう命じられましたが、それはその人間性をとおして、父なる神に近づくことができるからです。 主もまた、『わたしを通さないで、だれにも父にいたることはできない』と言われましたし、預言者も、『ひとりの男の子がわれらのために生まれた。ひとりのみどりごがわれらに与えられた。・・・その名は・・・神、大能の君、とこしえの父である』と記しています。また別のところでは、『あなたは、エホバ、われらの父、われらのあがない主で、それが永遠のむかしからあなたのみ名です』とあります。その他、われらの救い主である主が、エホバであると言われているところが、何回も出てきます。
以上で、主の祈りにある〈みことば〉の本当の意味が分かると思います。

(7) こう言い終わってから、かれらをじっと見ると、その心の状態が変わって、顔に出てくるのが分かりました。ある者は、賛成してわたしを見つめていましたが、ある者は不賛成で、わたしから顔をそむけています。右には乳白色の雲を見ましたが、左は、よどんだ色の雲がかかっていて、その雲の下は、両方とも雨のようなものが降りしきっています。前者の場合、晩秋の雨であり、後者の場合、初春の露のようでした。
やがてわたしは、霊の状態から肉体にもどり、霊の世界から自然の世界に帰ってきたのでした。

113・ 第四のメモ

わたしは霊たちの世界を眺めていました。すると赤や黒の馬にまたがった軍隊が見えてきました。それにまたがっている連中はサルに似ていて、顔と胸を、馬の腰やしっぽの方にむけ、後頭部と背中を、馬の首や頭の方にむけ、手綱を馬の首にまきつけています。かれらは、白い馬にまたがっている者らにむかってわめいては、両手で手綱をあやつり、自分たちの馬がまえに出て、戦わないように引っぱっているのです。それがしばらく続きました。
すると天界から二人の天使がわたしのところにやって来て、「何を見ているのですか」と言ったので、わたしは、あの騎兵たちの滑稽な様子を見たとおりに話し、「あれはいったい何ですか。かれらはだれです」と尋ねました。
天使たちは答えました。「かれらはハルマゲドンと呼ばれているところ(黙示16・16)からやって来たのですが、そこに何千何万と集まって、「新しいエルサレム」と言われる主の新教会の者にたいし、戦いをいどんでいるのです。そこでは、教会とか宗教についてしゃべっていますが、霊的真理に欠けているため、かれらには教会はなく、霊的善に欠けているため、かれらには宗教はありません。口先では、あれこれ言っていますが、それでもって支配欲を満たしたいと思っているにすぎないのです。

(2) 若いころ、「信仰のみ」を教わり、神についても何か学んだはずです。ところが、教会の高位にあげられてからは、しばらくその考えを保ってはいますが、やがて神や天界についてあまり考えなくなり、自分のこと、この世のことが、大切になるのです。また至福とか永遠の幸福より、現世での優位や財産に目をおきます。理性の内部にあった教会の教えを、外部におしやります。かつてはその内部で、天界と交流し、天上の光をうけていて、若いころはそこから教義を吸収していましたが、現世と交流しているうちに、現世の光に漬かった理性外部に押しやられ、ついには自然的な感覚のなかにくずれ去ります。こうなると、教会の教えは、理性をもとにして考えたことでもないし、愛からでた情愛に包まれたものでもなく、口先だけのものになってしまいます。そんなふうになってくると、教会が教える神の真理も、宗教がもっているすなおな善さえも認めず、その心の内部は、硫黄のクズに鉄片をまぜあわせたものがつまっている革袋のようになり、水をそそぐと、最初は熱を出し、それが燃えあがって、その革袋は燃え切れてしまうのです。また、〈みことば〉の純粋な真理でもある生命の水について何か耳にしても、それが耳から入ってくるだけで、火がついたようにカッとなって、それが頭痛のタネであるかのように、投げすててしまうのです。

(3) このような人は、赤や黒の馬にまたがって、首に手綱をまきつけ、体を逆にして乗っているサルのように見えます。〈みことば〉に由来する教会の真理と善を愛さないのは、馬の前部でなく、後部を見たがっている人たちのことです。馬は〈みことば〉の理解をあらわしていますが、赤い馬は、〈みことば〉の理解に、善の面で欠けていること、黒い馬は、〈みことば〉の理解のうえで、真理の面で欠けていることを示します。かれらは白い馬にまたがった人たちに挑戦してわめいていますが、白い馬は、真理と善の面で、しっかりした〈みことば〉の理解をあらわしているものです。かれらは馬の首をひっぱっていましたが、それは戦いによって、〈みことば〉の真理が大勢の人の心のなかに入ると、その光で照らされようになることを、恐れているからです」と言いました。

(4) 天使たちは続けて言いました、
「わたしたちは、ミカエルと呼ばれている天使社会からやってきましたが、それは、ハルマゲドンという場所に下りていって、あなたがご覧になった騎兵たちを駆逐するよう、主のご命令をうけたからです。天界でわたしたちが「ハルマゲドン」は、支配欲や優越感が動機となって、ねじまげた真理をもとにして、対抗しようとする状態や精神を意味します。その戦いがどんなものかお分わかりになりたいご様子なので、お知らせしましょう」と。
わたしたちは天界からくだって、ハルマゲドンと言われる場所に近づきました。そしてそこで、何千という者たちが集っているのを見ました。わたしたちは、その群集のなかには入らないで、南の側面に、少年たちが教師から教わっている建物があったので、そこに入りましたが、こころよく迎えいれられました。わたしたちとしては、かれらの仲間になれてうれしかったわけです。みんな目が生きているし、教師の言うことに夢中になっていて、うつくしい顔をしていました。目が生きているのは、真理を感じとっているからで、教師の話を夢中で聴いているのは、善の情愛を宿しているからです。そのためわたしたちは、かれらに、真珠をつづった黄金の糸で縁どった帽子をあたえ、白と青で色とりどりになっている衣服も贈りました。
わたしたちはかれらに、「ハルマゲドン」と呼ばれている場所が近くにありますが、そこを眺めたことがありますかと尋ねました。するとかれらは、屋根の下にある窓から眺めたけれど、群集がいろいろな格好に見えるということです。あるときは貴族、あるときは、人間というより銅像か彫刻された偶像のように見え、まわりの者がひざまずいているといいます。わたしたちにも、かれらはいろいろな違った形に見えてきます。ある者は人間、ある者はヒョウ、ある者は山羊、しかも下に向かってはえた角で土を掘るヤギに見えます。わたしたちは、それが〈意味づけや象徴的変身〉と解釈しています。ミカエルの天使は言います。

(5) 「さて、話をもとにもどしましょう。わたしたちがこの家に入ってきたのを聞いて、群集はたがいに、『少年たちのところにやってきた奴はだれだ。あいつらを追い出すため、われわれの仲間をつかわそう』と言って、人を遣わしました。かれらは、わたしたちのところへ来るなり、『この家にどうして入ってきた。どこからやって来たんだ。われわれは、おまえらがここから出て行くよう命令する』と。そこでわたしたちは答えました。『あなた方は命令を下すことはできません。あなた方は、目を見ると巨人のようだし、ここにいる人たちは小人のように見えます。だがここでは何の力も権利もありません。策略を用いても、ここではダメです。わたしたちは、あなた方のもとに宗教があるかどうか調べるため、天界から遣わされてここにやって来たのですが、もし宗教がないなら、この場所から放逐されます。だから仲間の者に、教会と宗教について、次のような基本を提示してみてください。つまり、主の祈りの言葉をどう解釈しますか。すなわち、天にましますわれらの父よ、ねがわくは、み名をあがめさせたまえ。み国を来らせたまえ、です』と。
それを聞いて、かれらはまず『なんだね、それは』と言い、言われたようにしてそこを去って、自分たちの仲間に伝えに帰りましたが、仲間たちは、『そんな話はいったい何のことだ』と聞きかえしました。しかし、それが父なる神にいたるかれらの信仰の道を尋ねているのだと分かり、『父なる神にむかって祈る言葉は、はっきりしている。キリストはわれわれの仲介者だ。だから、おん子をとおして、おん父である神に祈るのだ』と言いました。
そうしているうちに、かれらは腹を立てて、わたしたちのところへ来て、面とむかって言いこめ、わたしたちの耳を引っぱってやるとまで決めました。さて、そこから出て、かれらは少年と教師がいる家の近くにある木立にやってきました。その木立のまん中は、地面が高くなって舞台のようになっています。かれらは手をとりあって、その舞台の方にやってきました。わたしたちはそこで、かれらを待っていたのです。そこは土がもりあがって芝草が生えていました。かれらは、『あいつらのまえで立つことはない。座ってやろう』と言っては、横になりました。
そうするうちに、その中の一人は、光の天使をよそおいつつ、わたしたちと話すよう、みんなから託されました、
『われわれが主の祈りにある最初の言葉をどう解釈するか、打ちあけてもらいたいとのことですか。じゃあ、どう解釈するかを申しあげましょう。父なる神には祈らねばならない。キリストはわれらの仲介者で、その功徳でわれわれは救われるわけです。だからキリストの功徳を信じる心から、父なる神に、祈らねばならないということです』と。

(6) そのときわたしたちは言いました、『わたしどもは、ミカエルと呼ばれている天使社会から来た者ですが、この地に集っているあなた方に、宗教があるのかないのか、調べるよう遣わされてきました。神の概念は、どんな宗教にもあり、それによって神と結ばれ、神と結ばれることによって救われます。わたしたちは、地上の人と同じく、主の祈りを、毎日天界でとなえていますが、そのさい、父なる神については何も考えません。というのは見えない方だからです。むしろ、その神人性のうちにいらしゃる神を考えますが、それは神人性のうちで、神は見える方だからです。この神人性のうちにおられる神を、あなた方は「キリスト」と言っていますが、わたしたちは「主」と言っています。だから、わたしたちにとって、天にまします父は、主のことです。主は、『ご自分とおん子は一つである、父はご自分のうちにおられ、ご自分は父のうちにいる、ご自分を見る者は父をも見る、ご自分によらなければ、だれも父にいたることはできない、またおん子を信じることこそ、おん父のみ心である、おん子を信じない者は、いのちを見ることがない、むしろ神の怒りがその人のうえにとどまる』、と言われました。
以上のことから分かることは、主をとおし、主のうちにあって、父にいたることができる、ということです。したがって、主が天においても地においても、いっさいの権能が与えられたと言われたわけが、はっきりします。主の祈りには、『み名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ』とありますが、それはご自分の神人性こそ、おん父のみ名である、父なる神に直接向かうのでなく、主を直接あおぐとき、父のみ国が来るという〈みことば〉からの証明です。主は、神の国をのべ伝えるよう弟子たちにお命じになりましたが、これが神の国のことなのです』と。

(7) それを聞いて反対者たちは次のように言いました、『〈みことば〉から引用がたくさんありましたな。われわれも恐らく読んだことがあるんですが、覚えていない。それでわれわれのまえに〈みことば〉を開けて、そこを読んでください。まずは主のみ国が来るとき、父のみ国も来るというくだりですわ』と。かれらは少年たちに、『みことばの本をもって来なさい』と言ったので、かれらがもってきた〈みことば〉から、わたしたちは次の箇所を読みました。
「ヨハネはみ国の福音をのべ伝え、時が満ちた、神の国は近づいた、と言った」(マルコ1・14、 15、マタイ3・2)。
「イエスは、おんみずからみ国の福音をのべ伝え、神のみ国が近づいたと言われた」(マタイ4・17、23、9・35)。
「イエスは弟子たちに、神の国の福音をのべ伝えるように命じられた」(マルコ16・15、ルカ8・1、9・60、また七十人の弟子を遣わされたことについては、ルカ10・9、11)。(その他にも、 マタイ11・5、16・27、28、マルコ8・35、9・1、47、10・29、30、11・10、ルカ1・ 19、2・ 10、11、4・43、7・22、〔17・20、21〕、21・31、22・18)。
神の国の福音をのべ伝えるとは、主のみ国のことであり、つまりは父のみ国です。それは次の箇所から明らかです。
「父は、すべてを子のみ手に、ゆだねられた」(ヨハネ3・35)。
「父は子に、あらゆる肉を支配する力をあたえられた」(ヨハネ17・2)。
「すべては、父からわたしにゆだねられている」(マタイ11・27)。
「天においても地においても、いっさいの権威を授けられた」(マタイ28・18)。
また、次の箇所からも引用しました。
「その名は万軍のエホバ、あがない主であり、イスラエルの聖なる方であって、全地の神ととなえられる」(イザヤ54・5)。
「わたしは見た。・・・見よ、人の子のような者がいた。かれに主権と光栄と国とを賜い、諸民、 諸族をかれに仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない」(ダニエル7・13、14)。
「第七のみ使いがラッパを吹き鳴らした。すると、大きな声が天に起こって言った、『この世の国は、われらの主と、そのキリストとの国になった。主は世々限りなく支配なさるであろう』と」 (黙示11・15、12・10)。

(8) わたしたちはさらに、〈みことば〉から、主がこの世に来られたのは、天使や人間をあがなうためだけでなく、ご自身をとおして、またご自身のうちにあって、かれらを父なる神に一致合体させるためであった、と教えました。主を信じる者のなかに、主はましまし、かれらも主のうちにいる(ヨハネ6・56、14・20、15・4、5)。
そこでかれらは、『あなたがたの主が、父と呼ばれるのは、どうしてですか』と尋ねたので、わたしたちは、『今までお読みした箇所からですが、次の箇所もそうです。
「ひとりのみどりごが、われわれのために生まれた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた。・・・その名は、神、大能の君、とこしえの父ととなえられる」(イザヤ9・6)。
「たといわれらの父アブラハムがわれわれを知らず、イスラエルがわれわれを認めなくても、あなたはわれわれの父エホバです。あなたのみ名は永遠のむかしから、われわれのあがない主です」(イザヤ63・16)。
主は、ピリポが父を見せてくれるよう願ったとき、言われました、
「ピリポよ、・・・わたしを見た者は、父を見たのである」(ヨハネ14・9、12・45)と。
ここで、ピリポが目前にしたのは、おん父以外のだれだったと思いますか』と。
それにまた、次のことをつけ加えました。
『キリスト教の世界ではどこでも、教会から生まれたものはキリストの体を構成し、キリストの体のうちにあると言われています。それで、教会に属する者が、キリストのおん体のなかにありながら、キリストをとおさないで、どうして父なる神にいたるでしょう。キリストをとおさないと言うなら、キリストのおん体から、全くはみ出しておきながら、おん父に近づくことになります。』
わたしたちは最後に、かれらに言いました。現在主によって、新しい教会が創立されていること、それは、『黙示録』にある「新しいエルサレム」のことで、その教会では、天界におけると同様、主だけが礼拝され、主の祈りのなかに、初めから終わりまで含まれているすべての意味が、成就することになります。
わたしたちは、福音書をはじめ預言書の〈みことば〉を引用して確認しましたし、新しい教会については、最初から最後まで述べられている黙示録から引用しました。それも引用箇所が多くて、聞いている方が疲れてしまうほどでした。

(9) ハルマゲドンの者らは、聞いて腹を立て、あちこちでわたしたちの話をさえ切ろうとしましたが、とうとう爆発して、『あんたがたは、われわれの教会の教義に反対のことを言われた。人は父なる神を信じて、その神に直接近づくことができるという、わが教会の教義だ。だからわれわれの信仰をふみにじった。その点、有罪だ。それでここから出ていってもらおう。さもないと、追っぱらわれますぞ』とわめきました。かれらはカッとなって、すごみましたが、そのときわたしたちに力が与えられ、かれらの目が見えなくなるようにしました。それでかれらは何も見えず、わたしたちにおどりかかりましたが、メチャクチャに散らばり、深淵に落ちていきました。それは黙示録(9・2)にある底知れぬ所で、現在東寄りの南方位にあり、信仰のみの義認を確信している者がいます。そこでさらに、〈みことば〉を引用してまで心を固くしてしまった者は、砂漠に連れていかれ、キリスト教徒の世界の境界線近くまで来て、異教徒といっしょにいます」と。