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真のキリスト教

第二章 あがない主について

92節-94節

92・  [Ⅳ]神がこの世に来られるとき、とられた人間性こそ、神のおん子である。

 主は、おん父がご自身をつかわされ、ご自分はおん父からつかわされたと、たびたび言われました。(たとえば、マタイ10・40、15・24、ヨハネ3・17、5・23、24、36~38、6・29、39、40、44、57、7・16、18、28、29、8・16、18、29、42、9・4、その他多くの箇所)。
 ここで「世につかわされる」と言われているのは、この世に下り、人間のなかにやって来るという意味で、それが成就したのは、おとめマリヤをとおして取られた人間性によります。そしてまた、この人間性とは実際神のおん子のことで、おん父つまり神エホバによって受胎された方です(ルカ1・32、35)。
 神のみ子とか、人の子とか、マリヤの子と呼ばれていますが、「神のみ子」とは、その人間性のうちに宿られた神エホバのこと、「人の子」とは、〈みことば〉の面での主のこと、「マリヤの子」とは、みずから身に帯びられた人間性そのものを言います。「神のみ子」とか「人の子」という二つの呼び方については、後述するつもりです。「マリヤの子」とは、たんなる人間性そのものです。それは、出産がおん父に由来する霊魂と、母に由来する肉体をもつ人間性の出産だったことから明らかです。霊魂は、父親の精子に内在しますが、その霊魂が母親のもとで、肉の体を身につけられました。また同じことですが、人間にある霊的なものはすべて父親に由来し、物質的なものはすべて母親に由来します。それで主の場合、ご自身には神エホバからの神性と、母からの人間性があり、この二つが合体して神のみ子となられたわけです。以上は主のご誕生から、はっきりします。ルカは、それについて、
  「み使いガブリエルは、マリヤに言った、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをお  おうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は聖なる方であり、神の子ととなえられるでしょう』  と」(ルカ1・35)。
 主はご自身を「おん父から遣わされた者」と言われましたが、その「遣わされた」という意味は、天使 Augelus と同じような意味です。原語で天使とは「遣わされた者」の意味です。イザヤは次のように言っています、
  「エホバは、そのみ前の天使をもってかれらを救い、その愛とあわれみとによって、かれらをあ  がなわれた」(イザヤ63・9)と。またマラキ書には、
  「あなた方が求める主と、あなた方が求める契約の天使は、たちまちその宮に来られる」(マラ  キ3・1他)とあります。
 父・子・聖霊なる神の三一性は、主のうちにあります。父はみずからの根源的神性をあらわし、子は神人をあらわし、聖霊は神性の発出をあらわします。これについては、本書の第三章にある三一性の神の箇所で述べることにします。

93・ 天使ガブリエルがマリヤに言ったことは、
  「あなたから生まれ出る聖なる方は、神の子ととなえられるでしょう」でしたが、これは主がその人間性の面で、『イスラエルの聖者』と呼ばれるという〈みことば〉からの引用です。つまり、
  「わたしはまぼろしを見た。・・・ひとりの聖なる夜警が天からくだって来た」(ダニエル4・  13、23)。
  「神はテマンからこられ、聖なる方はパランの山からこられた」(ハバクク3・3)。
  「わたしは聖なるエホバであって、あなたがたの造り主、イスラエルの聖者である」(イザヤ43  ・14、15)。
「イスラエルのあがない主、イスラエルの聖者であるエホバは言われました」(イザヤ49・7)。「わたしはあなたの神エホバ、イスラエルの聖者であり、あなたの救い主である」(イザヤ43・1、3)。
「われわれをあがなう者は、その名を万軍のエホバといい、イスラエルの聖者である」(イザヤ47・4)。
「あなた方のあがない主、イスラエルの聖者であるエホバは言われました」(イザヤ43・14、48・17)。
「その名は万軍のエホバである。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である」(イザヤ54・5)。
「かれらは神を試み、イスラエルの聖者をあなどった」(詩78・41)。
「かれらは主を捨て、イスラエルの聖者をあなどった」(イザヤ1・4)。
「かれらは、・・・イスラエルの聖者について語り聞かせるなと言った。そのためイスラエルの聖者はこう言われる」(イザヤ30・11、12)。
「かれらは言う、そのお方のみわざが見られるよう、すみやかに行われるようにせよ、イスラエルの聖者の定めることを、近づき、来たらせよ」(イザヤ5・19)。
「その日には、かれらは真理のうちに、イスラエルの聖者であるエホバに頼るであろう」(イザヤ10・20)。
「シオンに住む者よ、声をあげてよろこびうたえ。イスラエルの聖者は、あなたがたのうちで大いなる者であるから」(イザヤ12・6)。
「イスラエルの神は言われる、その日イスラエルの聖者に目をとめるようになる」(イザヤ17・6、7)。
「とぼしい者は、イスラエルの聖者によろこびおどる」(イザヤ29・19、41・16)。
「地は、イスラエルの聖者にむかって犯した罪で満ちている」(エレミヤ51・5)(その他、イザヤ55・5、60・9、および他の箇所を参照)。
 「イスラエルの聖者 Sanctus Israelis 」というと、神人の面における主のことで、天使はマリヤにむかって、「あなたから生まれ出る子は、聖なる方であり、神の子ととなえられるでしょう」(ルカ1・35)と言っています。たとえ名前では区別されていても、「エホバ」と「イスラエルの聖者」はおなじです。エホバがイスラエルの聖者であると言っている、以上の箇所からも明らかです。主がまた、イスラエルの主であるといわれていることは、多くの箇所から、はっきりしています。
(たとえば、イザヤ17・6、21・10、17、24・15、29・23、エレミヤ7・3、9・15、11・3、13・12、16・9、19・3、15、23・2、24・5、25・15、27、29・4、8、21、25、30・2、31・23、32・14、15、36、33・4、34・2、13、35・13、17、18、19、37・7、38・17、39・16、42・9、15、18、43・10、44・2、7、11、25、48・1、50・18、51・33、エゼキエル8・4、9・3、10・19、20、11・22、43・2、44・2、ゼパニヤ2・9、詩41・13、59・5、68・8)。

94・ 現在のキリスト教会では、わたしたちの救い主である主を、マリヤの子と、普通呼んでいます。そして永遠のむかしからお生まれになったという意味を除いては、「神のおん子 Filius Dei 」とはよびません。ローマ・カトリック教会では、マリヤをだれにもまして聖人とし、あらゆる聖人聖女の女神か女王のように、たてまつっています。
 ところが主は、ご自身の人間性を栄化なさったとき、ご自分の母に由来するいっさいのものを脱ぎすて、おん父からくるいっさいを身に帯びられたことは、本書でくわしく後述していくつもりです。「マリヤの子」と口々に言って一般化した考えから、教会のなかに数知れない偏見が流れ入ってきました。おん父とご自身が一つであり、ご自身はおん父のうちに、おん父はご自身のうちにあって、おん父のものはすべてご自身のものであり、ご自身はエホバを父と呼び、父エホバは、ご自身を子と呼んでおられます。主について語られた、このような〈みことば〉の内容を、よく吟味していない場合は、とくにそうです。
 主ご自身は、マリヤの子であって、神のみ子ではないといった間違いが、教会のなかに流れこんできました。それによって、主が神にましますという考えも消えうせ、それと同時に、〈みことば〉のなかで、神のみ子として語られていることも、全部うしなわれてきました。それにともなって、ユダヤ主義、アリウス主義、ソッツィーニ主義、初期のカルヴィン主義、そしてついには自然主義がおこって、主はヨセフから出たマリヤの息子であるとか、その霊魂は母マリヤに由来するとか言いはじめ、それで神のおん子ではないことになりました。
 教職者でも平信徒でも、主をマリヤの子だとすれば、ただの人間だとしか思えなくなるのではないでしょうか。このような考えは、アリウス主義者がおこった三世紀に、キリスト教徒のなかで優勢になり始めました。やがてニケア公会義では、主の神性を明確にしようとして、永遠のむかしから生まれた神のおん子という考えが、定着してしまいました。
 このような作りごとによって、主の人間性が、当時はおろか現在まで、多くの人によって、神性以上に強調されてきています。もちろん、神性・人性の両者では、一方が上で他方が下であるというような意味で、位格的結合 unio hypostatica を説いている人の場合は、それほどでもありません。しかし何はともあれ、ただエホバが人間性をとられたという信仰、つまりは神人にましますという信仰に根差した普遍的キリスト教会が、姿を消してしまったことはたしかです。主があちこちで主張しておられるように、ご自分の人間性をとおさなくては、だれもおん父を見ることができないし、おん父をおん父としてみとめ、そのみもとに近づき、おん父を信じることはできません。
 こうして、教会にある高貴なタネは、みんな卑しいタネに変わり、オリーブのタネは、松のタネに、ミカンやレモンやリンゴなどのタネは、ヤナギやニレやボダイ樹やカシの木のタネに変わってしまい、小ムギも大ムギも、モミガラに姿を変えていきます。つまり霊的な食べ物は、みんなヘビが食べるチリに化していくのです。
 というのは、人の心にある霊の光は、自然の光となり、ついには肉と感覚の光になってしまいます。その光は、それみずからがまどわしです。人はそのときトリのように飛んでも、高い空をとんでいても、羽根をもぎとられて地上に落ち、そこで自分の足もとにある回りのものしか目にうつりません。永遠のいのちにいたらせる教会の霊的なことがらについても、占い師が考えているようなこと以上には、思いつかないのです。
 人が、あがないと救いの神である主を、たんにマリヤの子としか見ないとき、つまりただ人間としてしか見ないとき、そのようなことが起こります。