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真のキリスト教

第一章 あがない主について

82節-84節

82・ [Ⅰ]宇宙の創造主であるエホバは、人をあがない救うため、この世に下って人間性をとられた。

 現在、キリスト教会では、宇宙の創造主である神が、永遠のむかしからおん子を生み、そのおん子が、人間をあがない救うため、この世に下って人間性をとられた、と信じられています。しかしこれは、誤りであるとともに、自己矛盾です。というのは、神が唯一であると考えただけでも分かりますが、その唯一の神が、永遠のむかしからおん子を生み、しかも父なる神が、そのおん子および聖霊とひとつで、それぞれが神にましまし、それでも唯一の神であるというのは、理性的に考えても、納得のいかないことです。
 したがって、〈みことば〉をとおして、神なるエホバご自身が、この世に下り、人間になり、こうしてまた、あがない主でもあることを証明すれば、以上の作り話は、流星が大気中で燃えつきるように、姿を消していくでしょう。

(2) まず最初に申しあげた、神なるエホバご自身がこの世に下り、人間になられたということは、次の箇所からも明らかです。
「おとめがみごもって男の子を生む。その名は『われらとともなる神』ととなえらえる」(イザ ヤ7・14、マタイ1・22、23)。
「ひとりのみどりごが、われわれのために生まれた。ひとりの男の子が、われわれに与えられた。 主権はその肩にあり、その名は『すばらしい助言者』・『大能の神』・『とこしえの父』・『平 和の君』と、となえられる」(イザヤ9・6)。
「その日、人は言う、『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは、かれを待ち望んだ。 かれはわたしたちを救われる。これはエホバである。わたしたちは、かれを待ち望んだ。わたし たちは、その救いを喜び楽しもう』と」(イザヤ25・9)。
「荒野に呼ばわる者の声がする。エホバの道を備え、砂漠に、われわれの神のために、大路をま っすぐにせよ。・・・人はみな、これを見るであろう」(イザヤ40・3、5)。
「見よ、エホバなる神は大能をもってこられ、その腕は世をおさめる。見よ、その報いはエホバ とともにあり、・・・牧者のようにその群れを養う」(イザヤ40・10、11)。
「エホバは言われる、シオンの娘よ、喜び歌え。わたしが来て、あなたの中に住むからである。 その日には、多くの国民がエホバに連なる」(ゼカリヤ2・10、11)。
「エホバなるわたしは、正義をもってあなたを召した。・・・わたしはあなたを民の契約とする。 ・・わたしはエホバである。これがわたしの名である。わたしはわが栄光を、他の者に与えない」 (イザヤ42・6、8)。
「見よ、わたしがダビデのために、一つの正しい枝を起こす日がくる。かれは王となって世を治 め、・・・公平と正義を世に行う。・・・その名は、『エホバはわれわれの正義』ととなえられ る」(エレミヤ23・5、6、33・15、16)。
 その他にも、主の到来が「エホバの日」と呼ばれている箇所がありますが、それは次のとおりです。(イザヤ13・6、9、13、22、エゼキエル31・15、ヨエル1・15、2・1、2、11、3・2、4、4・1、14、18、アモス5・13、18、20、ゼパニヤ1・7~18、ゼカリヤ14・1、4~21、その他)。

(3) エホバご自身がこの世に下って、人間性をとられることについては、ルカによる福音書にはっきり記されています。
「マリアはみ使いに言った、『どうして、そんなことがあり得ましょうか。わたしにはまだ夫が ありませんのに』。み使いが答えて言った、『聖霊があなたにのぞみ、いと高き者の力が、あな たをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は、聖なるものであり、「神の子」と、となえ られるでしょう』と」(ルカ1・34、35)。
 マタイによる福音書にも、
「主のみ使いが、マリヤのいいなづけであるヨセフの夢に現れて言った、『その胎内に宿ってい るものは、聖霊による』と。・・・ヨセフは、子が生まれるまでは、かの女を知ることがなかっ た。そして、その子をイエスと名づけた」(マタイ1・20、25)。
 聖霊とは、〈神エホバから出る神的なもの〉を意味することは、本書の第三章で述べます。だれでも、霊魂や子孫のいのちは、父親に由来するものであり、その霊魂によって、肉体ができることを知っています。ですから、主の霊魂や生命は、神エホバからきたものであると言えば、これ以上はっきりした言い方はありません。神は、分割されるものではないからこそ、父なる神は、神の霊魂であり、神の生命です。だからこそ、主は神エホバを、ご自分の「父」と何回も呼ばれたし、神エホバは、主を、ご自身の「子」と呼ばれたのです。したがって、われらの主の霊魂が、母マリヤからきたと言うのを耳にすると、冗談としか思えません。ローマ・カトリックもプロテスタントも、現在そんなふうに夢想していますが、〈みことば〉によって、まだ目覚めていないからです。

83・ 永遠のむかしから生まれたみ子が存在し、この世に下り、人間性をとられたという説は、まったく誤りで、〈みことば〉の箇所に照らしてみると、姿を消してしまいます。〈みことば〉では、エホバご自身が、ご自分を救い主、あがない主と言っておられることは、次のとおりです、
「わたしはエホバではなかったのか。わたしのほかに神はない。わたしは正義の神、救い主であ って、わたしのほかに神はない」(イザヤ45・21、22)。
「ただわたしだけがエホバであって、わたしのほかに救い主はいない」(イザヤ43・11)。
「わたしはあなたの神、エホバである。あなたは、わたしのほかに神を知ってはならない。わた し以外に救い主はいない」(ホセア13・4)。
「こうして、すべての人は、わたしがエホバであって、あなたの救い主、あなたのあがない主で あることを知るようになる」(イザヤ49・26、60・16)。
「われわれをあがなう者は、その名を万軍のエホバという」(イザヤ46・4)。
「かれらのあがない主は強く、その名は万軍のエホバといわれる」(エレミヤ50・34)。
「エホバはわが岩、わがあがない主」(詩19・14)。
「あなたのあがない主、イスラエルの聖者であるエホバは、こう言われる、『わたしはあなたの 神エホバである』と」(イザヤ48・17、43・14、49・7)。
「あなたのあがない主であるエホバはこう言われる、『わたしはエホバである。わたしはよろずの物を造り、ただわたしだけによって生まれた』と」(イザヤ44・24)。
「エホバ、イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍のエホバはこう言われる、『わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない』と」(イザヤ44・6)。
「エホバよ、あなたはわれわれの父、いにしえからあなたの名は、われわれのあがない主である」(イザヤ63・16)。
「『わたしは、とこしえのいつくしみをもって、あなたをあわれむ』と、あなたをあがなわれるエホバは言われる」(イザヤ54・8)。
「エホバ、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました」(詩31・5)。
「イスラエルよ、エホバによって望みをいだけ。エホバには、いつくしみがあり、また豊かなあがないがあります。エホバはイスラエルを、そのもろもろの不義からあがなわれます」(詩103・7、8)。
「その名は万軍のエホバ。あなたをあがなわれる者は、イスラエルの聖者であって、全地の神ととなえられる」(イザヤ54・5)。
 以上の箇所や、それ以外の多くの箇所を見ると、目が開かれ、目をとおして心も開かれます。そのような人はみな、神はただひとりであって、その神があがないのため、この世に下って、人間になられたことが分かります。以上のように、神ご自身が言われたことに、注意を向けるなら、だれでも、朝の光で見るように、はっきり分かります。ところが、永遠のむかしから、もう一人他の神が生まれ、この世に下って人をあがなわれたと思い込んでしまうと、闇夜です。そのような人は、神が言われたことに、まぶたを閉じ、神の〈みことば〉を自分の謬説にあてはめ、それをねじまげるのに思案しているのです。

84・ 主が人間をあがなわれるとは、人間を断罪と地獄から人間をひきあげることですが、それには、主が人間性をおとりになる必要がありました。理由はたくさんありますが、順次これから述べていきます。
 あがないとは、地獄を克服すること、天界を秩序づけること、その結果、教会を再建することです。神はそれを、ご自分の全能のみ力で実行なさったわけですが、それも、人間性をとおしてしか、全うすることができませんでした。それは人が腕を使わないと、何もできないのと同じです。〈みことば〉では、主の人間性のことを、「エホバのみ腕」(イザヤ40・10、53・1)と言っています。
 城塞に囲まれた都市を攻略して、そこにある偶像寺院を破壊するには、それ相応の武器が必要です。全能のみ力をつかって、神がこれを行っていかれるには、ご自身の人間性が武器になったことは、 〈みことば〉にもはっきり書いてあります。神は内奥部にいまし、比類なく純粋な方ですから、地獄が存在する最外部、しかも人間が時間に生きている最外部にまでいたることは、不可能です。魂は、肉体がなくては何もできないのに似ています。
 敵が眼前に迫ってこないのに、その敵をうち負かすことは、だれにもできないし、ヤリやタテや銃のような武器がなかったら、敵に近づいていくことができません。神にとっても、人間性がなかったら、あがないを全うすることは、不可能です。蛮族の征服には、船で軍隊を送らなくてはなりません。樹木が成長するには、まず空気があって、それを通過する熱と光がいることだし、樹木の芽が生えてくるための土が必要です。サカナをとるには、アミを空中に投げたのではだめで、水中に投げなくてはなりません。それと同じです。
 ご自身のうちに、その存在を保っておられるエホバにとって、その始源のうちに存在するのと同じく、その最外部にも存在する必要があります。そうでなければ、地獄の悪魔や、地上にうろつく悪魔に、影響を及ぼすことはおできにならないし、その悪魔の狂暴な力をおしとどめ、鎮圧することはできません。神がその最外部にいらっしゃるというと、ご自身の人間性のうちにいらっしゃるということです。ですから〈みことば〉では、最初のものであるとともに最後のもの、アルパであるとともにオメガであるもの、初めであるとともに終わりであるもの、と言われています。