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真のキリスト教


第二章 あがないの主について


81節


81・ 前章では、創造主である神と、創造についてとり扱いましたが、本章では、あがない主としての主と、あがないについて、とり扱います。また次章では、聖霊と神のおん働きについてお話しするつもりです。あがない主とは「人間性を帯びたエホバ」のことです。エホバご自身が、あがないのみわざを全うするため、人間性をおとりになったことについては、いずれ説明するつもりです。ここで「エホバ」よりも「主」を使うわけは、旧約聖書の「エホバ」は、新約聖書では「主」と呼ばれているからで、次のように、モーセが記していることからも明らかです。
  「イスラエルよ聞け。われわれの神エホバは、唯一のエホバである。あなたは心をつくし、精神をつくして、あなたの神エホバを、愛さなければならない」(申命6・4、5)。
 マルコによる福音書には、
  「主なるわたしたちの神は、ただひとりの主である。心をつくし、精神をつくして、主なるあな  たの神を愛せよ」(マルコ12・29・30)とあります。また、イザヤは、
  「エホバの道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ」(イザヤ40・3)と言い、ルカは、
  「主のみまえに先立って行き、その道を備えなさい」(ルカ1・76)と記しています。
 また、その他の箇所にもありますが、主は弟子たちに、ご自分を「主」と呼ぶように、ご命令になっており、それで使徒たちも、その手紙の中で、「主」と呼んでいます。そののち、「使徒信条」と言われる信仰宣言にも、はっきりうたわれ、使徒教会もまた、そう呼んでいます。
 その理由を言うと、ユダヤ人たちは、「エホバ」のみ名が神聖であるために、あえて口にしませんでした。「エホバ」とは、「永遠のむかしからまします神存在 Divinum Esse 」のことで、時間のなかで身に帯びられた人間性は、それとは違います。この神存在、すなわちエホバが、どんな方であるかは、前(18~26、27~35)節で述べました。
 ということで、これからは、「人間性を身に帯びられたエホバ」を「主 Dominus」と呼びます。さて、主についての認識は、教会にあたえられている他のどんな認識よりも、いやむしろ、天界であたえられている他のどんな認識よりも、すぐれています。だからその認識に光をあててみるため、次のような順序で、話をすすめていきます。

[Ⅰ] 宇宙の創造主であるエホバは、人をあがない救うため、この世に下って人間性をとられた。

[Ⅱ] この方は、神の真理として、この世に下ってこられた。この真理こそ〈みことば〉で、神の善と分離できない方である。

[Ⅲ] 神は、みずからの神聖な秩序にもとづいて、人間性をとられた。

[Ⅳ] 神がこの世に来られるときとられた人間性は、「神のおん子 Filius Dei 」と呼ばれる。

[Ⅴ] 主は、あがないのみわざを通して、みずからを、義 Justitia とされた。

[Ⅵ] 主は、そのみわざを通して、みずからをおん父に合体された。それはおん父としてみずからをご自身に合体されたことであると同時に、神の秩序によるものである。

[Ⅶ] 神はこのようにして、人となられた。それは、一人格の神人 Deus Homo in una persona である。

[Ⅷ] この合体に向かうことこそ、主の自己卑下であった。そして、合体それ自身は、主の栄化の状態をあらわす。

[Ⅸ] それ以降は、キリスト信者の場合、神であり救い主である主を信じ、主だけに向かわないかぎり、天界に入れない。
 以上をそれぞれについて説明していくことにします。