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真のキリスト教

神の本質としての愛 Amor と英知 Sapientia

71節~74節


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71・ ここで三つのメモをつけ加えておきましょう。まず第一です。

わたしはあるとき、自分の足下で潮騒のような音を耳にし、「あれは何ですか」と尋ねたところ、ある人がわたしに、それは地獄のちょっと上にある〈下界 terra inferior 〉に集まっている連中のさわぎだと言いました。かれらの上は、屋根のようにかぶさっている土地があり、それがぱっと開くと、夜鳥が群れをなして、そのすき間から飛んで出て、左の方にちらばっていきました。するとそのあと、すぐイナゴが出てきて、草のうえを跳びこえ、行くところ行くところを砂漠にしてしまいます。

しばらくして、わたしは、夜鳥が交代で叫び声をあげているのを聞きましたが、脇の方からは、森のなかの妖怪が発しているような、しわがれた叫びが聞こえてきました。そのあと、天界から美しいトリがやってくるのが目に入りましたが、そのトリは右の方へ散っていきました。そのトリは銀のような色をした斑点と縞がちりばめてあって、黄金色の翼をしており、そのうちのあるトリの頭上には、冠状のトサカが見えました。

それを見て驚いていると、さきほど騒ぎのあった下界から、光の天使をまねた霊がひょいと現れて、「秩序なんて、全能の神が人間のセイで、ご自分に課した束縛なんだが、その秩序とやらについて、話したり書いたりする人はどこだ。われわれはその声を、屋根をとおして、下で耳にしたのだが」と叫んだのです。下界の上に出てきて、舗装された道を小走りにやってきて、やっとわたしのところまで来ると、やにわに天界の天使に姿をかえましたが、その声色はどうやら作り声のようでした。「あヽ、あなたですか。秩序について考えたり話したりできる方は。で、わたしに秩序とは何かとか、秩序にかんすることを、かいつまんでお聞かせください」と言ったのです。

(2) それでわたしは、
「あなたには大要をお話ししましょう。いずれ個々の詳細についてお分かりではないでしょうから」と言って、次のように説明しました。

1. 神は秩序そのものです。

2. 神は人間を、秩序から、秩序のうちに、秩序にむけて、創造されました。

3. 神は、全霊界の秩序にもとづいて、人間の理性的精神をつくられ、全自然界の秩序にもとづいて、人間の肉体をつくられました。そのため古代から、人間は「小天界」とか「小宇宙」と言われてきました。

4. ここに秩序の法則が生まれました。すなわち人間は、自分の小天界または小霊界から、小宇宙と小自然界をコントロールしていくことです。それはちょうど、神がご自身の大天界または霊界から、大宇宙とこの自然界を、個々全体にわたってコントロールしておられるのと同じです。

5. 秩序の法則によると、人間は〈みことば〉の真理によって信仰に入り、善い行いによって仁愛のうちに生き、自分を改革し、生まれ変わらなくてはなりません。

6.. また秩序の法則によると、人間は、自分の行いと能力を罪からきよめ、自分が何もできないということをしっかり信じ、神こそ自分の罪をたちどころに洗いきよめて下さる方であることを、期待しなくてはなりません。

7. それからまた、秩序の法則によると、人間は心をつくし、思いをつくして、神を愛し、隣人を自分のように愛さなくてはなりません。以上二種の愛については、パン屋が口の中にパンを投げいれてくれるように、神が人間の精神と心のなかに、愛を投げいれてくれるよう、待っていても、期待してもならないのです。
その他これに類することが数多くありました。

(3) これを聞いてサタンは、内に悪意をかくしながらも、やわらかな声で問いかけました、 
「何ですって。そのような法則を実践することによって、自分の力で秩序の中に入っていかなくてはならないのですか。人は律法のもとではなく、恵みのもとにあること、すべては無償で与えられること、天から与えられるのでなくては、人は何も吸収できないことを、ご存じなかったのですか。霊のことにかんしては、ロトの妻のように、塩の柱になる以外はないのです。エクロンにあるペリシテ人の偶像ダゴンでしかありません。人間は自分を義化する se justificare ことはできません。信仰と愛でしか、それはできないことです」と。

わたしはそれにたいし、ただ次のように答えただけです、
「秩序の法則によると、人間は自分の行いと力によって、〈みことば〉の真理をとおして、信仰を獲得しますが、信仰は一粒たりとも自分からでなく、神からくると信じます。それと同時に、人は自分の行いと力で、自分を義化していきますが、その義化の一片でも、自分からでなく、神からくるものと信じています。人は神を信じ、あらゆる力をつくして神を愛し、また隣人を自分のように愛するよう命じられているでしょう。もしこの命令に従ったり実行していったりする力が人間になかったら、どうして神はそれをお命じになれると思いますか。

(4) これを聞いてサタンの顔色は、初め明るかったのに、その顔が色あせ、やがて黒ずんできました。そして口を開いて言いました、「あなたは、逆説に対抗して、逆説で答えられたのですか」と。サタンはそこで引きさがり、消えていきました。すると左にいたトリが妖怪といっしょになって気味の悪い音を立てていましたが、スフ海と呼ばれている海の中に身を投じ、イナゴもいっしょになって跳んでいきました。そこで空気もきれいに澄み、地上にもケモノの姿が消え、下界のざわめきもやみ、静けさと清らかさがもどってきました。

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72・ 第二番目のメモです。

あるときわたしは、遠くから聞きなれないブツブツ声を耳にしました。わたしは霊のうちにあって、声のする方向に近づいていきました。わたしが初めにたどり着いたところには、責任の転移imputatio と予定 praedestinatio について推論している霊たちの集りがありました。オランダ人と英国人と他の国の人が、その中にまじっていました。かれらは、ひとりが理屈を述べたあと、それぞれ、「お見事!お見事!」と叫んでいました。トピックは次のようです。
「神は、ご自身のお造りになった人類ひとりひとりにたいし、またそのあと、あがなわれた者にたいし、ご自分のみ子の功績と義とを、どうしてお移しにならないか。神が全能なら、ルチフェルや龍や山羊全部を大天使にしたければ、それがおできになるのではないか。神が全能なら、悪魔の不義と不信心が、神のおん子の義だけでなく、神を信じる者たちの信心を圧倒するほど力を、どうしてもち続けるのか。神にとって、すべての者が信仰をえて、その結果救われるようにすることより、やさしいことがあるだろうか。神のひと言で十分ではないか。

そうでないなら、すべての人を救いたいとか、ひとりの死さえ哀まれるという、ご自身の〈みことば〉に反するのではないだろうか。だから滅びる者の罪を宣告されるのは、いったいだれなのか、言っていただきたい」と。

そのときオランダ出身の堕罪前予定説の信奉者 Praedestinatianus Supralapsarius が、「それは全能者の思し召しということでしょう。陶器師が粘土で便器をつくったからといって、粘土が口出しできるでしょうか」と言いましたが、別の者は、「天秤が計量する者の手にあるとおなじように、人の救いは神のみ手にあるのです」と言っていました。

(2) 両脇には、単純な信者や正直者が立っていました。ある者の眼は燃えるようにかがやき、ある者は目をまるくして驚き、ある者は陶酔し、ある者は息をつまらせた感じで、おたがいにつぶやいています。

「わたしたちは、そんなたわ言とは関係したくありませんね。かれらは迷える信者なのです。父なる神は、ご自分のおん子の義を、望む人に、望むときに、お与えになり、その義の保証として聖霊をつかわされるということです。そして人間は、自分が救われることにたいし、何の権利もないから、自分が義とされる過程では、まったく石ころと同じ、霊のことに関しては丸太と同じですよ」と。

すると、その中の一人が群れのなかに首をつっこんで、声高に言いました。「あヽ、脳足りんさんたち、あなたがたの論理は羊の毛のように浅薄です。全能の神とは、秩序そのものだということに、ぜんぜん気づいていないようですね。秩序の法則は無数にあって、それは〈みことば〉の真理の数ほどあっても、フシギではありません。それに反抗して、コトを起こすことは不可能です。なぜなら、秩序の法則に反抗することは、神ご自身に反対することです。それは神の義に反することだけでなく、神の全能に反することなのです」と。

(3) その人は右側の遠くにヒツジや小ヒツジ、それに飛んでいるハトに似たものを見、また左側には、ヤギ、オオカミ、ハゲタカに似たものを見て言いました、
「神はその全能のみ力で、ヤギをヒツジに、オオカミを小ヒツジに、ハゲタカをハトに、あるいはその逆に、変えることができるとお思いですか。絶対にできません。それはご自身の秩序の法則に反するからです。神のみ言葉によっても、その秩序の法則からはずれて、その一片だに地に落ちることはないのです。神はご自分の正義の法則に反して、み子のあがないの義を、だれかしら不従順な者にお与えになることなど、どうしてできるでしょう。ご自身の正義でもって、不正を行うことなども、どうしてできるでしょう。ある人を地獄に予定なさったり、悪魔が松明を手にする火のなかに、その人を投げ入れることなども、どうしてできるでしょう。あヽ、狂った方々、あなた方は霊的にからっぽです。あなた方の信仰があなたがたを迷わせたのです。あなたがたの手にあるものは、ハトをつかまえるワナのようですね」と。

それを聞くと、そんな信仰をもつ者の中から一人の魔術師がでてきて、ワナのようなものを作り、それを木にひっかけて言いました、「おれがそのハトをつかまえるところを見てくれ」と。すると、タカが飛んできて、そのワナに首をひっかけ、ぶらさがりましたが、ハトはタカの様子を見て、飛び去っていきました。そこにいた人たちは肝をつぶして、叫び声をあげたのです、「これは遊びであっても、義の証しですよ」と。


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73・ 予定説と功徳の転移説を信じているグループのなかから、次の日、何人かがわたしのところにやってきて、次のように言いました、
「わたしどもは、酒に酔っているのでなく、昨日の男の話で、酔っぱらっているんです。かれは全能について話し、また秩序の話もしましたが、結論は、全能は神のもの、したがって秩序も神のものだということ、いやむしろ神ご自身が、秩序だということでした。また〈みことば〉にある真理の数ほど、秩序の法則があるとのことで、それは何千どころか、何億とあり、しかも神はそこで、ご自分の法則にしばられ、人間もその法則にしばられていると言っていました。

それでは、このような法則にしばられていて、神は全能であると言えるでしょうか。絶対はすべて全能からくるものでしょう。それでは神は、この世の絶対君主よりも、小さな権力しかもっていないんでしょうか。絶対君主というと、オクタビウス・アウグストゥスとか、ネロ皇帝のように、正義の法律であっても、自分の掌をかえすように、自分の思いのまま、絶対の権力を行使します。法則にしばられていながら、神が全能かどうか考えているうちに、わたしどもは気が滅入ってフラフラし、何かすぐ薬でも飲まなかったら、気が遠くなる思いです。わたしどもは、父なる神がそのおん子の功しで、わたしたちを憐んでくださるよう祈ってきましたし、ご自身の思し召しで、人に哀れみをかけ、お望み次第で罪をゆるし、み心次第で人を救ってくださるものと信じてきました。そして神の全能を過少評価するなど、とんでもないと思ってきました。つまり神がご自身の法則のクサリで、ご自分をしばりつけるなど、神の全能に矛盾するものとして、不届千萬だと思ってきたわけです」と。

(2) そう言ってかれらは、わたしの方を見つめましたが、わたしもかれらの方を見ると、何しろ動揺を隠せない様子です。わたしは次のように言いました、
「わたしは主に願って、それをはっきりさせるための光をいただけるようにしましょう。しかしいまはただ、実例だけあげてみます」と。そういって続けました。
「全能の神は、ご自身のうちにある秩序から、ご自身のまします秩序のうちに、またご自身のご支配の方法である秩序をとおして、世界をお造りになりました。そして宇宙とそこにある個物それぞれに、ご自身のもつ秩序を植えつけられました。人間には人間の秩序、動物には動物の秩序、鳥にも魚にも虫にも、それぞれの秩序を与え、また樹木と雑草にも、それぞれの秩序があります。以上の例がもっとはっきりするよう、次のことを手短に、つけ加えておきます。秩序の法則が人に植えつけられているのは、人が自分で〈みことば〉から真理を会得し、それを自然の心で、ただし、できるかぎり理性的に思いめぐらして、自分にとって一つの自然的信仰を、ものにするためです。

秩序の法則は、そのとき神の側からの働きかけとして、人に近づき、神の光で真理を満たし、こうして、本人の自然的信仰を、神の本質で満たしていきます。ここで自然的信仰といっても、知識や思い込みにすぎませんが、ここが救いの信仰になるのです。

仁愛についても同じです。ただ手短に何か調べてみましょう。神は、人が自分の法則にもとづいて罪から離れないかぎり、だれの罪をもおゆるしになることができません。それは神の法則なのす。神は、人がみずからの法則にもとづいて、自然的に再生 se regenerare しないなら、その人を霊的に再生させることはできないのです。神は絶え間のない努力によって、人間を再生させ、救いたいお気持ちですが、本人が自分を器として提供し、神への道を平らにし、心のドアをあけないかぎり、それができません。

花婿は、約束をしていない場合、花嫁の部屋に入っていくわけにはいきません。花嫁はドアを閉じ、カギを手にして自分を守っていますが、花嫁との婚約がはたされたあと、カギは花婿にわたされるのです。

(3) 神は全能であっても、みずから人間にならなくては、人間をあがなうことがおできになりません。神の人間性は、まず幼児の人間性をとり、そのあと少年の人間性の姿をとり、さらにそのあと、ご自身の父がお入りになる器であり住まいになるよう自己形成をなさらないかぎり、その人間性を神化なさることはできなかったのです。それがおできになったのは、〈みことば〉のすべて、つまり〈みことば〉にある秩序の法則のすべてを、全うなさったことによります。この大業を全うなさったということは、ご自身をおん父に、おん父はご自身に、一体化なさったことになります。以上はわずかですが、説明のつもりで申しあげました。それも、神の全能は秩序のうちにあり、「摂理 Providentia」と言われている神の統治も、この秩序をもとにしたもので、この秩序の法則にしたがって、神はたえず永遠までも働いておられるということを、知っていただくためです。神ご自身が秩序であり、そのすべての法則をともなっているかぎり、それに反して何かをなさったり、わずかでも変更することは不可能なのです」と。

(4) こう言い終わると、屋根をつらぬいて、黄金色にかがやく光が流れてきて、空中に飛んでいるケルブ天使たちを映しだしました。その光はある者の後頭部にあるコメカミを、赤く輝かせましたが、前頭部はそのままでした。かれらは、「まだ全能が何だか分かりません」と言ってつぶやいたので、わたしは、「今まで申しあげたことが参考になって、光が射してくれば、示されることでしょう」と言いました。

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74・ わたしは遙かかなたに、頭に帽子をつけた多くの人の集まりを見ました。ある者は教会の位階を示す絹で縁どった帽子をかぶり、ある者は役所の地位をしめすのでしょう、金色のひもで囲んだ帽子をつけています。みんな学問と教養を身につけた人ばかりです。頭布をかぶった人もいましたが、かれらは無学な人たちでした。

近づいてみると、神の無限の力について、いろいろ話しあっているのが聞こえてきました。そしてもし神のみ力が、秩序からくる何らかの法則にもとづいて発揮されるとすると、それは無限でなく有限で、しかも神のみ力は全能にはならないと言っているのです。
「ある種の法的必然性があれば、それは一つのことをさせ、それ以外のことをさせないようしむけることは、だれにでも分かります。わたしたちが全能を考え、同時に何かの強制をもたらす秩序の法則について考えるとき、全能という先入観は、折れた王笏をもつ手のように、たしかに意味をなさなくなります」と。

(2) わたしが近づいたことを知って、ある男が走ってきて、何か大声でわめくように、言いました、
「神が法則か何かで、がんじがらめになっていると言ったのはあなたですね。何て恥知らずな人だろう。あなたは、わたしどもの救いがかかっている信仰の土台を、メチャメチャになさった。わたしどもは、あがないの義を中央におき、そのうえに、父なる神の全能をすえ、聖霊のみはたらきとか、霊のことで、人は全く無能である反面、聖霊による効能を、補足として加えています。わたしどもの信仰については、神の全能から生じてくる「義の完成 plenitudo justificationis」といっておけばいいでしょう。

ただし聞くところによると、あなたはそこに、つまらぬ考えがあるとおっしゃっているようですね。わたしどもの信仰には、人間側から見た神の秩序が、何もないということですか」と。これを聞いて、わたしは口を開き、声を高めに話しました、「神の秩序の法則をまなび、そのあとで、その信仰の実態をごらんください。そこに、広漠とした砂漠がひろがっているのが見えてきます。またそこに、クネクネした長身のレビヤタンがいて、そのまわりに、こんがらかった紐のように、網がからまっています。アレキサンダー王の話をお読みになったでしょう。かれはゴルディオスの結び目を見るやいなや、剣を抜いてそれをズタズタに切り、こんがらかりを解いて地面に投げすて、靴でその紐をふみにじったとのことです」。

(3)集まってきた人たちはそれを聞いて唇をかみ、とぎすました言葉を放って反論を加えようと思っている様子でしたが、止めました。わたしの上方で天が開け、声を耳にしたからです、「まずよく耳をすまして聞いてください。全能なる神が働かれる法則のもとになる秩序とは、何でしょう」と。それからつづけて言いました、

「神は、秩序そのものとして、秩序のうちに、秩序にむかって、ご自身の力のもとで、宇宙を創造なさいました。おなじく人間もお造りになりましたが、その人間のうちに、ご自身の秩序の法則をしっかりと設定されました。つまりこの法則のもとで、人間は神の像・神の似姿になりましたが、それこそ、神を信じ、隣人を愛するという点で、最高の傑作なのです。そして人は、以上の二つの愛を自然の力で ex naturali potentia 実行すればするほど、神の全能の器になり、それだけ神は、ご自身を人に結びつけ、人間をご自身に結びつけてくださいます。そこで本人の信仰は生きたもの、救いをもたらすものとなり、その行いは愛にかわり、生きたもの、救いをもたらすものになります。 でも、ここで知らなくてはならないことですが、神は人間のもとにいつまでも臨在され、たえず努力し働いておられ、本人の自由選択の力にも協力なさいますが、干渉はなさいません。もし神が人の自由選択の能力に干渉されたりすると、神のうちに、人間が住まうことはダメになり、人間のうちに、神が住まうだけになってしまいます。

このような神だけの住まいは、地上にも、天界にも、また地獄にも、あらゆるもののうちにあって、こうして神は、万物にたいする力と意志と理解力を保っておられます。しかし、〈みことば〉の秩序とその法則にしたがって生活していないかぎり、相互補足的な意味で、人が神のうちに住まうということはありません。

このように生活している人は、神ご自身の像であり似姿です。かれらには楽園があたえられ、生命の木の実が食べ物として与えられます。ところがその他の人たちは、善悪を知る木のまわりに集まって、そこにいるヘビと言葉をかわしては、その木の実を食べ、やがては楽園から追放されます。とは言っても、神がかれらを見捨てられるのではなく、かれらが、神を見捨てるのです。

(4) 帽子をつけた人たちは、それが分かって承認しましたが、頭巾の人たちは否定して、「それでは神の全能は有限だということになりませんか。全能が有限であるなど矛盾ですよ」と言いました。それでわたしは、次のように答えました、「神が公平でもって、正義の法則にしたがい、しかも〈英知からでる愛〉に刻みついた法則にのっとって、全能のみ力をふるわれることは、矛盾ではありません。むしろ、ご自身の正義と愛の法則に反して何かをなさること、つまり公平を欠き、英知にもとることこそ、矛盾です。

あなたがたの信仰にはそのような矛盾があるのです。すなわち神は不正な者を恵み、心だけで正当化したり、そのような人に、救いのあらゆる賜物や生命の報いをお与えになるとしたら、どうでしょう。

それでは、神の全能とは何か、手短かに申しあげましょう。神は、ご自身の全能でもって宇宙を創造し、万物ひとつひとつに、秩序をつけられました。神はその全能でもって宇宙を維持し、そこで秩序を永久に守っていかれるために、法則をもってなさいます。秩序からはずれたものがあれば、それをもとどおりに修復なさいます。そればかりか、神はその全能をもって教会を設立なさいました。神の秩序の法則は、〈みことば〉のなかに啓示されています。教会が堕落して秩序からはずれれば、それを再建なさいました。教会がとことん堕落してしまってから、神ご自身がこの世にくだり、人間性をおとりになり、それに全能の衣を着せて、修復なさったのです。

(5) 神はその全能と全知によって、死後の人間を逐一お調べになり、義人つまり羊は、天界のご自分の場所にお集めになり、かれらから天界をおつくりになります。また不正な者つまり山羊は、地獄にある自分自分の場所に行かせ、かれらから地獄をおつくりになります。神は両方の者にたいし、団体と社会におわけになります。それもかれらのもつ多種多様な愛によって仕分けられますが、その天界社会の数は、この世界の天空にある星の数ほどあります。また天界における各社会は、ひとつにまとまっていますが、それは主のみ前では、一人の人間を映し出しています。地獄にある各社会もおなじで、一人の悪魔を映しだしています。そして、地獄が天界に暴力を加えないよう、天界は地獄に苦悶をもたらさないよう、両者のあいだには間隙があります。地獄にいる者の場合、天界から流入をうけると、それだけ苦悶に襲われるのです。

天界も地獄も、神は全能のみ力で、一瞬一瞬見守っておられます。もしそうしなかったら、野獣的流入が人間のなかに浸透し、どんな秩序の法則によってでも強制できなくなり、人類は滅亡してしまうでしょう。神が秩序でなくなり、その秩序のうちでの全能でなかったら、このようなことが起こるにちがいありません」と。

これを聞いて、帽子をかぶっていた者たちは、帽子をぬいで脇にはさみ、主をたたえながら帰っていきました。あの世では、理知ある者は帽子をかぶっています。頭布をかぶっている人は、髪の毛がないからですが、その頭は愚かさを示します。頭布の人は左の方、帽子の人は右の方へむかって立ち去りました。

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