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真のキリスト教

第一章 創造の神について

ひとりの神について

4節-15節

4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15

・ 主のご在世のときに始まったキリスト教会は、幼児期から出発して、老衰期にはいりました。 幼児期というのは、使徒たちが生きていたころです。そして悔い改めと、主なる神である救い主への信仰が、全世界にのべ伝えられました。悔い改めと信仰の二つは、『使徒行伝』のなかに記されていることからも分かります。

  「ユダヤ人にもギリシャ人にも、神にたいする悔い改めと、わたしたちの主イエスにたいする信仰とを、つよく勧めてきた」(使徒2021)。

 何か月かまえ、主は、いまは天使となった十二弟子を呼びあつめ、全霊界にお遣わしになりました。これは、知っておいていただきたいことです。そのときのご命令は、福音をあらたに、全霊界にのべ伝えることです。というのは、主が弟子たちをとおして創設された教会は、現在その名残りをとどめないと言えるくらい、終末を迎えているのです。というのも、神であり主であるお方が、それぞれ三人格に分けられてしまう三位一体説が、信じられるようになったためです。

(2) その説は、全神学と、主のみ名をかかげている「キリスト教会」のなかに、荒れ狂った勢いで浸透していきました。

 「荒れ狂った」といいましたが、それは人間の精神が、その説に惑わされ、神が一つであるか三つであるか、分からなくなってしまうほど、混乱したことです。口では一つの神と言いながら、心では三つを考えています。したがって、思うことと言うこと、考えていることと話していることが、バラバラになり、これがもとで、神など存在しないとさえ、思うようになったことです。

 現在、支配的な勢いをもつ自然主義は、それが原因です。よかったら試してみると分かります。口では一つだと言っても、心では三つを考えていて、その三つがいっしょになると、それぞれが他を排除しているように思えないでしょうか。そうなると、人が神について考えたとしても、「神」というコトバを発しながら、神について何も考えていないことになります。

(3)「神」とそれにまつわる概念が、このようにバラバラになってしまったため、そのバラバラを修復する目的で、わたしは創造の神、救い主、聖霊のおん働き、それに最後に、聖なる三一性vina Trinitas について、順序よく述べていくつもりです。

 これも〈みことば〉をもとに、理性の光に照らしてみると、はっきりします。つまり聖なる三一性とは、主・神・救い主にましますイエス・キリストのうちに、ちょうど人の「霊魂」と「肉体」と 「その両者からでる働き」のようなものであるということです。これはアタナシオス信条のなかにもあります。すなわち、

  「キリストのうちに、神と人、神性と人間性があります。それは二者でなく、一つの人格のうちにあります。それはまた、理性的な霊魂と肉体が、ひとりの人間をなしているように、神と人がキリストにあって、一つになっていることです」。

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 ひとりの神について

・ 神を知り、その存在をみとめることは、普遍の神学 Universa Theologia にとっては、その本質・根拠になることですから、まずはじめに、「ひとりの神」について、箇条書きに体系だてて、説明していかなくてはなりません。

[Ⅰ]神がひとつであることは、聖書全体と、キリスト教世界にある教会の教義とが、おしえているところである。

[Ⅱ]人間のたましいには、神からくる一般的流入があって、それが神の存在と、神がおひとりであることを、分からせてくれる。

[Ⅲ]したがって、全世界をみわたしても、神の存在をみとめ、その神がひとつであることを教える宗教か、それを分からせる健全な理性を、もっていない民族はない。

[Ⅳ]このひとりの神が、どんなお方であるかについては、諸民族・国民ともども、いろいろな理由でちがった方向にそれ、意見がわかれていった。

[Ⅴ]この世にある多くのことから、人間は理性でもって、神が存在し、その神がおひとりであることを、望みさえすれば、感じとる percipere ことも、結論づけることもできる

[Ⅵ]神がおひとりでなかったら、全宇宙を創造・維持することはできない。

[Ⅶ]神をみとめない人は、教会から除名され、罰せられる。

[Ⅷ]ひとりの神でなく、多数の神をみとめている人は、教会とは関係がない。

 以上のことを、ひとつひとつ検討していきましょう。

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・[Ⅰ]神が存在し、その神がひとつであることは、聖書全体と、キリスト教世界にある教会の教義が、おしえているところである。

 聖書の全体が神の存在をおしえているわけは、聖書の内奥 intima に、神がいらっしゃるからです。つまりそれは、神 Deus から発する神性 Divinum です。それはまた、聖書が神によって口授されたdictata a Deo ものだからです。神から発出するものは、神ご自身の神性以外のなにものでもありません。

 このように、聖書の内奥にあるお方は神ですが、その方の下にあり、その方に依存するものがあって、その中でも聖書は、天使と人間の理解力に応じて、書かれています。それをとおして、同じく神性をうかがい知ることができますが、その〈かたち〉はいろいろです。それは天的神性、霊的神性、自然的神性などと呼ばれていますが、これらは神の装いとも言えるでしょう。

 というのは、〈みことば〉の内奥にある神ご自身は、被造物の目には見えないのです。モーセも、エホバの栄光を見せてくださるよう祈ったとき、神を見て生きていられる者はいないと言われました。それは〈みことば〉の内奥部についても同じで、神は、ご自身の存在 Esse と本質 Essentia をもって、そこにいらっしゃいます。

(2) ところが、聖書に秘められた神性も、天使と人間の理解力に応じて書かれ、隠されています。そして、水晶が形状にもとづいて光を放つように、神か自分かのいずれかで、人が形成してきた精神の状態によって、光を放ちます。神によって自分の精神を形成してきた人にとって、聖書はひとつの鏡です。その鏡のなかに、それぞれの流儀で神を見ます。〈みことば〉に教えられ、それによって生活し、身につけた諸真理こそ、そのような鏡をつくっています。ここでまずはっきりすることは、聖書には、神の存在があふれ、みなぎっているということです。

(3) 神が存在するというだけでなく、その神がおひとりであることを、聖書は教えています。これは、鏡をつくりあげている諸真理から分かることです。つまりそれは、前後の矛盾がないばかりか、人が神について考えるとき、おひとりであるとしか、考えようがないからです。

 だから、〈みことば〉から少しでも神聖なものを吸収できる理性をもっていれば、神がおひとりであることが、おのずと分かるし、神が多数存在するなど、狂人の寝言のように感じます。天使たちは「神々」というコトバを口にさえできません。天使のいる天界では、空気自身がそのような発声をさまたげます。神がおひとりであることは、前述したように、聖書が全体として教えているだけでなく、次にあげるように、多くの箇所で、それぞれに記されています、

  「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である」(申命6・4、マルコ1229)。   
  「神はただあなたとともにいまし、このほかに神はなく、ひとりもない」(イザヤ451415)。  
  「わたしは主ではなかったのか。わたしのほかに神はない」(イザヤ4521)。  
  「わたしは、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知ってはならない」(ホセア13・4)。

  「主イスラエルの王は言われる、『わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない』」(イザヤ44・6)。

  「主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名は一つだけとなる」(ゼカリヤ14・9)。

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・ キリスト教世界では、教会の教義をとおして、神がおひとりであると教えていることは、ご存じだと思います。というのも、教義はすべて〈みことば〉から生まれ、しかもそれが首尾一貫して、神がおひとりであることを、口だけでなく、心でも承認しているわけです。

 ところが、唯一の神を口先ではみとめながらも、心では三つの神を言明しているようなことを、現代のキリスト信者がよくやっています。かれらにとって、ひとりの神といっても、口先だけです。神学上のことは、箱の中にしまってある金の偶像でしかありません。その箱をあける鍵をもっているのは、教職者だけです。

 かれらは〈みことば〉を読んでも、わずかにもれてくる光さえ感じとれず、神がおひとりであることなど、到底わかりません。〈みことば〉は染みがついてよごれ、神がおひとりであることも、隠されたままです。主はマタイによる福音書で言っておられます、

  「あなたがたは聞くには聞くが、けっしてさとらない。見るには見るが、けっしてみとめない。  ・・・その目は閉じている。それは、かれらが目で見ず、耳で聞かず、心でさとらず、悔い改めて、いやされることがないためである」(マタイ131415)と。

 このような人はみんな、光を避け、窓がない小部屋に入って、壁にそって跳ねまわり、食べ物や金貨をさがしているような感じです。やがてフクロウのように、暗がりでも見えるようになります。また多くの夫がありながら、だれの妻でもない女のようでもあります。つまりは気まぐれな娼婦なのです。あるいはまた、たくさんの求婚者から指輪をもらい、結婚式をやっておいて、夜毎につぎつぎ夫をとり替えていく若い女のようでもあります。

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・ [Ⅱ]人間のたましいには、神からくる一般的流入があって、それが神の存在と、神がおひとりであることを、分からせてくれる。


 人間に、神からの流入があることは、つぎのことでわかります。つまり人間のなかに、それ自身善なるものがあって、人間に依存しながらも、神に由来するということを断言している人が、たくさんいるのです。またおなじく、愛とか信仰もぜんぶそうです。というのも、

  「人は天から与えられなければ、何ものも受けることができない」(ヨハネ3・27)とあり、またイエスは、

  「わたしから離れては、あなたがたは何ひとつできない」(ヨハネ15・5)と言っておられます。 愛や信仰にかんすることは、人は何ひとつできないのです。人間のたましいには、その流入があるのが分かります。人間の内奥・最高の部分に、神からの流入があると、たましいの配下にある部分に染みわたり、受けいれる程度に応じて、生気をあたえているからです。

 信仰にかんする真理は、聞くことによって注ぎこまれ、心のなかに植えつけられ、たましいの配下にゆきわたります。ただしい人は、この真理によって、神からの流入をたましいに受けいれるように、ととのえられます。ととのえられるに応じて、流入をうけます。そしてそれだけ、自然的な信仰を、霊的な信仰にかえていきます。

(2) 神から、人のたましいに注がれる流入によって、神がおひとりであることが分かります。そのわけは、個々全体にわたって、すべて神的なもの omne Divinum として把握されるものは、神Deus にましますからです。そして神的なものは、すべてが首尾一貫していて、唯一の神のイメージをもって、人にインスピレーションをあたえています。このようなイメージは、人が神によって、天界の光にあげられるに応じて、日毎に強まっていきます。

 天使たちは、各自いただいている光のもとで、「神々」というコトバを発音しようと無理をしたところで、うまくいきません。だからかれらの場合、どんな意味をもったコトバでも、話の終わりには、神の唯一性を強調してしまいます。これは、神がおひとりであることを分からせる流入が、たましいに注がれているからに他なりません。

(3) 神がおひとりであることを感じさせる流入は、すべての人のたましいの中に注がれています。それにもかかわらず、神のもつ神性 Divinitas Dei が、いくつか複数の本質に分かれていると考えている人がたくさんいます。その理由は、前述の流入がそそがれても、それが相応した〈かたち

formae 〉をとらないで、その〈かたち〉自身によって、自然の三界にある実体それぞれに合うように、流入そのものが変えられてしまうためです。

 動物を生かしている神はまた、人間をも生かしています。しかしその生命を受けいれている〈かたち〉こそ、動物を動物にし、人間を人間にしているのです。ですから、人間が自分の精神に、動物の〈かたち〉を導入すれば、人間も動物とおなじようになります。

 また太陽から、あらゆる樹木に降りそそがれる流入は同じですが、それぞれの樹木がもつ〈かたち〉によって変わってきます。ブドウの木にもイバラにも、同じ流入がそそがれていますが、イバラがブドウの木に接ぎ木されれば、流入はそのイバラの〈かたち〉にしたがって流れ、進んでいくことになります。

(4) 鉱物界にある実体についても同じです。光は石灰岩にもダイヤモンドにも、同じ流入をあたえていますが、石灰岩では光はにぶり、ダイヤモンドでは透明です。

 人間の精神にかんして言うと、〈神への信仰〉と〈神からのいのち〉にしたがって、内部の霊がつくる〈かたち〉によって変わってきます。ひとりの神にたいする信仰によって、その人の〈かたち〉は、天使的で光かがやくものになりますが、複数の神を信じていると、その〈かたち〉は、不透明で動物的になります。その信仰は、無神論とほとんど変わりません。

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・[Ⅲ]したがって、全世界を見わたしても、神の存在をみとめ、その神がひとつであることを教える宗教か、それを分からせる健全な理性を、もっていない民族はない。


 前述したことから分かりますが、人のたましいに注がれる神からの流入によって、神が存在し、その神がおひとりであるという内よりの声が、人間ひとりひとりに、与えられています。それにもかかわらず、神の存在を否定したり、自然を神であるとしたり、多くの神を信じたり、神々の偶像をまつったりする人がいるのは、なぜでしょう。

 それは、本人の理性または理解力の内部が、世俗的・肉的なものでカチカチになり、さらに神についてもっていた幼児期当初のイメージを失ってしまい、ついにはこれによって、宗教を胸中から背後に投げすててしまったためです。

 キリスト教徒はひとりの神をみとめていますが、それは、次のようなかれらの信条をみれば、分かります。 カトリックの信仰は、次のとおりです。

  「わたしたちは、三一性のうちにある唯一の神、唯一性のうちにある三一性をあがめます。神の人格は三つあって、父・子・聖霊ですが、これは三神ではなく、ひとりの神です。ただし父の人格と、子の人格と、聖霊の人格はべつべつです。そのべつべつの人格にひとつの神性があり、同等の栄光と、ともどもに永遠にいたる威光があります。ですから、神は父にましまし、神は子にましまし、神は聖霊にまします。ということで、キリスト教の真理では、主なる神のおひとりおひとりに、人格があると宣言せざるをえません。ただ三つの神、三人の主がましますなどという  ことは、カトリックの宗教が禁じているところです」。

 以上が、唯一の神についてのキリスト教信仰ですが、この信条のなかで宣言されている神の三一性や神の唯一性が、おたがいに矛盾していることは、「三一の神について」の項目でとりあつかいます。

(2) 世にある諸民族で、宗教があり、健全な理性をもっていれば、神がおひとりであることに異論はありません。マホメット教徒の諸国家はみんなそうです。アフリカでも、その大陸の中にある多数の国家がそうですし、アジアにもそのような国がたくさんあります。それに現在のユダヤ人がそうです。 黄金時代における最古代人にも宗教があって、「エホバ」と呼ぶ唯一の神を拝んでいました。それにつづく時代の古代人もそうでしたが、それは専制君主国家が生まれるまえのことです。世俗的愛はそのころから始まり、それがやがて肉的愛になり、理性の上層部を、くらませていきました。

 理性の上層部は、それ以前にはひらかれていて、ひとりの神につかえる神殿か至聖所のようでした。主なる神は、その上層部をふたたびひらき、唯一の神の礼拝をとりもどすため、ヤコブの子孫のもとで教会を設立し、かれらの宗教における最優先の掟を、次のように定められました、

 「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない」(出エジプト20・3)と。

(3) かれらのまえで、ご自身について、「エホバ Jehovah」というみ名を披露なさいましたが、これは唯一最高の存在という意味です。エホバは、全宇宙に存在し、実在している万物の本源です。古代の異教徒たちは、最高神ヨヴィス Jovis の存在をみとめていましたが、この名はエホバから来たものだろうと思われます。かれらは、ほかの多くの神々をまつって神殿を建て、その神々に神性をみとめました。後代のプラトンとかアリストテレスのような賢人は、このようなものは、神々というべきでなく、唯一の神の属性・性格であると言っています。いずれにせよ、その属性のひとつひとつに、神性が宿っていると信じて、「神々」の名をつかったのだそうです。

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10・ 宗教的でなくても健全な理性をもっていれば、見えてくることですが、分割されてできているもの divisum は、すべて一つのものに依存しない場合、それ自身ではバラバラになってしまいます。人間も、手足・内臓・感覚・運動器官からなっていますが、一つの霊魂がなかったら、分解してしまいます。肉体も一つの心臓に依存しなければ、存続できません。ひとつの王国にはひとりの王がおり、家にはひとりの主人がいます。各分野で複雑化した政治機構であれば、すべてそれを統轄するひとりの官吏が必要です。また軍隊でも、最高指揮権をもつ司令官がいなかったら、どうして敵軍に対抗できるでしょう。将校はその指揮にしたがい、兵士たちは将校のひとりひとりに服します。

 教会でもおなじです。ひとりの神をみとめなくては、何もはじまりません。この地上の教会の頭部は、天使のいる天界ですが、天界・教会ともに、そのたましいになっているのは主です。だから天界と教会は、主のおん体と呼ばれています。ここで、唯一の神をみとめなければ、天界も教会も、たましいのぬけがらになります。なんの役にもたたず、捨てられ、葬りさられてしまうでしょう。

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11・[Ⅳ]このひとりの神が、どんな方であるかについては、諸民族・国民ともども、いろいろな理由で、ちがった方向にそれ、意見がわかれていった。

 第一の理由をもうしあげましょう。神を知りその存在をみとめるには、啓示がなかったら不可能です。しかも主を知り、さらに主のうちに、神性が肉体をとって溢れ宿っていることをみとめるには、啓示の冠である〈みことば〉がなかったら、できないことです。人は啓示が与えられると、神にむかい、その流入をうけ、自然的人間から霊的人間になっていきます。ところで原初の啓示は、全世界に行きわたりましたが、自然的人間は、これをあれこれとゆがめてしまい、そこから分離・反目・異端がおこり、諸宗教に分かれていきました。

 第二の理由は、自然的人間は、神について何も感じとれない状態で、この世のものだけを吸収し、この世になじみます。だからキリスト教の正典にも、自然的人間は霊的人間に対立し、おたがいに反目しあっていると書かれています。したがって、〈みことば〉やその他の啓示によって、神の存在をみとめた人たちも、神のご性質やその唯一性について、ちがった方向にそれ、意見がわかれていきました。

(2) そのようなわけで、精神的視覚が肉体の感覚に依存しつつも、神をこの目で見たいと思った人たちは、金・銀・石・木でもって偶像をつくり、見える対象物を借りて、神をあがめようとしました。また宗教的信念から偶像を避けた人たちは、太陽・月・星・その他、地上のいろいろなものから、神をあらわすイメージをつくりあげました。

 また、一般の民衆より自分が知者だとうぬぼれながらも、あいかわらず自然的だった人たちは、世界創造にみられる神の無辺 Immensitas と遍在 omnipraesentia をかんがえ、自然の内奥とか究極の原理をもって、神としました。また神を自然から切りはなし、ある種の普遍的存在の極致 quoddam universalissimum を想定し、それを「宇宙的存在 Ens universi 」と呼んだ人もいます。神については何も知らなかったので、この宇宙的存在も、かれらにとっては虚構 ens rationis にすぎず、何の意味もないものになってしまいました。

(3) だれでも分かることですが、神を知るということは、心の鏡に神をうつすことです。神について何も知らない人は、鏡の表面に目をおかず、鏡をひっくりかえして、裏から見ているようです。鏡の裏には、水銀や黒い膠がぬってあって、対象物のイメージを反射しないだけでなく、消しさってしまいます。

 〈神への信仰 Fides Dei〉は、霊魂から出発し、理性の上層部にのぼっていく先天的な道をとおって、人のなかに入っていきます。それにたいし、〈神についての認識 cognitiones de Deo〉は、肉体の感覚をつかい、理性が〈みことば〉の啓示から汲みとっていくという、後天的な道をとおって、人のなかに入っていきます。そして理性のただ中で流入と合体し、思い込み Persuasio でしかない自然的信仰は、霊的なものにかわり、心からの承認になっていきます。人間の理性はここで、転位をおこなう変換器のような役目をはたします。

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12・[Ⅴ]この世にある多くのことから、人間は、理性で、神が存在し、その神がおひとりであることを、望みさえすれば、感じとることも、結論づけることもできる。

 以上の真理は、見える世界にある数々のことで立証できます。この宇宙は、神が存在し、その神がひとりであることを、間断なくあかしする劇場の舞台とでも言えるでしょう。これを説明するため、霊界からのメモを紹介します。


あるときわたしは、天使たちとコトバをかわしていましたが、そこに自然の世界から何人かの新来者がやってきました。わたしはかれらと会って、その無事をよろこび、かれらの知らない霊界のことについて、いろいろ話しました。話し終えてから、わたしはかれらが、神や自然について、どんな教育をうけてきたかを尋ねました。するとかれらは、
 「そうですね。被造宇宙のなかで、万物を動かしているのは自然です。神は創造のあと、その能力と可能性を、自然のなかにお与えになりました。神がなさるのは、ただ万物が滅んでしまわないように、維持しておられるだけです。だから現在では、すべて自然のおかげで、地上に、存在と生成発展があるのです。」と言いました。
 それにたいし、自然はそれ自身の力で、何かを動かしているのではなく、自然をとおして、神が動かしておられるのだとわたしは答えましたが、かれらが証明を要求してくるので、わたしは次のように言いました、
 「自然界の個々の事物のなかに、神が働いていることを信じる人にとって、この世にあるいろいろなものを見るとき、そこに自然の力を越えた神の力をみとめることができます。

(2) 自然にある個々の事物のなかに、神が働いておられることをみとめる人は、また植物と動物の繁殖の過程でおこるすばらしい事実に、目をとめます。まず植物の繁殖ですが、タネが地に蒔かれると根がのび、根からクキができ、それが四方に枝をのばして、小枝・葉・果実を生みだし、そしてまた新しいタネをつくります。それはちょうどタネ自身が、自分の発達過程と再生のプロセスを、全部知っているかのようです。
 理性があれば、だれでも分かることですが、太陽はご存じのように、純粋の火にすぎません。それが熱と火だけで、目的をめざし、効果を発揮することができるでしょうか。それを見て、考え、しかも高められた理性をもつ人間なら、すべては無限の英知をもっておられる、神によってなされていると思わざるをえないでしょう。
 自然の個々の事物のなかに、神の働きをみとめる人は、それを見て確信を深めます。反面それをみとめない人は、額にある理性の目で見ないで、後頭部にある理性をつかいます。かれらは肉的感覚から概念思考をよびだし、そこから出る偽りで心をかため、『万物をうごかしているのは太陽の熱と光ではないか。見えないものとは何のことだろう。それは何ものでもない』と言います。

(3) 神のみわざを信じている人なら、動物産出のプロセスを見て、そのすばらしさに目をみはります。まず卵ですが、その中にヒナの胚がかくされ、その中に、自己形成に必要なものだけでなく、卵のカラから出て、一人前のオヤ鳥になれるまでの発達可能性が、ぜんぶ含まれています。
 また一般に鳥類を観察しながら、心を高くして考えてみると、驚嘆にあたいする事実がせまってきます。大小さまざまのものを見、見える部分・見えない部分をふくめ、微小の昆虫から大型の鳥獣にいたるまで、視覚・嗅覚・味覚・触覚などの諸感覚がそなわっており、筋肉をもつ運動器官をつかって、飛んだり跳ねたりできるだけでなく、心臓や肺臓に付属するいろいろの内臓もあって、脳によってコントロールされています。
 これがぜんぶ自然のおかげだと思っている人は、以上を見ても、ただそうとしか考えないで、自然が生みだしている作用だと言います。それも、神については考えないようにするためです。神からの考えをそらせる人は、自然の驚嘆を目にしても、理性的に考えることはないし、まして霊的に考えることなどありません。むしろ感覚的・物質的に考えます。自然のもとで自然を考え、それを越えることがないのです。人間が動物とちがうのは、のぞむなら理解することができるという、理性の能力があるということだけです。

(4) 神から思いをそらせる人は、肉的・感覚的になります。だから肉眼は、粗雑かつ物質的で、小さな虫がたくさんいても、それをぼんやりした一つのかたまりとしてしか見ていません。ところがその一つ一つは、感覚と運動の能力を発揮できるよう構成されていて、心臓・気管・内臓・脳に附随する繊維と諸器官をそなえています。
 これらはみんな、自然界にあるもっとも純粋な要素からでてきていて、その組成について見ると、細部まで正確に動いていて、それが最低段階の生命まで相応をもっています。肉眼で見ると個々の部分に無数の要素があって、たくさん集まっていても、ぼんやりとした小さな塊にしか見えません。そのように、感覚的人間は、自分が見ている範囲内でしか、思考力や判断力をはたらかせません。その精神の鈍さがどれほどかお分かりでしょう。かれらは霊的なことがらについては、暗闇のなかにいるのです。

(5) もしその気になれば、だれでも自然界の見えるものから、神を確信することができますし、また神の存在とか、宇宙創造にたずさわる神の全能や、宇宙を維持する神の遍在について考えれば、その確信も深まります。空を飛ぶトリをみると、どんな種でも、自分の食べ物とそのありかを知っているし、鳴き声や姿で、仲間を見わけることができます。トリのなかでも、味方と敵を識別し、みんなが集まっているところを知って、結婚相手をみつけていっしょになり、巣をじょうずにつくり、そこに卵を生みつけ、孵化します。しかも孵化の時期を知っていて、それが過ぎると、ヒナをつれだし、やさしい表情をしめし、翼の下にはぐくみ、餌をあたえてそだて、成長してから、親と同程度に、意のまま行動できるようになるまで、教育します。
 神が霊界から、自然界に注いでくださっている流入について考えれば、人はだれでも、そのなかに、神を見ることができます。そしてもし望むなら、次のように、自問自答することができるのです、『以上のような知恵が、太陽の熱や光から来ているはずはない。太陽が、自然の根源とか本質だといっても、それは純粋の火でしかないし、熱や光を放出しても、それ自身生命があるわけではない』と。そして、つまりは、霊界から自然の最外部に浸透してくる、神からの流入であると、結論づけることができます。

(6) だれでも自然界の見えるものから、神の存在をたしかめることができます。イモムシは、ある種の愛情とよろこびをもって、地上を這う状態から、天界になぞらえる状態にまで、変わっていくことを、あこがれているようです。そのため、ある場所まで這っていって、自分のまわりを被膜でおおい、あたかも再生に入るかのように、自分を胎内にとじこめ、サナギになり、やがてチョウになります。変身の過程をすぎると、その種に応じて美しい翼を身につけ、天上の世界を飛びまわるように、空中を飛翔します。楽し気に、遊びまわっては結婚し、卵を産み、子孫の繁栄をもくろみます。花からはおいしい蜜をとり、それを食糧にして、自分たちの養いにします。
 自然を見て神の存在を確信する人なら、イモムシやチョウのうちに、地上の人間と天界での姿のイメージを、見ないわけにはいかないでしょう。ところが、これを自然の力だと思いこんでいる人は、同じものを見ても、人間の天上的姿とかいった思いを胸のなかから投げすてて、万物は自然現象にすぎないと言います。

(7) 自然界を見て神の存在を確信する人は、みんなハチの習性に注目するでしょう。ハチは、バラやその他の花から、蜜蝋をあつめ、蜜を吸います。人の住まいそっくりの小室をつくり、出入りができる玄関までつけて、そこに町の形体をきずきます。花や草のにおいを遠くから嗅ぎわけて、住まいのための蝋や、食糧の蜜をとりにいきます。そして取れるだけのものを積んで、自分の巣に帰ってきます。さらに予見しているかのように、来たるべき冬のために、食べ物をたくわえておきます。
 女王蜂を女主人にすえますが、そこから子孫が生まれます。しかも女王蜂のためには、そびえる宮殿をつくってやり、そのまわりに衛兵まで配備します。出産のときがくると、女王蜂は雄バチの衛兵をしたがえて、各房をめぐっては卵を生み、つきそいの蜂は、それを空気にさらさせないように封印します。
 こうして新しい子孫が誕生します。そしてまた、この子孫たちも、一定の期間がたつと、親と同じことができるようにと、巣から追いだされます。それも団結がくずれないよう群れをなして飛び、自分たちの住まいを探すのです。秋になると、蝋も蜜も運んでこない雄バチは、どうなるでしょう。巣に帰ってきては、何もしないで食糧を食いつくしてしまわないよう、羽根をもぎとられます。そのほかにもいろいろあります。
 人類に供せられている用途の面からみても分かるように、以上は、霊界をとおして神からあたえられる流入によって、地上の人間にも、天界の天使にも、あてはまる統治組織の一形体であるということです。

(8) まともな理性をもっていながら、以上が、自然世界の力だけでは起こらないことを、理解しない人がいるでしょうか。自然界の源である太陽を見て、これが天界の統治に匹敵するだけのものを、秘めていると言えるでしょうか。
 野生動物にもある同じような生態を見て、自然の崇拝者は、これを自然のオカゲだといいます。ただし神をあがめる者は、同じことを見て、これを神のオカゲだと断言するのです。というのは、自然的人間は、万物の中に自然的なものしか見ないのに、霊的な人間は、そのなかに、霊的なものを見ています。だから各人各様に、自分がでてくるわけです。
 わたしの考えを言うと、以上は、神から自然の世界へ浸透してくる、霊界からの流入の証拠です。ちょっと考えてみてください。ある統治形体とか、ある民法とか、ある道徳とか、ある霊的真理をみて、これが霊界をとおって流れてくる神の英知の結果と考えず、まともにじっくり分析してみることができるでしょうか。わたしにはそんなことできなかったし、今もできません。この種の流入を、はっきり意識して感じとり、いまや二十六年にもなります。だからこれを証言したいのです。

(9) さて自然界は、役立ちをもくろんだり、それを一定の秩序と形体にととのえたりすることができるでしょうか。これは、英知のある者がいなくては、できないことです。そして、無限の英知をもつ神でなくては、宇宙がこれほどまで秩序をもち、形をととのえることはできません。いったい神以外のだれが、人間に必要な食糧や衣類を見とおして、気をくばることができるでしょうか。畑の作物、地上に生える樹の実、動物などの食糧と、それから作られる衣類などを、考えてみてください。いろいろ目を見はるような事実のなかでも、カイコと呼ばれている下等なムシが、絹を生産し、それが女王や王から始まって、下女下男をふくめる男女に、みやびやかな服飾を提供しています。蜜バチも下等なムシですが、明かりをともすための蝋を供給し、そのおかげで、寺院や宮殿は、あかるくかがやきます。そのほかにも、神が霊界をとおして、自然界にある万物を動かしておられる証拠がたくさんあります。

(10) つけ加えておきたいことですが、この世にいるあいだ、見える物を自然のおかげだと思いこみ、無神論者になった者が、霊界にはいます。霊の光に照らしてみると、かれらの理性は下方に開いていて、上方には閉じてみえます。それというのも、自分の思いを下方にある地上にむけ、上方にある天界にむけなかったためです。理性の下層部にある感覚的能力のうえには、地獄の火にあおられたベールがひらめいており、それがある者には煤のように黒々としており、ある者には死体のように青ざめた色をしています。だから自然のおかげだなどと思いこまないように、注意せねばなりません。神のおかげなのです。理由に事欠くことはありません。」と。

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13 [Ⅵ]神がおひとりでなかったら、全宇宙を創造・維持することはできない


 神がおひとりであることは、全宇宙の創造からみて当然の結論です。つまり全宇宙は、最初から最後まで、ひとつの傑作としてまとまっています。それはちょうど、肉体が霊魂に依存しているように、宇宙は神に依存しているのです。

 神はあくまで全知にましまし、そのご配慮のもとに、個々全体を維持し、永久にひとつのものとして、まとめておられますが、それが保持 conservare です。宇宙はそのように造られています。神エホバについて言われたことも、それです。

  「かれは最初であって最後のもの、初めであって終わりのもの、アルパでありオメガである」 (イザヤ44・6、黙示1・8、17)。また他のところでは、

  「わたしは万物を造り、わたし自身の力で天をのべ、地をひらいた」(イザヤ4424)。

 宇宙と呼ばれているこの偉大な組織は、最初から最後まで、首尾一貫した傑作で、神はある一定の目的で創造されました。それは、人類から天使的な天界をつくることです。この世界を構成しているものは、ぜんぶその目的のための手段です。目的への願望は、その手段への願望で
もあるのです。

(2) したがって、この世界を、以上の目的達成のための手段をふくむ傑作として考えると、人は造られた宇宙が、一つのまとまった作品と思えるでしょうし、またこの世界は、人類が天使的天界に移りかわっていくための、役立ちの複合体であるということも分かるでしょう。神の愛がめざす目的は、ご自身の神性をとおして、人類に永遠の幸福をもたらすこと以外には、何もありません。そしてその目的達成の手段になる役立ちを提供することこそ、神の英知なのです。

 このように普遍的な観点から世界を眺めると、宇宙の創造者はおひとりで、その方の本質は、愛と英知であるということは、知恵のある人ならだれでもわかります。だから人間のために、すぐ役立つか、やがて役立つかはともかく、何かの益がかくされていないものは、何一つないのです。地上に生える果実であれ、動物であれ、食糧になるだけでなく、そこから衣類もつくれます。

(3) 目を見はることですが、カイコは、下等なムシでありながら、絹を織り、男女にすばらしい装いを与えます。それは王妃や王から始まって、下男下女にまでおよんでいます。ミツバチもまた、下等なムシですが、明かりのための蝋をあつめ、そのおかげで寺院や宮殿が映えてみえます。

 この世にあるもの一つ一つに、ある程度の関心をもっていても、万物を、〈目的〉・〈手段となる原因〉・〈結果〉をふくむ一連のものとして、普遍的な眼で考えてみない場合、人は創造を、神の愛に始まり、神の英知をとおして、眺めることがないから、宇宙がひとりの神の作品で、個々の役立ちのなかに、目的に応じて神が住んでおられることが、分からないと思います。目的にあるものは、すべて手段にもふくまれています。と言うのは、ありとあらゆる手段の内奥には、目的がひめられていて、その目的が、手段をはたらかせ、導いているのです。

(4) 宇宙を神の作品、〈神の愛と英知〉の住まいと思わず、自然がつくったもの、太陽の熱と光の住まいであると思っている人は、その精神の上層部が、神にたいして閉じられ、下層部が、悪魔にむかって開いています。だから、人間らしさを失って、獣性を身につけます。そして自分が動物と同類だと思うだけでなく、実際にそうなるのです。キツネのようにずるく、オオカミのように獰猛に、ヒョウのように下心があり、トラのように残酷で、その性格もワニ、ヘビ、ミミズク、フクロウのようになります。こうなると、霊界で遠くから見たかれらの姿は、以上のような獣そっくりです。かれらの悪を愛する心が、そのような〈かたち〉をとります。

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14 [Ⅶ]神をみとめない人は、教会から除名され excommunicatus 、罰せられる damnatus

 神をみとめない人の場合、教会から除名されますが、それは神こそ教会のすべてであり、教会は、神学 theologica と呼ばれる神聖なもの Divina によって成りたっているからです。だから神を否定することは、教会のすべてを否定することになります。それで除名とは、この否定を意味するもので、神が人を除名するのではなく、その人自身が、自分を除名することになります。人が罰せられるわけは、教会から除名されるからで、その結果、天界からも除名されてしまいます。

 地上の教会は、天上の天使社会と行動をともにしています。それはちょうど、人間の内部と外部のようなもの、霊と自然のようなものです。神は人を、その内部では霊の世界にあり、その外部では自然の世界にあるように、造られました。ということは、造られたものは、双方の世界にとって、それぞれ固有のものです。地中にタネが埋められるように、天界的存在ともいえる「霊 spirituale 」が、この世界的存在ともいえる「自然 naturale 」に植えつけられました。このようにして、人は永久に生きつづけるものとなりました。

(2) 神を否定し、教会との交流を絶った人の場合、天界からも離れ、しかも本人の意志の面、つまりふくよかな愛の面で、内部人間 internus homo を閉鎖してしまいます。人間の意志は、本人の愛の器であり、愛の住まいでもあるからです。

 ただし理性の面で、内部人間を閉鎖してしまうことはありません。理性の面で閉じてしまうと、人間はもう人間ではなくなるからです。それにたいし、本人がもっている意志の愛は、理性の上層部をいろいろの偽りで惑わします。その結果、理性は〈信仰の真理〉と〈愛の善〉の面で、閉じてしまいます。

 そうなると、だんだん神に、はむかうようになり、教会のもつ霊性に反感をもち、天界の天使との交流も断たれ、それと同時に、地獄のサタンたちと交流をもちはじめ、かれらと同じことを考えるようになります。サタンたちは、みんな神を否定し、神についても教会の霊性についても、とんでもないことを考えるようになりますが、サタンに結びついた人間もおなじです。

(3) こうなると、人は霊そのものとして、自分の中に閉じこもって、心に芽生えそだった〈悪や偽り〉のたのしみにひかれて、いろいろ考えるようになります。

 「神など存在しない。ただただ、説教壇からむなしくひびく声にすぎない。つまりは、社会正義にもとづく法律にしたがわせようと、民衆をひきつけるためのものなのだ」とか。また、

 「牧師は〈みことば〉をネタに神についてがなり立てている。これも幻想か作り話で、神がかっているが、みんな権威当局のやっていることだ。十戒や教理要綱なども、幼少時代が終われば、捨ててしまっていい。両親をうやまえ、殺すな、姦淫するな、盗むな、ウソの証言をするな、などと戒律をもちだしているが、そんなことはだれでも、法律で知っていることではないか」とか。また、

 「教会は、無学で単純な人間のあつまりで、見えないものが見えると言いはる鵜呑み信者や、小心な連中があつまるところではないか。人間は、自分もふくめて、動物と変わらず、死んだあとは、動物とおなじ運命をたどるものだ」と。

(4) 外部人間 externus homo はそうでないにしても、もし内部人間 internus homo が以上のように考えたらどうでしょう。前述したように、人間には内部と外部があって、内部こそ人間の本質をなし、「霊 spiritus 」と呼ばれ、死んだあとも生きつづけます。外部のほうは、道徳的にどんなに立派にみえても、埋葬されます。内部は、神を否定した場合には、その結果、罪せられることdamnatus になります。

 人間はみんな、霊界では霊として、自分と同類の社会につらなっていき、かれらと合流します。わたしは今まで、何回も、人が霊の社会で、霊として依然として生きているのを目撃しました。そのうちの、ある者は天使の社会に、ある者は地獄の社会にいます。何日間もかれらとコトバをかわし、わたし自身不審に思ったことですが、人は肉体のうちに生活しているあいだ、どうしてこのことに、全く気づかなかったか、ということです。

 以上で分かったことですが、神を否定する者は、すでに罰せられた者たちの仲間いりをしており、それが死んだのちになって、同類のところへ集まってくるということです。

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15 ]ひとりの神でなく、多数の神をみとめている人は、教会とは関係がない

 ひとりの神を信じ、心のなかであがめている人は、地上では聖徒のまじわり communio sanctorum をもち、天界では天使たちとのまじわりのうちにあります。

 ここで「まじわり」と言いましたが、かれらはみんな、ひとりの神のうちにあり、ひとりの神が、かれらのうちに、ましますからです。かれらはまた、天使のいる全天界とむすばれています。それは、あえて言うなら、天界の天使ひとりひとり、しかも全天使とむすばれています。そこではみんな、ひとりの父から生まれた子供や子孫のようで、その気持ちも、暮らしかたも、顔つきも似ていて、そこからおたがいに見わけがつきます。

 天使のいる天界は、〈善への愛〉からくる性格のちがいから、いろいろな社会に組みいれられています。このような多様性があっても、神のうちにあって、最も普遍的なひとつの愛に、目標をおいています。そしてこの愛あってこそ、全宇宙の創造主、あがない主、再生の主として、唯一の神を信仰し、心のなかであがめていく人が、ふえてきているのです。

(2) しかし、唯一の神でなく、多神にぬかずき崇める者の場合はちがいます。また口では唯一をとなえながら、内心では三位を考えている人の場合もそうです。それは現在の教会にあることですが、神を三つの位格 Tres Personae にわけて考え、そのおひとりおひとりが、それ自身神であると宣言し、それぞれに、ちがう性格と属性を付与しています。ここで神の独一性が、実際上バラバラにされるだけでなく、神学上もそうなってしまい、その神学をうけいれる人の心まで、そうなってくるのです。 教会にかんすることがらが、これによって、混乱と不一致を免れるはずはありません。現在の教会の状態がこんなふうになってしまったことについては、本書の付録で述べます。神または神の本質を三つの位格にわけ、それぞれの位格が神であるとすることは、やがて神の否定にまでつながっていくことは、事実なのです。

 礼拝堂のなかに、拝むためにやってきた人がいるとします。祭壇のうえには、神々の最長老ともいえるひとりの神がましまし、もうひとりは大祭司の姿で、もうひとりは、ただよう風の神 Aeolus の姿で描かれた画像があり、それに「この三位はひとりの神にまします Hi tres sunt unus Deus 」としるされています。そこに神の三一性が描かれていると思うかもしれませんが、それはひとつの胴体に三つの頭がある人間、またはひとつの頭に三つの胴体がある人間のようで、これではまるで怪物です。こんなふうに考えて、天界に入っていったとするとどうでしょう。たとえ頭は本質、胴体はそれぞれちがった属性のことだといっても、まっさかさまに投げ出されてしまう以外にはありません。