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真のキリスト教

神の全能・全知・遍在 Omnipraesentia

49-70節


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49・ 〈神の愛〉と〈神の英知〉については、この二つが、神の本質であることが分かりました。そしていま、神の全能 Omnipotentia 、全知 Omniscientia 、遍在 Omnipraesentia について述べることにします。

 この三つは、〈神の愛〉と〈神の英知〉から出るもので、この世の太陽の熱と光が、個々万物のうちに、エネルギーと現存を提供しているのに似ています。霊界の太陽の場合、その中心にエホバなる神がいますが、その熱の本質は、神の愛、その光の本質は、神の英知です。

 ここではっきりすることは、無限・無辺・永遠が、神の存在に属しているように、全能・全知・遍在は、神の本質に属していることです。ただしこの三つが神の本質の普遍的な属性 praedicationes であることは、今まで理解されていませんでした。というのは、秩序の法則としての過程を経て、その属性も、よりはっきりしてくるわけです。だからこそ、次の各節をとおして、以上に光をあてていきたいと思います。

[Ⅰ] 全能・全知・遍在は、〈神の愛〉からくる〈神の英知〉のあらわれである。

[Ⅱ] 秩序 Ordo が何か分からないなら、全能・全知・遍在は分からない。神こそ秩序であり、創造と同時に、宇宙とそこにある個々全体に、秩序をあたえられた方である。

[Ⅲ] 神の全能は、宇宙とそこにある個々全体にわたり、神の秩序の法則にしたがって働いておられる。

[Ⅳ] 神は全知にまします。つまり個々全体をその細微にいたるまで感じとり、見きわめ、知りつくされる。それは秩序にしたがって動くものだけでなく、秩序に反して動くものにたいしてもそうである。

[Ⅴ] 神の遍在は、みずからの秩序にある最初のものから、最後のものにいたるまで及んでいる。

[Ⅵ] 人間は神の秩序の〈かたち
forma〉として造られている。

[Ⅶ] 人間は神の全能によって、はじめて悪と偽りに対抗する力がつく。それはまた神の全知によって、善と真理を味わうこと、神の遍在によって、神のうちにあることで、それもいずれは、神の秩序にしたがって生きることから始まる

 以上について、それぞれ説明していくことにします。

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50 [Ⅰ]全能・全知・遍在は、〈神の愛〉からくる〈神の英知〉のあらわれである

 全能・全知・遍在は、〈神の愛〉からくる〈神の英知〉のあらわれですが、〈神の英知〉を媒介とする〈神の愛〉のあらわれではありません。これはどんな理性にも知らされていない天界の秘義です。というのは、今までだれも、愛の本質が何か、英知の本質が何かを、知っている人はいませんでしたし、愛と英知の相互流入については、なおさらです。

 ということは、愛は、その個々全体の性格もろとも、英知のなかに浸透し、英知のなかでは、一国の君主のように、また一家の主人のように支配権をもち、正義にかんする統治はすべて、愛の裁量にゆだねられています。正義 justitia は愛に属するもの、公平 judicium は英知に属するものであってみれば、愛の統治はすべてその英知にゆだねられることになります。

 ただし、このような秘義は、後で明らかにされることですから、とりあえずは目安として保留しておきましょう。神が全能・全知・遍在であることは、ご自身の愛からくる英知によることで、ヨハネによる福音書にも述べられています、

  「初めに〈ことば〉があった。〈ことば〉は神とともにあった。〈ことば〉は神であった。・・・すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものは  なかった。この〈ことば〉に〈いのち〉があった。そしてこの〈いのち〉は人の光であった。・・・世はかれによってできた。・・・そして〈ことば〉は肉体となった」(ヨハネ1・1、3、4、1014)。

 ここで〈ことば〉と言っているのは〈神の真理〉のこと、ひいては〈神の英知〉のことです。だから、〈いのち〉とか光とか言われています。〈いのち〉や光は、英知以外の何ものでもありません。

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51・ 〈みことば〉では、愛は正義であり、英知は公平であると言っています。神のこの世での統治も、この二つによってなされますが、それには次の箇所を引用します。

「主よ、正義と公平はあなたのみくらの基です」(詩8914

「誇る者はこれを誇りとせよ。・・・わたしは主であって、地に・・・公平と正義を行っている者である」(エレミヤ9・24)。

「主は高くいらせられる。・・・主はシオンに、公平と正義を満たされる」(イザヤ33・5)。「公平を水のように、正義をつきない川のように流れさせよ」(アモス5・24)。

「主よ、あなたの正義は神の山のごとく、あなたの公平は大きな淵のようだ」(詩36・6)。

「主よ、あなたの正義を光のように明らかにし、あなたの公平を真昼のように明らかにされる」(詩37・6)。

「主よ、かれは正義をもってあなたの民をさばき、公平をもってあなたの貧しい者をさばくように」(詩72・2)。

「わたしは、あなたの正義の公平をまなぶとき・・・あなたの正義の公平のために、一日に七たびあなたをほめたたえます」(詩119・7、164)。

「正義と公平をもって、あなたとちぎりを結ぶ」(ホセア2・19)。

「シオンは公平をもってあがなわれ、・・・正義をもってあがなわれる」(イザヤ1・27)。

「ダビデの位に座して、その国を治め、・・・公平と正義をもってこれを保たれる」(イザヤ9・7)。

「わたしがダビデのために一つの正しい枝を起こす日がくる。かれは王となって世を治め、・・・公平と正義を世に行う」(エレミヤ23・5)。

 他の箇所でも、正義と公平を教えています。たとえば、(イザヤ1・21、5・1658・2、エレミヤ4・2、22・3、1315、エゼキエル18・5、33141619、アモス6・12、ミカ7・9、申命3321、ヨハネ16・8、1011)。

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52 [Ⅱ]秩序が何か分からないなら、全能・全知・遍在は分からない。神こそ秩序であり、創造と同時に、宇宙とそこにある個々全体に、秩序をあたえられた方である

 神は、宇宙とそこにある個々全体を、秩序をもって創造なさいました。ところが、その秩序が分からないのは、人間の精神のなか、とくに宗教改革者の頭脳をとおして教会のなかに、いろいろ愚かな考えが入ってきたからです。それは、これから述べていくことで、すぐ明白になるでしょう。

 とりあえず、ごく一般的な定義づけで、秩序とは何かを明らかにしますと、「秩序とは、各部分々々、または形相をなす実体または存在者が、配列・確定・活動をなしていくときの性格のことです。またそれは、ある状態のことで、その状態を完成にみちびくのは愛からくる英知であり、その状態を不完全にするものは、欲情からくる理性の狂気です」。

 以上の定義づけで、実体 substantia 、形相 forma 、状態 status と名づけましたが、どんな実体にも形相がありますから、実体というと形相を意味します。また形相の性格はその状態でもあります。状態の完全・不完全は、秩序から出てくる結果でもあります。しかしこのようなことは形而上的で、はっきりしないことでもあるので、これからあと、例をあげて説明していくつもりです。

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53・ 神は秩序です。実体そのものである神は、形相そのものでもあるからです。実体そのものであるといったのは、実在し存続するものは、すべてその実体を源とするからです。また形相そのものであるといったのは、あらゆる実体の性格は、その形相を源とするからで、その形相から性格が生じます。

 さて、神は唯一で最初の〈実体そのもの〉、〈形相そのもの〉であるとともに、〈唯一の愛そのもの〉、〈唯一の英知そのもの〉です。というのは、英知は愛から出て形相を構成し、その状態と性格は、そこに内在する秩序にもとづくものだからです。それで、神は秩序そのものであるということになります。

 言い換えれば、神は宇宙と、そこにある個々全体に、ご自身を源として、秩序を導入されたことです。また創世記にもあるように、造られたものはみな善ですから、その秩序は、最高に完全なものでした。

 創造ののち出てきた悪と地獄については、その箇所で述べることにします。いずれにせよ、比較的理解しやすく、はっきり説明できるものからにしましょう。その方が気楽です。

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54・ 宇宙が造られたときの秩序がどんなふうであるかは、何ページにもわたって述べていかなくてはなりません。いずれ「宇宙の創造」の箇所で素描していくつもりです。ただ分かっていただきたいことは、宇宙にある個々全体が、それ自身として存続するためには、それぞれのもつ秩序に組みこまれて造られていることです。しかも個々の秩序は、全体の秩序のなかで、一つのまとまった働きをしていくために、宇宙全体の秩序と、初めから結びついているということです。

 それについて、例をあげてみましょう。人間は、人間固有の秩序にもとづいて造られています。しかも人間にある個々のものは、それなりの秩序をもっています。頭には頭の秩序、胴体には胴体の秩序があります。心臓、肺臓、肝臓、膵臓、胃それぞれに秩序があります。筋肉と言われている運動器官にもそれなりの秩序があり、感覚器官つまり眼、耳、舌にはみんなそれなりの秩序があります。小動脈や内臓にも、秩序のないものはありません。いずれにせよ、このように数知れない部分々々が、全体とむすびつき、全体と行動をともにするように、おたがいに連なっています。

 他の場合をもってきても同じことです。それは列挙してみるだけで十分でしょう。地上に生息するケモノ、空を飛ぶトリ、海中にいるサカナ、爬虫類、それにアブラムシなどを含めるムシ類も、みんな秩序をもって造られています。樹木・果樹・苗木・野菜にもみんな秩序があります。それに、岩石・鉱物にも、地を舞うホコリを含め、みんな秩序をもっています。

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55・ 帝国、王国、領主国家を問わず、また共和制の国にしても、都市国家にしても、家族・国体にしても、みんな秩序をつくりあげており、統治形体をきめる法律があって維持できます。その個々の法律のなかでも、第一の位置を占めるものは正義、第二は政治に関する法律、第三は経済に関する法律です。これを人間にたとえれば、正義にかんする法は頭部、政治にかんするものは胴体、経済にかんするものは衣服です。経済にかんする法律は、衣服のように替えていくことができます。

 神がおたてになった〈教会の秩序〉についていうと、神は個々全体のうちにましまし、その秩序は隣人にたいして及んでいかなくてはなりません。この種の秩序にかんする法則は、〈みことば〉のなかにある真理の数だけあります。神を仰ぐための法則は、秩序の頭部であり、隣人を見るための法則は、秩序の胴体で、儀式は衣服です。法則の中には、儀式にかんするものがありますが、それが秩序の中にないとすると、衣服をつけず、はだかのまま、夏季の暑さと、冬季の寒さにさらされます。それはまた、神殿から、壁や天上が、はずされてしまうようなもので、そうなると、至聖所、祭壇、講壇、などが、風雨にさらされることになります。

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56 [Ⅲ]神の全能は、宇宙とそこにある個々全体にわたり、神の秩序の法則にしたがって働いておられる

 神が全能であるとは、みずからの力で何でもお出来になること、他のものはすべて、神ご自身から出ているということです。神ご自身の能力と意志は一つです。神は善しか意志されませんし、善しか行う能力がありません。霊界では、だれも自分の意志に反して何かを行うことはありません。行うことは神からきていますが、神が可能であることと、意志されていることは、一つです。

 神はまた〈善そのもの〉です。だから、善を行われるときは、みずからのうちにましまし、ご自身から外へ出てしまうことは、ありえません。したがって、神の全能は、善の波及性がもつ限りない霊気 sphaera のうちで進み、動いておられるということが、はっきりします。つまりその霊気は、宇宙とそこにある個々全体を、内奥から満たし、それらのものが自分の秩序にあって動いているかぎり、その内部から外部まで、コントロールなさいます。

 また、たとえ秩序にあわなくても、神はそれらのものを支えておられますが、全面的な努力をもって、普遍の調和と秩序のうちに戻されようとされます。実はその秩序のなかでこそ、神ご自身は、その全能のみ力を発揮されます。そして、その秩序をとおして働かれます。それがうまくいかない場合、ご自身のなかから外へ放逐されますが、それでも神は、そのようなものを内奥から支えておられます。 以上のことからはっきりしますが、神の全能は、ご自身から何かを切りはなして、ある種の悪をそれにおし込めるとか、悪の増長をうながされるようなことは、決してできません。悪はみずから離れていきます。だから悪というものは、神から完全に切り離され、地獄に落ちこみます。神のいます天界と、地獄とのあいだには、とほうもなく大きな間隙があるのです。

 以上のわずかな説明でも、神が人を断罪したり、呪ったり、地獄に投げ込んだり、ある魂を永遠の死に予定宣告したり、不正にたいして復讐したり、怒りを燃やしたり、罰を加えたりすると、考え、信じ、教えている人の狂気のほどが、察せられます。神が人をご自身から遠ざけられたり、厳しい目つきでにらまれるなど、ありえないことです。そのようなことは、神の本質に反します。神の本質に反するとは、神ご自身に反することです。

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57・ 神の全能というと、この世の専制君主の絶対的権力だと思う考えが、現在では大勢をしめています。神は欲することは何でも好きなように出来、お好みにしたがって、罪をゆるしたり、罪の判決を下したり、犯罪人を無罪にしたり、不信心な者を信仰者にしたり、不適格者や価値のない者を、適任者・功労者にしたり、口実が何であれ、ご自分の配下にある者の善をうばいとり、死を宣告されたりするなど、その他いろいろお出来だと考えます。神の全能について、このようなバカ気た俗説・信仰・教義がもとで、信仰にかんして何か事件の発表や時代の変遷があるたびに、教会のなかに、謬説、虚為、奇説が侵入してきました。それはちょうど、水瓶のなかを大湖の水で満たし、洞穴から出たヘビが、アラビヤの砂漠で日なたぼっこをするほど、奇妙なことなのです。

 「全能」というコトバと「信仰」というコトバ二つをとってみると、俗世では、それが肉体的感覚を刺激するときのように、迷妄、作り話、夢物語をでっちあげることになるのでしょうか。この二つのコトバから理性的判断をとり去ったらどうでしょう。理性がなかったら、人間の思考など、頭上をとぶトリのそれとちがいません。そうなると、人間がケモノにまさる霊性など、あるでしょうか。野獣の住みかで、ケモノやケモノ的人間には快くにおってくる臭気と、ちがいありません。神の全能が、善をなすだけでなく、悪をなすことにも適用されるとすると、神と悪魔には、何のちがいもありません。

 二人の君主がいて、ひとりは横暴な君主、もうひとりは、権力に制限をつけられ、王の名に値しない暴君だったとしたら、その二人にはなんの差もありません。また羊を飼いつつ羊を虐待する羊飼と、ただただ羊を虐待する羊飼とのあいだにも、差はありません。

 善と悪がたがいに反対であることは、だれもが知っています。それがもし神が全能のみ力によって、善も悪も意志され、意志されたことを実行できるとしたら、実際は何もお出来にならないことになります。神にはみ力など何もなく、全能などもっての外です。それはちょうど、二つの車輪がおたがいに逆にまわっているようなもので、そうなると二つとも前へ進まず、静止しているのと全く同じです。また舟が潮流にさからって進もうとしても、錨を下ろして流されないようにしなくては、波に巻きこまれて沈没してしまうでしょう。相反する二つの意志をもつ人間がいて、一方の意志を行っているときは、他方は当然じっとしているわけですが、もし二つを同時に行うなら、めまいがし、精神に異常をきたすことになるのと同じです。

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58・ 神の全能というと、現代では善きにつけ悪しきにつけ、思し召しで、何でもできるような絶対的なものと考えているようです。もしそれが本当なら、神にとって、全地獄を天界にひきあげ、悪魔やサタンを天使に変え、この地上にいる悪党をひとり残らず罪からきよめ、改心させ、聖化し、再生させ、怒りの子から恵みの子に、いわゆる義化 justificare することができることになります。これこそただ、神のみ子の〈義のおかげ〉だということになるでしょう。ところが、神はその全能によっても、そんなことがおできになるはずはありません。なぜなら、それは宇宙における神的秩序の法則に反することになるし、人間ひとりひとりに与えられている秩序の法則にも反することになります。この二つの法則は、おたがいしっかりと結びついています。それについては、また続章で述べることにします。

 神の全能ということについて、以上のような愚かな説や信仰がもとで、人は次のように考えるようになります。つまり神は牡ヤギ的人間をヒツジ的人間に変身させ、ご自分の左側にいた者を、気がむくまま右側に置き、また好みによってはドラゴンの霊を、ミカエルの天使にし、モグラのような知性しかない者に、ワシの視力をあたえ、一口で言って、フクロウ的人間を、ハト的な人間に、なさることがおできだということです。

 このようなことは、神の秩序の法則に反するから、不可能です。もっとも神は、そのようになさりたいと絶えず努力はしておられます。しかし、もし以上のようなことがおできだったら、アダムにたいし、ヘビの声に耳を傾けないよう、善悪を知る木からとって食べないよう、その実を口にしないように、なさったはずです。もし以上のことがおできでだったら、カインがその弟を殺すこと、ダビデが民の数を数えること、ソロモンが偶像の宮を建てること、ユダとイスラエルの王が、神殿を何回も冒涜することを、おゆるしにならなかったはずです。またもしそれがおできだったら、み子のあがないによって、全人類をひとり残らず救われ、地獄などは、ことごとく廃絶なさったはずです。

 古代の異教徒たちには、自分たちの男神や女神に、こんなふうな大能があると信じ、背後に投げた石が人間になったというようなデューカリオンや、ピラのおとぎ話が起こりました。アポロはダフネを月桂樹に変え、ダイアナは狩人をシカに変え、ある神々は、パルナッソスの娘たちを、カササギに変えたのです。神の全能について、このように誤った信仰が、今日この世に流布していますが、そのためでしょう。こんなにも多くの迷信が生まれ、宗教のある土地には、どこでも異端邪説がはびこっています。


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59[Ⅳ]神は全知にまします。つまり個々全体をその細微にいたるまで感じとり、見きわめ、知りつくされる。それは秩序にしたがって動くものだけでなく、秩序に反して動くものにたいしてもそうである

 神が全知であること、つまり万事を感じとり、見きわめ、知りつくされるということは、神が〈英知そのもの〉、〈光そのもの〉だからです。〈英知そのもの〉は万事を感じとり、〈光そのもの〉は万事を見極めます。神が〈英知そのもの〉であることは、前述したとおりです。神が〈光そのもの〉なのは、ありとあらゆる天使と人間の理性を照らす〈天使的天界の太陽〉だからです。それはちょうど、肉眼が自然の太陽の光で照らされて、初めて働くように、理性は〈霊の太陽の光〉で照らされて働くものです。ただ照らされるだけでなく、光を愛する思いに応じて、理知で満たされます。というのも、その光の本質は英知に他ならないからです。

 だから、ダビデも「神は、近づきがたい光のうちに住みたもう」と言っており(詩104・2、テモテ6・16参照)、黙示録には、「新しいエルサレムでは、日や月がそれを照らす必要がない。主なる神がかれらを照らしている」(黙示2123)とあり、ヨハネは「〈みことば〉は神とともにあった。そして神であった。すべての人を照らすまことの光があって、世にきた」(ヨハネ1・1、9)と記しています。〈みことば〉とは神の英知のことです。そして、天使たちは英知のうちにいる程度に応じて、光の輝きを身に帯びます。〈みことば〉のなかで「光」というときは、英知のことを言っています。

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60・ 神は、秩序にしたがって動く細微なものにいたるまで、万物を感知し、見きわめ、知りつくしておられます。というのは、この秩序は、個々単独なものからなっていて、しかも普遍的なものです。単独のものをひとまとめにすると普遍になり、個別のものをひとまとめにすると、共通なものになります。単独のものからなって一つになった普遍的なものは、首尾一貫した作品で、それが一つのものとして感じとられるのは、ある種の意味が、全体にしみわたっているからにほかなりません。

 この世の被造物にはみんなこのような性格があるのは、宇宙の秩序には、このような性格があるからです。ただしこれを、見えるものをとおして得られる例で示してみましょう。人間全体には、共通のものと個別的なものがあり、共通のものは、個別的なものを包みこみ、おたがいに、もちつもたれつのつながりで、同調しています。つまり、包含する共通の要因が、肢体ぜんぶをめぐっており、それが内部にあるひとつひとつの部分にまで浸透して、それぞれの機能と役立ちをとおして、行動をひとつにしています。

 例えば、ある筋肉をおおっている被膜は、個々の運動繊維のなかに入りこみ、それを包みこんでいます。それは肝臓・膵臓・脾臓でもおなじで、その被膜は内部にある個々の部分に入りこんでおり、肋膜といわれている肺臓の被膜も、おなじように、その内部に入りこんでいます。それはまた、心膜もそうで、心臓の個々の部分と全体にはいっています。そしてあらゆる内臓の被膜は、接合部をとおして腹膜と、共通につながっています。

 大脳の脳膜もおなじです。そこから出てくる細い糸線をつたって、あらゆる方向に分かれた腺に入っていきますが、それをとおってあらゆる繊維に入り、またそれを通じて、人体のあらゆる部分に入ります。このようにして、頭脳は大脳をつかって、従属する個々全体にくまなく支配権をふるいます。 このように申しあげるのも、つまりは神が秩序にしたがって生起するものについては、すべて細微にいたるまで感知し、見きわめ、知りつくしておられることを、見えるものをとおして、ある程度分かっていただくために他なりません。

61・ 神は秩序に従うものから出発して、秩序に逆らうものにたいしても、その個々全体を細微にいたるまで感じとり、知りつくし、見極めておられます。その理由は、神は人間を悪のうちに放置されているのではなく、人間を悪から、引き離そうはなそうとされているからです。悪にある人間を導いておられるのでなく、戦っておられます。そこには、悪と偽りの永久に続く反発・反意・反抗・抵抗・反動などが、〈みずからの善と真理〉に対抗してなされ、また、〈神おんみずから〉にたいしてもなされる結果、そこにあるすべての大きさと性格とを感じとられています。

 とりもなおさず、神はみずからの秩序にもとづく個々全体のすべてに、くまなく遍在しておられ、そのひとつひとつを、全部ご存じであることから分かります。それはちょうど、協和音とハーモニーのひびくなかで、何か不協和音や調子はずれが耳に入ってくると、その大小や性格が、はっきりとキャッチできるのと似ています。

 それはまた、愉快になっているとき、不愉快な感情が侵入してくるときも同じです。あるいはまた、形のととのった美しいものを見ているとき、脇から醜いものが姿を出したときもそうです。だから絵書きは、よく美人のそばに醜い人の顔を描きます。

 善や真理についても、それが悪や偽りの反抗にでくわすとき、すぐはっきりと感知されます。善のうちにある人は、みんな悪を感じとることができ、真理のうちにある人は、偽りを見ることができます。それというのも、善は天界の熱のうちにあり、真理は天界の光のうちにあるのにたいし、悪は地獄の寒さ、偽りは地獄の暗闇のうちにあるからです。

さらに説明を加えると、天界の天使たちは、地獄で何がおこなわれ、それがどれほど奇怪きわまるものであるかを、見とおすことができるのにたいし、地獄の霊たちは、天界で何が行われているか、また天使たちのことについては、目の不自由な人以上に、あるいは空漠とした大気やエーテルを眺め見る肉眼以上に、全く何も見えないのです。

 理性が英知からくる光のうちにある人の場合、昼間山上に立って、眼下にひろがるものを手にとるように見る人に似ています。それがもっと優れた光のうちにある場合、眼下にひろがるものを、すぐ眼前にあるように、望遠鏡で見ている人に似ています。謬説を正しいと思い込み、地獄の光のうちにある人の場合は、手に明かりをもって、夜中に山上に立っている人のようです。すぐそばにあるものしか見えず、しかも形も色もぼんやりしています。

 ある種の真理の光のうちにありながら、悪い生活をして、自分の悪からくる愛をたのしんでいる者は、初めは、ちょうど庭にひっかけてある布きれに向かって、自分の逃げ場をもとめて飛びこむコウモリのようにしか見えませんが、やがてフクロウのようになり、ついにはミミズクのようになります。それはちょうど、暖炉のススにまみれた煙突掃除夫のようで、目を上にあげると煙をとおして空が見えますが、下を見ると、煙のあがってくる炉しか目に入りません。

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62・ よく知っておいていただきたいことは、対立するものを感じとるのと、関連するものを感じとるのは、違うということです。対立するものは外側にあって、内部にあるものに対抗します。対立するものが起こるのは、ある一つのものが、そのあり方を全くとりやめて、それとちがったものが起こり、以前のものに対抗する力が働くときです。それはちょうど、一つの車輪が、もう一つの車輪とちがった方向にまわったり、川の流れが、一方で逆流するときのようです。それにたいして、関連するものとは、数多くの多岐にわたるものが、一定の秩序で合流して調和するときの配列から生まれます。それは女王の胸にある各種各様の色彩をもつ宝石のようでもあり、目を楽しませるために編んだ多色の花輪のようです。

 だから関連するものは、対立するそれぞれの側に存在します。善にも悪にもあり、また真理にも偽りにもあり、また天界にも地獄にもあります。ところが、地獄にあって関連するものは、天界にあって関連するものと、ことごとく対立しています。神はご自身のまします秩序から出発して、天界にあるすべての関連するものを感知し、見きわめ、認識されます。だからこそ、地獄にある関連するもの全部を、対抗するものとして感知し、見きわめ、認識しておられるのです。

 以上のことから、神は地獄にかんしても、天界にかんすると同じように、またこの世の人間にかんすると同じように全知であられることが分かります。ご自身がまします善と真理を出発点として、悪と偽りを感知し、見とおし、認識しておられるのです。その善と真理の本質は、ご自身のことです。というのは、

  「わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます」(詩139・8)とあり、また、

  「たといかれらは、陰府に掘り下っても、わたしの手は、これをそこから引き出す」(アモス9・2、3)とあるからです。

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63[Ⅴ]神の遍在は、みずからの秩序にある最初のものから、最高のものにいたるまで及んでいる


 神は、ご自身の秩序にある最初のものから最後のものにいたるまで、あまねく臨在しておられます。それは、みずからその中央にまします〈霊界の太陽〉からくる熱と光によります。この太陽によって、世界の秩序ができ、その太陽から熱と光が発出し、その熱と光が、宇宙の最初のものから最後のものにいたるまで浸透し、〈いのち〉を生みだしてきました。その〈いのち〉こそ、人間の〈いのち〉であり、動物の〈いのち〉であり、地上のあらゆる種類のタネに内在する植物の〈いのち〉です。この熱と光は、万物とその固体のなかに染みとおり、創造と同時に賦与された秩序にしたがって、実体のひとつひとつの生育と成長を助けます。

 神には延長がありませんが、宇宙のひろがりにあまねく行きわたっていますから、遍在しておられます。神は、空間を越えつつあらゆる空間のうちにあり、時間を越えながらも、あらゆる時間のうちにあります。だからこそ宇宙は、その本質と秩序の面から見て、〈神の充満 plenitudo Dei〉であることは、前述したとおりです。したがって神は、その遍在をとおして万物を感知し、その全知をとおして万物を予見し、その全能をとおして、万物を動かしておられます。以上で、遍在と全知と全能はひとつになっていることが分かります。つまり、それぞれが他を前提としているので、おたがい分離できない関係にあります。

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64・ 神の遍在は、天使や霊が、驚嘆するような仕方で現存することからも説明できます。この世には空間はなく、ただ見かけ上の空間 apparentia spatii しかないからこそ、天使や霊は、一瞬で他の者にあらわれたり、愛からくる類似の情愛とかそのような思考のなかに入ります。というのは、情愛と思考こそ、空間のような外見をつくっているのです。

 霊界では、みんなこのような現れ方をしているのが、わたしにははっきりしました。それは、地上で何千キロと離れていながら、アフリカ人やインド人を身近に見ることができたからです。さらに、この地球以外の惑星にいる者や、この太陽系以外の惑星にいる者にも現れることができました。このような現存は、場所によるものではなく、見かけ上の場所によるのもです。それで使徒たちと話ができたし、故人となった教皇、皇帝、王候とも話しあいました。それに、現代教会の改革者であるルター、カルヴィン、メランヒトンだけでなく、分離した地域出身の人たちとも話しました。

 天使や霊たちに、このような現れ方があるとすれば、宇宙にあって、限りない神の臨在は、どれほどでしょう。天使や霊にこのような現存のし方があるわけは、愛からくる情愛と理性からくる思考のすべてには、空間を越えた空間、時間を越えた時間が備わっているためです。兄弟や親戚や友人について考えるとき、たとえインドにいても、自分のそばにいるかのように思えるし、また思い出をとおして、かれらへの愛に感動することもあるのです。神の遍在については、人にも分かることから、以上のように何かと説明できます。また人間の思考力をとおしても、ある人が各地を遍歴して、それを思い出すとき、自分がその場にいるかのように、思えることで、納得できます。

 それに、肉眼の視力にも、そのような現存に似たものがあります。視力は、ただ可測的な媒体をとおしてしか、距離が分かりません。もし媒体もなく、その距離の遠さをはっきり意識させないとすれば、太陽さえ肉眼のすぐそば、いや眼の中にさえあるように思えます。以上は、光学にかんする書物にも書かれています。このような現れ方は、人間の理性と肉体両方の視力によりますが、それは人間の霊が、その肉眼をとおして見ているからです。動物には霊の視力というものがないから、そのようにはいきません。このようにして、神はその秩序の最初のものから最後のものにいたるまで、遍在しておられることが分かり地獄にも遍在しておられることについては、前節で述べたとおりです。


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65[Ⅵ]人間は、神の秩序の〈かたち forma〉として造られている

人間が神の秩序の〈かたち〉として造られているわけは、人間が、神の像・似姿として造られているからだけでなく、神が秩序そのものであって、人間はその秩序の像であり、似姿として造られているところからきています。秩序が存在するための由来であるとともに、秩序の存続に必要なものとして、〈神の愛〉と〈神の英知〉の二つがあります。人間は、神の愛と英知の器ですから、神の愛と英知が、宇宙のなかで作用する秩序に準じて造られています。その秩序は、まず第一に天使のいる天界のなかで、働いています。だから全天界は、神の秩序の〈かたち〉としては、最もそれに似つかわしいもので、その結果、全天界は、神のおん目には「ひとりの人間 unus Homo」として映っています。 ここに、天界と人間とのあいだには、完璧な相応があります。天界には、人間にある肢体・内臓・器官にたいし、相応の関係をもっていない社会はありません。したがって天界では、この社会は肝臓の領域であるとか、膵臓の領域であるとか、脾臓の領域であるとか、胃の領域であるとか、眼の領域、耳の領域、舌の領域、その他の領域であると言われています。天使たちは自分が人間のどの部分に該当するかを知っています。だからこそ、わたしは生きた体験で教わりました。わたしには、何千という天使からなっている社会が、ひとりの人間に見えたのです。ここではっきりしたことは、天界はその全貌からすると神の像であり、神の像は、神の秩序の〈かたち〉であるということです。

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66・ 霊界の太陽は、神エホバがその中心ですが、そこから発するありとあらゆるものは、ひとりの人間を映し出していることは、知っておく必要があります。霊界に存在するものは、すべて人間の〈かたち〉になるよう、たがいに助けあい、その内奥でその〈かたち〉を示しています。だから霊界で目に入ってくるものは、どんな対象物であっても、人間を表象しています。 霊界でもあらゆる種類の動物が見えますが、これは天使たちの〈愛からくる情愛〉と、〈それに由来する思考の化身 similitudines〉です。樹木でも花でも草原でもみんなそうです。そしてわたしは、あれやこれやの対象物がどんな情愛を表わしているか教わりました。そして驚いたことには、内部の視力がひらかれると、対象物のなかに、自分自身のイメージをみとめるようになります。ということは、人間の全体は各自の愛であり、それからくる思考に他なりません。各人に備わっている情愛と、そこからでる思考は多種多様で、そのなかの、あるものはこの動物、他のものはあの動物の情愛に、相当しています。だからこそ、いろいろの人の情愛のイメージが、このように現れてくるのです。

ただしこれについては、次の「宇宙の創造について」の節で、いろいろ述べることにします。以上のことから、創造の目的は、人類から天使の社会が生まれるという真理がはっきりします。つまり神が、ご自分の住まいとして宿ることができるような人間が、生まれることです。したがって、これこそ人間が、神の秩序の〈かたち〉として造られている根拠なのです。


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67・ 創造以前の神は、愛そのもの、英知そのものでした。そしてこの二つは、役立ちを構成していく力です。愛も英知も、役立ちがなかったら、飛び去っていく理性でしかありませんし、役立ちを果たさないなら、消えていきます。愛と英知が役立ちから切りはなされると、大洋を飛び越えようとしたトリが、途中で疲れ切って、墜落して沈んでしまうようです。

 神によって造られた宇宙は、役立ちを果たすためにあることが、ここで明らかになります。だから宇宙は、「役立ちの演劇場」と言われます。そして、創造の主目的は人間ですから、固体をふくめた万物は人間のためです。したがって、秩序にもとづく個々全体は、人間をとおして、第一義の役立ちをはたすため、神が集められたもので、そこには人間が中心におかれています。

 役立ちのない愛と英知は、太陽の熱と光に比べるとどうでしょう。もし人間とか動物とか植物に働きかけないなら、熱も光もムダになってしまいます。それにたいし、流入をとおして働きかけると、実りがあります。

 秩序にもとづいて起こる経過には、目的・原因・結果の三つがあります。学問の世界でも知られているように、目的は、能動因 causa efficiens を示す以外の何ものでもないし、目的や能動因も、結果を生まなくては、何ものでもありません。

 もちろん、目的も原因も、胸のうちで抽象的にあやつることはできますが、〈目的がめざすその結果〉や〈原因が生み出すその結果〉のために、あるわけです。

 愛・英知・役立ちもおなじです。役立ちは愛が意図するもの、原因によって生み出されるものです。役立ちが生みだされるとき、愛と英知は現実に存在しはじめ、役立ちのうちに自分の住まいをみつけ、そこに座を占めますが、それはちょうど自分の家に憩うようです。神の愛と英知をやどし、役立ちをはたすときの人間もおなじです。

 神の役立ちをはたすため、人間は神の像 imago 似姿 similitudo として造られました。これが、神の秩序の〈かたち〉です。


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68[Ⅶ]人間は神の全能によって、はじめて悪と偽りに対抗する力がつく。それはまた神の全知によって、善と真理を味わうこと、神の遍在によって、神のうちにあることで、それもいずれは、神の秩序にしたがって、生きることから始まる。

 人は、神の秩序にしたがって生活すればするほど、神の全能によって悪と偽りに対抗する力が与えられます。それは、悪や、悪に由来する偽りに抵抗できる人は、だれもいないからです。抵抗できるのは神だけです。〈善とそこからくる真理〉が、すべて天界にあるように、〈悪とそこからくる偽り〉のすべては、地獄から来ており、地獄ではひとつになって動いています。つまり、前述したように、全天界は神のみまえに〈ひとりの人間 unus Homo〉を映し出しているように、地獄では反対に、〈奇怪なひとりの巨人 unus gigas 〉になっています。

 ですから、ある一つの悪や偽りに対抗することは、その奇怪な巨人つまり地獄に対抗することで、これは人間にはできないこと、全能なる神だけがお出来になることです。それで、神の全能にたよらないかぎり、人は悪やそこからくる偽りには、自分の力で勝てないことが分かります。一ピキのサカナが大洋に対抗しても、一匹のノミがクジラに対抗しても、崩れ落ちる山に一片の塵が抵抗しても、さらにはまた一匹のイナゴが象に、一ピキのハエがラクダに対抗しても、勝てないのとおなじです。

 人間が悪とそこからくる偽りに勝てないのは、人は悪のうちに生まれてきているからです。悪は悪自身に対抗するわけにはいきません。したがって、人がもし秩序にしたがって生活し、神をみとめて、その全能を確認し、地獄に対する神の力を、みとめると同時に、秩序の外部だけでなく内部でも、自分のうちにある悪に対抗して戦わないなら、地獄のなかに沈みこみ、大洋のなかで小舟が嵐であちこち翻弄されるように、悪によって動かされるほかありません。


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69・ 人が神の秩序にもとづいて生活すればするほど、神の全知に由来する〈善と真理についての英知〉のうちにいることになります。というのは、善にかんする愛も、真理にかんする英知も、あるいは愛にかんする善も、英知にかんする真理も、ことごとく神から出るものだからです。そのことは、キリスト教世界の教会が、こぞって宣言していることです。  ここで、かぎりない英知をもつ神、つまり全知であられる神によらなくては、人間は、うちにひそむ〈英知からでた真理〉などには、全く縁遠い存在であることが分かります。

 人間の精神は三つの段階にわけられます。天使のいる天界についていうと、上に行けば上に行くほど、上位の段階にあげられ、下に行けば行くほど、下位の段階に低められます。上位の段階にあげられる場合、それだけ天界の光のうちにあって、英知を宿すことになります。これは神のみ力なくしてはありえません。そのように、上にあげられればあげられるほど、人間となり、下位の段階に低められれば低められるほど、地獄の迷いに照らされ、それだけ人間ではなく、ケモノに近くなります。 人が両足のうえにまっすぐ立って、顔を天に向け、天頂を仰ぐことができるのにたいし、ケモノは足をつかって立っても、地面と平行で、そっちにしか顔が向きません。病気にでもなって、仰向けにならないかぎり、天を仰がないのです。


(2) 心を神のほうへ向け、〈英知にかんする真理〉はすべて神からくることをみとめ、秩序にしたがって生活する人は、高い塔の上に立って、人でにぎわう都市を眼下に眺め、街路で何がどうなっているか、すぐ分かるような感じです。それにたいし、〈英知にかんする真理〉はすべて、自分のもっている自然の光明からくるもの、つまりは自分に由来するものと、心のなかで思いこんでいる人の場合、その塔の地下にある壕にこもって、そこからのぞき穴で、同じ町を見ている感じです。その町中の一軒の家の塀と、その側面の並び具合がわかる程度です。

 また、神から英知を汲みとっている人は、空高く飛ぶトリが、庭園・森林・村落の様子をみんな眼下におさめ、自分に役立つ対象めがけて飛んでいくようです。それにたいし英知にかんすることは自分から出ると思い、神に由来することを信じない人の場合、まるで地面すれすれに飛ぶクマバチのようです。ゴミの山を見てそれに飛びこみ、その悪臭をうれしがっているような感じです。

 人間はみんなこの世にあるあいだは、天界と地獄とのあいだを歩いています。そこには均衡があって、神を仰ぐことも地獄にのめり込むことも、自分の選択にまかされています。神を見あげる人は、英知はすべて神からくるものと認めており、その人の霊は、実際に天界の天使たちといっしょです。ところが、〈悪から出る偽り〉のうちにある者がいつもそうであるように、下に心をむける場合、その人の霊は、実際には地獄の悪魔といっしょなのです。

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・ 神の遍在がもとになって、神のうちに宿っていればいるほど、その人は、秩序にしたがって生きていることになります。それは、神はどこにもましまし、神の秩序のうちにあれば、神のうちにあることになるからです。というのも、前述したように、神は秩序だからです。

 さて、人間は神の秩序の〈かたち〉として造られているため、人が神の秩序にしたがって生活する程度におうじて、神はその人のうちに、豊かに臨在しておられます。

 それにたいし、神の秩序にしたがって生活しない場合、それでも神はその人のうちに臨在しておられますが、その人の心の高みにましまし、真理を理解し、善を欲するのを助けられます。つまり、理解力と、愛する力をあたえられます。

 そして人が、秩序に反して生活すればするほど、自分の精神または霊の低い部分が閉じられてしまい、神が下り、その低い部分を臨在で満たされるのをジャマします。ですから神は、その人のうちに臨在されていても、その人は神のうちにいません。

 神は、善人のうちにも悪人のうちにも、どんな人間のうちにも宿っておられますが、秩序にしたがって生活しないかぎり、人間は神のうちに宿ることはありません。これは天界で通用する規準です。主も言っておられます、

  「人がわたし自身のうちにあり、わたし自身も人のうちに宿るためです」(ヨハネ15・4)。

(2) 秩序にしたがって生きる人は、神のうちにいます。神は宇宙にあまねく存在し、そこにある個物と全体およびその極小部にも、宿っておられ、それにもまた、秩序があります。この秩序に反する場合、その離反は内奥部でなく、その外にあるにすぎませんが、それでも神は、それらの秩序回復にたえず努めておられ、かれらと葛藤をくりかえすことによって、あまねく臨在しておられます。

 したがって、人が自分の秩序回復につとめればつとめるほど、神はその人全体のうちに、あまねく臨在され、その結果、神はその人のうちに宿り、その人は神のうちに宿ることになります。人間にとっての「神不在」など、地上から太陽の熱と光をなくすと同じくらい不可能です。太陽からの熱と光は、春と夏にゆたかに受けられますが、それと同じように、地上のものはみんな、太陽のおかげを受けているのです。

(3) これは神の遍在についても言えます。人は秩序のうちにいるかぎり、霊的熱と霊的光のうちに、つまり愛の善と、英知の真理のうちにいます。ただし、霊的熱とか光とかは、自然的熱や光とは、おなじではありません。というのは、自然の熱は、冬になると、地上とその事物から去っていき、光の場合は夜になると去っていきます。このようなことが起こるのは、地球の自転と公転あってのことで、それが時をきざんでいきます。

 霊的熱と霊的光の場合はちがいます。神はご自身の太陽をとおして、熱と光の両方をともなって臨在しておられ、この世の太陽のように見かけの上での変化さえありません。地球が太陽から身をそらすように、人間もみずから身をそらせます。人が英知の春から身をそらせるとき、地球が夜になって太陽から身をそらせるようです。人が愛の善から身をそらせるとき、地球が冬になって太陽から遠ざかるのに似ています。これは、霊界の太陽からの役立ちとその結果、および自然の世界の太陽の役立ちとその結果とのあいだの相応です。

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