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真のキリスト教

神の本質としての愛 Amor と英知 Sapientia

48節


48・ 次のメモをつけ加えておきます。
 あるときわたしは、二人の天使とコトバをまじえていました。一人は天界の東の方、もう一人は天界の南の方から来ていました。かれらは、わたしが愛にかんする英知の秘義について、瞑想にふけっているのを知って、「わたしたちの世界に、英知の学校があるのをご存じですか」と言いました。わたしは、「まだです」と答えると、かれらが言うに、「霊的愛から真理を愛するとき、つまり真理のために真理を愛し、真理を介して英知のため真理を愛する場合、ある印のもとに集まって討論し、いっそう深い理解にこぎつくことができるのです」と。
 かれらはわたしの手をとって、「ついて来てください。見たり聞いたりできますよ。きょうは集まりの印がありますから」と言います。わたしは丘陵にむかう平地に連れていかれました。すると丘の麓に棕梠でできたポーチがあり、それが丘の頂上まで続いています。わたしたちはそこから入り、のぼっていきました。
 するとその丘の頂に木立があり、木と木との間の上が盛りあがっていて、舞台のようになっています。舞台の表面には、いろいろな色の小石がはまって、平らになっています。周囲の四隅には席があり、そこに英知を愛する人たちがすわっていました。舞台の中央にテーブルがあり、それにはシールの貼った巻紙が置いてあります。

(2) 席についていた者が、わたしたちを招いて、空いている席に座るように言いました。わたしは、「天使二人に連れられて参りましたが、ここで見たり聞いたりさせていただくためで、座るためではありません」と言いました。
 二人の天使は舞台の中央にあるテーブルのところへ行って、巻紙のシールをはがして、記されてある英知の秘義を読みあげましたが、これは席についている者が、これから討論すべきことでした。これは第三天界の天使たちが記し、このテーブルに置いたのです。そこには、三つの秘義が書かれていました。
 第一は、「人間の創造にあたって、神にかたどってとか、神に似せてとあるのは、何のことですか」。第二は、「ケモノもトリも、高級なものから下等なものにいたるまで、自分の生存に必要な知識をぜんぶもって生まれてくるのに、人間はそのような知識をもって生まれてこないのは、なぜですか」。第三は、「生命の木」とか、「善悪を知る木」とか、「それからとって食べる」とは何のことですか」と。
 また、その下に次のように書かれています、「以上三つの質問の答を一つにまとめ、新しい紙の上に書き、このテーブルの上に置いてください。わたしたちはそれを調べます。もし答がバランスのとれた正解として現れた場合、各自に英知の褒賞をさしあげることになります」と。二人の天使はそれを読みあげると、自分自分の天界に引きあげて行きました。
 さて、それから座っていた者たちは、課せられたアルカナについて、いろいろ話しあいを始めました。最初は北側に座っていた者、それから西側、そのあと南側、最後に東側と、順序よく話しました。
 まず、最初の討論テーマは、「人間の創造にあたって、神にかたどってとか、神に似せてとあるのは何のことですか」でした。それで、みんなに『創世記』の次の箇所が読みあげられました、
 「神は言われた、『われわれの〈かたち〉に、われわれにかたどって人を造り、・・・神は自分の〈かたち〉に人を創造された。すなわち神のかたちに創造された」(創世1・26、27)。
 「神が人を創造されたとき、神にかたどって造られた」(創世5・1)。

(3) 最初に口を切ったのは、北側に座っていた人たちです。かれらは、次のように言いました。神の〈かたち imago 〉とか〈似姿 similitudo 〉とは、神によって吹きこまれた人間の〈いのち〉で、それは〈意志のいのち〉と〈理性のいのち〉の二つです。というのは、
 「主なる神は、〈いのち〉の息をアダムの鼻に吹きいれられた」(創世2・7)
とあるからです。つまりここで分かるのは、善への意志と、真理への感知力が吹きこまれたので、これが〈いのちの息〉です。アダムにたいして、神の〈いのち〉が吹きこまれたということから、〈かたち〉とか似姿というと、愛と英知からくる本来像 integritas を示すものになります。正義や公平もそこから出てきます。
 西側に座っていた人も、これに同意していました。ただ次のことをつけ加えました。神によってアダムに吹きこまれた本来の状態は、そのあとも人間ひとりひとりに、絶え間なく吹きこまれています。ただしそれは、人間が器となって受けとめているので、器であるという点で、神の〈かたち〉または似姿になっているのです、と。

(4) そのあと、南側に座っている人たちが、第三番目に次のように話しました、
 「神の〈かたち〉と神の似姿は、それぞれちがったものですが、人間にあっては、創造以来ひとつにむすばれています。わたしたちは、ある内部の光によって、人間がダメにしたのは神の〈かたち imago 〉であって、〈神の似姿 similitudo 〉でないことが分かるのです。アダムが神の〈かたち〉を失ってからも、神の似姿だけは保っていたということからも、それが映し出されてきます。というのも、呪いのあと、
 『見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった』(創世3・22)とあり、そのあとでは、「神の似姿」とあっても、「神のかたち」とは言われなくなっているからです(創世5・1)。しかしいま、東側に座っている仲間にゆずりましょう。かれらはもっとすぐれた光に照らされていて、「神のかたち」とか「神の似姿」とか本来の意味について、話してくださると思います」と。

(5) 東側に座っていた人たちは、しばらく黙っていましたが、やおら立ち上がって、主を仰ぎ、それからまた席にもどって言いました、
 「神の〈かたち〉とは、神の器のことです。神はまた、愛そのもの、知恵そのものですから、神の〈かたち〉というと、神からきて人間のうちに宿る愛と知恵をうけいれることです。神の似姿とは、人間の愛と知恵が、全く本人のものであるかのようになり、全く神に似たもの、神の完全な現れになることです。
 人はみずからの力で愛し、みずからの力で知恵をもって味わっているとしか思っていませんし、みずからの力で善を欲し、真理を理解しているとしか思っていません。ところが、自分の力から出ているものは何もな く、神からでているのです。神は愛そのもの、英知そのものですから、神だけが自らの力で愛し、自らの力で知恵をもって味わっています。愛と英知、善と真理があたかも人間のもののように見えたり、よく似たものと思えたりすることによって、人間は人間として存在し、神にむすばれ、永遠に生きるものになります。
 ここから、人間が人間であるのは、あたかも自らの力で善を欲し、真理を理解しているように思えても、それが神のみ力によることを知り、信じることにあることが分かります。というのも、人が以上のことを知り信じるに応じて、神はご自分の〈かたち imago 〉を人間に刻まれているからです。人がもし以上を、自分の力でやっているので、神のみ力によるものではないと信じれば、そうはいきません、と。

(6) そう言い終えたとき、かれらは真理への愛からくる熱情にうながされ、次のように言いました、
 「人間は、ある種の愛や英知をうけとめ、それを保ったり再生したりする場合、自分のものと思わないでは、それが不可能です。また、神との結びつきからくるある種のメリットが、人に与えられていないなら、愛と英知をとおして神と結ばれることなど、できることではありません。というのは、このような見かえり reciprocum がなかったら、結びつきも不可能だからです。そして、人が神を愛し、神に由来するものを自分の力でやっているように行い、それでいて、それが神からくるものであると信じることこそ、神との結びつきにもとづく相補関係なのです。人は、永遠の神と結びついていないで、永久に生きることはありませんし、同時に、人間のなかにこのような似姿がなかったら、人間は人間でさえありえません」と。

(7) みんな以上の話に賛同していました。かれらは、「そこから結論として言えることは次のようです」と言いながら続けました、
 「人間は神をうける器です。そして神をうける器とは、神の〈かたち〉のことです。神は愛そのもの、英知そのもので、人間はそれを受ける器です。器は、受けいれるという点で、神の像になります。また、人間が神の似姿であるというのは、神からのものが、自分のもののように、自分のうちにあると感じるところからきます。さらに、愛と英知・善と真理は、自分のものとして自分のうちにあったり、自分の力で得たりするものではなく、ただ神のうちにあり、神の力によるものだと、認めれば認めるほど、その似姿から、神の像がうまれてくるのです」と。

(8) そのあと、もう一つの討論のテーマに入りました。それは、「ケモノもトリも、高級なものから下等なものにいたるまで、自分の生存に必要な知識をぜんぶもって生まれてくるのに、人間は、そのような知識をもって生まれてこないのはなぜか」という質問です。
 最初に、この質問内容が真理であることが、いろいろ確められました。たとえば、人間には生まれつきの知識などなく、結婚愛の知識さえないことです。かれらは調査の結果を聞きだし、みどりごが母親の乳房を知るのも生来の知識からではなく、母親や乳母から教わるものだということです。しかも吸うことだけは知っていますが、それも母親の胎内で、ずっと吸っていたことからきます。
 それから歩くことも知りませんし、人間らしいコトバを発音することもできず、動物のような愛情音声さえだせないのです。さらに人は、動物のように、自分にあった食べ物も分からず、きれいなものでも、きたないものでも、目のまえのものを取って、口に入れます。
 調べた結果ですが、人間は、教えられなくては、異性を愛する方法もぜんぜん分からず、おとめも若者も、他の人から教わらなくては、何も知らないのです。一口に言って、人間はイモムシのように生来肉的で、他の人から知ること、理解すること、味わうことを学ばなくては、肉的のままとどまるということです。

(9) そのあとはっきりさせたのは次のことです。地上の動物、空のトリ、爬虫類、サカナ、昆虫と呼ばれるムシ類など、高等のもの下等のものを含めて、ケモノは自分の生命維持に必要な知識をすべてもって生まれてきます。それは、食糧、巣づくり、性愛、繁殖、子そだてのすべてにわたっています。東側の人たちは、自分たちがかつて生活した自然界で、しかも表象物でなく、実物の動物のいた自然の世界で、見たり聞いたり読んだりしたことを思い浮かべ、すばらしい事実をあげて、証明しました。
 質問の命題が真理であると確証されてから、かれらは、そこにある秘義を浮きぼりにする原因の発見に注意をむけました。みんなが言ったことは、次のとおりです、
 「人間が人間として存在し、動物が動物として存在するのは、神の英知によらなくては、ありえないことです。人間は生来の不完全あってこそ、人間自身の完全性をしめし、動物は、生来の完全によって、動物自身の不完全性を示します」と。

(10) そのとき、北側に座っていた人が、思っていることを、まず口にし始めました。そして次のように言いました、
 「人間が生まれつき知識をもっていないのは、あらゆる知識を受けいれることができるためです。生来の知識をもっているとすると、それ以外のものは受けいれられませんから、何も自分のものとして獲得できなくなります。これを譬えで言うと次のようになります。
 人間は生まれつき、種の蒔かれていない土地のようです。しかしどんな種でもうけいれ、生長させ、実らせることができます。それにたいし、動物は、雑草や牧草がいっぱいに茂っている土地のようで、そこに生えているもの以外は受けつけません。他の種類のものが入れば、枯渇してしまいます。
 そういうわけで、人間の成長には何年もかかりますが、それは土地を耕し、各種各様の穀物や花や樹木を成長させるための期間です。動物の場合は、生来のもの以外のものを、栽培することがないから、短期間でいいのです」と。

(11) そのあと、西側の人が口を開き、次のように言いました、
 「人間は動物のように生来の知識をもっていませんが、生来の能力と性向をもっています。それは知る能力であり、愛する性向です。またその生来の能力は、知るためだけでなく、理解し、英知で味わうための能力です。そしてその生来の性向は、最高に完全で、自分とこの世のものを愛するためだけでなく、神と天界のものを愛するためにあります。
 したがって人間は、外的感覚では、ぼんやりした生活を営み、内的感覚は、何ももっていない有機体として生まれてきます。それは、初めは自然的で、そのあと理性的になり、最後は霊的な人間に、だんだんと育っていくためです。これがもし動物のように、生来の知識や愛をもっていたのでは、不可能です。生来の知識とか情愛は、その発達にかぎりがありますが、能力とか性向のような場合は、生まれつきであっても、限りがありません。だから、人間は知識・理解力・英知の面で、永久に完成されていくのです」と。

(12) 南側にいた人たちが、意見を述べることになり、言ったことは、人間は自分の力で知識を獲得することは不可能で、他の人からそれを得るということです。というのも生来の知識というものが何もないからです。さらに、
 「自分から何の知識も得られないだけでなく、知識のないところに愛もないとすれば、何の愛も得られません。知識と愛は不可分の関係にあり、それは、意志と理性、情愛と思考、についても同じことですし、〈本質 essentia 〉と〈形相 forma 〉の関係もそうです。
 人は、他の人から知識をえているように、愛は、自分の同伴のように、知識とひとつになります。みずからを結びつけようとするこのような愛は、普遍的な愛で、これは知識への愛となり、さらに理解への愛、英知を味わう愛となります。このような愛は、人間だけで、動物にはありません。神からの流入なのです。

(13) 人は生まれつき愛はないし、知識もなく、ただ愛にむかう生来の性向と、知識をうけがう生来の能力をもっています。これも自分の力ではなく、他の人たちの力によるもの、つまり他の人たちを通してなされます。他の人たちを通してと言いましたが、かれらとて自分の力でなく、神を起源として、受けとっているのです。わたしたちは、以上の点で、西側から来ている仲間と同意見です。
 また、人間は最初なんのタネも蒔かれていない土地のようで、そこに、高級のものでも下等のものでも、どんな植物でも生える可能性があるということ。だから人間 homo は、土 humus からきたと言われ、アダム Adam も「土」を意味するアダマ Adama からきています。それにつけ加えておくと、動物は自然的愛とそれに対応した知識をもって生まれてきますが、その知識をもとにして、何かを知ったり、考えたり、理解したり、英知で味わったりはしません。むしろ本能的愛でやっており、それはちょうど、目の不自由な人が犬にひかれて道を歩くようなもの、つまり理性の面では、めくらなのです。あるいは、夜歩きで、理性は眠ったまま、何も知らずに、何かをやっているようなものです。わたしたちは、以上の点で、北側からの仲間と同意見です」と。

(14) 最後に、東側の人が口を開いて言いました、
 「わたしたちは、兄弟が今まで言われたことに賛成です。人間は、自分から何かを知るのではなく、他の人からであり、他の人をとおしてです。それによって、自分が知り、理解し、英知で味わっているものは、何もかも神に由来することが分かり、認めるようになります。人が生まれ、子孫を残し、また神の像となったり、似姿となったりするのも、神のみ力による以外は、考えられません。
 それというのも、〈愛と仁愛にかんするすべての善〉と〈英知と信仰にかんするあらゆる真理〉は、神がくださるもので、人間から出てきたものでないと認め信じることが、「神の像」になることだからです。
 それからまた、神の似姿になるということは、以上のものが、自分から出てくるものであるかのように、自分のうちにあると感じることです。そう感じるのは、人の生まれつきの知識ではなく、それを獲得していき、その獲得したものが、自分から出たもののように見えるだけです。
 以上のことを感じるのも、神のおかげですが、それによって、動物とちがった人間になります。つまり、あたかも自分の力で欲し、考え、愛し、知り、理解し、悟って、知識を獲得し、それを理解にまで高め、それをつかって英知をもって味わいます。このようにして、神は人間をご自分に結びつけ、人間も、自分を神にむすびつけます。これは、いずれ神のご計画によって、人間が白紙として生まれていなければ、ありえないことです。

(15) こう言い終わったとき、今までの討論から出る結論は、全員が願ってもないことでした。
 「人間が知識にかんして白紙として生まれてくるわけは、あらゆる知識を獲得し、理知の点で進歩し、それによって英知を味わうようになるためです。それからまた、人間が愛にかんしても白紙で生まれてくるわけは、あらゆる愛を獲得し、理知から出る知識を応用することによって、隣人愛経由で神の愛にいたるためです。また、こうして神に結ばれ、それによって、人となり、永遠に生きるようになるためです」。

(16) それからあと、かれらは紙をとりあげて討論の第三テーマを読みあげました。それは、「生命の木」とか、「善悪を知る木」とか、「それからとって食べる」とは何のことかという点です。この秘義については、東側の人たちが説明していくのがいいと、みんな望んでいました。というのは、この問題には深遠な理性の働きが要求されますし、東方出身の人たちは、燃えかがやく光のなか、つまり英知の愛のうちにあるからです。二本の樹があった「エデンの園」とは、この英知のことだったのです。
 そこでかれらは答えて、
 「それでは、わたしたちが申しあげることにしましょう。というのも、人間は何も自分から言うのではなく、神からですから、わたしたちも神から申しあげます。ただしそれも、自分たちから言っているかのように、わたしたちの口から申しあげることにします」と言って、続けました。
 「「木」とは人間のこと、「木の実」は〈いのちの善〉のことです。だから「生命の木」とは、神によって生きる人間のことです。人間のうちに神の〈いのち〉をつくるのは、愛と英知・仁愛と信仰・善と真理ですから、「生命の木」とは、以上のようなものが神から与えられ、永遠のいのちをもっている人間のことです。「生命の木」からとって食べるのも、同じようなことを意味します(黙示2・7、22・2、14)。

(17) 「善悪を知る木」とは、神からでなく、自分の力で生きていると信じている人のことです。だから、愛と英知・仁愛と信仰・善と真理は、神に由来するのでなく、自分なりの人間にあると思っているのです。そう信じているわけは、考えるにしても欲するにしても、話すにしても行うにしても、自分が起源であるように思われる類似性や外見からきています。だから人は、自分が神であると自分に思いこませたりしましたが、ヘビも次のように言いました、
 「その木の実を食べると、あなたがたの目が開け、神のように、善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」(創世3・5)と。

(18) この木からとって「食べる」とは、受け入れであり同化です。「生命の木からとって食べる」とは、永遠のいのちを受けいれることであり、「善悪を知る木からとって食べる」とは、罪の判決を受けいれることです。「ヘビ」とは、自己愛と〈おのれの理知への過信〉をそそる悪魔のことです。善悪を知る木を所有しているのは、その愛を所有していることで、木とは、その愛からでる〈うぬぼれ〉を身につけている人のことです。
 したがって、アダムが自分から英知を味わい、善を行い、これがかれの本来の姿であると信じるとき、大へんな誤りをおかします。アダム自身、そんなふうに信じたからこそ、呪われました。「善悪を知る木からとって食べる」とはそのことです。だからこそ、「生命の木からとって食べる」人が英知を味わい善を行うのは、自分の力でなく、神からの力だと信じていた本来の姿から ex statu integritatis 、逸脱することになりました。
 ご自身から英知を味わい、ご自身から善を行ったのは、この世にあっては、ただ主だけです。というのは、ご誕生のとき以来、おんみずからの神性は主のうちにあり、主のものでした。その結果自らの力で、あがない主、救い主となられました。

(19) 以上のことから、結びとして次のことが言えます。すなわち、「生命の木」、「善悪を知る木」、「その木からとって食べる」とは、人間にとっての〈いのち〉とは、〈人間のうちにまします神〉のことであることが分かります。その神あってこそ、人間に、天界と永遠のいのちがあるのです。人間にとっての死とは、人の〈いのち〉が神にではなく、自分自身にあると思い込み、信じこむことで、そこに人の地獄があり、永遠の死があります。これが罪の宣告なのです」と。

(20) すると、テーブルの上にある天使たちからの紙に、「以上三つの命題を一つにまとめなさい」と記されてあるのが目にとまりました。かれらが、以上三つを集めてみると、三つの命題が首尾一貫してまとまっているのを見ました。それは次のとおりです、
 「人間は、神からの愛と英知をうけるために創造されました。しかしそのさい、愛と英知は自分から出ているように見えますが、それは愛と英知をうけいれ、自分に結びつけることができるためです。ところで、人は生まれつき何の愛も知識もありませんし、自分から愛したり悟ったりする力は何もありません。だから、〈愛からくるあらゆる善〉と、〈英知からくるあらゆる真理〉が、神のおかげだとする人は生きています。しかし、それを自分のおかげだとする人は、死んでいるのです」と。 かれらはそれを新しい紙に記して、テーブルのうえに置きました。するとどうでしょう。白くかがやく雲に包まれて、天使がやってきて、その紙を天界にもっていきました。
 以上の文が読まれてから、席についていた人たちは、
 「よくできました。よくできました。よくできましたよ」という声を耳にしました。
 ただちに天界から一人の天使が現れました。
 足に二つの羽根をつけ、こめかみのあたりにも二つの羽根をつけて、飛ぶようにして下りてきました。外衣と帽子と月桂冠の褒美をもってきたのです。
 かれらは北側に座っていた人たちに、乳白色の外衣を授けました。西側に座っていた人たちには深紅色の外衣を授けました。南側に座っていた人に帽子を授けましたが、その縁には金と真珠の房かざりがついており、そのてっぺんの左側には、花模様がダイヤモンドでカットされています。東側の人には、月桂冠が授けられましたが、それにはルビーとサファイヤがついていました。みんなは、この褒美に装われて英知の学校から、よろこんで家へ帰っていきました。