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真のキリスト教


第六章 信仰について

385節~391節

385 386 387 388 389 390 391

385・ 以上に、次のようなメモをつけ加えておきます。第一のメモ。
あるとき、一人の天使がわたしに言いました。
「信仰と愛とは何か、愛から切り離された信仰とは何か、愛に結びついた信仰とは何かが、ごらんになりたければ、目のまえにお見せしましょうか」。わたしが「見せてください」と言うと、
「信仰と愛の代わりに、光と色を考えに入れてみてください。するとはっきり見えてきます。信仰の本質は、英知がとらえる真理、愛の本質は、愛のもっている情愛です。天界では、英知がもつ真理は光であらわれ、愛がもつ情愛は色であらわれます。天使たちがひたっている光と色は、本質的に、それ以外のなにものでもありません。そこから、愛と切り離された信仰はどんなものかとか、愛につながっている信仰はどんなものかが、分かってきます。愛のない信仰とは、冬の光のようで、愛を伴った信仰は、春の光のようです。
冬の光は、熱のない光であり、寒冷につながった光ですから、樹木の葉を落として裸にし、草木を殺し、地面を凍結させ、水を氷にします。それにたいし、春の光は、熱をともなった光ですから、樹木を育てます。まず葉をしげらせ、花を咲かせ、ついには実を結ばせるようにします。そればかりか、地面をひらき、やわらかくし、灌木や花をそだて、泉の水が流れていくように、氷をとかします。

(2) 信仰と愛についても、それと同じです。愛のない信仰は、あらゆるものを死滅させてしまいますが、愛をともなった信仰は、あらゆるものを生かします。このように、生かしたり、殺したりする事実は、わたしたちの霊的世界でも、ありありと見えてきます。つまり、信仰は光であり、愛は熱だからです。愛のある信仰は、楽園のようです。愛と信仰の結びつきの度合にしたがって、魅力いっぱいの花園や緑地帯ができます。ところが、愛のない信仰には、草一本生えません。何か緑がかったものがあれば、イバラやトゲでしかありません」と。
そこからあまり遠くないところに、何人かの教職者がいました。天使たちは、かれらのことを、
「信仰のみによる義認・聖化論者」とか、「儀式による秘義論者 arcanistae 」と呼んでいました。わたしたちは、同じような話をかれらに聞かせ、分かるように説明しました。わたしが、かれらが分かったかどうか尋ねると、身をそらして、「聞いていません」と言うのです。それで、わたしたちはかれらに、「じゃあ、聞いてください」と言いましたが、かれらは、両手を耳にあて、大声を出して、「聞きたくないね」と叫びました。

(3) それを耳にして、わたしは一人の天使と「信仰のみ」について話しあいました。わたしは、生きた経験をとおして、そのような信仰は冬の光のようだと言いました。つづけて話したことですが、いろいろな信仰をもった霊が、何年ものあいだに、わたしの前を通り過ぎていったわけですが、愛と切り離された信仰をもっている人が近づくと、その寒さが伝わってきます。まず足がこごえ、腰にまで来、それから胸にやってきますが、そのとき自分の肉体にある生命が消えてしまったのではないかと思うほどです。主がこのような霊を追いはらい、わたしを解放してくださらなかったら、そうなっていただろうと思います。
その霊たちが言うには、かれら自身は、何も寒さを感じないのだそうです。それを知ってびっくりしました。かれらをたとえれば、氷の下で泳いでいるウオのように、自分がもっている生命と本性それ自身が、つめたくなってしまっているから、その寒さを感じないのでしょう。そのとき感じとったことですが、かれらの信仰にあるおぼろげな光から、その寒さが流れてきているということです。また、このような光は、冬のさ中、湿地や硫黄を含んだ土地で、日没後、旅をしている人がときに目にする凍りついた弱い光のようです。
その種の人たちはまた、寒帯にある土地から切り離され、大洋に流れ浮かぶ氷山です。それについて聞いたところですが、そのような氷山に近づくと、船上の人たちは、寒さでふるえが来るということです。このように、愛から切り離された信仰をもっている人たちの集まりは、そのような氷山に似ており、「氷山」のあだ名をさしあげてもいいでしょう。
愛のない信仰は死んだ信仰であることは、〈みことば〉からも周知のとおりです。このような死の由来を申しあげますと、その死の原因は寒さです。厳冬の中でトリが死んでいくように、信仰も死んでいきます。トリは、最初眼が見えなくなり、それで飛べなくなります。やがて息がとまり、枝からまっ逆様に雪の中に落ち、埋もれていきます。


386・ 第二のメモ
ある朝、わたしは眠りから覚めると、二人の天使が天界から下りてくるのが見えました。一人は南にある天界から、もう一人は、東にある天界から、両方とも白馬をつないだ車に乗って下ってきました。南天界から来た天使は、銀色にかがやき、東天界から来た天使は、金色にかがやいています。かれらが手にしている手綱は、あけぼのの光のように、燃え輝いています。
二人の天使は、遠くから見たとき、そんなふうにわたしには見えたのですが、近づいてくると、車に乗っているのではなく、天使の姿そのままです。つまり人間の姿です。天界の東からきた天使は、まばゆいばかりの赤紫色のガウンを着ており、天界の南からきた天使は、すみれ色のガウンを着ています。かれらは、天界から下方の世界に来ると、どっちが先に着くか競争しあっているように走っています。でもおたがい抱きあい、接吻しました。
この二人の天使は、この世にいたとき、心からの友情でつながっていたそうです。ところが現在では、一人は東の天界、もう一人は、南の天界にいます。東の天界には、主のみ力で、愛のうちにいる者がおり、南の天界では、主のみ力で、英知のうちにいる者がいます。かれらは、自分たちのいる天界のすばらしさについて、しばらく話しあったのち、次のような点に話が発展しました。つまり天界は、その本質面では、愛 amor か、英知 sapientia かということです。どちらも依存しあっているという点では、合意したのですが、議論はどっちが起源かです。

(2) 英知の天界からきた天使は、愛とはいったい何かを、もう一方に尋ねました。その答えは、こうです。愛は、太陽からくるように、主が起源です。それは、天使と人間の熱であるとともに、
かれらの〈いのち〉の〈あるところ〉 Esse vitae です。
その愛から、「情愛 affectiones」と言われるものが派生します。その情愛をとおして、感知力 perceptiones が生じ、思考力 cogitationes になります。
「したがって、英知の起源は愛であるわけです。それと同時に、思考も、その起源では、〈愛の情愛〉です。それなりの順序で起源を尋ねてみると、思考は、〈情愛の形相〉以外のなにものでもありません。それが分かっていないのは、思考が光のうちにあるのにたいし、情愛は、熱のうちにあるからです。つまり、思考には反省が行われますが、情愛には反省がありません。思考が、愛から出る情愛の〈かたち〉以外のなにものでもないことは、コトバを話すことが、音声の〈かたち〉以外のなにものでもないことから分かります。つまり、音声は情愛に対応し、コトバを話すことは、思考に対応しています。情愛は音でかなで、思考はコトバを話します。
以上は、こう言うと、もっとはっきりします。コトバから音声をとり除いたら、コトバになると思いますか。思考から情愛をとり除いたらどうでしょう。それでも何か思考ができるでしょうか。ここで愛こそ、英知のすべてであることが明らかになります。したがって、熱の〈本質 essentia 〉は、愛であり、熱の〈実存 existentia 〉は英知であるということになります。同じようなことで、天界は、神の愛からなっていますが、天界が実際に存在するようになったのは、神の愛を起源とし
て、神の英知が媒介になったためです。そして、まえにも申しあげたように、やはりおたがいに依存しているのです」と。

(3)そのとき、わたしのそばに新参の霊がいて、以上のことを聞いたあと、それが愛 charitas と信仰 fides にもあてはまるかどうか、尋ねました。愛は情愛からでたもの、信仰は、思考からでたものだということです。それにたいし、天使は、
「それは、よく似ています。コトバが、音声の〈かたち〉であると全く同じように、信仰は、愛の〈かたち〉ですからね。コトバが、音声の力で形づくられるように、信仰もまた、愛によって形づくられます。どんなふうにして形づくられるかは、天界ではよく分かっていますが、ここで今、それを証明する時間がありません」と言って、またつけ加えました。
「信仰とは、霊的な信仰のことです。その信仰の中にある〈いのち〉も霊も、ただ主のみ力によって、しかも愛をとおしてだけ、与えられるものです。この愛は霊的な愛であって、その愛をとおして、信仰が生まれるからです。したがって、愛のない信仰は、ただ単に自然的な信仰にすぎず、その信仰は死んでいます。これは自然の情愛としか結びつかず、その情愛も、結局は欲情でしかありません」と。

(4) このようなことについて、天使たちは霊の次元で話をし、その霊的な話のなかには、自然の次元では表現できない何千という内容が込められていました。しかもその内容は、自然的な思考概念には、どうしても入りこめない驚くべきものでした。
天使たちは、あれこれと話をしたあと、そこを去っていきました。遠ざかっていくとき、それぞれ自分の天界の方へ向かっていきましたが、そのとき天使の頭をめぐって、星が現れ、わたしから遠くへ離れていくにつれ、以前と同じく、馬車に乗った様子に見えたのでした。


387・ 第三のメモ
二人の天使が、わたしの視界から消えたあと、右側に、とある庭園が見えてきました。そこには、オリーブ、イチジク、月桂樹、棕櫚の木が、相応にもとづいて順序よく植えられています。よく見ると、木陰に天使や霊たちが、歩きながらしゃべっています。そのとき一人の天使霊がわたしの方をふり向きました。霊たちの世界で、天界へ行く準備をしている霊のことを、「天使霊 spiritus augelicus 」と呼んでいます。その霊は、庭園から出て、わたしの方にやってくるなり、
「ごいっしょに、わたしたちの楽園にいらっしゃいませんか。すばらしいことを聞いたり、見たり、なさいますよ」と言いました。それでわたしは、その霊といっしょに行きました。途中、その霊はわたしに、次のように言いました、
「あなたがご覧になっている霊たち(そこに大勢いましたが)は、みんな真理の愛のうちにあり、それがもとで、英知の光のうちにいます。ここにはまた、「英知の宮」と呼んでいる殿堂がありま
す。しかしこの殿堂には、自分がたくさんのことを味わい知っていると思っている人は、訪問できません。また自分が知っていることで十分だと思っている人、まして自分の味わい知っている源は自分にあると思っている人も、ダメです。そのような人は、純粋の英知がもっている愛、その愛から発する天界の光を受けいれることができません。
純粋の英知とは、自分が知り、理解し、味わっていることは、自分が知らないこと、理解していないこと、味わっていないことに比べ、あまりにも僅かで、大洋にある水の一滴に過ぎないこと、だということ、つまりほとんど何も知らない自分を、天界の光で見ることを言います。この楽園にいて、もっている感知力と視力では、自分の知っていることが、ほんとうに僅かでしかないことを、認めた人は、みんなあの「英知の宮」を見ることができます。言い換えれば、人間の心の中にある内的光の照らしで見えるわけで、内的光を欠いた外的光では、どうしようもありません」と。

(2) わたしは、以上のことを繰返し考えましたし、科学をとおして、また感知力をつかって、やがては内的光で、人間の味わい知っていることが、あまりにも僅かしかないことを認めましたので、その宮を見るチャンスが与えられました。
なるほど、すばらしい構築です。地面からはるかに高くそびえ、四角形で、壁は水晶、屋根は優雅なアーチ状で、透明な碧玉でできており、多種多様の宝石で基底部がつくられています。その宮にのぼっていく石段は、磨かれた石膏でできています。その石段の両側には、子ライオンを従えたライオンの像が見えました。
わたしは、入ってもいいのか尋ねると、聞き入れられたので、のぼりました。中に入ってみると、天井のま下にケルブが舞っているように見えましたが、やがて消えました。歩行用の床は、杉材でできていました。宮の全体は、すき通るような屋根と壁のためでしょう、〈ひかり〉の形につくられていました。

(3) わたしは、ひとりの天使霊といっしょに中に入り、その霊に二人の天使から聞いた「愛と英知」のこと、「仁愛と信仰」のことを口にすると、
「その天使たちは、第三番目のことについてもお話ししましたか」と言いましたので、わたしは、
「第三番目のものとは、何のことですか」と尋ねると、
「〈役立ちの善 bonum usus 〉のことです。愛も英知も、役立ちの善がなかったら、何もなりません。役立ちになるまえの愛や英知は、理想上の存在でしかなく、現実にはなりません。愛・英知・役立ちの三つは、バラバラにすることはできません。バラバラにしてしまうと、みんな姿を消してしまいます。英知がなかったら、愛はなにものでもありません。愛は、英知のうちに、何ものかに向かって形づくられます。この形づくられていく際の目標になるものが「役立ち」です。したがって、愛が、英知をとおして、役立っていれば、これこそ本物です。現実に存在していると言えるのです。
ここに、目的 finis・原因 causa・結果 effecus のような関係があって、目的は、原因をとおして、結果のうちに実現していきます。そうならないと、目的はなにもないのと同然です。その三つの中、一つでも解消してしまうと、全部が解消し、万事おわりです。

(4) これは、愛 charitas ・信仰 fides・行為 opera の関係についても言えます。愛は、信仰がなかたら、何ものでもなく、信仰も、愛がなかったら、何ものでもなく、愛も信仰も、行為がなかったら、何ものでもありません。行為のうちには、何ものかがあって、その内容は、行為がもたらす役立ちの性格によって決ります。
それと同じようなことが、情愛 affectio ・思考 cogitatio・働き operatio のあいだにあり、また、意志・理性・活動 actio にもあります。意志の場合、理性がなかったら、視力を失った眼のようです。また意志も理性も、活動がなかったら、肉体のない精神のようです。以上のようなことが、この宮の中で、はっきり見えるようになります。わたしたちがここにいるあいだ、かがやいている光は、精神の内部を照らす光なのです。

(5) 三がなくては、完全や完成がないことは、幾何学も教えています。平面がなくては、線がありませんし、立体がなくては、平面もありません。だから、実際に存在するようになるためには、第一のものは、第二のものへ導入されなくてはならず、こうして初めて、第三のものの中に共存するようになります。これと同じようなことが、被造世界の個々全体のなかにあり、これらは第三のものの中で有限化され finita sunt、終わっています。ということで、〈みことば〉の中で「三」は、「完全・完成 completum et prorsus 」を意味します。
それで、ある人は、「信仰のみ」、ある人は「愛のみ」、そしてある人は「行為のみ」を宣言していていますが、一は他なくしてありえず、その両者もそろって第三のものの中になくては、何ものでもないということが分かり、驚かざるを得ないわけです」と。
そのとき尋ねました。
「人は、愛も信仰もありながら、行いがないということがありえるでしょうか。何かの考えを愛好しながら、それを実行しないということも、あるのではないでしょうか」と。
それにたいして、天使は、
「それはただ観念的には idealiter ありますが、現実的には realiter ありません。でも、行いに移ろうとする意志や努力があるとします。そのような場合、意志とか努力とかは、それなりの行為です。つまり、火がつけば、外面にも行為となって表われる、たえまない努力ですからね。したがって、努力とか意志とかは、内的行為とも言えますし、すべての知者が肯定しているところです。つまりは、チャンスがあれば外面化しても何ら差支えないほどなら、外面の行為と全く同じように、神によって、受けいれられます」と、答えました。


388・ 第四のメモ
黙示録のなかで、「龍 draco」と呼ばれている人たちと話をしました。その中の一人が、「わたしといっしょに来ませんか。われわれの眼や心をたのしませるものを、お見せしますよ」と言って、ほの暗い森をとおり、丘のうえに連れていきました。わたしはそこから、龍たちの楽しみを見おろすことができました。それは、サーカス式に造った円形劇場で、うしろの席が次第に高くなっていて、観客がもうそこに座っています。最下段のほうに座っている人たちは、遠くから見て、半人半獣の神サチルスや、男性生殖力の神プリアポスのように見えました。ある者はパンツをはいていましたが、ある者は何もはいていません。その上段には、私通を行う者や売春婦がすわっています(わたしには、かれらの動作で、それと映りました)。
そのとき、龍の霊は、わたしにむかって、
「さて、あなたは、われわれの遊びをごらんになれますよ」と言いました。
わたしはそのとき、小牛、牡ヒツジ、ヒツジ、ヤギ、小ヒツジのようなものが、場内に入ってくるのを見ました。それが入り終えると、門がひらかれ、若ライオン、ヒョウ、トラ、オオカミのような動物が、吠え叫びながら、群れに突入し、ひき裂き、食い殺します。サチルスたちはそのあと血の殺戮場に砂をまきます。

(2) かの龍は、「これがわれわれのお遊びですわ。気分がはればれしますなあ」と言いました。わたしは、「悪魔よ、去れ。しばらくすると、この円形劇場は、火と硫黄の池に変わることだろう」と答えました。これを聞いて、その霊はヘラヘラ笑って去って行きました。
そのあとわたしは、主はどうして、このようなことをお許しになるのだろう、と思っていると、答がありました。つまりかれらは、精霊界にいるあいだ、こんなことが許されているけれど、一定期間が過ぎると、このような見せ物場所は、地獄の呪いに変えられていくということです。

(3) わたしが見たものは全部、龍が幻想をつかってやったことです。だからそこには、小牛も、牡ヒツジも、ヒツジも、ヤギも、小ヒツジもいませんでした。ただ、かれらが憎々しく思っている〈教会の純粋善と真理〉を、そのような動物の姿で見せたのです。ライオン、ヒョウ、トラ、オオカミは、サチルスやプリアポスに見えた霊がもっている欲望です。パンツをはいていなかった者は、神のみまえに、悪は現れないものとタカをくくっていた連中です。パンツをはいていた方は、神には見えても、信仰さえもっていれば、罪の宣告をうけるわけはないと思っていた連中です。
私通者も娼婦も、〈みことば〉の真理をねじ曲げた人たちで、私通こそ、真理の歪曲を意味しています。霊界では、すべてのものは遠くから見ると、相応の姿で目に入ります。これは、自然世界に酷似する霊の表象だと言われています。

(4) そのあと、わたしはかれらが森の中から出ていくのを見ました。龍がサチルスやプリアポスのまん中にいます。そのうしろに、私通・売春の従者と護衛がくっついています。道中、とり巻きの数が増え、おたがいに話していることが聞こえました。
かれらは、牧場でヒツジが子ヒツジといっしょにいたのを見たと話していました。それは、仁愛をいちばん大事にしているエルサレム都市圏の中の一都市が、近くにあるということです。それでかれらは、「行って、その都市を攻めとろう。住民を追い出し、かれらの財産 bona を奪いとろう」と言っています。
近づいてみましたが、その都市のまわりには城壁があり、壁の上には、守護の天使たちがいます。そのときかれらは、「ペテンを使って攻めとるんだ。白を黒と言い、黒を白と言え。口八丁、手八丁の密使をおくってやろう」と言っています。
そこで、形而上学に通じている一人の男が見つかりました。事物のもっている概念を、宙に浮いた概念に変えることができる人間です。定式をつくって事物をその下に隠し、ハゲタカのようにとびかかって、羽の下に獲物をつかみ取り、飛び去ることができる男です。都市の住民と話すとき、自分たちはかれらと宗教が同じだから、中に入れてくれと言うなど、教えこまれました。
その男は、門に近づき、ノックしました。門があけられました。この都市の最高の知者と話がしたいと言いました。町の中に入り、ある人のところへ連れていかれました。かれは、次のように言いました。
「城外には、わたしの兄弟たちがいて、中に入れてくれと言っています。かれらはあなた方と宗教を同じくした仲間です。あなた方もわたしたちも、宗教上の二大原則は、信仰と愛だと思っていますね。ただあなた方は、愛が第一で、その次に信仰をおいていらっしゃるのにたいし、わたしたちは、信仰を第一にし、その次に愛をおいている点だけが違います。しかし両者とも大切だと信じていれば、どちらが第一でも、大差はないでしょう」と。

(5) その町の知者は、
「われわれだけで、このようなことを話すのはよくありません。判事や仲裁人など、大勢のまえで話しあいましょう。そうでないと、決定できないことです」と言いました。しばらくして、集まってきた人たちに向かい、龍族の霊は、まえと同じようなことを言いました。それにたいし、町の知者は応えて言いました。
「教会にとって第一にすべきものは、愛であるか、信仰であるかは大したことではないと言われるのですか。教会と宗教を構成しているのは、両方だというだけで、いいのでしょうか。でも、その間には、〈先にあるものと、後からくるもの〉の違いがあり、〈原因と結果〉、〈主要因と道具因〉、〈本質的なものと形相的なもの〉とのあいだと、同じ相違があります。こう申しあげるのも、あなたが、形而上学的コトバヅカイに長けた方だと気づいたからです。でも、わたしたちは、そのような技巧を、アーデモナイ・コーデモナイ方式 mussitatio とか、マジナイ方式 incantatio と呼んでいます。
まあ、コトバ遣いはいいとして、〈上位にあるもの〉と〈下位にあるもの〉とのあいだには、区別があります。それはご存じかと思いますが、この世界でも、〈上方に住んでいる人たちの心〉と、〈下方に住んでいる人たちの心〉とのあいだには、違いがあります。第一に置くべきものは、頭で
あり胸です。それがあって両脚と両足があります。でもまず、愛とは何か、信仰とは何かで、同意を得たいと思います。愛とは、〈神と救いと永遠の命のために、隣人に善をしたいと思う愛から出た情愛〉です。信仰とは、〈神と救いと永遠の命についての信頼からくる考え〉です」と。

(6) 龍の使いは言いました。
「信仰とはそうです。愛は神のための情愛だということも認めます。しかし愛は、神のご命令だからで、救いや永遠の生命のためではありません」と。
同意・不同意をまじえたあと、町の知者は「情愛とか好きこのみが、まず第一にあって、それから考えが出るのではないでしょうか」と言ったところ、龍の使いは、「それはちがう」と言ったので、知者は言いました。
「それは否定できないことです。人は自分の好みを出発に、考えますよ。好みをとり去ったら、考えつづけることはできません。これは、会話から音声を消すようなものです。音を消し去って、何か話をすることができるでしょうか。人の〈愛からくる情愛〉が、音になり、思考が話になります。愛は心に響き、思いは口をついて出るものです。それはまた、ほのおと光との関係に似ています。ほのおを取り去ると、光は消えます。〈愛からくる仁愛〉と、〈思考からくる信仰〉についても、それが言えます。
ほのおと光との関係でも分かるように、二番目にくるものには、一番目にあるものが前提になっていることがお分かりでしょう。ですから、第一に来るべきものを第一にもってこなくては、第二に来るものが来られないことも、はっきりするでしょう。したがって、第二に置くはずの信仰を第一に置いてしまうと、天界ではサカサマ人間としてしか見えません。両足が上に、頭が下にあります。あるいは、逆立ちして手のひらを地面につけて歩く芸人のようです。その芸人は、地面についた手が使えず、足で何かをしなくてはなりません。それと同じように、仁愛の実行、つまりあなた方の善行は、天界ではどんなふうに見えるか想像がつきます。要するに、あなた方の愛は自然的です。霊的ではありません。ひっくりかえっています」と。

(7) 龍の使いは、それを理解しました。悪魔はみんな、真理を耳にすると、それが真理だと分かります。ただそれを心にとどめおくことができません。悪からくる情愛があり、その本質は肉欲に他なりません。それが戻ってくると、真理についての考えを放逐してしまうのです。
そのあと、町の知者は、信仰とはどんなものか、いろいろな例で示しました。信仰が第一のものとして受けとめられると、それは、霊的生命の欠けた思いこみでしかなく、自然的なものに過ぎないので、信仰ではないとのことです。
「おおまかには、次のように言えます。あなた方の信仰には、霊的なものは何もありません。モンゴル帝国について考えるとき、その国にあるダイヤモンド鉱山とか、皇帝所有の宝物殿を考えているのと、大差ありません」と。
それを聞いて、龍の使いは、怒って出ていきました。そして町の外で仲間に報告しました。かれらは、「仁愛とは、神・救い・永遠の生命のために、隣人に善をする愛の情愛である」と聞かされ、みんな大声で言いました。
「ウソをつけ!」と。
龍は、言いました。
「なんて、おそろしいことを言う。仁愛からくるものは、救いのためだ。その行いは、ぜんぶ手柄を積むこと meritoria ではないか」と。

(8) そこでかれらは、口々に言いました。
「みんな大勢仲間をあつめて、あの町を包囲し、あの仁愛とやらを放逐しよう」と。
こんなことを企てているとき、天から火が現れ、かれらを焼きつくしてしまいました。天からの火は、都市の住民にたいする、かれらの怒りと憎しみの現れです。信仰を第一から第二に格さげし、仁愛の下におかれ、しかもそのような信仰は信仰ではないと言われて反対されたことへの怒りです。火にのみこまれたように見えたのは、その足下にあった地獄が開いて、呑み込まれたためです。 
最後の審判の日には、多くの場所で、このようなことが起りました。黙示録の中にある次の引用も、そのことを言っています。
「(龍は)出て行き、地の四方にいる諸国民・・・を戦いのために招集する。・・・かれらは、地上の広いところに上ってきて、聖徒たちの陣営と、愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、かれらを焼き尽くした」(黙示20・8、9)。


389・ 第五のメモ
あるとき、天界から、一枚の紙が、霊界の一社会に送られてきました。その社会には、教会の監督が二人、その配下の聖職者や長老たちもいました。その紙には、(マタイ28・18で主ご自身が教えておられるように)、主イエス・キリストを天地の神として認めること、「律法の行いによらず、信仰によって義とされる」という誤った教義から訣別するよう勧められていました。この紙の内容は、多くの人に読まれ、コピーされ、決断を迫られて考えこんだり、話しあったりしている人も、大勢いました。でも、その紙を受けとったあと、「教会権威者に聞かなくちゃ」とおたがいに言っています。
監督の話を聞いても、何か矛盾していて、否定的に言うばかりです。この社会の監督は、前世でも、誤謬にそまったまま、かたくなな心をした人たちでした。そして-、かれらのあいだで、しばらく話あってから、その紙は天界に送りかえされてしまいました。
そんなことがあってから、何かブツブツ言っている声がしたあと、平信徒の中で前言をとり消して、不同意を示す者が、増えてきました。みると、霊的なことで下す判断の光が、以前の輝きを失って、突然消えていきました。再度の勧告がありましたが、それも拒否され、その社会は、わたしの知らない深みへと沈んで行くのが分かりました。こうして、〈信仰のみによる義認〉を拒否して主だけを礼拝する人たちの眼前から、その社会は姿を消したのです。

(2) それから何日かたって、かの小社会が没し去った下方世界から、ほぼ中央へのぼってくる人たちを、わたしは見ました。近づくと、その中の一人が、言いました。
「フシギなこともあるものです。聞いてください。わたしたちは、沈んでいく途中、ため池のような場所が見え、それもやがて乾いた土地になり、そのあと小さな都市になりました。そこで自分の家を見つけた者がたくさんいます。何日かたって、今後どうするか、みんなで相談しました。多くの者は、あの二人の監督のもとに行って、静かに抗議する必要があると言います。天界から送られた紙をつき返したため、このようなことが起こったわけですからねえ。それで何人かを選び、監督のもとへ送り出しました。(わたしと話している相手自身、その中の一人だそうです)。そして、仲間の中で、頭がいい者が監督にむかって、次のように言いました。
『わたしたちは、他のだれかでなく、自分たちの中にこそ、教会があり、宗教があると信じてきました。福音の最高の光を受けていると言われていましたからね。ところが、天界から照らしを受けた者が、わたしたちの中にいて、その光のなかで、現在のキリスト教会には、宗教が存在しないから、教会も存在しないという事実が、ぴんときたそうです』と。

(3) それにたいし、教職者たちは言いました、
『あなた方は何を言っているのかね。〈みことば〉のあるところ、救い主キリストが知らされているところ、秘跡のあるところに、教会があるのですぞ』と。それにたいし、われわれの仲間は、言いました。
『たしかに、それは教会の基盤ですから、教会がもっている性格です。ただし、それが教会の基盤になるといっても、人間の外にではなく、人間の中に築かれなくてはなりません。(さらに続けて)三つの神が拝まれているところに、教会は存在するでしょうか。教会の教義は、パウロが言ったこと、しかも誤解された言葉のうえに、のっかっていて、〈みことば〉そのものの上に築かれていない場合、そこに教会が存在するでしょうか。世の救い主である方は、教会の神ですが、その方に向かわないで、教会があり得るでしょうか。
宗教とは、要するに悪をさけ、善を行うことです。これは否定しようもありません。信仰だけで救われる、仁愛がなくてもいいと教える宗教など、どこにあるでしょう。人間から出てくる愛は、いずれ社会道徳的な情愛でしかないと教えるのは、宗教のやることではありません。そのような社会道徳の情愛には、宗教的なものはありません。「信仰のみ」には、実行とか実践がありませんが、宗教は実践です。善行すなわち仁愛の善を除き去って、何かこれだけで救われると信じている民族は、この世界のどこにもないと思います。宗教は万事、善を教え、教会は万事、教義上の真理を教えます。その真理をとおして、善を教えるわけです。あの天界から届けられた紙のメッセージを、受け入れていたら、すばらしい栄光があったことでしょうに』と。

(4) それにたいし、監督たちの言ったことは、
『あなたは、あまりにもお高く話される。現実の信仰 fides actu は、人を完全に義とし、救う信仰で、これが教会ですぞ。信仰は状態としてみると fides statu 発出するもの、完成していくもので、これが宗教です。わが子たちよ、これは、分かってもらいたいことだ』と言いました。
それにたいし、われらの知者は応えました。
『監督さんたち、お聞きください。あなた方の教義にしたがって考えると、現実の信仰など、まるで木石です。丸太は、教会のなかに投じて芽を出すでしょうか。あなた方の考えでは、状態としてみた信仰も、現実上の信仰の延長であり、発展にすぎません。その教義によると、人を救うものは信仰だけで、自分で行う仁愛の善というものがありませんから、宗教なんてものではありません。』
それにたいし、教職者たちの言ったことはこうです。
『友よ、あなたがそんなに言われるのは、〈信仰のみによる義認の秘義〉を知らないからだ。それが分からないと、心から救われていく道が、分からないことになる。あなたが通っている道は、外面的でしかも平凡だ。お望みなら、その道で行くがいい。だがすぐお分かりだろうが、すべての善は神よりのもの、人間には何も善がないのだ。霊的なことについては、人は自分の力で何もできない。霊的善といわれる善を、人がいったい、どうして自分の力で、出来るだろう』。

(5) それにたいし、わが論者は、大いに立腹して応えました。
『わたしは、あなた方が言う義認の秘義とやらを、あなた方以上に知っているつもりです。でも、その秘義の内部には、幻想しかないと分かりました。宗教とは、神をみとめ(愛する)こと、悪魔を避け、憎むことではないでしょうか。神こそ善そのもの、悪魔こそ悪そのものでしょう。この地上でどこでも宗教があるところで、それを知らない人はいません。神をみとめ、神を愛するとは、善をすることです。善は神よりのもの、神のみ力によるものです。悪魔を避け、憎むとは、悪をしないことです。悪は、悪魔よりのもの、悪魔の力によるものだからです。あなた方が、「人を完全に義とし救う信仰」と呼んでいる「現実上の信仰」にしても、「信仰のみによる義認」という行為にしても、同じことです。つまり、神のみ力によって、神からの善を行うよう、教えておられますか。悪魔による悪魔からの悪を避けるよう、教えておられますか。ぜんぜん教えていないのではありませんか。それはどっちにしても、救いと関係のないことだと決めてかかっているからです。
あなた方が、〈発出し完成させる信仰〉だと呼んでいる「状態からみた信仰 fides statu」にしても、「現実のうえでの信仰 fides actu 」にしても、同じことです。人間からあらゆる善を排除しておきながら、信仰が完成するでしょうか。あなた方の秘義によると、「救いは恵みである以上、人間は、自分で行う善では救われない」と言ったり、また「人間がする善は、みんな功績を求めたものだ。しかし功績というとキリストの功績しかない。だから、救われたいと思って善行をすると、キリストにだけにあるものを、自分に帰することになる。これは自己義認であり、自力救済になる」などと、言ったりします。また、「人間の力にたよらず、聖霊が万事を行ってくださるのに、人が何かできるだろうか。人間が自分でやる善、自分のうちにある善は、ほんとうは善ではないのだから、人がそれにつけ加えてすることなど何もないなど。その他まだいろいろあります。

(6) 以上は、あなた方の奥義ですね。しかし、それは、仁愛の善とも言える善行をとり除き、いわゆる「信仰のみ」を確立するためのもので、わたしの目にはコトバの遊びでしかありません。そんなふうにお考えになると、教会とか宗教に関係ある霊のことがらは、人間にとっては、ぜんぶ馬耳東風で、人間は丸太かロボットです。ところが、人間には、理解し、意志し、信じ、愛し、話し、行動するための能力が、たえず与えられているわけで、それが神の像として造られている証拠です。とくに人間が人間であるのは、霊的なものによるわけですから、まず霊のことがらについては、自分の力で行うように行います。人が霊的なことで、あたかも自分の力で sicut a se 考えたり、行動したりするのでなかったら、〈みことば〉は何の役に立つでしょう。
愛から出発して、隣人にたいして善をすることを仁愛と言いますね。ところがあなたは、仁愛が何かお分かりになっていません。仁愛は、信仰のたましいであり、信仰の本質ですよ。仁愛が信仰の基本であれば、仁愛のない信仰は、死んだも同然です。命のない信仰はバケモノです。わたしはバケモノと言いましたが、ヤコブも、善行を伴わない信仰を死んだものと言っており、悪魔的であるとさえ言っています』と。

(7) わたしが、かれらの信仰が死んだもの、悪魔的なもの、バケモノと言ったので、聞いていた監督の一人は、かんかんになって怒り、かぶり物をひっぱがして、それをテーブルの上に投げ出し、『わが教会の信仰に敵対する者に、報復を与えるまで、絶対に黙ってはいない』と言い、首をふりふり、『かのヤコブか、ヤコブか』とつぶやきました。監督のかぶり物のひたいの部分に、
「義とするのは信仰のみ」と刻まれています。
すると突然、地のなかから怪物が現れました。七つの頭をもち、足はクマのよう、胴体はヒョウのよう、口はライオンのようで、黙示録(13・1、2)にあるケモノそっくりです。そのケモノの像が造られ、礼拝されたのです(14、15)。このバケモノは、テーブルの上にあったかぶり物をとり、それを下に広げ、そのうえに、自分の七つの頭をのせました。すると足の下の地面がぱっと口をひらいて、沈んでいきました。
監督は、それを見て、『そうだ! 手荒にやることだ!』と叫びました。
わたしたちは、そこから去りました。われわれの眼前に階段が見え、それをのぼって、まえにいたところで、天界が見える地上に舞いもどって来ました」と。
以上は、下方の世界から、他の百人ばかりの者といっしょに、のぼってきた霊が、わたしに話してくれたことです。


390・ 第六のメモ
霊界の北方で、水の鳴りとどろく音が聞こえてきました。わたしはそっちの方へ向かって行き、近づいてみると、そのとどろきが、はたと止んで、何か集会の話し声が聞こえてきました。そして一軒の建物が目につきました。穴だらけの壁に囲まれて、そこから、声が外に響いてきます。近づいてみると、そこに守衛がいたので、「ここに集まっている人たちは、どんな方ですか」と尋ねると、「ここにいる人たちは、知者の中の知者で、超自然のことがらで、結論を出そうとしているのです」と言います。その男は、ごく単純な信仰をもって、そう答えている様子でした。
「中に入ってもいいですか」とわたしが聞くと、いいとは言いましたが、
「ただ何も話さないようにしてください。なぜなら、異国の方を入れるには、特別許可がいります。しかも入口で、わたしの傍に立っていただきます」とつけ加えました。
それでわたしは、中に入りました。見ると、半円形席があって、中央に講壇があり、学識のある知者たちが、かれらの信仰についての秘義を論じあっています。討論のため出された議題すなわち提題は、「人が、〈信仰による義の状態〉で、あるいは〈行為のあと進歩していく状態〉で行う善は、宗教上の善かどうか」ということです。全員の同意を得たことは、宗教上の善とは、救いにつながる善だということです。

(2) 激論がたたかわされました。でも優勢だった説は、信仰の状態または信仰の進歩のうちで、人が行う善は、ただ倫理道徳的な善であって、この世の繁栄に役立っても、救いにいたらせるものではない、という判断です。救いにいたらせるのは、信仰だけだと言います。そして確認したことは、次のとおり。
「人間が自分で意志して行う善は、恵みとしてタダで与えられる善と、同じことだろうか。救いはタダで与えられるものではないだろうか。
人間のやる善が、キリストの功績といっしょにされていいものだろうか。救いはキリストの功績による以外にはないのではないか。
人間がする働きは、聖霊の働きといっしょにできるだろうか。聖霊は、人間側の働きかけがなくても、全部ご自身でなさるのではないだろうか。
信仰によって義とされる行為のうちに、初めて救いがあると言うなら、その信仰の状態や進歩の状態で、救いにつながるものは、以上の三つ(無償の恵み・キリストの功績・聖霊の働き)しかないのではないだろうか。したがって、人為による付加的善は、宗教上の善、つまり前述したような救いにつながる善ということは、絶対にできない。しかし、人為的善には人の意志がこもっているわけだから、人がもし自分の救いのために人為的善を実行すると、それを功績とみなして、実行することになるから、宗教上から考えて、むしろ悪であるということになる」と。

(3) 入口のドアのところには、異国人が二人立って、聞いていましたが、おたがいに言っています。
「これじゃ、宗教ではありませんね。人が神のため、しかも神とともに、神のみ力で、隣人に善をすることが宗教なのは、だれでも知っているのに。」すると一方が、
「あの人たちの信仰は、まどわしです。」
それで、守衛の人に尋ねました、
「あの方たちは、どのような人ですか。」
「キリスト教の知者たちです」と、守衛が答えます。二人は、
「ウソばかりしゃべっている。全く子供だましだ」と言いました。
それでわたしは、そこを出ました。わたしがその建物にやって来たこと、そのとき、あのような題でかれらが話したこと、そして記されているようなことが起こったことは、主なる神のご計画でした。


391・ 第七のメモ
霊界では、たくさんの平信徒・教職者の人と話して分かったことには、現在キリスト教界では、真理が荒廃し、神学の貧困も目にあまるものがあることです。かれらは、三位一体や、おん父・おん子・聖霊のほかに、信仰だけで救われるということしか、分かっていません。霊の面での貧弱さが目立ちます。福音書を読んでも、主キリストの歴史面だけです。
旧新約両聖書には、主について、そのほかのことが、たくさん載せられています。たとえば、おん父とご自分はひとつであること、ご自分はおん父のうちに、おん父はご自分のうちにあること、ご自分には、天地を支配する全権があること、おん子を信じることは、おん父のみ心であること、ご自分を信じる者には、永遠のいのちがあること、その他いろいろです。以上のような内容は、いまでは大洋の深みか、地球の奥底に埋められてしまっているのでしょうか。何も知られていないし、放置されたままです。〈みことば〉から引用され、朗読されても、聞いているのかいないのか、分からない始末です。風のささやきか、タイコの音か。それよりはまだ、耳の奥に響いてきてはいるようです。
天界の下、霊たちの世界にあるキリスト教徒の社会を訪ねるため、主は天使たちを遣わされました。しかしそのときの天使の悲しみは、ひじょうなものでした。オオムのようにしゃべってはいますが、救いについての無知暗黒はひどいものです。学識のある者でさえ、霊的なことがらや、神聖なことがらについては、彫像がしゃべるようにしゃべり、何も分かってはいません。

(2) ある日、一人の天使がわたしに告げました。教職者が二人いて、そのうち一人は仁愛から切り離された信仰を、もう一人は仁愛から切り離されていない信仰をもっていたそうです。仁愛から切り離された信仰の持ち主と話したときのことです。
「ちょっと失礼、あなたはどなたですか。」
するとかれは答えて、
「キリスト教改革派の者です。」
「あなたのもっておられる教義と、宗教観を知らせてください。」
かれは、
「信仰です」と言ったので、天使は、
「どんな信仰ですか。」それに答えて、
「おん父なる神は、人類への断罪をみずから負われたおん子を、哀れみ、そのおかげでわれわれは救われました。それがわたしの信仰です」と。それにたいし、
「救いについては、それだけですか」と尋ねると、
「信仰のみによって救われます」とのこと。つづけて天使は、
「あがないについてはどうですか」と聞くと、
「それは、十字架上のご受難をとおし、しかも、信仰することによって、主の功徳が人間のものに転移します」ということです。それで、
「再生については、どうですか」と言うと、
「信仰をとおして、再生します」と答えました。
。「愛とか、仁愛については、どうですか」という問いにたいし、
「それも、同じ信仰です」と。
「十戒とか〈みことば〉にあるそれ以外のことは、どうですか」という問いには、
「同じ信仰に含まれています」との答えです。そこで、天使は、
「じゃあ、あなたは何もしなくていいのですね」と言うと、
「何をしろというのです。善になるような善で、わたしの力でやることは、何もありませんよ」との答が返ってきます。
「でも、自分の力で、信仰しているのではないのですか」と、天使が言うと、
「それについて詮索しないことにしています。信じればいいのです」と。それで天使は、とうとう、「救いについて、それ以外のことは、何も分からないのですか」と問うと、答えて、
「信仰のみによって救われるのでしょう。他に何が必要ですか」と。それで天使は、
「あなたは、一定音の笛の音のように、お答えになりますね。わたしには、『信仰』というコトバしか聞こえてきません。それだけ知っていれば、他に何も要らないと言うのでしたら、何も知ってはいないことになります。行って、仲間の方々に会ってみて下さい」と言いました。
その男は、そこを去って、仲間たちのところへ行ってみました。そこは砂漠で、草一本生えていません。どうしてこんなところへ来ているのか尋ねたところ、かれらには、教会がないためだということでした。

(3) 仁愛にむすびついた信仰のある人と、天使は、次のように会話をしました。
「ちょっと失礼、あなたはどなたですか。」
「キリスト教の改革派の者です」との答え。
「あなたの教義と、宗教観は。」
「信仰と仁愛です」と言います。
「それは二つあるということですか」。答えて、
「それは切り離せません」。それで、
「信仰とは、何ですか」と尋ねると、
「〈みことば〉が教えていることを信じることです。」
「じゃあ、仁愛って何ですか。」
「〈みことば〉が教えていることを実行することです」という答です。それから、
「それを信じているだけですか。または、同時に実行もなさいますか」との問いに、
「同時に、実行もします」と答ました。
天界の天使は、その人をじっと見つめて言いました。
「わたしの友よ、いっしょにいらっしゃい。わたしたちといっしょに、住みましょう」と。
 それを予知しておられたため、主は言われました。
  「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるだろうか」(ルカ18・8)と。