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真のキリスト教


第六章 信仰について

378節~384節

378 379 380 381 382 383 384

九・真の信仰、にせの信仰、偽善の信仰がある。

378・ キリスト教会は、その揺籃の時代からずっと、分離や異端に悩まされ、ひき裂かれてきました。そして時代を経るとともに、裂け目も大きくなってきたことは、次に記されているとおりです。 
  「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもがかれを襲い、その着物をはぎとり、傷を負わせ、半殺しにしたまま逃げ去った」(ルカ10・30)。
 だから、ダニエル書には、教会について、次のように記しています。
  「ついには、憎むべきものの翼に乗って、荒廃がやってくる。その荒廃のうえに、決定的な山場となる荒廃が、根をおろすであろう」(ダニエル9・27)。
 それについて、主は言われています、
  「それから終わりがやってくるが、それは預言者ダニエルが預言したような憎むべき荒廃で、あなた方はそれを見るようになる」(マタイ24・14、15)。
 教会の運命をたとえてみると、値打ちのある商品を積んだ船が、出航と同時に嵐にあい、そのあとすぐ難破して沈み、商品は海水で腐蝕したり、サカナにつつかれたりして、ダメになってしまった感じです。
(2) キリスト教会は、その幼少期から、苦悩と分裂を背負っていたことは、使徒の時代にサマリヤの異邦人シモンが、魔術でかきまわしていたと記されている教会史からも分かります(使徒8・9~)。
 また、パウロがその『テモテへの手紙』に記しているヒメナオとフィレトもそうです。
 また、(黙示2・6と使徒6・5に名ざしで出ている)ニコラオとその名をとったニコライ宗の人たちもそうですし、ケリトもそうです。
 使徒時代が終わって、その他にも種々の異端がうまれました。
 マルキオン派、ノエトゥス派、ヴァレンティヌス派、エンクラティス派、カタフリゲス派、十四日教徒派、アロギ派、カタリ派、オリゲネス派、別名アダマンチウス派、サベリウス派、サモサタのパウロ派、マニ教徒、メレチウス派、それから最後にアリウス派です。
 それから時代がくだって、異端の大軍がなだれをうって、教会に侵入してきました。
 ドナトゥス派、フォティノス派、アカキオス派、別名半アリウス派、エウノミオス主義、マケドニア派、ネストリオス派、予定論派、教皇派、ツヴィングリ派、再洗礼派、シュヴェンクフェルト派、神人協力主義論者、ソッツィーニ主義者、反三位一体論者、クエーカ教徒、モラヴィア派、その他多数です。
 そしてルター、メランヒトン、カルヴィンなどの教義が、以上を制し、現在支配的になっています。

(3) 教会のなかに、これほどの分離分裂が起こった原因としては、おもに三つあげられます。
 第一は、〈神の三一性 Divina Trinitas〉が、分かっていませんでした。
 第二は、〈主について〉の正しい認識がありませんでした。
 第三は、十字架のおん苦しみが、〈あがない〉そのものとして受けとられました。
 ところが、これは信仰の基本的なことがらで、そこから教会が生まれ、教会の名がつけられるわけですから、以上の三つがいい加減になると、教会にあることがらは、全部曲がった方向にそれていき、ついにはまる反対の方向にむかい、しかもそれでいて、神を本当に信じ、神のあらゆる真理を信仰しているとさえ思うようになります。
 それはちょうど、目かくしをして、幻想のなかで、まっすぐな道を歩いていると思っている人に似ています。結局は、一歩一歩それていって、ついにはまる反対の方向にむかい、穴の中に落ちこみます。
 ですから、教会に属する人にとっては、本当の信仰は何か、にせの信仰は何か、偽善の信仰は何かが分からないと、誤った道から、正しい道にもどることは、絶対にできないわけです。以上を考慮にいれ、説明にはいります。

[Ⅰ] 真の信仰とは、ただ神であり救い主である主イエス・キリストを信じることしかない。それはまた、主が神のおん子であり、天地の神であり、おん父とひとつであることを信じる信仰    である。
[Ⅱ] にせの信仰とは、ただ一つしかない真の信仰から逸脱した信仰で、すべてちがった道からのぼり、主を神としてみとめず、ただの人間としてしか見ない信仰である。
[Ⅲ] 偽善的信仰は、信仰ではない。

379・ [Ⅰ]真の信仰とは、ただ神であり救い主である主イエス・キリストを信じることしかない。それはまた、主が神のおん子であり、天地の神であり、おん父とひとつであることを信じる信仰である。

 本当の信仰は一つ unica しかありません。これは信仰は真理だからです。真理は分割したり、切りきざんだりはできません。一部は左、一部は右と分けて、それでいて真理であるわけはないからです。常識的に考えて、信仰は無数の真理から成りたっていて、諸真理の複合体です。しかし、その無数にあるものは一つの体を構成し、その体のなかに、諸真理があり、体の肢節をつくっています。腕や手のように胸部に接している肢節があるかと思うと、脚や足のように、腰部に接続しているものもあります。内的真理は、頭部で、そこからすぐ出てくる真理は、顔面にある感覚器官です。頭部は内的真理だと言いましたが、その「内的」と言ったのは、より上位にあるということです。霊界では、内部のものはすべて、上位にあって優れています。そのようにして、三層の天界ができています。

 以上の体とその肢節全体に、〈たましい Anima〉と〈いのち Vita 〉があり、それが神・救い主・主である方のことです。したがって、パウロは教会がキリストの体であると言いました。だからこそ、教会に属する人たちは、自分のもっている愛と信仰の状態に応じて、体の肢節を形づくっているわけです。本当の信仰は、パウロも教えているように、一つしかありません。
  「からだは一つ、霊も一つである。・・・主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ、神は一つである。  ・・・それは、奉仕のわざをさせ、キリストの体を建てさせ、わたしたちみんなが、神の子をみとめる信仰の一致に到達し、キリストの満ちみちる年齢にいたる完全な人になるためである」 (エペソ4・4~6、12、13)。

(2) これまで十分に述べてきたように(337~339)、本当の信仰は一つしかなく、それは主イエス・キリストを神・救い主として信じることです。主が神のおん子であると信じる人には、真の信仰があります。そのわけは、主が神であると信じているからで、しかも神を信じる信仰でなくては、信仰ではないからです。これこそ、信仰に含まれ信仰を形成しているあらゆる真理のなかで、一番大切なことです。それは、主がペテロに向かって言われた〈みことば〉にあります。
  「『あなたは、生ける神の子キリストです』、と。・・・『シモン、あなたはさいわいである。わたしもあなたに言う、・・・この岩の上にわたしの教会を建てよう。地獄の門は、これに勝つ  ことはない』」(マタイ16・16、17、18)。
 〈みことば〉の他の箇所にもあるように、この「岩 Petra」は、神の真理にまします主のこと、あるいは、〈主のみ力による神の真理 Divinum Verum a Domino 〉のことです。この真理こそ、頭上をかざる王冠、キリストの体のみ手にある王笏、一番大切なもの primarium です。それは、この岩の上にご自分の教会を建て、地獄の門はこれに勝つことがないと言われた主の〈みことば〉から、明らかです。ヨハネの言葉からも、以上の信仰の性格がでています。
  「だれでも、イエスが神の子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人は神のうちにとどまる」(Ⅰヨハネ4・15)。

(3) 以上のような独特の性格が、真の信仰には備わっていますが、もう一つのこと、つまり主は天地の神であると信じることは、主が神のおん子であるということから帰結されます。次の引用箇所を見てください。
  「主のうちに、神性がくまなく、満ちみちている」(コロサイ2・9)。
  「主は、天地の神である」(マタイ27・18)。
  「父のものは、すべてご自身のものである」(ヨハネ3・35、16・15)。
 さて、主を信じる人は、心のなかに主にたいしての信仰をもっており、そしてその信仰は、本当であるとともに唯一独特のもの unica です。そのような人の特徴の第三番目は、主が父なる神と一つであると信じることです。主が父なる神と一つであるとともに、人間性を帯びた父ご自身であることは、「あがないの主について」の章で、十分述べましたが、これも主ご自身の〈みことば〉から、実に明白です。
  「父とご自分はひとつである」(ヨハネ10・30)。
  「父はご自分のうちにおり、ご自分は父のうちにおる」(ヨハネ10・38、14・10、11)。
  「弟子たちにむかって、今からのち、父を見、父をみとめるようになると言われ、またピリポを  見つめて、あなたはいま、父を見ており、父を知っていると言われた」(ヨハネ14・7~)。

(4) 以上の三つの点は、主を信じる信仰こそ、本物で唯一独特のものである確固とした特徴です。というのは、主に向かっていく人と言っても、必ずしも主にたいしての信仰に生きていると言えないからです。本物の信仰は、内部にあると同時に外部にもあります。以上三つあげた信仰の宝をもっている人には、その人の信仰の外部だけでなく、その人の信仰の内部までも、そうなっています。その人にとっては、信仰は胸のなかの宝物であるだけでなく、口から出るときも、宝物のひびきをもっています。
 主が天地の神であり、父とひとつであることを認めない場合は、ちがってきます。かれらは、心のなかで他の神々の方に目を置いています。神々の権威は同等であると言っても、力を発揮されるのは、おん子だと考えます。それは、代理者 Vicarius であるという意味でそうなのか、あがないを全うされた以上、あがなった人たちの上に支配権をもつ、などという意味からきます。
 このような主張をもつ人々によって、神の唯一性がバラバラになり、本当の信仰もくずれます。本当の信仰がくずれると、信仰はもう信仰ではなくなり、信仰の化けものになります。普通の目には信仰らしいイメージがあっても、霊的には怪物です。本当の信仰とは他でもありません。天地の神であるおひとりの神にたいする信仰です。つまりは、人間の〈かたち〉を帯びた父なる神、すなわち主を信じること以外のなにものでもありません。

(5) 主にたいする信仰こそ、信仰そのものです。それには以上三つの指標があります。すなわち、金か銀かを見わけるための試金石です。それは、唯一の本当の神を礼拝している神殿があって、それに向かっていく道を示す標石・指標のようなものです。あるいは、海の岩壁にそそりたつ灯台のようです。夜航海している場合、人は自分たちがどこにおり、帆船をどっちへ向かう風にあやつっていけばいいかを知ります。主が生ける神のおん子であるとする信仰の第一の特徴は、主の教会のなかに入っていく人全部にとって、あけぼのの明星のようです。

380・ [Ⅱ] にせの信仰とは、ただ一つしかない真の信仰から逸脱した信仰で、ちがった道からのぼり、主を神としてみとめず、ただの人間としてしか見ない信仰のことである

  にせの信仰とは、ただ一つしかない本当の信仰から逸脱した信仰のことです。これが自明なのは、本当のものはたった一つしかない以上、それ以外のものは本当ではなくなるからです。教会にある善と真理は、すべて、主と教会との間の結婚によって、生まれ増えてきます。したがって、その本質からみて仁愛と言えるもの、その本質からみて信仰と言えるものは、どれもこれも、主と教会の結婚から生まれました。主のものであっても、教会のものであっても、両者の結婚から生まれたものでないなら、合法的な結婚でなく、不法の結婚から生まれたものです。すなわち、一夫多妻的なものか、姦淫的なものから、生まれました。
  一夫多妻的な信仰とは、どれもこれも、主をみとめながら、いつわりの異端をうけがう信仰です。姦淫から生まれた信仰とは、一つの教会に三人の主をみとめる信仰のことです。これはメカケ的信仰とも言えるでしょう。あるいは、ひとりの男にとつぎながら、別の二人の男と夜床をともにする女のようです。別の男とともにいるあいだ、それぞれを自分の夫と呼んでいます。だからこのような信仰は、にせの信仰となるでしょう。多くの箇所で、主もまたこのような者を「姦淫者」と呼んでおられます。ヨハネによる福音書に「泥棒と強盗」とあるのは、かれらのことです。
  「よくよくあなた方に言っておく。羊の囲いに入るのに、門からではなく、他の所から乗り越えてくる者は、盗人であり、強盗である。・・・わたしは門である。わたしをとおって入る者は、  救われるであろう」(ヨハネ10・1、9)。
 「羊の囲いに入る」とは、「教会に入る」ことであり、「天界に入る」ことです。「天界に入る」ことでもあるわけは、教会と天界は行動をともにしており、教会のあるところにしか、天界はありえないからです。したがって、主が教会の花婿であり夫であるということは、おなじく天界の花婿であり夫であるということにもなります。

(2) ある人の信仰が合法的に生まれたものか、あるいは私生児的であるかについては、前述の三つの指標から調べれば分かります。まず主を神の子としてみとめるかどうか、主を天地の神としてみとめるかどうか、主をおん父と一体であるとみとめるかどうかです。以上の三つの本質的特徴からはずれれば、はずれるほど、その信仰は、まがいものとなります。
 主を神としてみとめず、人間としてしかみない人たちの信仰も、まがいものであり、姦淫的です。だから、アリウス主義もソッツィーニ主義も、キリスト教会で異端とされ、除名処分にされたわけで、両方とも厭わしい異端であることは明白です。主の神性を否定し、別の方向にそれていきました。
 ただしわたしが心配しているのは、現在教会に属している人たちの精神には、どこかこのような恐るべき考えが隠されていることです。フシギなことに、学問でも判断力でも、自分が他の人より優れていると思っている人ほど、主は人間ではあるが神ではない、なぜなら人間は神にはなれないから、といった考えにとりつかれやすいことです。このような考えにとりつかれると、霊界では地獄の方にいるアリウス派、ソッツィーニ派の仲間といっしょになります。

(3) 現在教会に属している人々には、このような共通した精神がはびこっているのは、ひとりひとりの人間には、同伴の霊 spiritus consocius がいることからきます。人間は、この霊がいなくては、分析的・合理的・霊的に思考することができず、人間でなくなり、ケモノになってしまいます。そして、どんな人間も、自分の意志にある情愛と、理性の感知力に似通った霊を呼びよせます。
 〈みことば〉からくる真理をとおして、またそれによって生活することをとおして、善い情愛のなかに自分をひたしていくとき、その人には天界の天使がつながってきます。それにたいし、偽りを固くにぎりしめ、悪い命をとおして、悪い情愛のなかに自分をひたしていくとき、その人には地獄からの霊がつながってきます。その霊につながると、人はますますサタンとの友交関係に入り、〈みことば〉の真理に反抗する偽りで、だんだん心を固くし、主に対抗するアリウス的・ソッツィーニ的な邪念にとりつかれます。
 それは、サタンというサタンはみんな、〈みことば〉からくる真理を耳にしたり、イエスのみ名を唱えるなどということには、ガマンができないからです。それを耳にするやいなや、カッとなって、冒涜のコトバを吐きつつ走って逃げます。もし、天界からの光が射しこんでくるとすれば、まっ逆様になって、ほら穴の中に身を投げます。そこは暗闇ですが、フクロウが暗がりでも見えるように、またはネコが納屋の中でもネズミが追えるように、明るく照っています。
 主の神性と〈みことば〉の神聖なことを、信仰でも否定し、心の中で否定する人は、死んでからみんなこんなふうになります。たとえ外面でつくろい、キリスト信者であると口で言っても、かれらの内部の人間は以上のようです。わたし自身見たり聞いたりしたから、これが分かっています。

(4) 口先だけでは、主をあがない主・救い主としてあがめていても、心と霊ではたんなる人間としてしか見ない人は、それを口にしたり教えたりしていても、かれらの頬は蜜袋、その心は胆汁袋です。その言葉はあまいケーキでも、その考えは毒の入った酒です。あるいは、毒のはいったロール・パンとでも言えましょう。祭司なら、海賊です。平和の国の旗をかかげ、船が近づくまで友交関係にあるように見せ、近づくと海賊の旗をあげ、船をその乗客もろとも捕虜にします。あるいは、善悪を知る木を這うヘビのように、光の天使の姿で、手にリンゴをもって近づきます。そのリンゴには、生命の木の実に似せて、黄金色に塗られているのです。それをさし出して、
  「それを食べると、あなた方の目がひらけ、神のように、善悪を知る者になることを、神は知っておられるのです」(創世3・5)と言います。
 それを食べたあと、かれらはヘビに従って陰府 Orcus まで下り、そこでいっしょに暮らします。その陰府の世界のまわりには、アリウスやソッツィーニの実をとって食べたサタンが住んでいます。次の引用もそれを表わしています。
  「そこに礼服をつけていないで入ってきた人がいたが、外の暗闇に投げ出された」(マタイ22・11~13)。
 礼服とは、主が神のおん子であること、天地の神であること、おん父と一体であることを信じる信仰のことです。口先だけで、主をあがめ、心と霊では主をたんなる人間と思っている人たちが、自分の考えのフタをあけて、だれかを説得しようとする場合、霊的な人殺しをやっているのです。その中でもきわめて邪悪な連中は、霊的な意味での人肉食いです。
 人間の〈いのち〉は、主にたいする愛と信仰から生まれます。主が、〈神人 Deus Homo〉であるとともに〈人神 Hmo Deus 〉であるという信仰と愛の基本を失ってしまうとき、人は生きていても、死んでいます。このようにして、小羊がオオカミによって、食いちらされていくように、人間は殺されていきます。

381・ [Ⅲ]偽善的信仰は、信仰ではない。

 人は、自分についてしばしば考え、しかも自分が他の人々よりすぐれていると思うとき、偽善者になります。自分の心にある思いや感情をその枠にはめ、それを自分の体にしみとおらせ、感覚器官に行きわたらせます。ここで、人間は、自然的・感覚的・肉体的になります。そうなると、人の心は、執着している肉から離れて、神に心をあげ、天界の光のうちに、神についてや霊的なことを見る力がなくなります。
 人間が肉的になると、耳から理性に訴える霊的なことがらも、幻像にしか見えません。空中をただようホコリ、汗ばみ走るウマの頭部にむらがるハエのようにしか見えません。だから心中それをあざ笑います。自然的人間は、霊に属すること、つまり霊的なことがらを、白昼夢のようだと思っているのは、ご存じでしょう。

(2) 自然的な人たちの中でも、偽善者は、もっとも低い部類に属します。それは、感覚的だからです。その心は、自分の肉体にある感覚に、しっかり結びついていて、感覚がほのめかすこと以外には、見たいとは思いません。感覚というものは、自然のうちにあるので、あらゆるものについて自然を〈みなもと〉にして、考えを押し進めます。信仰にかんすることがらも、そんなふうにします。 もし万一、そのような偽善者が説教師にでもなると、幼少時と青年時代に、信仰について耳にしたことを記憶に保管していますが、その話の中身には霊的なものがなく、自然的なものしか存在しない結果、聴衆のまえにその話をひびかせても、魂のない声でしかありません。それが魂のこもったように響くことがあるのは、自己愛と世間愛のたのしみからくるもので、弁舌がたくみであればなおさらです。聞く側は、それをコーラス隊の合唱のように、聞いています。

(3) そのような偽善的説教師の場合、説教が終わって家へ帰ると、信仰に関することや、〈みことば〉を引用して聴衆に話したことはぜんぶ、バカらしいことだと思います。そして、「池のなかに網を投げ入れ、小ザカナと貝をとったぞ」と、ひとりごとを言うかも知れません。本当の信仰をもっている人たちを、そのように空想します。
 偽善者は、それぞれにちがう二つの頭をもった彫像のようです。内側にある頭は、胴体すなわち身体にくっついており、外側にある頭は、内側の頭の周囲をぐるぐるまわっていて、その頭の全面は、カツラ作りの店頭に並べてある木製の頭そっくりに、人間の顔に似せて、肌色にぬってあります。あるいは、船員が思いのままに、風の方向や風にさからって、帆を調節できるようになっている船のようです。自分の肉や感覚をよろこばしてくれることにだけ心を向けることは、このような帆の操作に似ています。

(4) 聖職者で偽善者であれば、これこそ喜劇役者・サル真似師・俳優です。王様とか、将軍、知事、司教の役を演じますが、衣装をぬぎすてると、ラブ・ホテルに入って、売春婦といっしょになります。また、内側と外側の両方に開く回転式チョーツガイを使ったドアのようです。
 偽善者の心とはそんなふうで、地獄の側からも、天界の側からも開くことができます。一方が開くと、他方は閉じます。神聖な儀式を行い、〈みことば〉のもとに教えを説いているときは、自分が言っていることを信じていると思い、しかもそのとき、地獄側は閉じています。
 ところが、家に帰ると、信じていることなど何もないわけで、そのときはさっさと、天界側の門が閉じられています。

(5) いちばんの偽善者になると、本当の意味で霊的な人間にたいして、内心憎悪をもやします。それは、天界の天使たちにたいして、サタンがいだいているのと同じです。かれらがこの世で生活しているとき感じられなかったものが、死後はっきりします。
 そのときになると、霊的人間らしく振舞っていた外部がとりのぞかれますが、かれらの内部的人間は、サタンとおなじであることが分かります。霊的な人間をよそおう偽善者とは、次のようです。かれらについては、
 「ヒツジの衣を着ているが、内側は強欲なオオカミである」(マタイ7・15)とあります。
 天界の天使たちの目のまえには、そんなふうに見えます。手をあわせて、祈りながら歩いている祈祷師のように見えても、心から口をついて出てくるのは、悪霊への叫びです。デモンに接吻します。神に聞こえよがしに、自分のはきもで宙にカチンと音を立てます。両脚で立っているとき、かれらの両眼はヒョウ、その歩き方はオオカミ、その口はキツネ、その歯はワニ、その信仰はハゲタカのようです。

十・  悪人には信仰がない。

382・ 神による世界創造を否定し、それと同時に、神を否定する人、つまり無神論的自然主義者は、みんな悪い人間です。かれらが悪人である理由は、自然的な善だけでなく、霊的な善、つまり善という善は、すべて神に由来する事実を否定するところからきます。神を否定する人が何かの善を求めたり、その善を享有することができたにしても、自分のエゴ suum proprium から出たもので、それ以外の何ものでもありません。人のエゴは肉欲で、その肉欲からくるものは、たとえ自然的に善に見えても、霊的には悪だからです。このような人たちは、理論上の悪い人間だということになります。 それにたいし、十戒にまとめられている神の掟を何ら実践しないまま、いわゆる無法者として生きる人たちは、実践上の悪い人間です。口先で神を告白している人は、たくさんいますが、心の中で神を否定している人は、実践上の悪人です。それは、神と神の掟とは、一つだからです。そのため、十戒について、「エホバはそこにとどまる」(民数10・35、36、詩132・7、8)と言われています。悪人には信仰がないということを分かりやすくするため、次の二つの命題から、結論をだしていきましょう。

[Ⅰ] 悪は地獄のもの、信仰は天界のものであるから、悪人には信仰がない。
[Ⅱ] たとえ道徳的生活をおくり、信仰について理性的に語り、おしえ、書いたとしても、主と〈みことば〉を排するキリスト教界の人には、なんの信仰もない。
 以上について、それぞれ記します。


383・ [Ⅰ]悪は地獄のもの、信仰は天界のものであるから、悪人には信仰がない。

 悪はすべて地獄からくるため、悪は地獄のものです。信仰の真理は、すべて天界からくるため、信仰は天界のものです。この世にいるあいだ、人間は天界と地獄の中間に保たれ、歩みをすすめています。それは、人の自由選択の可能な状態をしめす霊的均衡です。足下には地獄が、頭上には天界があります。地獄からたちのぼってくるものは、ぜんぶ悪と偽りです。天界から下ってくるものは、ぜんぶ善と真理です。人間は、この対立した両極のまん中にあり、しかも霊の均衡状態をたもっているため、自由に、一方か他方かのいずれかを選択・採用し、自分のものにします。それが悪と偽りなら、地獄につながり、善と真理なら、天界につながります。
 ここで分かることは、悪が地獄のもの、信仰が天界のものだというだけではありません。両者が同時に、ひとりの主体、あるいは人間に、共存するということもないわけです。もしそうなら、人はちょうど二本の綱に結びつけられて、一方は上から、他方は下から引っぱられ、宙づりになります。クロドリが飛んでいるように、上昇したかと思うと、下降します。上昇して神をあがめ、下降して悪魔をあがめますが、これが冒涜であることは、だれでも分かります。
  「だれも二人の主人にかね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するからである」(マ  タイ6・24)。
 悪には信仰が存在しないことは、いろいろなたとえから説明できます。悪は、ほのおのようです。(地獄の火とは、悪い者のもつ愛以外のなにものでもありません)。ほのおは、ワラクズのように信仰を焼きつくし、信仰にかんするすべてをひっくるめて、灰に化します。悪は暗闇に居をかまえ、信仰は光のうちに存在します。悪は偽りによって、信仰を消し去りますが、それは暗闇が光を消すようなものです。悪は墨汁のようにまっ黒ですが、信仰は雪のように真っ白で、水のように透明です。スミが雪や水を汚すように、悪は信仰を黒く染めます。
 いずれにせよ、悪は信仰の真理とむすびつくわけはありません。悪臭と芳香、屎尿と香ただようブドウ酒をいっしょにできないのと同じです。または、死臭のする死体と生きている人が、おなじベットに横になるわけにはいきません。それはまた、オオカミがヒツジの檻の中に、ハゲタカがハトの小舎の中に、キツネがニワトリ小屋の中に、いっしょにいるわけにはいかないのと同じです。

384・ [Ⅱ]たとえ道徳的生活をおくり、信仰について理性的に語り、教え、書いたとしても、主と〈みことば〉を排するキリスト教界の人には、なんの信仰もない。

 以上は、前述したこと全部の結論です。
 前述したように、信仰が本物で独一的 vera et unica であるには、主にたいする信仰、主のみ力による信仰がなくてはなりません。
 反面、主にたいするものでも、主のみ力によらない信仰は、霊的信仰ではなく、自然的信仰です。たんに自然的な信仰だけでは、信仰の本質を含みもっていません。
 さらに信仰は、〈みことば〉をもとにするもので、それ以外のものに依存していません。〈みことば〉は主のみ力によるものであるとともに、〈みことば〉の中に、主がいらっしゃいます。だからこそ、「神は〈みことば〉であった」(ヨハネ1・1、2)とあるのです。
 ですから、〈みことば〉を認めない人は、主を認めません。この二つは一つです。そして、〈みことば〉か主かのいずれかを認めない人は、教会をも認めません。それは、教会は主のみ力により、 〈みことば〉を介して存在するからです。
 教会をみとめない場合、人は天界からはずれます。なぜなら、教会こそ天界への案内役をするからです。天界の外にいる人たちは、罰せられています damnatus 。そして、その人たちには、信仰がありません。
 主と〈みことば〉を認めない人たちは、たとえ道徳的に生活し、信仰について、理性的に語ったり、教えたり、書いたりしていても、信仰をもっていないわけです。なぜなら、かれらは霊的な道徳性に欠け、自然的でしかありません。霊的な合理性にも欠け、その精神はきわめて自然的です。たんに自然的な道徳性や合理性だけでは、そのものとして死んでいます。死んでいる状態では、何の信仰もありません。このように、自然的であっても、つまり信仰の面で死んでいても、信仰について、仁愛について、神について、語り、教えを説くこともできます。しかしそれは、信仰・仁愛・神をもとにして、やっていることではありません。
 主を信じる人にだけ信仰が存在すること、その他の人には、信仰は存在しないということは、次の箇所からも分かります。
  「み子を信じる者はさばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を、  信じないからである」(ヨハネ3・18)。
  「み子を信じる者は、永遠の〈いのち〉をもつ。み子を信じない者は、〈いのち〉を見ることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネ3・36)。
  「イエスは言われた、『真理のみ霊が来るとき、罪について、世のあやまりを明らかにする。・・・かれらがわたしを信じなかった誤りである』と」(ヨハネ16・8、9)。
 またユダヤ人にたいしては、
  「もしあなた方が、わたしの存在を信じようとしないなら、自分の罪の中に死ぬことになる」(ヨハネ8・24)。
 だからこそ、ダビデも言っています、
  「わたしは、主の定めについて述べる。・・・あなたは、わたしの子だ。わたしは、きょう、あなたを生んだ。・・・あなた方は、怒りを買い、途中で滅んでしまわないよう、その子に口づけしなさい。・・・その方に信頼している人たちは、みんなさいわいである」(詩2・7、12)。 主こそ神のみ子であること、天地の神であること、おん父と一体であるという信仰が、教会の末期、すなわち〈代の終わり〉には、失われてしまうと、主は福音書記者をとおして、預言しておられます、「いまわしい荒廃がやってくる。それは、かつてなく、これからもないほどの苦痛である。太陽は暗くなり、月はその光をあたえず、星が天から落ちてくる」(マタイ24・15、21、29)。
 また、黙示録には、
  「サタンはその獄から解放され、海の砂のように無数にいる地の四方の諸国民をだますために、出ていくであろう」(黙示20・7、8)。
 それを予知しておられたため、主は言われました。
  「人の子が来るとき、地上に信仰が見られるだろうか」(ルカ18・8)と。