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真のキリスト教

神の本質としての愛 Amor と英知 Sapientia

36節-47節


36, 37, 38, 39, 40, 41, 42, 43, 44, 45, 46, 47


36・ まえに、「神の存在 Esse Dei 」と「神の本質 Essentia Dei 」を区別して考えました。それはまた、「神の無限性」と「神の愛」とのあいだの区別です。つまり神の存在については、その無限性があてはまり、神の本質については、その愛があてはまります。それは、前述したように、神の存在は、神の本質より、ずっと普遍的な概念であると同時に、神の無限性も神の愛より、ずっと普遍的であるということです。

 したがって、無限 Infinitum は、すべて無限なものについて述べる神の本質・属性の形容詞です。つまり神の愛も無限ですし、神の英知も無限ですし、神の力も無限です。それは、神の存在Esse Dei が先在しているということではなく、これがその本質のなかに、首尾一貫して、規定をあたえ、形をそえ、同時にそれを高めていくものとして、結びあわされているということです。では、本章のこの部分についても、以前と同じように、各節に区分して考えてみましょう。

[Ⅰ] 神は、愛そのもの、英知そのもので、この愛と英知こそ、神の本質である。

[Ⅱ] 神は、善そのもの、真理そのもので、善は愛に、真理は英知に属するものである。

[Ⅲ] 神は、愛そのもの、英知そのもので、そのため〈いのち〉そのもの、みずからのうちにある 〈いのち〉である。

[Ⅳ] 神のうちにある愛と英知は、ひとつになっている。

[Ⅴ] 愛の本質は、自分以外の他の者を愛し、かれらと一体になり、かれらを心から幸福にしたいと願うことである。

[Ⅵ] 宇宙創造の原因は、この神の愛で、それがまた神の宇宙維持の原因でもある。

 以上を一つ一つ調べてみましょう。


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37・ [Ⅰ]神は、愛そのもの、英知そのもので、この愛と英知こそ、神の本質である。


 〈愛と英知〉という二つの本質的性格は、神のうちにあるとともに、神から発してくるすべての無限なものに関係づけられます。これは、最古代の人には見えていたものが、時代がくだるにつれて、人の心が天界からそれて、現世的・肉的なことに溺れ、見えなくなったのです。

 人々は、愛の本質が何か、また英知の本質が何か、わからなくなりました。それだけでなく、形相から遊離した愛には力がないこと、愛は形相のうちにあり、形相をとおしてこそ働くことも、分からなくなったのです。

 神は、みずから独一的な第一の実体であるとともに、第一の形相であって、その本質は〈愛と英知〉であり、すべての被造物は、この神によって造られました。したがって、宇宙は個々から全体まで、愛から始まって、英知をとおして、創造されたものです。したがって、個々全体にいたる造られた実体には、〈神の愛と神の英知〉がやどっています。そしてなお、神の愛は、ただ万物形成の本質をなしているだけでなく、万物をたがいに結びつけて一つにし、形あるものをまとめ、包んでいくものです。

(2) 以上のことは、この世にある無数のものから、明らかにすることができます。まず太陽から出る熱と光ですが、この二つは、地上にある個々万物が、実在と存続をつづけていく本質的・普遍的要因です。太陽があるのは、それが〈神の愛〉と〈神の英知〉に相応しているからです。霊界の太陽から発する熱は、その本質からみると愛で、同じ太陽から発する光は、その本質からみると英知です。 人間の精神の場合は、その実在と存続に〈意志と理性〉という二つの本質的・普遍的なものがあり、これによっても説明ができます。人間の精神はこの二つからなっていて、人の個々全体を動かしているのは、この二つです。というのは、意志は、愛をうけいれる器であり、愛の住まいですが、理性は、英知をうけいれる器であり、理性の住まいになっています。この二つは、〈神の愛〉と〈神の英知〉から生まれたものだからこそ、それに相応しているのです。

 それから、人間の肉体には、心臓と肺臓、つまり心臓の収縮・拡張および肺臓の呼吸作用があって、これが人の実在と存続をささえる二つの本質的・普遍的要因になっています。そしてこの二つが人間の個々全体を動かしていることはご承知のとおりです。それも、心臓は愛に相応し、肺臓は英知に相応しているからです。その相応 correspondentia については、『神の愛と神の英知についての天使的英知 Sapientia Angelica de Divino Amore et Divina Sapientia 』(アムステルダム)に、くわしく述べられています。

(3) 愛は、新郎とか夫のように、あらゆる形相を産みだしていきますが、それも新婦または妻としての英知をとおして行われます。これは、霊界と自然界の両方にある数えきれないほど多くのことから、確かめることができます。ただここで、覚えておいていただきたいことは、天使のいる全天界は、〈神の愛〉と〈神の英知〉をみなもととし、天界の形相にそってととのえられ、その形相のなかに包みこまれています。ところが、世界の創造を〈神の愛〉と〈神の英知〉以外のところから説明しようとする者は、この二つが、神の本質をなしていることがわからず、理性の見とおしより、肉眼の視力のほうにおりていき、自然こそ宇宙の創造主だと言って、口づけします。

 かれらの考えるものは、奇怪な魔もので、亡霊を生み出し、ウソ・偽りを思い、そこから推理をはたらかせ、創造を夜鳥の生んだ卵のように結論づけます。これは精神のはたらきとは言えず、むしろ理性の欠けた目と耳のはたらきで、たましいのない思いにすぎません。かれらは、暗闇のなかでの色彩、タネによらない樹木、太陽のない世界万物についてしゃべっているような感じです。どうしてかというと、あとから出てきたものを始めとし、原因があって生まれたものを原因とし、このようにすべてをサカサマにして、理性の覚醒をおさえ、夢をみているからです。

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38・ [Ⅱ] 神は、善そのもの、真理そのもので、善は愛に、真理は英知に属するものである

 すべてのものは、善 bonum と真理 verum に関係があることは、あまねく知られています。これはすべてのものが、愛と英知から生まれた証拠です。愛からでてくるものは、すべて「善」と呼ばれますが、それは「いいもの」と感じられるとともに、愛の自己表現であるうれしさ jucundum は、だれにとっても、いいものだからです。

 英知から出てくるものは、すべて「真理」と呼ばれます。それは、真理からなっているものは、英知以外のなにものでもないからです。同時に、英知はその対象を光に照らして、魅力的なものにします。それが感知されるとき、その魅力ある愛らしさ amoenum こそ、善に由来する真理にほかなりません。

 すなわち愛は、あらゆる種類の善の複合であり、英知は、あらゆる種類の真理の複合です。そしてこの二つは、愛そのもの、善そのもの、あるいは英知そのもの、真理そのものにまします神からきています。それが理由で、教会には、仁愛 charitas と信仰 fides という基本があって、教会にある個々全体は、それからなっており、また教会の個々全体のなかに、この仁愛と信仰が存在するわけです。というのも、教会にある善という善は、いわゆる「仁愛」が源になっており、教会にある真理という真理は、いわゆる「信仰」が源です。

 愛のうれしさは、仁愛のうれしさでもあり、それがもとで、うれしさが「善」と呼ばれています。また、英知の愛らしさは、信仰の愛らしさでもあり、それがもとで、真理が「真理」と呼ばれています。というのも、うれしさや愛らしさこそ、善や真理の〈いのち〉になっていて、その〈いのち〉がなかったら、善や真理はたましいを失い、不毛になってしまうのです。

(2) しかしながら、愛のうれしさにも、英知に見える愛らしさにも、二つの種類があります。すなわち、〈善のもつ愛のうれしさ〉と、〈悪がもつ愛のうれしさ〉、それから〈真理がもつ信仰の愛らしさ〉と、〈偽りがもつ信仰の愛らしさ〉です。前者つまり二つの〈愛のうれしさ jucunda

amoris 〉は、主体がそれを〈感じることから ex sensatione〉「善」と呼ばれ、後者つまり〈信仰の愛らしさ amoena fidei 〉は、その主体がそれを〈感じとることから ex perceptione 〉「善」と呼ばれます。そしてこの善は、理解されるとき真理になります。

 ただしここに対立があって、一方の〈愛の善〉が善であるのにたいし、他方の〈愛の善〉は悪です。また一方の〈信仰の真理〉が真理であるのにたいし、他方の〈信仰の真理〉は偽りです。

 いずれにせよ、愛についていうと、そのうれしさが本質的によいものであるとき、太陽の熱のように、ゆたかな実りをもたらす生気となって、肥えた土壌や、樹木の成長や、穀物畑にはたらきかけます。そして、愛がはたらくとき、カナンの地にあったように、楽園やエホバの庭園が出現します。

 また、〈真理の愛らしさ〉は、春の日の光のようで、美しい花がいけられた水晶の花瓶に、光が流れ入り、ドアをあけるとその芳香がただよってくるかのようです。それにたいし、〈悪の愛のうれしさ〉は、不毛な土地を乾燥・枯渇させ、トゲ・イバラのある有害樹木を生やす太陽熱のようです。そこには、ヘビやマムシがいるアラビヤの砂漠ができます。また、〈偽りの愛らしさ〉は、冬の日の光のようで、酢い液体のなかでムシがわき、悪臭のするトカゲが住む革袋のなかに流れ入る光です。

(3) ここで、善という善はすべて、真理をとおして自己を形成し、真理をとおして自らを包み装い、他の善と区別できるようになっていることを知らなくてはなりません。ある系列に属する善は、タバのようになって団結し、こうして自らを包みよそおい、ほかの善と一線を画していることです。このようにして善が形づくられていることは、人体の全部と各部を見ればわかります。

 それと同時に、人間の精神にもそのような機能分化があることは、精神に属するものと身体に属するもののあいだには、それぞれに不変の相応があることから分かります。だから、人間の精神は、その内部は霊的実体によって、その外部は自然的つまりは物質的実体によって構成されているのです。〈愛のうれしさ〉が善である場合、その精神は内部が天界とおなじ霊的実体でつくられ、〈愛のうれしさ〉が悪である場合、その精神の内部は、地獄とおなじ霊的実体でつくられていきます。前者の善が真理をとおして束ねられているのにたいし、後者の悪は、偽りをとおして束ねられていきます。善も悪も、このように束ねられることは、主の言われたことからも分かります、

  「毒麦が集められ、束にして焼かれるように、つまずきとなるものも、そうなるであろう」(マタイ13304041、ヨハネ15・6)。

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39 [Ⅲ]神は愛そのもの、英知そのもので、そのため〈いのち〉そのもの、みずからのうちにある〈いのち〉である。


 ヨハネは言っています、

 「〈みことば〉は神とともにあった。神は〈みことば〉であった。・・・この〈みことば〉に〈い  のち〉があった。そしてこの〈いのち〉は、人の光であった」(ヨハネ1・1、4)。

 ここで「神」といっているのは〈神の愛〉のことで、「みことば」といっているのは〈神の英知〉のことです。そして神の英知は、そのものとしては〈いのち〉であり、〈いのち〉は、そのものとしては、霊界の太陽から発する光です。エホバなる神は、その太陽の中心におられます。〈神の愛〉は、火が光の形成のもとになっているように、〈いのち〉のもとになっています。

 火には、燃焼と輝きの二つがあり、燃焼からは熱が発生し、輝きからは光が発します。同じように、愛にも二つの性格があって、一つは火の燃焼に相応するもので、人間の意志を内から感動させるもの、もう一つは火の輝きに相応するもので、人間の理性を内から感動させるものです。

 人間に愛と理知があるのはそのためです。というのは、今まで何回も述べているように、霊界の太陽から出る熱は、その本質からすると愛のことであり、光は、その本質からして英知だからです。そしてこの二つは、宇宙万物の個々全体に流れいり、内部から感動をあたえています。人間の場合、その意志と理性に感動をあたえますが、この二つは流入の容器として、造られたものです。つまり意志は愛の器として、理性は英知の器として造られています。ということで、人の〈いのち〉は理性のうちに住まっていること、その人の英知の程度によって理性の性格がきまること、意志のもつ愛は、その英知に味をつけていることなどが、はっきりしてきます。

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40・ ヨハネは記しています、

  「父がみずからのうちに〈いのち〉をもっておられるように、子にもみずからのうちに〈いのち〉  をもつよう、子に〈いのち〉をあたえられた」(ヨハネ5・26)と。

 ここで分かることは、神ご自身が永遠のむかしから存在し、みずからのうちに生きておられるように、時間のなかで受けとられた主の人間性も、みずからのうちに生きておられるということです。みずからのうちにある〈いのち〉 vita in se とは、独一の〈いのち〉そのもので、そこから天使も人間も、みんな〈いのち〉をいただいて生きています。人間の理性は、この〈いのち〉が自分では作れないこと、むしろ〈いのち〉を受ける器として形づくられていることを、自然界の太陽から出る光から見ることができます。つまり、眼はその受け皿として形づくられたもので、太陽から流れてくる光があって、眼は初めて見ることができるようになります。

 〈いのち〉についても同じことが言えます。前述したように、霊界の太陽から発する光は、人間が作れるものではありません。むしろ絶え間なく流れ入るもので、人の理性を照らすと同時に、生かしています。光も命も英知も、ひとつのものですから、英知も作られるものではないことは、そこから分かります。したがって、信仰も、真理も、愛も、仁愛も、善も、自分で作れるものではなく、〈それを受けいれる〈かたち〉 formae recipientes illa〉として造られているのです。人間の精神も天使の精神も、そのような〈かたち〉なのです。

 そのため人はみんな、自分から生きているとか、自分から知恵を味わい、信じ、愛し、真理を感じとり、善を欲し、行っているなどと思ってはならないのです。そんなふうに思いこめば思いこむほど、自分の心を、天界から地上に、ひきおろしてしまうことになります。そして、霊的な考え方からはなれて、自然的・感覚的・肉的になり下ります。人はそのようにして、自分の精神の高い領域を閉じ、神のこと、天界のこと、教会のことなど、全般にわたって盲目になってきます。そうなると、それについて考えたり、推理したり、話したりしても、暗闇のなかにいるから、どれもこれも、愚かで間が抜けており、それでいて、自分の言動が英知に満ちていると、自信を深めたりします。

 精神の高い領域は、ほんとうの〈いのち〉の光が住まっているところで、そこを閉じると、この世の光しか入ってこない精神の低い領域が開いてきます。この種の光明 lumen は、高い領域の光 luxから切りはなされたもの、つまり迷いの光明でしかありません。そこでは偽りが真理に、真理が偽りに見え、偽りの推論が英知に、真理からする推論が異常に見えます。そして、自分では英知と思っているものが、昼間のコウモリが見ているようなものなのに、ワシのような眼光を備えていると、うぬぼれるのです。

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41 ]神のうちにある愛と英知は、ひとつになっている


 教会のなかで英知を味わっている人なら、だれでも愛 amor も仁愛 charitas も、その善はすべて神からくるものであり、また英知も信仰も、その真理はすべて神からくるものであることを知っています。人間の理性についても、愛と英知のみなもとは霊界の太陽で、その太陽のまん中にエホバなる神がいますことさえ知っていれば、以上のことを見とおすことができます。それはまた、神エホバをとりかこむ太陽をとおして、神エホバからくるものであるといっても同じことです。その太陽から出る熱の本質は、愛であり、その太陽から出る光の本質は、英知です。ということで、愛と英知は、そのみなもとにあっては一つであること、つまりその太陽のみなもとである神にあっては、一つのものであることが、白日のもとに明らかにされます。このことは、自然界の太陽から考えても分かります。これは純粋の火ですが、そこから熱が出、しかも、その火の輝きから光がでます。そして、熱も光も、そのみなもとでは一つです。

(2) それが分離するのは、発出するときのことで、それを受ける主体が、熱を多く受けたり、光を多く受けたりすることで分かります。それはとくに人間の場合いちじるしく、〈いのち〉の光である理知と、〈いのち〉の熱である愛は、分かれています。それが起こるのは、人間が改心して生まれ変わる必要があるからです。これも、〈いのち〉の光である理知によって、人間の欲するもの、愛するものが何か、教わらなくては、ありえないことです。

 いずれにしても、人間のうちで愛と英知が結びつくよう、神はたえず働いておられるということを知らなくてはなりません。ただし、人間が神を見あげて神を信じるようにならなくては、人はこの二つを、いつも分離させたままです。それで、愛または仁愛の善と、英知または信仰の真理の二つが、人のうちで結びあわされれば結びあわされるほど、人は神の像 imago Dei となり、天界に向かい、天使のいる天界にひきあげられます。それに反して、人のうちでこの二つが分離すれば分離するほど、人はルチフェルまたは龍の似姿をもってきて、天界から地上に投げ出され、やがて地の底の地獄に行くことになります。

 以上の二つが結びあわされると、人間の状態は、春の日の樹木のようになります。熱は、同じ程度の光とうまくまざって、発芽・開花・結実がおこなわれます。分離すると、その代わり、人間の状態は冬の日の樹木のようになります。ここで光から熱が去り、木の枝からは葉がぜんぶ落ちて、はだかになってしまいます。

(3) 〈霊的熱である愛〉と、〈霊的光である英知〉が分離されると同時に、仁愛が信仰から離れて、人間は酸化・腐敗していく土壌のようになり、ムシがわき、そこに芽が出たとしても、葉にいっぱい寄生虫がつき、食われてしまいます。悪の愛がもつ誘惑は、それみずから肉欲が本体ですが、精いっぱいあばれます。理知はそれをコントロールできず、かえってそれを好み、育て、養います。

 一口で言うと、〈愛と知恵〉つまり〈仁愛と信仰〉の二つは、神がたえず結合させようとつとめておられるものです。

 これを分離することは、人間の紅顔を死者の蒼白に変えることです。または、元気な赤ら顔から輝きを失わせ、松明のあかりのような顔にするともいえます。または、二つのあいだの結婚のきずなを解消し、妻を姦婦、夫を姦夫にします。

 愛とか仁愛は夫で、英知や信仰は妻です。その二つを分離させることは、霊的姦淫であり売春です。これは真理を偽りにし、善を冒涜することになります。

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42・ そのほか知らなくてはならないことですが、愛と英知には三段階あって、それにもとづき 〈いのち〉にも三段階あります。人間の精神は、この三つの段階にもとづき、三つの領域に形づくられます。すなわち、最高の領域にいる人は、最高の段階におり、第二の領域にいる人はより低い段階におり、最外部の領域にいる人は最低の段階にいます。人間にあって、この三つの領域は、順次ひらかれていきます。〈いのち〉の最低の段階にある最外部領域は、知識 scientiae をとおして、幼児期から少年期にひらかれます。〈いのち〉の段階がましてくる第二領域では、〈知識からくる思考

cogitationes ex scientiis〉をとおして、少年期から青年期にむけてひらかれます。そして、〈いのち〉の最高段階である最高の領域は、青年期から壮年期とそれ以後にひらかれますが、それは道徳的・霊的真理の感知によって行われます。

 さらに知っておいていいことは、〈いのち〉が完成されていくのは、思考のなかではなく、真理の光から、真理を感じとるうちに、行われていくということです。人間の〈いのち〉がもっている相違も、それによって結論づけられます。真理を耳にして、それが真理であるとすぐ感じとれる人がいますが、そのような人は、霊界ではワシの姿であらわされます。真理を感じとることなく、外見からの思い込みで真理だと是認する人がいますが、かれらは、さえずるトリであらわされます。真理があると信じても、それを権威者の口から出たからと、鵜のみにしている人がいますが、そのような人は、カササギであらわされます。

 それからさらに、真理を感じとることを、望みもしないし、できもしない人がいて、偽りだけを欲する場合があります。それは、あやしげな光のなかにあって、偽りが真理に見えてくるためです。真理は頭上の分厚い雲の中にかくれていて、ちょうど流れ星か、まがいもののように見えます。このような人の考えはフクロウであらわされ、その話し方はミミズクです。偽りで心を固くしてしまった人の中には、真理を聞くのに、我慢ができない者がいます。かれらの耳にちょっとでも真理が触れると、きらってすぐそれに反発します。それはちょうど、胆汁過多で、胃袋から食べたものを吐き出すような感じです。

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43 [Ⅴ]愛の本質は、自分以外の他の者を愛し、かれらと一体になり、かれらを心から幸福にしたいと願うことである

 神の本質をなしているものは二つあります。それは愛と英知です。また、神の愛の本質をなすものが三つあります。それは、「自分以外の他の者を愛し」、「かれらと一体になることを欲し」、「かれらを心から幸福にしたいと願うこと」です。この三つは、また神の英知の本質でもあります。それは前述したように、神のうちにあって、愛と英知はひとつになっているからです。愛は欲し、英知は生みだす働きをもっています。

(2) 『自分以外の他の者を愛する』ということは、愛の本質の第一に挙げられます。これは、全人類にたいする神の愛からもお分かりでしょう。したがって、神はご自身の創造されたすべてのものを愛しておられます。それは、万物が手段になっているからです。目的を愛すれば、その手段も愛するはずです。

 宇宙にある人も物も、すべて神以外のものです。神は無限であるのにたいし、それらのものは有限だからです。神の愛はただ、善人や善いものだけでなく、悪人や悪いものにも及んでいます。だから、天界にある天使やその他のものだけでなく、地獄にある霊やその他のものにも及んでいます。つまり、ミカエルやガブリエルだけでなく、悪魔やサタンにも及んでいます。神は、永遠のむかしから、永遠にいたるまで、どこでも同一の方です。また、次のようにあります、

  「悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降ら  してくださる」(マタイ5・45)と。

 ところがやはり、悪人はあくまで悪人であり、悪いものは悪いものです。というのは、その主体にも、物にも、神の愛をあるがまま、内在しているままに、受けいれないところがあり、結局は自分の性格を維持しているわけです。太陽の熱をうけ、天から雨が降っても、イバラはイバラであり、アザミはアザミです。

(3) 神の愛の本質は、『他の者とひとつになりたいと願うこと』です。これは、神ご自身が、天使のいる天界、地上の教会、そこにいる者ひとりひとり、また人間と教会に与えられているあらゆる善と真理に、むすびあわされていることから分かります。そしてまた、愛はそのものとして見ると、一体化にむかって進んでいく以外のなにものでもありません。

 愛の本質でもあるこのようなゴールに向かって、神は人を、ご自分の姿と〈かたち〉に似せてお造りになりました。これも一体化が行われるようになるためです。神の愛はたえず、この一体化に向かっています。それは、次の〈みことば〉からも分かります。

  「わたしがかれらのうちにあり、かれらもわたしのうちにあり、神の愛がかれらのうちにあって、  ひとつになることを願っています」(ヨハネ17212326)。

(4) 愛の本質の第三番目は、『かれらを心から幸福にしたいと思う』ことです。このことは、 〈永遠のいのち〉からも察せられます。神ご自身の愛をうけいれる人に、神がお与えになる至福・幸運・しあわせです。というのも、神は〈愛そのもの ipse Amor 〉であるとともに、〈至福そのもの ipsa Beatitudo 〉です。

 愛はすべて〈うれしさ〉を発散します。神の愛となると、至福・幸福・しあわせそのものを、永遠に発散しておられますから、神は、みずから源となって、天使たちを至福にし beatificat 、死後の人間を至福になさいます。これもかれらとの一体化で実現します。

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44・ 神の愛の以上のような性格は、宇宙にみなぎっている霊気、つまり状態に応じて天使と人間のひとりひとりに及ぶ霊気 sphaera からも認められます。この霊気はまず、両親に影響を与えます。かれらが自分以外の存在である子供たちに、優しい愛をもつのは、それによります。両親は、子供たちと、一体でありたい、かれらを心から幸福にしたいと、思っています。

 〈神の愛〉のこのような霊気は、ただ善人に影響をあたえるだけでなく、悪人にも影響をあたえます。また人間だけでなく、あらゆる種類の動物と鳥類にも影響をあたえます。母親が子を産むとき、その子と一体になり、その子の善を望む以外の何を考えるでしょうか。鳥は、卵からヒナがかえるとき、その羽根でかくまい、くちばしでヒナの口の中に、餌をいれてやることしかないのです。蛇でもマムシでも、自分の子を愛していることは、周知のとおりです。

 このような普遍的霊気が、とりわけ影響をあたえるのは、神の愛を自分の心のなかに受けいれる人、つまり神を信じ、隣人を愛する人です。かれらがもっている仁愛は、神の愛のイメージを宿しています。

 善良ではない人でも、その友情には、神の愛に似たものがあります。食卓では友人同士で、いいものを分かちあい、キスをし、抱擁したり、握手したり、役に立つ仕事をします。同種同族の者が、団結しようと努力したり、同情を感ずるのも、その愛が起源になっています。

 以上のような〈神の霊気〉は、その世の太陽、つまりその熱と光をとおして、樹木や草のような動物以外のものにも、はたらいています。熱は外部から植物のなかに入り、それと結びついて、発芽・開花・結実をもたらしますが、これがまた、動物や人間にたいする祝福に似たところがあります。というのは、太陽の熱は、霊の熱、つまり愛に、相応しているからです。

 この愛のはたらきを表わすものは、鉱物界のいろいろな物体のなかにも見られます。その典型として、役立ちの目的に使われ、宝石として珍重されているものがあります。

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45・ 神の愛の本質について記したことから、浮かびあがってくるのは、悪魔的な愛の本質です。つまり対立からはっきりしてきます。

 悪魔的な愛は、自己愛のことです。これも「愛」と言われてはいますが、そのものとして見た場合、憎しみです。というのは、自分以外のだれも愛せず、だれかを幸福にしたいと思って、一体化を望むこともなく、ただ自分だけです。みんなの上に支配権をふるい、あらゆる善を所有し、ついには神としてあがめられることを、たえず心から渇望しています。

 だから地獄にいる者は神をみとめず、他にまさる力をもつものを神々とします。そこで、力の及ぶ範囲から、上下・大小さまざまの神々が生まれます。そこでは、だれもが同じことを考えていますから、自分の神にたいして憎しみをいだいています。支配側も、自分の配下に憎しみをいだき、かれらを卑劣なしもべと非難します。配下の者がうやまっているあいだは、かれらにへつらっていますが、それ以外の者にたいしては、火のような怒りで燃えています。ただし、自分の味方にたいしても、内心では同じことなのです。それというのも、自己愛は、泥棒仲間の愛と同じです。盗みに入るときは、キスしたりしていますが、あとになると、相棒のわけまえを盗みとるため、殺してやりたいという欲念を燃やします。

 このような愛は、その支配愛となる地獄では、愛からくる邪欲にすぎませんが、遠くからは、いろいろな獣の姿に映ります。あるものはキツネとか、めすのヒョウに、あるものはオオカミやトラに、あるものは、ワニや毒ヘビに見えます。かれらが住む砂漠には、ゴツゴツした岩とか、裸の石ころや、カエルの鳴く沼地が散在しています。また小屋のうえには、嘆きの鳥が飛んだり、叫び声をあげたりしています。自己愛からくる支配欲については、預言者の書に、「ほえる獣 chim 」、「砂漠の野獣 tziim」「海の怪獣 ijim 」と呼ばれています(イザヤ1321、エレミヤ5039、詩1414)。


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46 [Ⅵ]宇宙創造の原因は、この神の愛で、それがまた、神の宇宙維持の原因でもある


 以上のように、神の愛の三つの本質的特徴こそ、創造の原因です。それについては、その一つ一つをよく吟味してみるとわかります。まず第一に、「自分以外の他の者を愛する思い」が原因になることは、宇宙を見れば分かります。宇宙は、この世界が太陽の外にあるように、神の外にあり、神は宇宙にむかって、ご自分の愛をひろげ、その愛を羽ばたかせ、そのようにして、憩っておられます。神は、天地を造られたのち休まれ、それで安息日ができたとあります(創世2・2、3)。

 第二には、「かれらと一体になりたいと願われたこと」が原因になっていますが、これは、神のおん姿にかたどって人間を造られたことから、はっきりします。つまり人は神から愛と英知をいただく〈かたち〉となり、神はこのようにして、ご自分と人間とを一つに結びつけ、それと同時に、仲介的存在でもある宇宙の個々全体とも、一体になられました。目的因 causa finalis との結びつきは、仲介因 causae mediae との結びつきにもなります。万物を人間のために創造なさったことは、創世記から明らかです(創世1・2830)。

 第三は、「かれらを心から幸福にしたいとの願い」が原因になっていることは、天使のいる天界を考えれば分かります。神の愛をうけいれる人間は、だれでも天界に迎えいれられ、しかも天界では神おひとりによって、全員に至福がもたらされます。

 神の愛のこのような三つの本質的特徴は、また宇宙維持の原因にもなっています。というのは、存続がたえざる実在であるように、維持はたえざる創造だからです。また神の愛が、永遠のむかしから永遠にいたるまで、同一であるということから、世界創造のときの神は、その創造ののちも、被造物のうちにもいますことになります。

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47・ 以上を正しく理解すると、宇宙が最初から最後まで、首尾一貫した作品であることが分かります。というのは、宇宙は解きほぐしてバラすことのできないきずなで、目的と原因と結果をふくんだ傑作だからです。愛にはかならず目的があり、知恵にはかならず仲介因をとおして推進する目的があり、この仲介因をとおして、また役立ちでもある結果をもたらします。そのため、宇宙は神の愛、神の英知、各種の役立ちをふくむ作品でもあるわけで、初めから終わりまで、首尾一貫した作品なのです。宇宙が、英知から生まれ、愛から出発した、永久の役立ちからなっていることは、知恵のある人ならだれでも、鏡にうつして見るように、眺めみることができます。それも、宇宙創造についての通念をもって、個々の事物を見とおしただけでいいのです。個々の事物は、共通のものに適合し、共通のものは、全部が調和するよう、個々のものに〈かたち〉をあたえます。次に、もっといろいろの例をあげて、説明してみましょう。

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