TCR index


真のキリスト教


第六章 信仰について

362節~377節

362 363 364 365 366 367 368 369
370 371 372 373 374 375 376 377

六・ 人間のなかで生命・意志・理性が一つになっているように、主・愛・信仰は一つになっている。もしそれが分離した場合、真珠がくずれてコナゴナになるように消滅する。

362・ 学問の世界、とくに教職者の世界で、未知だったことを、最初にとりあげます。それは、地下の埋蔵物のように、知られていませんでした。ただし英知の宝ですから、掘り出して公開しなくてはなりません。そうしなくては、神・信仰・愛について、また自分の生命の現状や、どうやってその状態を変えて、永遠の〈いのち〉の状態にもっていけばいいかなど、正しい認識にいたる努力も、水泡に帰してしまいます。今まで知られていなかったこととは、次のようなことです。
 人間はただ生命の器官 organum vitae にすぎないということです。〈いのち〉とそれに伴うすべてのものは、天界の神、つまり主から流れてきます。人間には、〈いのち〉の能力が二つあって、それは、「意志」・「理性」と呼ばれています。そして、意志は〈愛の受け皿〉であり、理性は〈英知の受け皿〉です。なお、意志は〈仁愛の受け皿〉であり、理性は〈信仰の受け皿〉です。

(2) 人間が意図すること、理解することのすべては、外から流れ入ります。つまり、〈愛 amor と仁愛 charitas の善〉〈英知と信仰の真理〉は、主からくるものです。それに反対するものは、全部地獄からきます。
 人は、主の定めによって、自分の外から入ってくるものでも、自分の中で、自分のものとして感じることができます。しかも実際には、自分から出るものは何一つありませんが、自分の力で、自分のものとして、生み出していくと感じます。意図したり推量したりする自由選択能力があるため、これも本人の責任になります。また、善や真理の認識も与えられている以上、なおさらです。
 人はそのような認識をもとにして、自分自身の現世的な〈いのち〉や永遠の〈いのち〉のためになることを、自由に選びとることができるわけです。

(3) 以上のようなことがらを、斜視や片目で見ている人は、それからたくさんの狂った考えを引出してくることができるのにたいし、すなおで純な目で見る人は、それからたくさんの英知を引き出すことができます。前者を避け、後者を実現させるために、「神について」と「神の三一性について」の判断と教義を、前もって明確にしておく必要がありました。そしてそのあと、「信仰と愛について」「自由意志について」「改善と再生について」「責任の所在について」、さらにその手段として「悔い改めについて」「洗礼について」「聖餐について」、はっきりとした判断と教義を定めておく必要があります。

363・ 「人間のなかで、生命・意志・理性が一つになっているように、主・愛・信仰は一つになっている。もしそれが分離した場合、真珠がくずれて、コナゴナになるように、消滅する」という信仰内容ですが、この信仰の一節が真理であると分かり、認められるためには、次のような順序で考えてみるのがいいと思います。

[Ⅰ] 主は、みずから神としての〈愛・英知・生命〉のすべてをもって、人間みんなに流入を与えておられる。

[Ⅱ] したがって主は、信仰と愛のあらゆる本質をもって、人間みんなに流入を与えておられる。

[Ⅲ] 主からの流入は、本人の状態にしたがって、人によって受けとめられる。

[Ⅳ] 主・愛・信仰をバラバラにする人の場合、本人は、受けとめる体勢をもっておらず、破壊の体勢にある

364・ [Ⅰ]主は、みずから神としての〈愛・英知・生命〉のすべてをもって、人間みんなに流入を与えておられる。

  「人は神の似姿 imago Dei として造られた。神は人の鼻のなかに、〈いのち〉の霊魂を吹き込まれた」(創1・27、2・1)と、創世記にあります。
 これは、人間が生命の器官であっても、生命 Vita (訳注・Vは大文字)ではないことを示しています。神は、ご自分に似た他の神をお造りになることはできません。それができたとしたら、人間の数だけの神が生まれてきます。また、光そのものを創造することができなかったと同様、〈いのち〉そのものを創造することはできませんでした。ただ、光の形相として、眼を造られたように、〈いのち〉の形相として、人間を造られることは可能でした。
 神は、ご自分の本質を分割することなど、不可能でしたし、いまも不可能です。それは、神の本質は、唯一・不可分のものだからです。したがって、神こそ唯一の〈いのち〉です。だから当然次のことが言えます。すなわち、神はご自分の〈いのち〉で、すべての人間を生かしておられます。その 〈生かし vivificatio〉がなかったら、人間の肉体はたんなるスポンジ、その骨はたんなる骸骨です。それには、もはや〈いのち〉はなく、振子・錘・バネのない時計のようになってしまいます。
 そして、神はひとりひとりの人間に、神としてのご自分がもつあらゆる〈いのち〉、つまり神としてご自分がもつ〈あらゆる愛〉と、神としてご自分がもつ〈あらゆる英知〉で、流入をあたえておられます。この二つが、神の〈いのち〉なのです(前39・40節参照)。神のご性格 Divinum は、分割できるものではありません。

(2) 神がご自分の神聖な〈いのち〉全体で、どんなふうにして流入をあたえておられるかは、この世の太陽が、熱と光という自分なりの本質で、流入をあたえているのを感じとるように、感じとることができます。つまり太陽は、あらゆる樹木、あらゆる潅木と草花、あらゆる下等な岩石と高級な石に、流入をあたえています。そして、どれもこれも、同じ共通の流入から、自分の割当てを汲みとっています。太陽と言えば、自分の光や熱を分割しているわけではないし、あれこれと部分に分けて与えているのでもありません。
 神の愛が熱として、神の英知が光として、発出している源は天界の太陽ですが、それも以上と同じです。この世の太陽が熱と光となって人体に影響をあたえるのと同じように、上の二つは、人間の心に流入をあたえ、心のもつ形相いかんに応じて、〈いのち〉を吹き入れています。つまり、ひとりひとりの心は、共通の流入から、自分に必要な分を摂取しているのです。主のみ言葉を応用してみると、
  「あなた方の父は、悪人にも善人にも、太陽を昇らせ、正しい人のうえにも、正しくない人のうえにも、雨を降らせてくださる」(マタイ5・45)。

(3) しかも、主はどこにでも現存して omnipraesens おられます。現存しておられるところでは、ご自分の全本質も、ともに現存しています。
 主にとって、その本質から一部を差し引いたり、また部分的に、あの人この人に分配したりすることは不可能です。主はその全部を与えておられます。そして、人間の側からは、その全部のなかから、少なく、あるいは多く、とり出すわけです。
 主は、ご自分の戒めを守る者のうちに住まいを設ける、と言われています。信じる者は、主のうちに宿り、主は、信じる者のうちに宿ります。
 一口に言ってしまえば、万物は神によって満ちあふれています。そしてひとりひとりが、その充満のなかから、自分のものを受けとっているのです。
 大気とか大洋のような、ごく共通の環境に比べてみると分かります。大気は、図体の大きいものの中にも、極小のものの中にも存在しています。人間の呼吸用とか、鳥類の飛翔用とか、帆船の航行用とか、水車小屋用に、分配しているわけでなく、それぞれのものが、自分の容量に応じた大気を受けとり、それを自分の必要に十分なだけ利用しています。これはまた、穀物でいっぱいになった倉庫のようでもあります。所有者は、自分の食べる分を毎日そこからもって行きますが、倉庫自身が分配するわけではありません。

365・ [Ⅱ]したがって、主は、信仰と愛のあらゆる本質をもって、人間みんなに、流入を与えておられる

 このことは、前述したことから分かってきます。すなわち、神の英知の〈いのち〉こそ信仰の本質であり、神の愛の〈いのち〉こそ愛の本質です。主は、ご自分の〈神としての英知〉と、〈神としての愛〉によるもの、つまり〈ご自分の個性から生まれたもの〉に現存しておられるとすれば、〈信仰のあらゆる真理〉・〈愛のあらゆる善〉にも、現存しておられます。信仰とは、人間が主のみ力で感動し、その結果、望みをいだき、実行する善全体のことです。

(2) 前述したように、神の愛は、太陽である主から発したもので、天使たちはこれを、熱として感じとり、神の英知は、光として感じとっています。ところが、外観だけで考える人は、そのような熱も光も、わたしたちの世界にある太陽から出ている熱と光とおなじような、たんなる熱、たんなる光として考えています。しかし、太陽として主から発する熱と光は、その奥底に秘めたものがあります。それは主のうちにある無限性全体です。つまり、熱は、〈主の愛〉がもっている無限性全体であり、光は、〈主の英知〉がもっている無限性全体です。したがってまた、〈愛がもっている善〉は、すべて無限のうちにあり、〈信仰がもっている真理〉も、すべて無限のうちにあります。
 その理由を言いましょう。霊界の太陽は、みずからの熱と光のあるところには、どこにでも存在しています。そしてその太陽は、主のまわりをとり巻くいちばん近接した円環で、主の〈神としての愛〉と、主の〈神としての英知〉から、流れでてくるものです。何回も前述したとおり、その太陽の中央にいらっしゃるのは、主ご自身です。

(3) 以上のことから明らかですが、人間にとって、主からいただいていないものは、何もありません。主は遍在です。人は、〈愛にかんする善〉のすべて、〈信仰にかんする真理〉のすべてを、主からいただけるのです。それが証拠には、天界の天使たちの愛と英知を見れば、分かります。それは主によって与えられたものですが、口では言い表わせないほどのもの、自然の人間には理解しがたいもの、しかも永遠にいたるまで多様化していくものです。
 主から発している熱と光には、無限のひろがりがあります。たとえそれが単純な熱と光として感じられても、自然世界の中では、多種多様な配合で映ってみえます。たとえば、人間の声や話し方にしても、たんなる音声として聞こえますが、天使たちがそれを聞くと、その人がもっている愛から出たあらゆる種類の情愛を、その声のなかで感じとり、またその情愛の内容と性格を、言いあてることができます。人は、音声のなかに、何か隠されていることは、自分と話している相手の声の調子から、ある程度、察知することができます。たとえば、軽蔑とか、あざけりとか、憎みとか、また他方、愛とか、好意とか、うれしさとか、そのほかの情愛です。また人の顔を見て、その眼の光からも、同じようなことが感じとれます。

(4) 同じようなことが、広い庭園にただよう芳香とか、草原に乱れ咲く花の香りからも、察知できます。このような芳香は、何千何万という違った種類のものからなっていても、一つの芳香として感じられます。他にもまだたくさんありますが、それは外面的には一つの形に見えても、内面には多種多様のものが混在しているのです。
 共感や反感も、心が発散する情愛にほかなりませんが、同類によって共感を呼びおこし、相違によって反感を呼びおこします。その要因は数え切れないほどであって、しかも肉体の感覚では感じとれないものですが、魂のもっている感覚では、一つのものとして感じとり、そのピンときたところによって、霊界ではすべて、いっしょになったり、仲間づくりをしたりします。
 前述した〈主からくる霊的光〉について、もっと分かりやすくさせるために、以上述べました。つまり、その霊的光には、〈英知にかんするあらゆるもの〉・〈信仰にかんするあらゆるもの〉が内在しています。その光で、理性 intellectus は合理的なもの rationalia を見、分析的に感じとります。それはちょうど、肉眼が自然のものを見て、一定の均衡のもとで、感じとるのに似ています。

366・ [Ⅲ]主からの流入は、本人の形相にしたがって、人によって受けとめられる

 ここで言っている「形相 forma」とは、人の愛および知恵の状態 status のことです。言い換えれば、本人の〈愛がもっている善の情愛〉のことであり、〈信仰がもっている真理の感知力〉のことです。神は唯一、不可分の方であり、永遠から永遠にいたるまで同一の方です。単一である simplex という意味での同一ではなく、無限である infinitum という意味での同一です。それがいろいろ違ったふうにとらえられるのは、すべて受けとめる側からくるということは、前述したとおりです。受けとめる側の形相や状態には、いろいろ変化があることは、幼児期・少年期・青年期・壮年期・老年期への成長を見れば分かります。霊魂は同一ですから、人間はひとりひとり幼児期から老年期まで、同一の〈いのち〉を宿しています。ところで、その〈いのち〉の状態は、年齢と環境によって、変わってきます。それと同時に、〈いのち〉も、それに応じて受けとめられます。

(2) 神の〈いのち〉は、あらゆる充満のうちにある〈いのち〉ですが、善人や敬虔な人だけでなく、悪人や不敬虔な人にも及んでいます。それはまた、天界の天使たちにも、地獄の霊たちにも及んでいます。相違はどこにあるかといえば、悪人は、自分たちの心の下層部に神を入れないよう、道をふさぎ、門を閉じてしまうのにたいし、善人は、道を平らにして、門をあけ、神が心の上層部に住んでおられるだけでなく、心の下層部にも入ってくださるよう招き入れます。このようにして、愛と仁愛の流入がうけられる状態に意志をととのえ、英知と信仰の流入がうけられる状態に理性をととのえて、結局は、神を心にお受けするわけです。
 それにたいして、悪人は、いろいろな種類の肉欲や汚れた霊動によって、そのような流入のジャマをし、入口をふさぎます。それにもかかわらず、神はご自分の神聖な本質すべてをもって、かれらの心の最高部に住まい、かれらに、善を欲する能力と、真理を理解する能力を与えられます。そのような能力は、人間みんなに備えられていて、神からの〈いのち〉がその魂に宿っていなかったら、絶対ありえません。この能力が、悪人にも与えられていることについては、わたしは、多くの経験で知らされました。

(3) どんな人間でも、自分の状態に応じて、神から〈いのち〉をさずかっています。これは各種の植物をひき合いに出してみると、いっそうはっきりします。どんな樹木・權木・苗木・草でも、自分の〈かたち〉に応じて、熱と光の流入をうけています。有益なものも有害なものもそうです。
 太陽は、自分の熱で、植物の〈かたち〉を変えているのではなく、植物の〈かたち〉それ自身が、太陽の効力を変えていきます。鉱物界にあるものは、高級なものから下等なものまで、みんなそれぞれ、内部構造の〈かたち〉にしたがって、流入をうけますが、一つの石は他の石と、一つの鉱石は他の鉱石と、一つの金属は他の金属と、ちがっています。そのなかには、色とりどりの美しさで変化するものとか、何の変化もなく光を通過させるだけのものとか、光を混乱させ消し去ってしまうものなどがあります。
 以上、わずかな例からも分かりますが、この世の太陽は、その熱と光をともなって、それぞれの物体のなかに、平等に、現存しています。そして、受けとめる側の〈かたち〉が、太陽の作用を変えていきます。それと同じように、天界の太陽のまん中におられる主は、ご自分の〈熱すなわち愛の本質〉をもって、またご自分の〈光すなわち英知の本質〉をもって、現存しておられます、しかし人間は、自分の〈いのち〉の状態で形成している〈かたち〉に応じて、作用を変えていきます。ですから、人間が再生できず、救われないとしても、その原因は主にあるのではなく、人間自身にあります。

367・ [Ⅳ]主・愛・信仰をバラバラにする人の場合、本人は、受けとめる体勢 forma をもっておらず、破壊の体勢にある。

 愛と信仰から、主を切り離してしまう場合、その人は、愛と信仰から〈いのち〉を切り離してしまいます。主から切り離された愛と信仰は、存在しないか、流産した感じです。主こそ〈いのち〉そのものであることは、前(358節)を参照してください。主をみとめながらも、愛を切り離してしまう人は、口先だけでしか、主をみとめていません。その承認も告白も、凍ってしまっていて、それには信仰もありません。霊的本質が欠けています。
 愛は、信仰の本質です。愛の行為をしても、天地の神である主が、教えておられるとおり、父と一体であることを認めていない場合、その人の行っている愛は、自然的なものでしかなく、その中に永遠の〈いのち〉はありません。〈善そのものである場合の善〉は、すべて神からくるもので、結局は本当の神であり、永遠の〈いのち〉である主のみ力によります(Ⅰヨハネ5・20)。これを、教会に属する人は承知しているはずです。これは、愛についても言えます。善と愛はひとつだからです。
(2) 愛から切りはなされると、信仰はもう信仰でなくなります。というのは、信仰とは、人間の〈いのち〉の光、愛はその〈いのち〉の熱で、愛が信仰から切り離されると、光のない熱のようになり、人はこの世で冬を迎えるように、地上のものは全部凍りついてしまいます。愛が愛であり、信仰が信仰であるためには、この愛と信仰は、分離できません。それは、意志と理性の関係とおなじで、両者が分離されると、理性はもう何ものでもなく、意志とて同じです。愛と信仰についても同様のことが言えるわけは、愛は意志のなかに住まい、信仰は理性のうちに住んでいるからです。

(3) 信仰から愛を切り離すということは、形相 forma から本質 essentia を切り離すようなものです。学問の世界では周知のことですが、形相のない本質、本質のない形相は、何ものでもありません。形相がなかったら、本質にはこれといった性格がなく、本質によらなくては、形相は何らの自存性 aliquod ens subsistens もありません。両者がおたがいバラバラになると、そのいずれにも、述べるべきコトバを失います。愛は信仰の本質であり、信仰は愛の形相であることは、善が真理の本質であり、真理が善の形相であると、前に申しあげたこととおなじです。

(4) 以上の二つ、すなわち、善 bonum と真理 verum は、基本的には、実在するあらゆるもの、あらゆる個々のもののなかにあります。したがって、善からきている愛にしても、真理からきている信仰にしても、人体の中や地上にあるものと、いろいろ比較してみることができます。
 肺臓の呼吸作用と心臓の収縮運動の関係を、ちょっととらえて比較してみると、愛と信仰は、心臓と肺臓の分離不能に似ています。心臓の鼓動が止むと、肺臓の呼吸もすぐ止まります。肺臓の呼吸が止まると、感覚という感覚は麻痺します。それからあらゆる筋肉の運動が停止し、すぐそのあと心臓がとまり、生命はすべて散っていきます。これが比較に適しているわけは、心臓は、意志つまり愛に対応しており、肺臓の呼吸は、理性つまり信仰に対応しています。愛は意志のなかに宿り、信仰は理性のなかに宿っていることは、前述したとおりで、〈みことば〉で「心(臓)cor 」といったり、 「霊(風・息吹き)spiritus」といったりしているのは、そのことです。

(5) 愛と信仰の分離は、血液と肉体の分離にもたとえられます。肉体から分離した血は、だんだん腐敗していき、ウジがわいてきます。霊的意味から言うと、「血」は、〈英知と信仰の真理〉のこと、「肉」は、〈愛と仁愛の善〉のことです。「血」には、そのような意味があるということは、 『啓示による黙示録解説 Apocalypsis Revelata 』の379節に、また「肉」については、同書832節に記しています。

(6) 愛と信仰が、それぞれちがっていても、それなりの意味をもつためには、分離させることができません。人間にとっての食物と水、パンとぶどう酒のようなものです。水のない食べ物、ぶどう酒のないパンを口にすると、胃袋をふくらませるだけです。不消化のまま胃をいため、排泄物になります。食べ物の伴わない水や、パンといっしょでないぶどう酒の場合も、胃を脹らませ、それに血管や気孔までひろげますが、これで栄養の補給が止まると、体を衰弱させ、死ぬこともあります。以上のたとえが適していると思うのは、「食べ物」とか「パン」の霊的意味は、〈愛と仁愛の善〉のことであり、「水」とか「ぶどう酒」は〈英知と信仰の真理〉のことだからです(それについては、『啓示による黙示録解説』の50、316、778、932節を参照してください)。

(7) 信仰にむすばれた愛や、愛にむすばれた信仰を、美しい乙女の顔、しかもうるわしく、ピンクと純白のまざった色にたとえることもできます。これにはまた、別のたとえが浮かんできます。霊界では、太陽の火からくる〈愛と仁愛〉は、赤く燃え、同じ太陽の光りからくる〈真理と信仰〉は、白く映えています。
 したがって、信仰から分離した愛は、吹き出物でまっ赤になった顔に似ており、愛から分離した信仰は、死人の蒼白い顔に似ています。また、愛から分離した信仰は、「半身付随」と言われる体の半分が麻痺した病に、たとえられます。その病がだんだん進行すると、人は死んでしまいます。
 これはまた、毒グモにかまれて起こる聖ウィトゥスの、またはガイの、ダンス病というのに似ています。それにかかると、理解力に障害がおこります。ただ踊り狂い、本人は生きていると思っても、判断を固定することも、霊的真理について考えることもできず、ベットの中で金縛りになったような感じです。
 以上で、本章の二つのテーマについては十分説明できたと思います。一つは、「愛のない信仰は、信仰ではないし、信仰のない愛も、愛ではない。両者とも、主のみ力によらなければ、〈いのち〉がない」ということ。二つ目は、「人間のなかで、生命・意志・理性が一つであるように、主・愛・信仰は一つになっている。そして、それを分離させると、真珠がくずれるように、コナゴナになって消滅する」ということです。

七・ 主は、人間のうちにひそむ愛と信仰である。人間は、主のうちにあって、愛と信仰になる。

368・ 教会に属する人は主のうちにあり、主はその人のうちにおられます。それは、〈みことば〉の次の箇所から明らかです。
  「イエスは言われた、『わたしのうちにとどまりなさい。わたしもあなた方のうちにとどまる。・・・わたしはぶどうの木、あなた方は枝である。わたしのうちにとどまる者の中に、わたしもとどまり、その人はたくさんの実りをもたらすようになる』と」(ヨハネ15・4、5)。
  「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも、その人のうちにとどまる」(ヨハネ6・56)。
  「その日には、わたしがわたしの父のうちにおり、あなた方がわたしのうちにおり、わたしがあなた方のうちにいることが分かるようになる」(ヨハネ14・20)。
  「イエスが神の子であると告白する者には、神がその人のうちにおり、その人は神のうちにいる」(Ⅰヨハネ4・15)。
 とは言っても、人間自身が主のうちに存在するのではなく、主のみ力による愛と信仰が、人間のうちにあるということです。人間が本質上人間であるのは、愛と信仰の二つによるわけです。この秘義が理性にとって光を帯びて現れてくるため、次のような順序で探究してみましょう。

[Ⅰ] 神にむすばれることによって、人間には、救いと永遠の生命がある。

[Ⅱ] 父なる神とのむすびつきというものはないが、主とむすばれ、また主をとおして、父なる神とむすばれる。

[Ⅲ] 主とのむすびつきは、相互補足的である。主は人のうちに、人は主のうちにある。

[Ⅳ] 主と人間とのあいだの結びつきは、愛と信仰をとおして行われる。

369・ [Ⅰ]神にむすばれることによって、人間には、救いと、永遠の〈いのち〉がある

 人間は、神にむすばれるようになるために創造されました。というのは、生来、天界の住人として造られていると同時に、この世の住人としても造られています。そして、〈天界の住人〉であるかぎり、霊的ですが、それと同時に、〈この世の住人〉であるかぎり、自然的です。霊的な人間は、神について思いをはせ、神にかんすることを感じとり、また神を愛し、神よりのものに感動します。つまり、神にむすばれることができるということです。
 人が神について思いをはせ、神にかんすることがらを感じとることができるという点では、全く疑いの余地がありません。つまり神が唯一の方であること、エホバとしての神の本質 Esse Dei 、神の無辺性 Immensitas と永遠性、神の本質でもある〈神聖なる愛と英知〉、神の全能、全知、遍在、神のおん子であり救い主でもある主、あがないと仲介、それから聖霊、神聖なる三一性について、思いをいたすことができます。
 以上は全部、神にかんすることです。むしろ以上が神なのです。それだけでなく、神のおん働き、つまり基本的には、信仰と愛について、その他、信仰と愛から出てくることがたくさんありますが、それについて、考えることが可能です。

(2) 人間が神について思いをいたすだけでなく、神を愛することができるということは、神ご自身のご命令からも分かります。それは次の二つです。
  「主であるあなたの神を、心を尽くし、魂を尽くして、愛しなさい。・・・これが第一の大きな  命令である。第二はこれに似ている。あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい」(マタイ22・37~39、申命6・5)。
 人が神のご命令に従うこと、これが神を愛することであると同時に、神に愛されることであるという意味は、次の箇所から分かります。
  「イエスは言われた、『わたしの命令を心にいだき、これを実行する人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父から愛されるであろう。そして、わたしもその人を愛する。そしてその人に、わたし自身を現わすであろう』と」(ヨハネ14・21)。

(3) さらにつけ加えると、〈理性つまりは思考の働き〉で、真理をとおして神にむすばれることこそ信仰です。また〈意志つまりは情愛の働き〉で、善をとおして神にむすばれることこそ愛です。それ以外のなにがあるでしょう。神が人と結ばれるのは、自然的なものの中での霊的な結びつきです。人間が神と結ばれるのは、霊的な力による自然的な結びつきです。この結びつきが目的で、人間は生来、天界とこの世の住人として造られました。人間が霊的なのは、天界の住人だからで、人間が自然的なのは、この世の住人だからです。
 それでもし、人が理性の面で霊的であると同時に、道徳の面でも霊的なら、その人は神とむすばれており、その結びつきによって、その人には、救いと永遠の〈いのち〉があります。しかしもし、人が理性の面で自然的であると同時に、道徳の面でも自然的なら、神はたしかに、その人とつながっていますが、その人自身は神とつながっていません。そのため、その人は霊的には死んでいます。つまり、それなりに見れば、霊の〈いのち〉を欠いた自然の〈いのち〉でしかありません。霊的なものにこそ、神の〈いのち〉があるのですが、その人の場合、その〈いのち〉が消えているのです。


370・ [Ⅱ]父なる神との結びつきというものはないが、主と結ばれ、また主をとおして父なる神とむすばれる。

 以上は、聖書の教えであり、理性でも分かります。父なる神は、見えたり聞こえたりされたことはないこと、また見えたり聞こえたりすることはありえないこと、したがって、ご自分の存在と本質のあるがままに、人間にたいして、みずから働きかけることはありえません。なぜなら、主は言っておられます。 
  「だれも神を見た者はいない。ただ父のみもとにある者だけが、父を見たのである」(ヨハネ6・46)。
  「だれも父を知らない。ただ子と子が父を示したいと思った者以外にはない」(マタイ11・27)。「あなた方は、父の声を聞いたことがないし、その姿を見たこともない」(ヨハネ5・37)。そのわけは、神ご自身は、万物の最初、始源に存在し、人間の心の霊気をすべて超越して、最高にすぐれたお方です。〈英知という英知・愛という愛〉の出発点であり源であるところに存在しており、人間とは絶対に結びつくことができません。したがって、万一その神が人間に近づいたり、人間が神に近づいたりすると、巨大な凸レンズの焦点におかれた木片か、太陽の中に投げ込まれた人体像のように燃え尽き、霧散してしまいます。だから、神を見たいと思ったモーセに言われたことですが、   「神を見て、なお生きることができる人はいない」(出エジプト33・20)のです。

(2) 父なる神とむすばれるには、主によるということは、前述のとおり明白です。父ではなく、父のふところにあって、父を見るひとり子だけが、神のこと、神よりのことを表わし示してくださるわけです。さらにそれについては、次の箇所からも明らかです。
  「その日になると、あなた方は、わたしがわたしの父のうちにおり、あなた方はわたしのうちに、わたしはあなた方のうちにいるのが、分かるようになる」(ヨハネ14・20)。
  「わたしは、あなたがわたしにお与えくださった栄光を、かれらに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、かれらも一つになるためです。それは、わたしがかれらのうちにあり、あなたがわたしのうちにいることです」(ヨハネ17・22、23、26)。
  「イエスが言われたことは、こうです。『わたしは道であり、真理であり、〈いのち〉である。わたしを通らないで、父にいたる者はいない』。そのときピリポが、父を見たいと言ったので、それに応えて、主は、『わたしを見る者は、父をも見る。わたしを認める者は、父をも認める』と言われた」(ヨハネ14・6、7以降)。
 そのほか、
  「わたしを見る者は、わたしを遺わされた方をも見るであろう」(ヨハネ12・45)と言われ、それにつけ加えて、
  「わたしは門である。この門をとおって入る者は救われ、外からのぼって入ってくる者は泥棒であり、強盗である」(ヨハネ10・1、9)。
 また言われます。
  「わたしのうちにとどまっていない者は、外に投げだされる。そして枯れ枝となって、火の中で焼かれる」(ヨハネ15・6)。

(3) 理由を言うと、こうです。わたしたちの救い主である主は、父なるエホバご自身が、人間の姿 Forma Humana をとられたお方です。つまり、エホバはくだって、人間になられましたが、それはご自身が人間に近づくとともに、人間もご自分に近づくようになるためです。それによって、結びつきができ、このつながりで、人間には、救いと永遠の〈いのち〉が得られます。神が人となり、神人 Homo Deus になられることによって、神は人間となって、人間に近づき、「神人」または「人神」として、人間と結ばれることができるようになります。
 そこには、順応 Accommodatio ・適用 Applicatio ・結合 Conjunctio の三つの過程があります。順応は、適用の前の段階です。そして順応と適用は、結合の前の段階です。順応は、神の側からの働きで、神は人になられたということです。また適用は、これも神の側からのものですが、人間がそれに応じて自分自身を適応させていくかぎり、永久につづきます。そうなれば、また結合も実現されるわけです。以上の三つの過程は、一つのものになり、共存していくもの全部に、それぞれの手順で進行していきます。

371・ [Ⅲ]主とのむすびつきは、相互補足的である。主は人のうちに、人は主のうちにある。

 この結びつきが相互補足的であるということは、聖書が教えているし、理性でも分かります。主は、ご自分とおん父との結びつきについて触れたときも、それが相互補足的 reciproca であると言われました。ピリポにむかって、言われています。
  「わたしは父のうちにおり、父はわたしのうちにいることを、あなたは信じないのか。・・・わたしが父のうちにおり、父がわたしのうちにいるという、わたしの言葉を信じなさい」(ヨハネ14・10、11)。
  「これは、父がわたしのうちにおり、わたしが父のうちにいることを、あなた方が認めて、信じるためである」(ヨハネ10・38)。
  「イエスは言われた。・・・『父よ、時がきました。あなたの子が、あなたの栄光を輝かせるように、あなたの子に栄光をあらわしてください』」(ヨハネ17・1)。
  「父よ、わたしのものは、すべてあなたのもの、あなたのものは、すべてわたしのものです」(ヨハネ17・10)。
 主は、人間とのむすびつきについても、同じようなことを言われました。つまりその結合は、相互補足的です。主は言われます。
  「わたしのうちに、とどまりなさい。わたしも、あなた方のうちにとどまる。・・・わたしのうちにとどまる人のうちに、わたしもとどまり、その人は、多くの実りをもたらすであろう」(ヨハネ15・4、5)。
  「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む人は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまる」(ヨハネ6・56)。
  「その日には、わたしがわたしの父のうちにおり、あなた方はわたしのうちにおり、わたしはあなた方のうちにいることが、分かるようになる」(ヨハネ14・20)。
  「キリストのご命令を行なう人は、キリストのうちにおり、キリストもその人のうちにいる」
  (Ⅰヨハネ3・24、4・13)。
  「だれでもイエスを神の子と告白する者には、神がその人のうちにとどまり、その人は神のうちにとどまる」(Iヨハネ4・15)。
  「わたしの声を聞いて門をあけてくれる者には、わたしはその人の中にはいり、その人と食事をともにし、その人は、わたしと食事をともにするであろう」(黙示3・20)。

(2) 以上のように、〈みことば〉は明確です。これで分かるように、主と人とのつながりは、相互補足的です。それは、相互あいまって行われます。だからこそ、人間は自分を、主にむすびつけるように努力しなくてはなりません。それによって主は、人につながってくださいます。結びつきがないと、疎遠が生まれ、分離が生じますが、これも主の側からではなく、人間の側から起こります。この結びつきが、相互あいまって行われるようになるため、人間には、自由選択の能力があたえられています。それがあって、人は天界に行く道に入れるし、地獄に行く道にも入れるのです。
 人間にこの自由が与えられていますから、自分を主にむすびつけるか、自分を悪魔にむすびつけるかの選択は、そのどちらも可能です。ただし、この自由がどんなものか、なぜ与えられているかについては、後述する「自由意志について」「悔い改めについて」「自己改革について」「再生について」「責任の所在について」の各項で、取りあつかい、はっきりさせていくつもりです。

(3) 主と人間との相互補足的むすびつきについて、〈みことば〉のなかで、これほどはっきり記されているにもかかわらず、残念なことですが、キリスト教会のなかでは知られていません。その知られていない理由は、信仰と自由意志について、何か先入観があるからです。信仰にかんして言うと、人は信仰を獲得するため、何もしなくてもいいと言う先入観です。信仰をうけがうため、自分を順応・適用させていく努力もいらないということです。自由意志については、霊的なことがらで、人は自由な選択をする一片の力もないという前提です。人類の救いがかかっているこの〈主と人との相互結びつき〉が、これ以上いい加減にされないためにも、例示をもって説明しましょう。

(4) 結びつきの相関関係には二つあります。一つは、「交互的 alterna」で、もう一つは「相互的 mutua 」です。交互的結びつきについては、肺臓が行っている活動を見れば分かります。人間は胸部をひろげて空気を吸い、またすぐ縮めて空気を吐き出します。胸をひろげ空気を吸うことは、背柱にしたがって空気を途中で圧縮することです。胸を縮めて空気を出すのは、肋骨をつかって筋肉の力で行います。空気と肺臓とのあいだには、そのようなおたがいのつながりがあり、それによって、全身の感覚と運動が生きてきます。呼吸がなかったら、感覚も運動も停止してしまうわけです。

(5) 交互的な相関関係は、また心臓と肺臓との結びつきを見ても分かります。心臓は、右心室から血液を肺に送り、肺はその血を心臓の左心室に送りかえします。ここにおたがいのつながりがあって、全身が生命を維持できます。血液と心臓とのつながりについても、同じことてす。全身の血は静脈をとおって心臓にかえり、心臓から出発して動脈をとおり、全身に流れています。作用と反作用で、このつながりができているのです。胎児と子宮とのあいだにも、このようなつながりを保つ作用・反作用があります。

(6) 主と人間のあいだのつながりは、以上のような交互的なものでなく、相互的 mutua です。作用・反作用のつながりでなく、協力 cooperationes です。つまり、主が行動を起こされると、人間はその行動を主から受けとり、それを自分で行うかのように行うわけです。主のみ力によって、自分で ex se a Domino するということです。このような人間の働きは、主のみ力によるものですが、行為の主体は人間にあります。それは、人間は主によって、自由選択の可能性をたえず与えられているからです。人は主から、すなわち〈みことば〉から、何かを願ったり考えたりすることができる反面、悪魔から、すなわち主と〈みことば〉に反対して、何かを願ったり考えたりすることができるからです。つまり自由選択の能力があります。主は人間に、このような自由を与えられました。それは、おたがいにつながっていくためで、このようなつながりをとおして、永遠の生命と至福が与えられます。これも、以上のような相関関係があって、初めてできることです。

(7) 「相互的」と言った、以上のような相関関係は、またこの世でも、人間のなかでも、いろいろな例で示すことができます。人間にはみんな、霊魂と肉体が、以上のような関係でつながっています。意志と行為のつながりもそうですし、思考とコトバとのつながりもそうです。二つの眼のあいだの関係、二つの耳のあいだの関係、二つの鼻の穴の関係もそうです。二つの眼には、それなりの相関関係があるということは、視神経を見ても分かります。その中には、左右の脳からくる繊維が、おたがいにからみあっていて、それが両方の眼につながっています。それは耳についても、鼻についても言えます。

(8) この相互的といったつながりは、光と目とのあいだにも、音と耳とのあいだにも、香りと鼻とのあいだにも、味と舌とのあいだにも、触覚と身体とのあいだにもあります。それは、目は光のなかに、光は目のなかにあり、音は耳のなかに、耳は音のなかにあり、香りは鼻のなかに、鼻は香りのなかにあり、味は舌のなかに、舌は味のなかにあり、触覚は身体のなかに、身体は触覚のなかにあるからです。同じようなつながりは、馬と馬車とのあいだにも、牡牛と犁とのあいだにも、歯車と機械のあいだにも、帆と風とのあいだにも、笛と空気とのあいだにもあります。

 要約して言うと、この相関関係は、目的と原因との関係であるとともに、原因と結果との関係でもあります。ただし、以上のことを一つ一つ説明することは、多くのページを要するので、ひかえます。

372・[Ⅳ]主と人間とのあいだの相互のつながりは、愛と信仰をとおして行われる。

 教会がキリストの体であるということは、今日知られております。教会に属するひとりひとりは、パウロも言っているように、キリストの〈からだ〉のなかの一つの肢節です。(エペソ1・23、Ⅰコリント12・27、ローマ12・4、5)。とは言っても、〈神の善〉と〈神の真理〉こそ、キリストの
〈からだ〉なのです。それは、ヨハネによる主の〈みことば〉で分かります。
  「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうち  にとどまる」と(ヨハネ6・56)。
 主の「肉」とは、「パン」と同じように、〈神の善〉のことです。主の「血」は、「ぶどう酒」もそうですが、〈神の真理〉のことです。これを理解するためには、「聖餐式について」の章を、ご覧になるといいでしょう。
 そういうわけで、人が〈愛の善〉と〈信仰の真理〉のうちにいればいるほど、その人は主のうちにあり、主もその人のうちに宿ってくださいます。主との結びつきは、霊的結びつきで、これは愛と信仰による以外の何ものでもありません。主と教会のあいだの結びつきは、善と真理のあいだの結びつきで、それは〈みことば〉の一語一語と全体にみなぎっています。これは、「聖書について」の章で述べました(248~253節)。愛は善であり、信仰は真理である以上、〈みことば〉の中はどこもここも、愛と信仰はむすびついています。
 それで、今明らかになってきたわけですが、主は、人のうちにある愛と信仰であるとともに、人は、主のうちにある愛と信仰です。なぜなら、主こそ、人間の〈自然的な愛と信仰〉の中にある〈霊的な愛と信仰〉だからです。そして人間は、主の〈霊的な愛と信仰〉のおかげで、〈自然的な愛と信仰〉をもっています。すなわち、人間の愛と信仰は、〈自然的な愛と信仰〉を〈霊的な愛と信仰〉にむすびつけているわけです。

八・善い行いのなかにこそ、愛と信仰が、同時に存在する。

373・ 人間から出てくる一つ一つの行いには、すべてを含めた人間、つまりその精神 animus の状態と、その本性のすべてが存在しています。ここで言う「精神 animus 」とは、人間の愛からでた情愛と、それに伴う思考を意味します。この情愛と思考が、人の本性 natura 、つまり一般的な言い方では、〈いのち〉を形成しています。もしわたしたちが、人の行いをじっと見ると、そこに本人を映し出す鏡があります。動物やケモノについても、同じことが言えます。動物が動物であり、ケモノがケモノであるのは、その行動を見れば分かります。オオカミは、その行動の一つ一つがオオカミです。トラは、その行動の一つ一つがトラです。キツネも、その行動の一つ一つがキツネです。ライオンも、その行動の一つ一つがライオンです。同じように、ヒツジも小ヤギも、その行動の一つ一つがそうです。人間の場合もそうで、その人の性格は、その人の内部がどんな人であるかを表わすものです。その内部が、オオカミやキツネのようであれば、その人の行為にはすべて、内部のオオカミ性やらヒツジ性を表わします。またその反対に、ヒツジとか子ヒツジの性格を表わす人もいます。人間のあらゆる行為の中に、その本人の性格があると言っても、外部に表われないこともあります。人間は、自分の内部を覆っている部分を、変えることができるからですが、それでも内部はそのまま隠れています。主は、
  「善人は、良い心の倉から良い物をとりだし、悪人は、悪の倉から悪い物をとりだす」(ルカ6・45)と言われました。また、
  「木はそれぞれ、その実でわかる。イバラからイチジクを取ることはないし、野バラから、ブドウを摘むことはない」(ルカ6・44)。
 人は、自分から出てくる一つ一つのあらゆる行為のうちに、自分の正体をあらわします。これはまた、その本人の内部こそ、ありのままの人間であるということです。本人のありのままの姿は、死後いきいきと示されます。なぜなら、人はそのとき、内部の人間 internus homo として生きるからです。そして、外部は消え去ります。人間とは、このようなものです。内部の人間に、主と愛と信仰が住まうようになるとき、初めて自分の中から出てくる行為が、すべて善になります。それを、次の順序で説明します。

[Ⅰ] 愛とは、善い意志のことである。善い行いは、善い意志をもって、善く実行することである。

[Ⅱ] 愛も信仰も、心の問題である。それが行為に移され、しかもその行為のなかに、愛と信仰が共存していない場合、たわいもなく消えていく。

[Ⅲ] 愛だけでは、善い行いがでてこないが、信仰のみでは、なおさらで、愛と信仰の両者が必要である。

 以上について、それぞれ説明しましょう。

374・ [Ⅰ]愛とは、善い意志のことである。善い行いは、善い意志をもって、善く実行することである。

 愛と行いのちがいは、意志と行為のちがい、あるいは、〈精神の情愛〉と、〈肉体の働き〉とのあいだのちがいに似ています。したがって、それはまた、人間の内部と外部とのあいだのちがいでもあります。両者の関係は、原因と結果の関係です。というのは、あらゆるものの原因は、人間の内部のうちで形づくられ、その結果は、すべて人間の外部にでてくるからです。したがって、人間の内部から出てくるという意味で、愛は善い意志のこと、また人間の外部にあるという意味で、行いは、善い意志をもって、善く実行することです。

(2) 善い意志 bene velle (善く欲すること)にも、それぞれ違いがあって、その種類は無限です。ある人から他の人へむかってされる恩顧は、どんなものでも、善い意志、つまり善意からでたものと信じられているし、そう見えます。しかしそれが、愛からでたものかどうか、まして純粋な愛から出たか、見せかけにすぎないかは、なかなか分かりません。一つの善い意志は、別の善い意志とはちがうわけですが、その差も限りがありません。
 相違の原因は、目的・意志・計画からきます。何かを善く行いたいとする意志のなかには、このような目的が隠れていて、ひとりひとりの意志の性格は、理性で、自分の目的を達成するための方法と手段を追究します。そしてその目的とは、結果となることでもあります。理性は、光のなかに身を投じ、その理由づけを見極めるだけでなく、いつ、どのようにして、行動を起したらいいかのチャンスを探します。これは、行いとなって出てくる結果を招来することにもなります。それと同時に、人は理性によって、行動を起こす力を得ます。
 以上の説明で理解できると思いますが、行いというものは、本質的には essentialiter 意志のやることですが、計画の上では formaliter 理性がやることです。そして、現実上は actualiter 身体がやります。このようにして、愛は、善い行いの中にくだっていきます。

(3) これは、樹木をたとえにとってみれば、よく分かります。人間も全体からみて、一本の樹木のようです。
 タネのなかには、実をならせるにいたる目的・意図・計画が隠されています。その点では、タネは〈人間の意志〉に該当し、その意志のなかに、前述の三つのものが含まれています。タネは、自分のもっている内部の力で、地上に芽を出し、枝をひろげ、葉をつけ、目的となる実りのための準備をします。この点で、樹木は〈人間の理性〉に対応するものをもっています。やがて時が来て、種々の問題を克服したあと、花を咲かせ、実をならせます。その点で樹木は、〈人間のよい行い〉に対応します。以上は、本質的にはタネ、計画の上では新芽に葉、現実上は樹木ということが分かります。

(4) 以上はまた、神殿と比較してみることもできます。パウロによると、人は「神の宮」なのです(Ⅰコリント3・16、17、Ⅱコリント6・16、エペソ2・21、22)。
 「神の宮」と言われているように、人間のうちにある目的や意図や計画は、救いであり、永遠のいのちです。つまりは、それに対応しているのは人の意志で、その意志には以上の三つがあります。やがて両親・教師・牧師などから、信仰と愛の教義を汲みとります。自分で自分の判断力が使えるようになると、〈みことば〉からと、〈教義について記してある書物〉から学びますが、これはみんな目的にいたるための手段です。その働きに対応するものは、人の理性です。それから最後に、教義を手段として、それを役立てようとする決断がなされ、身体を動かすことになりますが、これを「善い行い」といいます。以上のように、目的そのものは、手段となる諸因子をとおして、結果をもたらすわけですが、その場合、善い行いは、本質上の目的となり、計画の上では、教会の教義であり、現実の上では、役立ちが存在します。そのようにして、人は「神の宮」となります。

375・[Ⅱ]愛も信仰も、心の問題である。それが行為に移されず、しかもその行為のなかに、愛と信仰が共存していない場合、たわいもなく消えていく。

 人間には、頭部と胴体があって、それが首でつながっています。頭部には、考えたり、欲求したりする心があり、胴体には、実行に移す能力があります。それでもし、人間が愛をもとにして、考えたり、善い意志をもったりしても、ただそれだけで、善い行いに移さず、役に立たなければ、人間は頭の中で考えるだけで、身体がそれに伴っていないから、存続しません。もし頭と考えだけで、身体に及ばないなら、愛も信仰も存在しないことは、だれにでも分かります。それは、地上に止まるところのないまま、空中を飛んでいるトリのようです。あるいは、巣のないまま、卵をはらんでいるトリのようで、そのまま産むと、卵は空中を落下して、木の枝にひっかかるか、地面に落ちて、こわれてしまいます。
 心の中にあるものは、みんな身体に対応するものをもっています。その対応部分を、「肉体化されたもの corporatura」と呼ぶことができます。愛も信仰も、ただ心にあるだけなら、人間のなかで肉体化されていませんから、古代人が描いたファーマという幽霊、浮遊人間に似ています。ファーマは頭のまわりに月桂冠をかぶり、手に角をもっていました。たとえ幽霊であっても考えることはできました。しかし幻影に、もてあそばれていました。いろいろな知ったかぶりの推論をやりますが、風にそよぐ沼地の葦とかわりません。沼の底には眠っている貝がおり、水面にはカエルがガアガア鳴いています。〈みことば〉をもとにして、愛とか信仰について何か知っていても、それを実行しないときは、そんなふうになります。主も言っておられます。
  「だれでもわたしの〈ことば〉を聞いて、それを行う者は、岩の上に家を建てた賢明な人にたとえることができる。・・・また、わたしの〈ことば〉を聞いても、それを行わない者は、砂の上や、基盤がしっかりしない土地に家を建てた愚かな人にたとえられる」(マタイ7・24、26、ルカ6・47~49)。
 愛と信仰について、形だけの概念をもっていても、それを行わない人は、空中を舞うチョウのようです。ツバメは、それが目にとまるが速いか、飛びかかっていって食べつくします。主もまた言われました、
  「種蒔く人が、種を蒔きに出かけた。・・・ある種は、かたい道端に落ちたが、鳥が来て、食べてしまった」(マタイ13・3、4)。

376・ 愛も信仰も、頭だけといった肉体の一部にしかとどまらない場合、行いをとおして確められないわけです。それについては、〈みことば〉のなかで、無数に言及されています。そのなかから、いくつかを引用します。
  「すべてよい実をむすばない木は、切られて、火に投げいれられる」(マタイ7・19~21)。
  「『よい土にまかれたタネとは、〈みことば〉を聞いて気がつき、実をむすび、実行に移す人のことである』。イエスはそう言われてから、声をあげて、『聞く耳のある人は、聞きなさい』と言われた」(マタイ13・[3]~9、23、[43])。
  「イエスは言われた、『わたしの母、わたしの兄弟とは、神の〈みことば〉を聞いて、それを行う人のことである』と」(ルカ8・21)。
  「神は、罪人の言うことには聞いてくださらないが、神をうやまい、そのみ心を行う人の言うことは聞いてくださる。それは、われわれの知っていることです」(ヨハネ9・31)。
  「あなた方がもし、それを知って、しかもそれを行えば、さいわいである」(ヨハネ13・17)。 
  「わたしのいましめを守って、それを行う人は、わたしを愛している。・・・わたしとしては、その人を愛するだろうし、その人にわたしのことを、よく分からせるつもりだ。・・・わたしは、その人のところへ行って、その人と住まいをともにしよう」(ヨハネ14・15~21、[23])。
  「わたしの父はあなた方が多くの実を結ぶことによって、栄光をおうけになる」(ヨハネ15・8、16)。
  「律法を耳にすることによって、神から義とされるのではない。律法を行うことによってである」(ローマ2・13、ヤコブ1・22)。
  「神は、怒りと正しい裁きの日にあたって、・・・人の行いに応じて、それぞれに報いを与えられる」(ローマ2・5、6)。
  「わたしたちはみんな、キリストの裁きの座のまえにあらわれ、善であれ悪であれ、自分が行ったことに応じて、それぞれ報いを受けなければならない」(Ⅱコリント5・10)。
  「人の子は、父の栄光のうちにやがて来る。・・・そのとき、ひとりひとりの行いに応じて報いる」(マタイ16・27)。
  「わたしは、天からの声を聞いた、今より主にあって死を迎える死人はさいわいである、と。またみ霊も言われる、かれらはその労苦を解かれ、その行いは、かれらについていく、と」(黙示14・13)。
  「いのちの書がひらかれた。そして、死者たちは、その書に記されたことによって裁かれたが、みんな自分のやった行いに応じてさばかれた」(黙示20・12、13)。
  「見よ、わたしは報いをたずさえ、ひとりひとりの行いに報いるために、すぐに来る」(黙示22・12)。
  「エホバは、人々が歩むすべての道のうえに、目をひらかれ、それぞれの道にしたがい、その行いの実に応じて、報われます」(エレミヤ32・19)。
  「わたしは、人の道に応じておとづれ、人の行いに応じて報いる」(ホセア4・9)。
  「エホバは、わたしたちの歩む道にしたがい、わたしたちの行いにしたがって、わたしたちに対応される」(ゼカリヤ1・6)。
 そのほか、多くの箇所にあります。
 以上で分かったと思いますが、行いになるまえの愛は、愛ではなく、信仰も信仰ではありません。行いから浮きあがり、宙に浮いたもの、思うだけのものだとすると、それは、想像上の幕屋、空中の楼閣に過ぎず、流れ星のように、みずから消えていってしまいます。また紙に描かれた絵のようで、ムシがついてダメになります。あるいは、家の中ではなく、屋根の上の住まいのようで、そこは部屋にはなりません。だから、できるかぎり行いの中に実現し、行いと共存する必要があります。そうでなく頭の中だけなら、愛も信仰も、またたくまに姿を消していくことは明白です。

377・[Ⅲ]愛だけでは、善い行いがでてこないが、信仰のみでは、なおさらで、愛と信仰の両者が必要である。

 前(355~361)節に示したように、信仰のない愛は愛ではなく、愛のない信仰も信仰ではありません。したがって、「愛のみ」も、「信仰のみ」もないし、愛それ自身 per se が、何か善い行いを生みだすことも、信仰それ自身が、何か善い行いを生みだすこともありません。それはまた、意志や理性についても言えます。「意志のみ」は存在せず、何も生みだすわけではありませんし、「理性のみ」も存在せず、何も生みだすことはありません。すべて何かを生みだすとすれば、それは両方からでてくるもので、理性の力で ab intellectu、意志を起動にして ex voluntate 、実現します。すなわち、意志は〈愛の住まうところ〉、理性は〈信仰の住まうところ〉だからです。「信仰のみ」では善い行いになりません。信仰とは真理であり、真理をつくり出す働きがありますが、その真理が前提で、愛とその実践に、光がさしてきます。光が射してくるということについて、主は教えておられます、
  「真理を行っている者は光に来る。その人の行いが、神のうちになされたということが、はっきり現れるためである」(ヨハネ3・21)と。
 だから、人が真理にしたがって、善い行いをするとすれば、それは光のうちにあって、行っていること、つまり理知的に intelligenter、英知をもってsapienter 、やっていることです。愛と信仰とのむすびつきは、夫と妻とのあいだの結びつきのようなものです。夫は父、妻は母となって、自然的な子供たちをたくさんつくります。
 それと同じように、愛は父、信仰は母として、霊的な子供がたくさん生まれてきます。それは、善と真理を認識すること cognitiones boni et veri です。〈みことば〉にも、「夫」とか「父」は、霊的意味では〈愛の善〉をあらわし、「妻」や「母」は、〈信仰の真理〉をあらわします。以上のことから、夫や妻だけでは子供を生むことができないように、愛だけ信仰だけでは、善い行いを生みだすことができません。
 信仰の真理というものは、ただ単に愛を照らす働きがあるだけではありません。愛の性格をつくり、さらに愛を養い育てます。したがって、愛はあっても信仰の真理をもっていない場合、闇夜のなかで果樹園を歩き、木からその実をもぎとっても、それを食べていいか、悪いか分からないのと、同じです。
 したがって、信仰の真理は、愛の照らしになるだけでなく、前述したように、愛の性格をつくるものです。したがって、信仰の真理を伴っていない愛は、果汁のぬけた果物、涸れたイチジク、汁をしぼりとったあとのブドウのようです。同様に、前述したとおり、真理は信仰を養い育てるものですから、愛に信仰の真理が欠けているとすると、焼けたパンを口にしても、汚れた水を、よどんだ池からすくって飲む人のようです。