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真のキリスト教


第一章 創造の神について

神の無限 Infinitas・無辺 Immensitas・永遠 Aeternitas について


35節


35・ ここでメモをつけ加えておきます。

 創造を自然のおかげだとしている人が、途方もなく大勢いることで、わたしはあるとき、肝をつぶしていました。
 太陽の下にある万物も、太陽の上にある万物も、みんなそうだと言っているのです。何かを見ると、かれらはもっともげに、「これは自然のやっていることでしょう」と言います。それを自然のおかげだとして、どうして神のおかげとしないか、尋ねられたりします。というのも、あるときは神が自然をお造りになったことに合点しながら、見えるものが神によって出来たといっても、自然によって出来たといっても、おなじことだと言っているからです。それにたいしては、やっと聞きとれるくらいの声を喉の奥から出して、「神でも、自然でも、同じことさ Quid Deus est nisi natura ? 」と言います。
 かれらは、自然がもとで宇宙が創造されたと思い込み、それが英知から出た考えだと錯覚しているようです。しかも、神によって宇宙が創造されたことをみとめている人たちを、みんな地面を這いながら、踏みかためた小径を急ぐアリにたとえたり、空をとぶチョウのようだと言って、誇らしげに見くだしています。見えないものを見えると言う夢想主義者のドグマだと呼び、「神を見る人はだれもいないが、自然はだれもが見ているんだ」と言います。

(2) こんなふうに考えている人があまりにも多く、呆気にとられていると、わたしのそばに天使がいて、「何を考えているのですか」とたずねられました。わたしは、「自然がみずからの力で存在し、全宇宙の創造主 creatrix だと信じている人が、あまりにも多いことです」と言うと、天使は次のように言いました、
 「地獄はぜんぶ、そんな人からなっていて、かれらは、サタンとか悪魔とか呼ばれています。サタンは、自然のおかげと思いこんで、神を否定した者のこと、悪魔は、極悪非道な生きかたをして、神をみとめる思いを完全に捨てた者のことです。あなたを南西の方位にある学校にお連れしましょう。そこではまだ、地獄に入っていない者がいますよ」と。
 その天使は、わたしの手をとってひっぱていきました。すると小さな家の集まりが見え、そこにいろいろ学校があり、その中央に本部らしい建物がありました。それは黒びかりのする石でできていて、金や銀のガラス状薄板がはめてあり、それがセレナイトまたは透明石膏のように、キラキラひかっていて、さらにピカピカひかる貝殻があちこちにはめてありました。

(3) その建物に近づきノックすると、ドアがあいて、「いらっしゃい」と言う声がし、テーブルから四冊の本をもってきた人が言いました、
 「これらの書物は英知の書で、現在ひじょうに多くの人からの賞賛を博しています。フランスでは大勢の者が、この本の英知に賛辞をおくり、ドイツではまた大勢の者が、この本を賞賛しています。オランダでは相当数の者がこの本をほめたたえ、英国ではまた相当数の者が、この本をたたえています」と。またつづけて、
 「もしお望みでしたら、この四冊をあなたの目のまえで、光り輝くよう、お見せしましょう」と言い、その人は自分の名声のかがやきを、あたり一面にそそぎこみました。するとその書物がまばゆいばかりに光るではありませんか。しかしそれも、わたしたちの目のまえでは、消えてゆきました。それで、わたしたちは何が書いてあるのか聞きました。その答えでは、内奥の英知は、みずからの知恵の宝庫からでたものだと言い、要約すると、① 自然は生命のものか、生命は自然ものか、② 中心部 centrum は、広がり expansum からくるか、広がりは中心部からくるか、③ 自然と生命の中心部と広がりについて書かれてあるとのことです。

(4) こう言って、その人は席につきましたが、わたしたちは、広々とした学校のなかを歩きました。その人はテーブルのうえにローソクをともしていましたが、そこには太陽の光が入らず、夜間の月光しかなかったのです。それに驚いたことには、見えていたローソクが、そこをぐるぐるまわって照らしており、ローソクの芯を切っていないので、あまり明るくは照っていないことです。その人が書きものをしているあいだ、いろいろな形象のイメージが、テーブルから壁の方へ向かって飛んでいき、夜の月光では、きれいなインド鳥のように見えます。ところがドアをあけるとどうでしょう。昼間の日の光では、コウモリの羽根をつけた夜鳥に見えるではありませんか。ということは、それが真理のまがいものだったわけで、巧みに一連の理論としてつながってはいても、偽りでつきかためられたものだったのです。

(5) それを見て、わたしたちはテーブルに近づき、いま何を書いているのか尋ねました。かれは、「自然は生命のものか、生命は自然のものか」のテーマが最初だといい、この二つの命題は、両方とも真理であることを確証できるといいました。しかしそれには、心配になることが、一つ隠されているとのことです。つまり自然は生命のもの、生命からでたものであることは証明できても、生命は自然のもの、自然から出たものかどうかは、証明できないとのことです。
 それでわたしたちは、心配になることが隠されているとは何のことか、おだやかに尋ねました。するとかれは、自分が自然主義者だと呼ばれること、とくに教職者たちからは、無神論者呼ばわりされ、信者たちからは、頭がおかしいと思われるのが心配だと答えました。教職者も信者も、盲目的に信じているか、思いこみから物事を見ているとのことです。

(6) そこでわたしたちは、真理への情熱から、ある種のいきどおりを感じて言いました、
 「ねえ、あなたは大へんな誤りをおかしていますよ。あなたのもっている物書きの才能と知恵が、あなたをだましているのです。それに名誉や名声が、あなたの信じてもいないことを信じこませています。人間の精神は、感覚的なものを越えることができるのは、ご存じでしょう。その感覚的なものというと、肉体の感覚器官から心のなかに入ってくるものです。そして人間の精神は高められると、上には生命があり、下には自然があることが分かります。生命とは愛と英知のこと、自然とは、その器で、愛と英知がはたらいて効果を生み、役立つためのものです。生命と自然は、原理的なものと手段的なものだから、同一のものではありません。光と眼は同一のものだと言えないし、音と耳は一つと言えないのと同じです。
 ということで、感覚器官は生命なくしてはありえないし、そのいろいろな形体は、自然なくしてはありえません。人間の肉体は、生命をはたらかせる有機体でなかったら、いったい何でしょう。人間の肉体は、愛が向くところ、理性が考えるところを生みだしていくよう、個々全体にわたって有機的に形づくられているのです。そして人間の体は自然から生まれ、愛と思考力は生命からくるものなのです。だから、自然と生命は、はっきり分離されたものではないでしょうか。
 心の眼をわずか高めにして考えればわかります。感動したり、考えたりするのは、生命がやっていることです。感動するのは愛であり、考えるのは知恵のやることですが、両方とも生命の働きです。それは、前述したように、愛も知恵も、生命だからです。もし理解力をもうすこし高めにすれば、その愛も知恵も、どこかにその源があるはずだと分かります。その源は、〈愛そのもの〉、〈英知そのもの〉であるとともに、〈生命そのもの〉です。これが神で、そこから自然ができています」と。

(7) そのあと、わたしたちは、次の「中心部は広がりのものか、広がりは中心部のものか」のテーマをかれと話しあいました。どうしてこんなことを言い出したかを尋ねると、かれは中心部も広がりも、自然のもの、生命のものであって、一方は他方の起源になっていることを結論として主張したいからだといいます。その意図をつっこんで尋ねると、かれはまえとおなじように、それはどちらの命題でも確証できることで、ただ自分の評判をおとしたくないため、広がりは中心のもの、すなわち中心部からくるものと言っていると答えました。
 「わたしの考えでは、太陽が存在するまえに何かがあり、それが広がり全部にわたって存在していたこと、またそれがみずから秩序をもって流れ、中心部に集まったことは知っています」と。

(8) そのとき、わたしたちはまた、いきどおりのこもった思いで話しかけ、言いました、
 「ねえ、ねえ、あなたは頭がおかしいですよ」と。
 そう言われてかれは、テーブルから椅子をずらし、びくついた様子で、わたしたちをじっと見ていましたが、にやにやしながらも聞き耳をそばだてていたので、続けて言いました、
 「中心部が広がりから始まるなど、少しおかしいのではないでしょうか。中心部とは太陽のこと、広がりとは宇宙のことでしょう。それなら、宇宙は太陽がなくても存在していたことにはなりませんか。自然とそのあらゆる属性は、太陽によって作られ、太陽から大気をとおして発出する光と熱に依存しているものでしょう。太陽以前に何があったと言うのですか。
 自然とその属性の由来について、次に考えてみましょう。大気にしても、地上の万物にしても、表皮のようなもので、太陽こそ中心です。太陽がなかったら、万物は存在できるはずはありません。はたして一瞬でも存続できるでしょうか。ですから、太陽以前の万物など、どうやって存在しえるでしょう。実存可能だと思いますか。存続とは、永久の実在のことです substantia est perpetua existentia 。したがって、自然万物が存続するのが太陽によるものなら、その実在についても同じです。このことは、だれもが自分の眼でたしかめられます。

(9) あとから出てきたものは、前からあったものによって実在し、存続します。もし表面にあるものが先にあって、中心部があとから出てきたものなら、先にあるものが、後からのものによって存続することになり、秩序の諸法則に反します。あとからのものが先にあるものを生み出したり、外部にあるものが内部を生み出したり、粗雑なものが純粋なものを生み出すことが、どうしてありえるでしょう。だから、広がりをもたらす表面が、中心部を生み出すことはできないのです。これが自然界の法則に反することは、だれでも分かります。
 わたしたちとしては、理性的な分析をもって論じているのですが、それも、広がりというものは中心部があってこそ存在するわけで、その逆ではないことを確認するためです。だれでも、まともに考えれば、そんな論証がなくても分かるでしょう。
 あなたは、広がりがみずから中心部に流れ集まったと言われます。それなら聞きますが、一が他のためになり、個々全体が人間のためになり、しかも人間の永遠のいのちに役立つようになっているこのすばらしい驚くべき秩序は、偶然にできたのでしょうか。はたして自然が何かの愛から、何かの知恵で、目的をめざし、諸原因を見きわめ、それなりの秩序で存在できるよう、結果を見通すことがありえたでしょうか。また、はたして人間から天使ができ、それでもって天界が生まれ、しかも天界で永遠に生きるようにすることができるでしょうか。以上をまとめて考えてみるとき、自然が自然によって存在するというあなたの考えは、くずれていきます」と。

(10) そのあと、わたしたちはかれが、第三番目の「自然と生命の中心部と広がりについて」、いまどんなふうに考え、またかつて考えていたかを尋ねました。生命の中心と広がりが、自然の中心と広がりと、おなじかどうかということです。
 かれが言うには、
 「今、とまどっているけれど、生命とは自然内部の活動のことで、人間の生命の本質である愛と英知は、そこからくるものと以前から考えていました。太陽の火は、大気を介してその熱と光で生命を起こしているわけですが、いま死後の人間の生命を耳にして、何かはっきりしなくなってきました。だから心が上下に移動し、上にあるときは、以前には何ら頭に浮かばなかった中心部を認めていますが、下にあるときは、独一の中心部をはっきり見ているのです。生命は、以前は何ら頭にうかばなかった中心部から生まれ、自然は、独一と思われる中心部から生まれます。そして、どちらの中心部にも、そのまわりに広がりをもっているのです」と。

(11) それにたいしてわたしたちは、次のように言いました。
 「結構です。あなたが生命の中心部と広がりから、自然の中心部と広がりを見ておられ、その逆ではないなら、それでいいのです」と。それから伝えたことは、
 「天使のいる天界にも太陽があって、それは純粋愛です。この世の太陽のように燃えて見え、その太陽からでる熱によって、天使と人間の意志と愛がうまれ、その太陽からでる光によって、天使と人間の理性と英知がうまれています。
 その太陽からでるものは「霊的なもの spiritualia 」と言われ、この世の太陽からでるものは「自然的なもの naturalia 」と言って、前者をうける器になっています。
 生命の中心部になっている広がりは、「霊界 mundus spiritualis 」と言われ、霊界の太陽によって存続し、自然の中心部の広がりは、「自然界 mundus naturalis 」といって、自然の太陽によって存続しています。
 さてそれで、愛とか英知とかを、空間や時間にあてはめて考えるわけにはいかず、むしろそれは状態であることから、天使のいる天界の太陽のまわりの広がりは、延長 extensum ではありません。それにたいして、自然の太陽の延長のうちにある広がりは、うける器にしたがって存在する生きた主体で、そのうける器も、その主体の〈かたち〉と状態におうじています」と。

(12) そこでかれは、
 「この世の太陽、あるいは自然の太陽の場合はどこからくるのですか」と尋ねました。それでわたしたちは、それは天使のいる天界の太陽からくるものだけれど、その太陽は火ではなく、神からまともに発している神愛で、その中に主がましますと言ったところ、かれが目をまるくしていたので、次のように説明しました、
 「愛の本質は、霊的な火です。〈みことば〉で「火」というと、その霊的意味では愛のことです。そのため神殿で祭司は、天上の火がその心を満たし、愛を理解できるように祈ります。イスラエル人の場合、幕屋にあった祭壇の火とか燭台の火は、神の愛の表象でしたし、人間や一般の動物がもっている血の熱量つまり生命の熱気は、かれらの〈いのち〉を支えている愛からくるものにほかなりません。
 したがって、人間のもっている愛が高められて熱情になったり、刺激をうけて興奮したり激高したりすると、火がついたように燃えあがり、熱を帯びます。このように人間の場合、霊の熱つまり愛が、自然的な熱を生みだし、顔や関節がほてってくるわけです。以上を見ても、自然界の太陽の火は、〈神の愛〉である〈霊の太陽の火〉からくることがはっきりします。

(13) 前述したように、中心部から広がりが生まれてくるので、その逆ではありません。また天使のいる天界の太陽こそ、生命の中心部で、神からまともに発している神の愛がそれです。神はその太陽のまん中にいらっしゃいます。そして、その中心部の広がりは霊界と呼ばれます。またこの世の太陽は、その霊界の太陽から存在をうけ、そこからまた自然界と呼ばれる広がりも生まれるのです。以上のことからも、宇宙は神によって創造されたことが、分かると思います」と。
 それから、わたしたちはそこを出ていきました。かれは学校の玄関の外まで、わたしたちを見送りに出てきました。かれはそこで、まえよりずっと賢くなって、天界、地獄、神の摂理などについて、わたしたちと話しました。