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真のキリスト教


第六章 信仰について

337節~361節


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一・ 神・救い主である主、イエス・キリストへの信仰こそ、救いにつながる

337・ 神・救い主である方への信仰こそ、救いにつながります。その方は、神であるとともに人間であり、しかもご自身がおん父のうちに、おん父がご自身のうちに、ひとつになって存在しているような方だからです。その方のほうに近づいていくことは、同時におん父に近づくことです。ここに、唯一でひとりの神がいまし、それ以外のものを信じても、救われるはずはありません。神のおん子であり、あがない主であり、救い主によります。エホバによってみごもり、おとめマリヤから生まれ、イエス・キリストと名づけられた方です。この方を信じ、この方にたいして信仰をもつことです。これはその方が何回となく、お命じになったことですし、使徒たちによっても、あとで教えられたことからも、分かることです。その方を信じるよう命じられていることは、次の引用箇所からも、実にはっきりと示されます。
  「わたしをつかわされた父の〈みこころ〉は、子を見て信じる者が、ことごとく永遠のいのちを得ることである。そして、わたしは、その人々を終わりの日に、よみがえらせるであろう」(ヨハネ6・40)。
  「み子を信じる者は、永遠のいのちをもつ。み子にしたがわない者は、いのちにあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」(ヨハネ3・36)。
  「それは、み子を信じる者が、すべて永遠のいのちを得るためである。神は、そのひとり子を賜うたほどに、この世を愛してくださった。それは、み子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠のいのちを得るためである」(ヨハネ3・15、16)。
  「イエスは言われた、『わたしは、よみがえりであり、いのちである。わたしを信じる者は、いつまでも死なない」(ヨハネ11・25、26)。
  「よくよくあなた方に言っておく。わたしを信じる者には、永遠のいのちがある。わたしは、いのちのパンである」(ヨハネ6・47、48)。
  「わたしは、いのちのパンである。わたしに来る者はけっして飢えることがないし、わたしを信じる者は、けっして渇くことはない」(ヨハネ6・35)・
  「イエスは叫んで言われた、『だれでも渇く者は、わたしのところへ来て飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から、生ける水が川となって流れるであろう」(ヨハネ7・37、38)。
  「かれらはイエスに言った、『神のみわざを行うために、わたしたちは何をしたらよいでしょうか』。イエスは答えて言われた、『父がつかわされた者を信じることこそ、神のみわざである』」(ヨハネ6・28、29)。
  「光のあるあいだに、光の子となるために、光を信じなさい」(ヨハネ12・36)。
  「神のおん子を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を、信じることをしないからである」(ヨハネ3・18)。
  「これらのことを書いたのは、あなた方がイエスは神のおん子であることを信じるため、またそう信じて、イエスのみ名によって、いのちを得るためである」(ヨハネ20・31)。
  「もしわたしがそういう者であるということを、あなた方が信じないなら、あなた方は罪のうちに死ぬことになる」(ヨハネ8・24)。
  「イエスは言われた、『助け主である真理の霊がくれば、罪と正義と、さばきとについて、この世の人の眼をひらくであろう。罪についてといったのは、かれらがわたしを信じないからである』と」(ヨハネ16・8、9)。

338・ 使徒たちの信仰は、主イエス・キリストへの信仰以外のなにものでないわけです。それは、かれらが記した手紙のなかから、いろいろ引用してみると分かります。ここでは次の箇所だけをあげておきます。
  「生きているのは、もはやわたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられる。わたしがいま、肉にあって生きているのは、神のおん子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2・20)。
  「(パウロは)ユダヤ人にもギリシャ人にも、神にたいする悔い改めと、わたしたちの主イエス・キリストにたいする信仰とを、強く勧めてきた」(使徒20・21)。
  「(パウロを)外に連れだして言った、『わたしは救われるために、何をしたらいいでしょう』。かれは言った、『主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたも、あなたの家族も救われます』と」(使徒16・30、31)。
  「おん子を持つ者は、いのちを持ち、神のおん子を持たない者は、いのちを持っていない。これらのことを、あなた方に書き送ったのは、神のおん子のみ名を信じるあなた方に、永遠のいのちをもっていることを、さとらせるためである」(Ⅰヨハネ5・12、13)。
  「わたしたちは、生まれながらのユダヤ人であって、異邦人から出た罪人ではないが、人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によるものだと知って、わたしたちも、イエス・キリストを信じるようになった」(ガラテヤ2・15、16)。
 かれらがもっていた信仰は、イエス・キリストにたいする信仰であり、しかもイエス・キリストのみ力によるものでした。だから、前掲(ガラテヤ2・16)のように、「イエス・キリストの(にたいする/を信じる)信仰 Fides Jesu christi 」と言ったわけですが、次もそうです。
  「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。・・・さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」(ローマ3・22、26)。「キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰にもとづく神からの義をうけなさい」(ピリピ3・9)。
  「ここに、神のいましめを守り、イエスを信じる信仰をもちつづける者たちがいる」(黙示14・12)。
  「キリスト・イエスにたいする信仰によって・・・」(Ⅱテモテ3・15)。
  「キリスト・イエスにあっては、・・・愛によって働く信仰である」(ガラテヤ5・6)。
 以上の引用で、明らかなように、パウロの解釈による信仰こそ、現代の教会でも言われている信仰で、それがどんなものかを示します。
「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(ローマ3・28)。
 それは、父なる神にたいする信仰でなく、神のおん子にたいする信仰でした。それはまた、「起源となられる神 in unum a quo」・「理由となられる第二の神 in alterum propter quem」・「媒介になられる第三の神 in tertium per quem」のような序列をもつ三つの神々ではありません。
 パウロの言葉のなかに、三人格を示す信仰があるかのように教会では信じられてきましたが、それは十四世紀にいたるあいだ、少なくともニケア公会議以来、教会は三位の神以外の信仰はみとめなかったし、それ以外の信仰を失ってしまったからです。しかも、そのような信仰が唯一無比とされ、それ以外は不可能だと信じられてきました。新約聖書の〈みことば〉のなかで、「信仰」というコトバがでてくれば、なにがなんでも、すぐそのような信仰にむすびつけました。その結果、救い主である神にたいする信仰、つまり救いにいたる不可欠な信仰はうしなわれ、それと同時に、かれらの教義のなかに、いろいろな偽りや、健全な理性に反する逆説がしのびこんできました。
 教会の教義は、すべて天界への道、救いへの道を教え示すものですが、それは信仰内容にかかっています。それが前述のように、偽りや逆説におかされてしまったわけです。だから、信仰への従順の面で、理性が納得するような教義を、おおやけにする必要があります。
 したがって、パウロが言っている「信仰」(ローマ3・28)は、父なる神への信仰のことではありません。おん子にたいする信仰です。「律法の行い」といっているのも、十戒の実践について言っているのでなく、ユダヤ人に与えられたモーセの律法の行いのことです(それはそれに続くパウロの言葉からも、ガラテヤ2・14、15にある同様の箇所からも分かります)。そのため、現在、信仰は基礎がくずれ、その上にある神殿も倒れています。それはちょうど、一軒の家がずぶずぶと地中へ沈み、その屋根だけがのこっているような感じです。

339・ 神である救い主イエス・キリストを信じなくてはならないわけは、主は、〈見えない神を宿す見える神〉だからです。あるいは、人であると同時に神である〈見える神〉だからこそ、その方への信仰は、人間のなかに入りこめるのです。
 信仰は本質上、霊的なものですが、その〈かたち forma〉は自然的なものです。人間には、この霊的・自然的性格があり、すべて霊的なものが人間のうちで受けとめられるためには、自然的な受けとめ方をします。霊的なものは裸のままで nudum spirituale 、人間のなかに入っていきませんし、受けとめられません。エーテルは、流れていても、それを受けとめなければ、結果を生みません。そのような結果がでてくるためには、感知力が必要で、そこで感受力がはたらきます。感知力も感受力も、心のなかで働きます。しかし人間の場合、それが自然的な受けとめ方でしか、受けとめられないのです。
 それにたいして、霊的な本質を欠いた信仰、つまり単なる自然的信仰は信仰ではありません。それは思いこみか、知識です。思いこみ persuasio は、外面上、信仰に似ていますが、その内面は霊的ではありませんから、人を救うようなものではありません。主の神人性 Divinitas Humani Domini を否定する人たちは、みんなこのような信仰をもっています。アリウス派の信仰、ソッツィーニ主義者の信仰はそうです。ともに主の神性を拒否しています。信仰とはいえ、信じる対象がない信仰とは、そんな信仰でしょう。それは宇宙に眼を注いでいるようなものです。空漠としたかなたへ眼をやっても、宙をさまようばかりです。あるいは、大気圏のうえにあるエーテルにむかって飛んでいくトリのようです。そこは真空ですから、呼吸もできません。人の心のなかに、以上のような信仰が宿るとすれば、それは〈風の神アイオロス〉の翼であおがれた風や、流星のきらめきのなかにある信仰と言えましょう。長い尾をひく彗星のように出現しても、空中を横切ったあと、消えてゆきます。

(2) 一言でいえば、〈見えざる神〉への信仰というものは、実際には盲目的な信仰です。それは、人間はその心で、自分の神を見ていないからです。またその信仰がもっている光も、霊的・自然的なもの spiritualis naturalis ではないため、いつわりの光です。この種の光は、ホタルの光、沼や硫黄土にある夜光、腐敗する材木から発する光に似ています。幻想からくる以外のなにものでもありません。存在しているようにみえるのは見かけで、実際は存在していません。〈見えざる神〉への信仰には、このような光しかありませんが、それもとくに、神が霊であり、しかも霊はエーテルのようなものだと考えることによります。こうなってくると、エーテルを見つめるような感じで、神を見、宇宙のなかに神を探しだそうとするのですが、宇宙のなかに神は発見できないとなると、宇宙にある自然が神だと信じるようになります。これが、現在はやっている自然主義の起こりです。主は言われました、
  「だれも、父のみ声を聞いたことがなく、そのみ姿を見たこともない」(ヨハネ5・37)。また、「神を見た者は、まだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわした」(ヨハネ1・18)。
  「父のもとにいる者のほか、だれも父を見ない。その者だけが、父を見たのである」(ヨハネ6・46)。
  「だれも、わたしによらないで、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14・6)。
  「わたしを見て、わたしのことが分かる者以外に、父を見て、父のことが分かる人はいない」(ヨハネ14・7以降)。

(3) 神である救いの主にたいする信仰は、それとはちがいます。神であるとともに人間です。近づくことができます。考えのなかで、見ることができます。だから宙をまさぐるような信仰ではありません。その信仰には、根拠があり、対象があります。ひとたび受けいれられたら、しっかり根をおろします。だれかが皇帝や王に会えば、それを思いだすたびに、イメージがもどってきます。そのような信仰には、ひとつの視線がそなわっていて、あかるい雲を見ると、そのなかに天使がいて、その天使が、人にむかって、天界にのぼってくるよう招いているような感じです。
 主は、ご自身を信じている人たちにたいし、そのようにお現れになり、ご自身をみとめて受けいれる人なら、どんな人でも近づいてくださいます。それはまた、悪を避け、善を行いなさい、と言われた主のご命令にしたがう人にたいしても同じです。そしてやがて、その人の家にやってこられ、主のうちにまします父とともに、その人のうちに住まわれます。それについて、ヨハネは、
  「イエスは言われた、『わたしの戒めを心にいだいて、これを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛される。わたしも、その人を愛し、その人にわたし自身を示そう。・・・わたしたちは、その人のところへ行き、そのひとのうちに住まいを設けよう」(ヨハネ14・21、23)。
 以上は、主の十二使徒の面前で記されました。わたしが以上のことを書いているあいだ、かれらは、主によって、わたしのもとにつかわされていました。

二・善い生活をおくり、正しい信仰をもてば、主によって救われる。これこそ、信仰の要約である。

340・ 人間は永遠のいのちを得るために造られたものです。またどんな人間でも、〈みことば〉に示されている救いへの手だてに従いさえすれば、その生命をうけ継ぐことができます。しかも、キリスト教徒だけでなく、宗教と健全な理性がそなわっていたら、異教徒でもみんな〈いのち〉をもつことができると定められています。救いの手だてにも、いろいろありますが、その個々全体は、善い生活をおくり、正しい信仰をもつことです。こうして、愛と信仰にいたるわけです。愛とは、とりもなおさず、善い生活をすること、信仰とは、正しい信仰をもつことです。この二つは、救いの手だてには共通するもので、〈みことば〉に記されているだけでなく、命じられています。命じられているからこそ、人は神によって生来さずけられている能力をつかって、信仰と愛をとおして、永遠のいのちをかくとくすることができるはずです。その能力をつかって、神に目をあげればあげるほど、神は、自然の愛をすべて霊的愛に高め、自然の信仰をすべて霊的信仰に、高めてくだいます。このようにして、神は死んでいた愛と信仰を生かし、それと同時に、人を生かしてくださいます。

(2) 人は「善い生活」をし、「正しい信仰」をもつと言いますが、この二つは一つです。つまり、教会では、この二つを、内部人間 internus homo と、外的人間 externus homo と言っています。内部人間の欲することがよいものであり、外部人間の行うことがよいことである場合、両者のすることが一つになります。つまり外部は内部を元にして、また内部は外部をとおして、おこなうわけです。すなわち、人は神を元にし、神は人をとおして、おこなわれることになります。その反対に、内部人間が欲しているものが悪く、外部人間の行うことがよい場合、いずれにしても地獄からくるものです。つまり欲していることがらは地獄からで、行いは偽善的です。すべての偽善には、地獄の欲望が内に隠されています。それは、草原のなかに隠れているヘビ、花にかくれているムシのようです。

(3) 人間には、内部人間と外部人間があり、しかもその各々には違いがあります。一方は実際に行うほうですが、他方は見かけです。内部人間は、死後も生きのこりますが、外部人間は埋葬されます。以上を知っていれば、天界とこの世についての秘義が、潜在的にあふれるほど分かってきます。自分のうちにあるこの二種類の人間を、善のうちに結びあわせる人は、とこしえの幸福をえますが、その二つを分離させ、しかもそれを悪のうちに結びあわせた場合、その人は永遠に不幸です。

341・ 善い生活をし、正しい信仰をもつ人でも、救われるわけではない、と信じている場合はどうでしょう。神は、ご自分が欲すれば、自由気ままに、だれでも救うことができるし、罰することもできると考えています。そうすると、人が滅びても、神が無慈悲であり、非情・残酷だから、こうなったのだと、文句をつけてもいいことになります。これでは、神が神であることを否定することになりますし、〈みことば〉で述べられていることはナンセンスで、そのお命じになっていることも、無価値で、たわいもないものだということになります。
 善い生活をし、正しい信仰をもつ人が救われないとしたら、神はご自分で立てた契約に、違反されます。それは、シナイ山で二枚の石板に、ご自分の指で記された契約です。神の戒めにしたがって生活し、ご自身にたいする信仰をもっている人を、神は救わないはずはありません。それは、主の〈みことば〉からも、はっきりしています(ヨハネ14・21~24)。宗教をもち、健全な理性のもち主なら、
ちょっと考えればだれでも確信がもてるはずでしょう。つまり、人間のもとにたえず臨在され、いのちをあたえ、理解し愛する能力を与えられている神が、善い生活をし、正しい信仰をもっている人を愛し、その愛によって、ご自身とむすびあわされないはずはありません。以上のことは、すべての人間、すべての被造物にたいし、神が刻みこまれた確信ではないでしょうか。父や母が、自分のみどりごを捨て去ることができるでしょうか。トリが自分の生んだヒナを、家畜が自分の生んだ子を、捨て去ることはできません。トラも、ヒョウも、ヘビさえも、そんなことはしません。
 そんなことをすれば、神みずから内在し、標準にされた秩序に反すること、人間をお造りになったときの秩序に反することになります。善い生活をし正しい信仰をもっている人を、神が罰することが不可能であるのと同様、悪い生活をし、その結果偽りを信じる人を、神が救うということは、不可能です。これもまた秩序に反することで、正義の筋をとおして行われる神の全能にも反します。正義の律法は、真理です。これは曲げられません。主は言われます、
  「律法の一画が落ちるより、天地の滅びるほうが、もっとたやすい」(ルカ16・17)。
 神の本質と人間の自由について、ある程度知っていれば、だれでも以上のことがピンとくるはずです。たとえば、アダムにとって、〈生命の木〉の実をとって食べる自由はあったし、〈善悪を知る木〉の実をとって食べる自由もありました。もしアダムが、〈生命の木〉の実をとって食べたとしたら、神はアダムを楽園から放逐することなんかできなかったでしょうし、〈善悪を知る木〉からとって食べたとしたら、楽園のなかにとどめおくことは、できなかったでしょう。わたしは、神がそんなことをなさるはずがないと思います。また同じく、神は天界にうけ入れられた天使を地獄に追いやったり、宣告をうけた悪魔を天界に入れることも、おできにはなりません。以上のようなことは、いずれも、神の全能によっても不可能です。それについては、神の全能について取扱ったところを参照してください(49~70節)。

342・ 前節(336~339)で述べましたが、神である救いの主イエス・キリストにたいする信仰が、人を救います。ところで、その方にたいする信仰の第一歩は何か、と問われれば、答えは、「その方を神のおん子 Filius Dei とみとめること」です。主がこの世に来られ、啓示され、宣言なさったことは、このような信仰の第一歩でした。それは、神のおん子であることを宣言され、神よりの神であることをはっきり示されないかぎり、ご自身にたいする信仰をご自分で伝道されても、そのあと使徒たちが同じことをしても、意味がないからです。これは現在でもおなじです。自分のエゴで考える人、つまり外部的・自然的な人間から考える人は、神エホバがどうやってそのおん子をみごもらせ、しかも人間が神になることがあるかと、自問自答します。だから、この信仰の第一歩は、〈みことば〉によって確証し、うち立てていく必要があります。それで次の箇所を引用しましょう。
  「天使はマリヤに言った、『あなたはみごもって、男の子 Filius を生むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。かれは、大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。
  ・・・そこでマリヤは、天使に言った、『どうして、そんなことがあり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに』。天使が答えて言った。『聖霊があなたにのぞみ、いと高き者の力が、あなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれでる子は、聖なる者であり、神の子 FiliusDei ととなえられるでしょう」(ルカ1・31、32、34、35)。
  「イエスが洗礼をうけられたとき、天から声があって、言った、『これこそ、わがこころにかなう愛する子である』と」(マタイ3・16、17、マルコ1・10、11、ルカ3・21、22)。
  「そのときイエスのみ姿がかわった。そして天から声があって、言った、『これこそ、わが心にかなう愛する子である。この人の言うことを聞きなさい』と」(マタイ17・5、マルコ9・7、ルカ9・35)。

(2)「イエスは、弟子たちにたずねた、『人々はわたしをだれだと言っているのか』と。・・・ペテロが答えて言った、『あなたは、生ける神の子、キリストです』と。イエスは、『ヨナの子シモン、あなたはさいわいだ。・・・わたしもあなたに言う、・・・この岩のうえに、わたしの教会を建てよう』」(マタイ16・13・16~18)。
 主は、「この岩のうえに、わたしの教会を建てよう」と言われましたが、それはすなわち、神のおん子 Filius Dei であるという真理と宣言のうえに建てるという意味です。「岩 petra」とは、真理のことであるとともに、〈神の真理の面からみた主〉のことでもあります。だから、〈主が神のおん子にまします〉という真理を告白しない場合、その人には教会が存在しません。だからこそ、前述のように、以上がイエス・キリストにたいする信仰の第一歩であるわけです。つまり信仰のはじまりは、ここにあります。
  「洗礼者のヨハネは会って、その方が神のおん子であることを証言した」(ヨハネ1・34)。
  「弟子のナタナエルは、イエスにむかって、『あなたは神のおん子です。イスラエルの王です』と」(ヨハネ1・49)。
  「十二人の弟子たちは、『わたしたちは、あなたが、生きた神のおん子キリストであると信じています』と言った」(ヨハネ6・69)。
  「その方は、神のひとり子、父のふところにあって、父から生まれたひとり子と呼ばれる」(ヨハネ1・14、18、3・16)。
  「イエスみずから、大祭司のまえで、ご自分が神のおん子であると告白された」(マタイ26・63、64、27・43、マルコ14・61、62、ルカ22・70)。
  「船に乗っていた者らは、やってきて、イエスを礼拝し、あなたは本当に、神のおん子です、と言った」(マタイ14・33)。
  「宦官は、洗礼をうけたいと思い、ピリポに言った、『わたしは、イエス・キリストが神のおん子であると信じます』と」(使徒8・37)。
  「パウロは改心してから、キリストが神のおん子であると、のべ伝えた」(使徒9・20)。
  「イエスは言われた、『死んでいる者が、神のおん子の声を聞くときが来た。そして聞く者は、生きるであろう』と」(ヨハネ5・25)。
  「信じない者は、もう裁かれている。神のひとり子のみ名を信じないからである」(ヨハネ3・18)。
  「以上のことが記されたのは、イエスが神のおん子キリストであると、あなた方が信じるためである。・・・そして信じることによって、そのみ名によって、いのちを得るためである」(ヨハ  ネ20・31)。
  「わたしがあなた方にこう書いたのは、あなた方が神のおん子のみ名を信じ、その結果、永遠の命を得ることができることを、知ってもらうためである」(Ⅰヨハネ5・13)。
  「わたしたちは、神のおん子が来られることを知っている。・・・その方は、わたしたちが真理をみとめ、真理のうちにあり、神のおん子イエス・キリストのうちにあるようにしてくださった。この方こそ、神であり永遠のいのちである」(Ⅰヨハネ5・20)。
  「イエスが神のおん子であると告白するとき、神はかならず、その人のうちに宿り、その人は、神のうちに宿る」(Ⅰヨハネ4・15)。
 その他(マタイ8・29、27・40、43、54、マルコ1・1、3・11、15・39、ルカ8・28、ヨハネ9・35、10・36、11・4、27、19・7、ローマ1・4、Ⅱコリント1・19、ガラテヤ2・20、エペソ4・13、ヘブル4・14、6・6、7・3、10・29、Ⅰヨハネ3・8、5・10、黙示2・18)。
 エホバみずから、「子」と呼んでいる箇所もたくさんあります。またそれ以外にも、おん子がみずから、神エホバを、ご自分の父と呼んでいるのです。たとえば、
「父が行われることはすべて、子もそのとおりに行う。父が死者をよみがえらせて生かしたように、子もそのとおりにする。・・・それは、すべての者が、父を敬うように、子も敬うようになるためである。・・・父がご自分のうちに〈いのち〉をもっておられると同様に、父は子にも、自分のうちに〈いのち〉をもつようにしてくださった」(ヨハネ5・19~27)。
   その他にもいろいろありますが、ダビデは記しています、
  「わたしは、主の定めをのべよう、エホバはわたしに言われた、あなたはわたしの子だ。わたしは、きょうあなたを生んだ。・・・あなた方は、子に接吻しなさい。あなた方が子の怒りをかって、道の途中で滅んでしまわないためなのだ。子の怒りは、すぐ燃えるだろうから。ただし、エホバに信頼する者は、さいわいである」(詩2・7、12)。
(3) 以上のことから、次の結論がでてきます。だれでも、本当のキリスト信者になりたい、キリストによって救われたいと思うなら、イエスが生ける神のおん子であると、信じなくてはなりません。これを信じないで、イエスをマリヤの子であるとしか信じなかったら、自分の救いをメタメタにしてしまいます。つまり、イエスについての破壊的な考えを、植えつけていってしまうのです。これについては、前(90、94、120)節を参照してください。ユダヤ人についても、おなじようなことが言えます、
  「かれらは、王冠のかわりに、いばらで作った冠をかれの頭上にのせ、またかれに酢を飲ませ、叫んで言った、『もしおまえが神の子なら、十字架からおりてみろ』」(マタイ27・29、34、40)
  「誘惑者である悪魔は、『もしおまえが神の子なら、この石をパンに変えろ』とか、『もしおまえが神の子ならここから身を下に投げろ』などと言った」(マタイ4・3、6)。
 かれらは、主の教会と主の神殿をけがし、それを泥棒の巣にしています。主への崇拝とマホメットへの崇拝を同列に考え、主を礼拝する本物のキリスト教と、自然主義とのあいだに相違をおきません。うすい氷のうえを、馬車か橇で走っている人に似ています。氷は裂け、下に沈んでいきます。かれらは、馬や車もろとも、氷と水でおおわれます。あるいはまた、ヨシやイグサで舟を造って、それをタールでかため、大洋に乗りだす人に似ています。海に出ると、タールは溶け、大海の水で溺れ、海底へ沈んでいきます。

三・  人が信仰をうけいれるとは、主に近づいて、〈みことば〉から真理をまなび、それにしたがって、生活することである。

343・ 信仰とは、主に近づき、〈みことば〉から真理をまなびとり、その真理にしたがって生きることです。そのような信仰の起源に触れてゆくつもりですが、そのまえに、信仰にかんする大要を述べる必要があると思います。つまり信仰についての子細にわたる部分を、ぜんぶまとめることができる大要です。これが分かると、「信仰」について扱うこの章の内容だけでなく、これにつづく、 「仁愛」「自由意志」「悔い改め」「改善」「再生」「責任の所在」の各章で扱うことも、ずっと理解しやすくなってくるでしょう。それは血液が肉体のすみずみに浸透して、それを生かしているのと同じく、信仰は、組織神学の各部分と全体とに、しみとおっているからです。
 現代の教会が「信仰」にかんして伝えている内容は、キリスト教界一般にも、教会の教職者たちにも、周知のことです。それというのも、「信仰」だけについての著作、あるいは「信仰のみ de Fide sola 」についての著作は、教会の博士たちの書庫にいっぱいあるからです。それ以外のことは、現在では、神学としてみとめられないくらいです。とにかく、現代の教会が、自分たちの「信仰」について、伝えてきたことがらを取りあげ、よく調べ、また(「付録」の部分でするように)補足するまえに、新教会が「信仰」について教えている共通の内容をご紹介します。それは次のとおりです。

344・ 新教会の信仰が「存在 Esse 」するとは、① 神であり救い主であるイエス・キリストにたいする確信があり、② 善良な生活をし、正しい信仰をもてば、その人は主によって救われるという信頼があること。
 新教会の信仰の「本質 Essentia 」とは、〈みことば〉にもとづく真理のことである。
 新教会の信仰の「実在 Existentia 」とは、① 霊的な視力、② 諸真理の統合、③ 確信、④ 心に刻みこまれた知的承認のことである。
 新教会の信仰の「状態 status 」とは、① 幼児期の信仰、青春期の信仰、成人期の信仰、② 純粋の真理にかんする信仰と、真理の外観にかんする信仰、③ 記憶の信仰、理性の信仰、光の信仰、④ 自然的信仰、霊的信仰、天的信仰、⑤ 生きた信仰と、奇蹟的信仰、⑥ 自発的信仰と、強制された信仰のこと。
 普遍的な場合と、個別的な場合での、新教会のもつ「信仰」の「形相 Forma」については、前(2、3)節を参照してください。

345・ 霊的信仰についての要約が出されましたから、〈単なる自然的信仰〉についての要約も出しておきます。自然的信仰とは、それ自身としては、〈信仰のマネをさせる思いこませ persuasio
mentiens fidem〉であり、偽りを説得することで、「異端の信仰」と呼ばれています。それは、どんな信仰かというと、① ニセモノの信仰で、そのなかには、偽りと真理が混在しています。② 真理をひん曲げた結果生じる姦婦的信仰と、善を汚した結果生じる姦夫的信仰。③ それが真理か虚偽か、超理性的か反理性的かもはっきりしないまま、なにか神秘的なことを信じる場合の閉ざされた盲目的信仰。④ 多くの神々を信じる迷いの信仰。⑤ 本当の神以外の神を信じる片目の信仰、キリスト信者が、神である救いの主以外のものを信じる場合の信仰。⑥ 口先だけで心から出ていない偽善の信仰、パリサイ的信仰。⑦ まぼろしの本末転倒的な信仰、これはもっともらしい信念を見せることで、偽りでも真理にみえる。

346・ 前述したように、人にとって、実在 existentia の面からみた信仰は、霊的視力です。霊的視力は、理性の視力であり、心の視力ですが、自然的視力は、眼の視力であり、肉体の視力です。ところで以上の二つは、たがいに相応していますから、いま信仰の状態を、すべて眼の状態とか視力にたとえてみることができるでしょう。真理を知る信仰の状態は、眼の視力がもっているすべての完全円満な状態であるのにたいし、偽りをこととする信仰の状態は、眼の視力がもっているすべての曲った状態に対応しています。精神的視力と肉体的視力の二つが、どのように相応しているかについては、両者の曲った状態の場合を例にとって、比較してみましょう。
 偽りが真理に混入しているニセモノ信仰の場合、角膜上の白い斑点といわれる、視力をにぶらせる眼病にたとえることができます。真理がひんまげられて出来る姦婦的信仰とか、善が汚されて出来る姦夫信仰などは、緑内障といわれ、水晶液がかわいて硬化したときの眼と視力の病気にたとえられます。真理か偽りか、超理性か反理性か分からないまま、何か神秘的なものを信じる場合の、閉ざされた盲目的信仰は、黒そこひとか、黒内障とか言われる眼病にたとえられます。これは、視神経をやられた結果起こるもので、全然見えなくても、よく見えているような様子に見えます。多くの神々を信じる迷いの信仰は、白内障という眼病に似ています。これは、鞏膜とブドウ膜とが遮断されて起こる視力喪失です。本当の神以外の神を信じる片目の信仰、これはまたキリスト信者が、神であり救いの主である方以外のものを信じる場合ですが、斜視と言われる眼病にたとえられます。偽善的パリサイ的信仰、これは口先だけのもので、心からのものではありませんが、眼球の萎縮と、その結果おこる視力喪失です。もっともらしい信念を見せることで、偽りでも真理に見せる〈まぼろしの本末転倒的な信仰〉、これは夜盲症と呼ばれている眼病に該当し、暗闇のなかで、あぶなげな光で、かろうじて見ています。

347・ 信仰がかたちづくられていくには、まず人が主に近づき、〈みことば〉から真理をまなびとり、その真理にしたがって生活しなくてはなりません。
 まず、『人が主に近づくことで、信仰が形づくられる』ということです。それは、信仰が信仰であるのは、救いの信仰でなくてはならず、そのためには、主のみ力によるもの、主にむかっていくものだからです。主のみ力によるということは、主が弟子たちに語られた〈みことば〉から分かります。「わたしのうちにとどまりなさい。そうすれば、わたしもあなた方のうちに、とどまるでしょう。・・・わたしなくしては、あなた方は何ひとつできないからです」(ヨハネ15・4、5)。
 信仰が主に向かうものであることは、前(337、338)節であげた数多くの引用箇所から、はっきりします。つまりは、信じなくてはならない対象は、おん子であるということです。信仰は、主のみ力によるもの、主に向かうものである以上、主は信仰そのものであると言えるわけです。信仰の〈いのちと本質〉は、主のうちにあり、主のみ力によるものです。

(2) 第二に、『人が〈みことば〉をもとにして真理をまなぶことによって、信仰は形成される』ということです。その理由は、信仰の本質は真理だからです。信仰のうちに入ってくるものは、どれもこれも真理です。だから信仰とは、人間の心のなかに輝いている諸真理の複合体にほかなりません。諸真理によって、人は信じなくてはならないというだけでなく、信を置く方はどなたかということ、また何を信じなくてはならないかを教わります。この諸真理は、〈みことば〉から取られなくてはなりませんが、そのわけは、救いへと導いてくれる真理は、〈みことば〉の中にあり、しかも、その真理の中にこそ、救いにいたらせる効力 efficacia があるからです。それは主から与えられたもの、全天界に刻まれているものだからです。
 だから、人が〈みことば〉からくる諸真理を学ぶとき、天使たちの仲間入りをし、かれらと交わり、自分が知っている以上のことを教わります。諸真理をともなっていない信仰は、中実のないタネのようで、それを碾いても、モミガラしか出てきません。それに反し、諸真理をもとにした信仰は、中実のあるタネで、碾くと小麦になります。一言でいうと、信仰にとっての本質的なものは、諸真理で、信仰のなかにこれが核となっていないとき、信仰はむなしくひびく笛の音ですが、信仰のなかにこれが核となっていれば、信仰は、救いへとさそう呼び声になります。

(3) 第三は、『人が真理にしたがって生活することで、信仰は形成されていく』ことです。そのわけは、霊的生活というものは、真理にしたがって生活することだからです。真理は、事実として起こってこないかぎり、現実のものとして生きてこないのです。実践から遊離した真理は、たんなる考えにすぎず、意志の発動がないから、人の内部に入ってこないで、入口どまりということになります。意志こそ人間そのものです。そして思考は、その意志にどれほど結びつき、どんなふうにつながるかによって、人間のものになります。真理をまなびながら、それを実践しない人は、耕していない畑に、タネをまくようなもので、雨が降ると、タネはふくれて割れますが、腐ってしまいます。真理をまなんでこれを実践する人は、タネを蒔いて、それに土をかぶせ、雨が降ってからタネが成長し、食糧に供せられるまで、世話をします。主は言われます、
  「もし、これらのことを知って、行うなら、あなたがたは、さいわいである」(ヨハネ13・17)と。他の箇所では、
  「よい土にタネを蒔く人は、〈みことば〉を聞いてから、それに注意をむけ、実をむすばせる人のことである」(マタイ13・22)。また、
  「わたしの言葉を聞いて、それを行う人は、石の上に家を建てるかしこい人にたとえられる。・・・わたしの言葉を聞いて、それを行わない人は、砂の上に家を建てるおろかな人に、たとえられる」(マタイ7・24、26)と。主の〈みことば〉こそ、あらゆる真理なのです。

348・ 前述したことから明らかなのは、人のうちで信仰が形づくられていくには、第一、主に近づくこと、第二、〈みことば〉にもとづく真理をまなぶこと、第三、その真理にしたがって生活すること、以上の三つが必要です。三つあると言っても、その一つ一つが、別々のことを言っているのではなく、それぞれ分離もできません。主にむかって近づいても、神とか主について、歴史的な真理しか知らない人がいます。また〈みことば〉をもとにした真理を、たくさん知っていても、それに従って生活しない人もいます。このように、三つがバラバラで、その中の一つが存在しても、別の一つが欠けているような場合、救いにいたる信仰にはなりません。ただし、三つが結びあわされるやいなや、救いの信仰になりますが、それも結合に比例して、しっかりした信仰になります。
 三つがバラバラな信仰だと、実をむすばないタネのようで、土にまかれても、塵と消えていきます。三つがしっかり結びあわされた信仰は、畑の中のタネのように、一本の木に成長し、三つの結合に応じた実りをもたらします。三つがバラバラだと、生産がとまった卵のような信仰になりますが、三つがむすびあわされると、美しいトリが生む卵のような信仰になります。三つがバラバラだと、その人の信仰は、料理したあとの魚やカニの眼のようです。三つが結びあわされると、その人の信仰は、水晶体からブドウ膜まですき透った眼のようです。
 バラバラの信仰は、黒い岩のうえの、鈍い色で描いた絵のようですが、結びあわされた信仰は、透明な水晶のうえに、みやびやかな色彩で描いた絵です。バラバラ信仰から発する光は、夜なかに旅する人が手にもっている松明の残り火のようですが、結びあわされた信仰の光は、一歩一歩をあかるく照らすたばね木の光です。真理をともなわない信仰は、野生のブドウの樹のようですが、真理にに根ざしている信仰は、高級ワインのもとになるブドウの実をならせる樹です。主にたいする信仰でも、真理が欠けていたら、天空に現れても、やがてかすんでいく新星のようですが、真理をともなった主への信仰は、いつまでも輝きつづける恒星です。
 真理とは、信仰の本質を意味します。ですから、真理がどんなふうに理解されているかが、その人の信仰を決めます。信仰は、真理が伴っていなければ、フラフラしていますが、真理を伴っていれば、しっかりします。天界でも、真理をともなう信仰は、星のように輝いています。

四・  諸真理の総体は、おたがいに呼応した内容が一つになって、信仰を高め、完成してゆく。

349・ 現代人が考えている「信仰」では、信仰が意味するものが、諸真理の総体であることなど、及びもつかないことです。ましてや人が、自分の信仰を獲得するため、努力する ad fidem sibi
comparandam possit aliquid conferre ということも、分かりません。ところが信仰とは、その本質からすると真理で、真理にはそれなりの光があり、真理を獲得することができると同様に、信仰も獲得すべきものなのです。
 人は、望みさえすれば、主に近づくことができますし、また望みさえすれば、〈みことば〉から諸真理を集めることができます。そして、すべての真理は〈みことば〉のうちにあり、〈みことば〉の中から輝きでており、しかもそのような光の中にある真理こそ、信仰なのです。
 光そのものにまします主は、すべての人にむかって流れています。そして、〈みことば〉から出る真理を宿す人には、主は、その真理がその人のうちで輝き、その結果、信仰の真理になっていくようにしてくださいます。ヨハネをとおして、主は言っておられます、
  「あなた方が主のうちにとどまり、主の〈みことば〉が、あなた方のうちにとどまるように・・・」(ヨハネ15・7)と。
 「主のみことば」とは、諸真理のことです。さて、諸真理の総体は、おたがい呼応した内容が一つになって、信仰を高め、完成していくことですが、これを、正しく理解していただくため、次のような項目で、分類・説明していくことにします。

[Ⅰ] 信仰の諸真理は、永遠にいたるまで、多岐にわたって増えていく。
[Ⅱ] 信仰の諸真理は、一連のものとして、系列化される。
[Ⅲ] 信仰は、諸真理の総体と首尾一貫性に呼応して、完成されていく。
[Ⅳ] 信仰の諸真理は、どれほど数が多くて、多岐にわたるようでも、主によって、ひとつにされる。
[Ⅴ] 主は〈みことば〉であり、天地の神であり、肉をまとうものすべての神であり、ぶどう畑である教会の神であり、信仰の神である。また光そのもの、真理そのもの、永遠の生命そのものである。

350・[Ⅰ]信仰の諸真理は、永遠にいたるまで、多岐にわたって増えていく。

 これは、天界の天使たちの英知から出たもので、その英知は、永遠に増していきます。天使たちが言っていたことですが、英知には限界がありません。しかもその英知は、神の真理からくるものに他なりませんが、それも主から流れてくる光を媒介にして、分析的に、系統だてたものなのです。人間の理知は、それが本物の理知なら、神の真理以外のところからは来ません。
 神の真理が永遠にいたるまで増えていくわけは、主こそ神の真理そのものだからです。しかも主は、ご自身の永遠性のうちにある真理で、すべての者を、ご自分にひきつけられます。ところが天使も人間も、かぎりある身ですから、自分がもっている容量でしか、主が引っぱられる方向についてゆけません。もちろん、主が引っぱられる力は、いつまでも、永遠にいたるまで、続いています。主の〈みことば〉は、諸真理の深海で、そこから、天使の英知という英知は、引きだされています。一方、 〈みことば〉の霊的な意味や天的意味を分かっていない人間にとっては、〈みことば〉は、水瓶の中の水でしかありません。
 信仰の諸真理が、永遠にいたるまで増えていくことは、人類の精子にも似ています。そのたった一つの精子から、代々にいたる家系が生まれます。信仰の真理の増殖は、田畑や庭にまかれたタネの増殖にも似ています。タネは、何百万・何千万と永久に増えていきます。〈みことば〉で「タネ」とは真理のこと、「畑」とは教義のこと、「庭」は英知のことです。
 人間の心 mens humana は、土壌 humus のようなものです。霊的真理や自然的真理が、タネとして埋められると、とどまるところなく、殖えていきます。このようなタネを、人間は、神の無限性からいただくわけですが、神は、ご自身の光と熱で、しかも生産の能力で、人間のうちにいつまでも存在なさいます。

351・ [Ⅱ]信仰の諸真理は、一連のものとして、系列化される。

 以上のことは、今のところ理解されていません。それは、全〈みことば〉からなっている霊的な諸真理が、まだ分かっていないからです。それも、現代の神学の全細目を決めていく信仰そのものが、神秘的で、謎めいているのが原因です。したがって、霊的真理は、地下の貯蔵庫のなかで、眠っている状態です。ここで「一連のもの」とか「系列化」が何のことか、説明いたしましょう。
 本書の第一章は「創造の神について」でしたが、その最初が「ひとりの神について」、次が「神にましますエホバ」、第三が「神の無限性について」、第四が「神の本質としての愛と英知について」、第五が「神の全能について」、第六が「創造について」でした。以上ひとつひとつの題は、系列化され、みんな一連のもとにまとめられています。このように、個々全体にわたる一連の内容は、独立的にも総体的にも、いろいろの真理をふくんでいます。このような真理は、内容豊富な首尾一貫性があって、信仰をたかめ、完成していきます。

(2) 人間の心には組織があります。霊の組織は、自然の組織で囲まれていて、心はその自然の組織のなかで、自然の組織に応じて、概念を操作したり、思考したりします。それが分かっていないと、人の感知力・思考力・概念操作は、頭脳に流れている光の波動や変化、それに人が理性だとして認め承認する形相の表われに過ぎないと思ったりします。ところが、それは錯覚です。なぜなら、だれもが知っていることですが、頭脳には脳細胞がつまっていて、脳細胞は組織をもっており、その中に 「人間の心」が宿っているからです。そして、思考概念はそこで形づくられ、そこにとどまり、受けとめられ、固められていきます。
 それでは、その組織とはなんでしょう。答えは、一連のものとして、あらゆるものが系列化されていることです。信仰については、諸真理が人間の心のなかで、そのように配置されるということです。以上は、次に述べることがらで、よりはっきりすると思います。

(3) 頭脳は、二種類の実体からなっていて、一つは、腺状をしていて、「大脳皮質」とか「灰質」と言われ、もう一つは、繊維状をしていて、「髄質」と言われています。前者の腺状実体は、ブドウの樹にぶら下がっているブドウの実のように、房状につらなっています。後者の髄質と呼ばれる実体は、前者の腺状実体から分泌される繊維質が延々とタバになって連なったものです。そのタバが系列化なのです。あらゆる神経は、いろいろな役目をはたすために、そこから出て、身体に送られていますが、これは繊維の集まったタバ以外のなにものでもありません。筋肉についても、みんな同じことが言えますし、体全般にわたる内臓と器官もみんなそうです。大脳皮質も髄質も、そのようになっていますが、それは、精神の有機組織がもっている系列に相応しています。

(4) それだけではなく、自然界のなかにも、あまねく、このような一連の系列化が、見られます。どんな樹木にも、どんな果樹、苗木、野菜にも、また穀物の穂や雑草などにも、個々全体にわたって、同じような法則性があります。というのも、〈神の諸真理〉が、そのような方法で確証されているわけで、これが普遍共通の原因です。すべてのものは〈みことば〉、つまり〈神の真理〉によって造られ、世界もこの〈みことば〉をとおして造られた、と記してあるとおりです(ヨハネ1・1~)。 以上から分かりますが、人間の心の中にも、このような実体的秩序づけ ordinatio substantiarumがあるわけで、それがなかったら、人間には、理性的な分析ができません。人間は、この理性の分析を、秩序づけをとおして行いますが、その秩序づけは、首尾一貫した系列化をともなう諸真理の総体であるとともに、自由意志から理性をつかうことでもあります。

352・ [Ⅲ]信仰は、諸真理の総体と首尾一貫性に呼応して完成されていく。

 これは、前述したことからも当然です。どんなふうにして一連の系列が、首尾一貫したものとして増殖していくかを眺め、そのデータを集めていけば、だれもがはっきりしてきます。一つの系列を固めていきながら、もう一つの系列も固まってきて、それが同時に形相をつくります。その形相は、行動をとるとき、一定の行動の型をもっています。
 さて、信仰は、その本質では、真理であるということから、諸真理がすべて符号一致すると見れば、それだけ信仰は霊的になってきますし、それだけ、自然的・感覚的ではなくなります。信仰は、精神的にも高められ、この世の自然のなかで、信仰自身をたしかめていく理由が、山積みしているのを見ます。
 ほんとうの信仰は、首尾一貫した諸真理の総体によって、ますますはっきりし、ピンとくるものになり、明晰判明になります。また、愛からくる善にも結びついて、悪からも離れていきます。また次第に、目のまどわしや、肉の欲からも遠ざかり、みずから幸福になっていきます。なにしろ、悪と偽りに対抗する力が増すわけで、ここに生き生きとした、救いにいたらせる信仰がうまれます。

353・ 前述したように、天界では真理が輝きをはなち、しかもその輝く真理こそ本質ですが、真理が数をましてくるにつれ、その輝きから、信仰の美しさと愛らしさが、にじみ出てきます。
 それはちょうど種々様々な形や、種類や、模様などが、とりどりの色彩で、一つのまとまったものになっているようです。それはまた、アロンの胸板にあったウリム・トンミムと呼ばれていた色とりどりの宝石のよう、また新しいエルサレムの城壁の土台になっている高価な石(黙示録21章)のようです。
 それはまた、王冠にはめこまれた色彩ゆたかな宝石のようでもあります。宝石は、〈信仰がもっている諸真理〉のことです。あるいはまた、虹の美しさ、花咲きみだれる草原の美しさ、初春の花園の美しさにも比べられます。信仰の栄光とまばゆさは、諸真理の総体がひとつにまとまったところから生まれます。それは、聖火がつぎつぎに灯されて、寺院が照らし出されていくようです。また家の中にあるシャンデリアのよう、街路に並んでいる外灯のようでもあります。
 諸真理が数をましていくと、信仰も高められます。それはコンサートで奏く多数の楽器が、メロディー、音響ともに高揚していくようです。それはまた、甘い香を放つ花が咲きみだれて、ますます芳香をふりまいていく感じです。
 偽りや悪に対抗していろいろの真理が形づくられますが、そこから出てくる信仰の力は、石に石を積み重ねて造った堅牢な寺院のよう、寺院の壁にはめこんだ柱廊のよう、またその天井石のようです。あるいは、兵士たちが横に列をつくって四隅をかため、力をひとつに結集したときに似ています。また、人体にあまねく行き渡っている筋肉のようでもあります。その数がどれほど多く、場所がそれぞれ違っていても、行動にあたっては、一つの力になります。その他、さまざまな例えを用いることができます。

354・ [Ⅳ]信仰の諸真理は、どれほど数が多くて、多岐にわたるようでも、主によって一つにされる。主は、〈みことば〉であり、天地の神であり、肉をまとうものすべての神であり、ぶどう畑である教会の神であり、信仰の神である。また光そのもの、真理そのもの、永遠の生命そのものである。

 信仰の真理は多種多様で、人の目にはいろいろに写ります。たとえば、創造の神についての真理、あがないの主についての真理、聖霊と神のおん働きについての真理、信仰と愛についての真理、自由意志についての真理、悔い改めについての真理、改善と再生についての真理、責任の所在についての真理、その他です。ただしそれは、一本のぶどうの樹にたくさんの枝があるように、主にあっては一つとなり、人間のうちで、主によって一つになります(ヨハネ15・1~)。
 このように一見バラバラの真理を、主は一つの形になるよう結びつけられますが、その形のもとでは、諸真理は一つの顔をもち、一つの行為となります。それはちょうど、一つの人体のなかにある肢節・内臓・器官のようです。それぞれが多種多様で、人間の目にはちがってみえても、人間という共通の形をもっている以上、一つのものとして感じます。行為はあらゆる部分から出ていても、一つのものから出た行為です。
 天界についても、同じことがいえます。数えきれないほどたくさんの社会に分かれていても、主のみまえにあっては、一つのものとして映ります。それが「ひとりの人間 unus Homo」のようであることは、前述したとおりです。一つの王国についてもそれが言えます。その管轄がいろいろあり、都市や区域に分かれていても、その王国は一人の王のもとにあり、王の正義と公正にもとづいて、一つの行動をとります。
 信仰の真理についても、おなじことが言えます。教会が教会なのは、その真理あるがためで、それはまた、主のみ力によることです。主は〈みことば〉、天地の神、肉をとるものすべての神、ぶどう畑と教会の神、信仰の神、光そのもの、真理であり、永遠のいのちだからです。

(2) 主が〈みことば〉であるとともに、天界と教会のあらゆる真理であるということは、ヨハネによる福音書で、はっきり示しています。
  「〈みことば〉は神のみもとにあった。そして、神は〈みことば〉であった。・・・そして〈みことば〉は、肉となられた」(ヨハネ1・1、14)。
 主が天地の神にましますことは、マタイによる福音書によって、明らかです。
  「イエスは言われた、『天においても、地においても、いっさいの権能がわたしに与えられている』」(マタイ28・18)。
 主が肉をまとうすべてのものの神であることは、ヨハネによる福音書にあるとおりです。
  「父は子に、肉をまとうものすべてを支配する力を、与えられた」(ヨハネ17・2)。
 主がぶどう畑すなわち教会の神であることは、イザヤ書にあります。
  「わたしの愛する者には、ぶどう畑があった」(イザヤ5・1、2)。
 ヨハネによる福音書には、
  「わたしは、ぶどうの木、あなた方は、その枝である」(ヨハネ15・5)と。
 主が信仰の神であることは、パウロが語っているところです。
  「キリストの信仰から、つまり信仰の神からでた義をうけて・・・」(ピリピ3・9)。
 主が光そのものであることは、ヨハネによると、
  「この世にくるすべての人を照らす、まことの光であった」(ヨハネ1・9)。ほかにもまた、「イエスは言われた、『わたしは、光としてこの世に来た。それは、わたしを信じるすべての人が、闇のなかにとどまらないようになるためである』と」(ヨハネ12・46)。
 主が真理そのものであることは、ヨハネにあります。
  「イエスは言われた、『わたしは道であり、真理であり、いのちである』と」(ヨハネ14・6)。 主が永遠のいのちであることも、ヨハネにあります。
  「わたしたちは、神の子が来られたことを知っているが、神の子が来られたのは、わたしたちが真理を知り、神の子イエス・キリストのうちにあって、真理のうちに住むようになるためである。  この方は、ほんとうの神であり、永遠のいのちである」(Ⅰヨハネ5・20)。

(3) 以上につけ加えることがあります。人はこの世の仕事が原因で、信仰の真理がほんのわずかしか得られません。それでも主に近づいて、主おひとりを拝むなら、あらゆる真理を認識する能力が得られます。だから主を本当に拝む人は、たれでも以前知らなかった信仰の真理を耳にした途端、その場で見とおし、認め、受け入れます。それは、主がその人のうちにおり、その人は主のうちにいるからです。その結果、その人のうちには真理の光があり、その人は真理の光のうちに身をしずめます。前述したように、主は光そのもの、真理そのものだからです。
 以上のことは、次のような体験で確めることができました。ひとりの霊がわたしには見えましたが、その霊は他の者といっしょにいて、単純素朴な様子でした。主おひとりを天地の神として認め、〈みことば〉から得たある種の真理をとおして、自分の信仰を安定させていました。その人は、天界にあげられて、英知をもった天使たちの仲間入りをしました。かれは、その天使たちと同程度に英知があるだけでなく、真理について多くのことを語ったそうです。しかも、以前は全然知らなかったことばかりで、それを自分の中から語るような様子でした。

(4) 主の新教会に入ってくる人たちも、おなじ状態になります。それは、エレミヤ書に記されています。
  「それらの日ののち、わたしがイスラエルの家とむすぶ契約は、次のようである。わたしは、わたしの律法を、かれらのまん中に置き、その心に書きしるす。・・・ひとはもはや、自分の仲間  とか兄弟たちに、『あなた方は、エホバをみとめなさい』と教えなくてもいい。どうしてかというと、身分の大小を問わず、かれらはみんなわたしを認めるようになるからである」(エレミヤ31・33、34)。
   イザヤに記されていることも、そのようなときのことです。
  「エッサイの株から一つの芽が出る。・・・かれらの腰の帯は、真理である。・・・そのとき、オオカミは小羊とともに宿り、ヒョウは、子ヤギとともに伏し、・・・乳のみ子はヘビの穴のうえで遊び、乳ばなれした子は、トカゲの穴に手をいれる。・・・水が海をおおうように、エホバについての知識は、地に満ちるからである。・・・その日には、異邦人たちは、探し求め、エホバの栄光には休息がある」(イザヤ11・1、5・6~10)。

五・愛のない信仰は信仰ではなく、信仰のない愛は愛ではなく、両者とも、主によらないかぎり、〈いのち〉はない。

355・ 現代の教会は、信仰を愛からひき離してしまいました。かれらが言うには、「律法の行いによらないで、信仰だけが人を義とし、救うものである。愛は信仰に結びついているわけではない。なぜなら信仰が神からくるものであるのにたいし、愛は、行為をとおして見えてくる点、人間からくるものだから」と。
 以上のような考え方は、その手紙でも明らかなように、使徒たちの心には、およびもつかないことです。ところが、ひとりの神が三つの人格に分割され、それぞれに同等の神性があると言いだしてから、このような分離と分裂がキリスト教会のなかに入りこんできました。いずれにせよ、愛のない信仰はないし、信仰のない愛もありません。また主のみ力によらなければ、信仰にも愛にも〈いのち〉がないのです。これは次項で明らかになります。いま筋道を明確にしておくことにしましょう。

[Ⅰ] 人は、みずから信仰をえることができる。

[Ⅱ] 人は、みずから愛をもつことができる。

[Ⅲ] しかも両者の〈いのち〉が得られる。

[Ⅳ] ただし、信仰も、愛も、その両方の〈いのち〉も、人からでなく、ただ主だけからくる。


356・ [Ⅰ]人はみずから信仰を得ることができる。

 これは、第3項目(343、348)で触れています。つまり信仰の本質は真理であり、だれでも〈みことば〉から、いろいろな真理が吸収できるということです。そのような真理を手にして、愛すれば愛するほど、それだけ人は信仰に入っていきます。
 それにつけ加えておきたいことがあります。万一、人が自分で信仰を得られないと仮定すれば、 〈みことば〉の中で信仰に関して命じられていることがらは、ぜんぶ意味のないものになってしまいます。〈みことば〉に記してありますが、父のみこころは、子を信じることであり、子を信じる者は、永遠の〈いのち〉をもち、子を信じない者は、〈いのち〉を見ることがないのです。また、イエスは助け主 Paracletus を送ってくださり、イエスを信じないことで、世の人の罪を責められます。その他、前(337、338)節でも多く触れました。とくに使徒たちはみんな、信仰をすすめましたが、それは救いの神であり、主であるイエス・キリストへの信仰でした。
 もし万一、人が手足を動かせても、両手をぶらさげた彫像のように、流入があるのを待って、つっ立っているに過ぎないのなら、上に述べたことに、何の意味があるでしょうか。もしそうであれば、両手は何かをもらうため動かし得ても、内心で信仰のようなものに、目を向けることはありません。ところが、ローマ・カトリック教会から分離したキリスト教会のなかで、現在正統とされている教えは、次のとおりです。
 「人間は、善にたいしては、完全に腐敗し死んでしまっています。堕落したあとの人間の本性のなかには、再生にいたらないかぎり、霊の力のわずかな火花さえ残っていません。神の恵みを受けるための準備をすることも、いただく恵みを理解することも、自分の力によって、その恵みをいただくこともできない状態です。霊的なことについては、自分で何もできないのです。理解することも、信じることも、それを受け入れることも、思いめぐらすことも、欲することも、行い始めることも、やり通すことも、実践することも、働きかけることも、協力することも、また恵みにたいして、自分を適応させたり、反応したり、あるいは、ある事柄を、全面的であろうが、生半可であろうが、ごく些細なことであろうが、自分の力で、転換させていくことは不可能です。魂の救いにつながる霊的なことがらについては、人間は、ロトの妻が化した塩の柱とおなじです。あるいは、〈いのち〉のない木の株や石と同じで、目もなく、口もなく、諸感覚を使っていくことはできません。
 ただ、場所を移動したり、外面の肢節をコントロールしたりするでき、おおやけの集会に出むいて、〈みことば〉と福音に耳をかたむけることはできます。」
 以上は、福音派教会の書である「和協信条 Formula Concordiae 」(一七五六年、ライプチヒ)の656、658、661~663、671~673ページにあり、牧師の叙階にあたっては、以上の信仰が誓われます。これは、改革派教会の信仰でもあります。
 ところで、理性をもち、宗教のある人間が、以上のようなことを、非合理で滑稽だと、言わないでしょうか。そのわけについて、人は次のように自問自答するでしょう、
 「もしそうなら、〈みことば〉とは何だろう。宗教とは何だろう。祭司とは何だろう。説教とは何だろう。むなしいこと、空文句のひびきではないか」と。
 ここに一人の異教徒がいて、判断力があり、その人をあなたが改宗させたいとします。そして改宗と入信の条件は、以上のとおりだと言ってみてください。その人は、キリスト教とはなんだ、ムダなおねだりをしているようなものだ、と思わないでしょうか。人間には、自分で信じる力など、まったくないのだと言ってしまったら、人間には何が残っているのでしょう。ただこれについては、「自由意志について」の章で、もっと的確に説明していきます。

357・ [Ⅱ]人は、みずから、愛をもつことができる。

 このことは、信仰の場合とおなじです。〈みことば〉が教えていることは、信仰と愛以外のなにものでもありません。というのも、この二つは、救いの本質だからです。次のように記されています。「心をつくし、精神をつくして・・・主を愛しなさい。・・・自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」(マタイ22・34~39)。
  「そしてイエスは言われた、『わたしは、あなた方に戒めをあたえる。あなた方は、たがいに愛しあいなさい。・・・あなた方がたがいに愛しあうことによって、わたしの弟子になると知りなさい』」(ヨハネ13・34、35、部分的にヨハネ15・9、16・27)。
 人は、よい木となって、よい実を結ぶようになります。善をする人は、復活のときに報われます。その他、これに似た言葉がたくさんあります。以上のことは、人が自分で愛を実践することができなくては、意味がありません。つまり、愛をもつことができるということです。人は、ほどこしをすることができます。困っている人を助けることができます。自分の家や仕事場で、善をすることができます。十戒にしたがって生活することができます。以上を実践するための霊魂が備わっていますし、あれこれの目的をいだいて、それを行っていくための理性もあります。〈みことば〉のなかで、しかも神によって、命じられていることを、実行しようと思いめぐらすことも、できるのではないでしょうか。どんな人間にも、このような能力は備わっています。それが備わっているということは、主が人間ひとりひとりに、その能力を与えられているからです。その能力は、人間の属性として、与えられています。愛を行っているとき、それを自分で行っていると、思わない人がいるでしょうか。

358・ [Ⅲ]人はまた、信仰と愛のいのちを、みずから備えもつことができる。

 これも同じことです。〈いのち〉そのものである主に向かうとき、みずから〈いのち〉を得ることができます。主に近づくことができない人は、だれもいません。主はみずからのもとへ来るよう、たえず、だれにたいしても、招いておられます。次のように言われています。
  「わたしのもとへ来る者は飢えることがなく、わたしを信じる者は、渇くことがない。・・・わたしの方へ来る者を、わたしが追いだすようなことはしない」(ヨハネ6・35、37)。
  「イエスは立って、叫んで言われた、『だれでも渇く者は、わたしのもとへ来て、飲みなさい』」(ヨハネ7・37)。
  「天界のみ国は、自分の息子のために、婚宴を開く王のようである。しもべをつかわして、招いた人を集めてこさせようとした。・・・ところがとうとう、『街道の入口まで出ていって、だれかそこで人を見つけたら、婚宴にくるように呼んで来なさい』といった」(マタイ22・1~9)。 招待や呼びかけは、だれにたいしても行われており、それはまた招待する側の好意です。こうして、主に向かって近づいていく人は、〈いのち〉を得ることになります。主は〈いのち〉そのものです。そして主は、信仰の〈いのち〉だけでなく、愛の〈いのち〉でもあります。主が〈いのち〉であり、主は人に〈いのち〉を与えられるということは、次の箇所からも分かります。
  「初めに〈みことば〉があった。・・・そのうちに、〈いのち〉があった。〈いのち〉は、人々の光であった」(ヨハネ1・4)。
  「父が、死んだ者をよみがえらせ、生かされるように、子もその欲する者を生かす」(ヨハネ5・21)。
  「父がご自分のうちに〈いのち〉をもっておられるように、子にも自分のうちに〈いのち〉をもつことをお許しになった」(ヨハル5・26)。
  「神のパンであって、このパンは天からくだり、この世に〈いのち〉を与えるものである」(ヨハネ6・33)。
  「わたしがあなた方に話す〈ことば〉は、霊であり、〈いのち〉である」(ヨハネ6・63)。
  「イエスは、『わたしに従ってくる者は、〈いのち〉の光をもつようになる』と言われた」(ヨハネ8・12)。
  「わたしが来たのは、人々が〈いのち〉を得、しかもそれを豊かに得るためである」(ヨハネ10・10)。
  「わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる」(ヨハネ11・25)。
  「わたしは、道であり、真理であり、〈いのち〉である」(ヨハネ14・6)。
  「わたしは生きている。だからあなた方も生きるようになる」(ヨハネ14・19)。
  「あなた方が、その方のみ名において、〈いのち〉を得るようになるため、これらのことが記された」(ヨハネ20・31)。
  「この方は、永遠の〈いのち〉である」(Ⅰヨハネ5・20)。
 信仰と愛における〈いのち〉とは、霊の〈いのち〉のことです。そして人の自然のいのちの中で、主が人間に与えられるものです。

359・[Ⅳ]ただし、信仰も、愛も、その両方の〈いのち〉も、人からでなく、ただ主だけからくる。

  「人は、天から与えられたのでなければ、自分では何ひとつ、得ることができない」(ヨハネ3・27)。また、イエスは言われました。
  「わたしのうちにとどまっていなさい。そうすると、その人のうちに、わたしもとどまる。そして、その人は豊かな実をむすぶようになる。わたしなくして、あなた方は、何ひとつできないからである」(ヨハネ15・5)。
 次のことは、知ってもらいたいことです。人は、自分からは、自然的な信仰、つまり権威者がそう言ったから信じるという〈思いこみ persuasio の信仰〉しか得られません。それに愛にしても、自然的な愛で、報いを期待して、そのみかえりのために行うことしかできません。このような信仰と愛には、人間のエゴ Proprium しかなく、主からの〈いのち〉はまだありません。人はこの二つをとおして、主の受け皿になる準備として、自分をととのえるだけです。そして、人の準備の程度に応じて、主はその人のなかに入り、自然的信仰を霊的信仰にしてくださいます。また愛にしても、そうです。そのようにして、信仰と愛の両方に〈いのち〉を与えられます。それも人が天地の神として、主に近づいていくに応じて、それが実現していきます。人は、神の似姿として造られたわけですから、神の住まいとして造られたことになります。だから、主は言われました、
  「わたしの戒めを守って、それを行う者は、わたしを愛する者である。・・・わたしもその人を愛するであろう。・・・そして、その人のもとに行き、その人のうちに住む」(ヨハネ14・21、23)。また、
  「見よ、わたしはドアの外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて、ドアをあけるなら、わたしはその人のところへ入っていっしょに食事をしよう。その人もわたしといっしょである」(黙示3・20)。
 以上のことから、次のような結論がでてきます。すなわち、人が主を受け入れるため、自然的に準備をととのえるに応じて、主はその人のなかに入り、その人のうちで、万事を霊的に、つまり生命あるものに、変えていってくださいます。それに反して、人が自分の心を準備しなければしないほど、主を遠ざけ、自分からすべてを行うようになります。人が自分から何かをするとすれば、そのなかには、何の〈いのち〉もありません。しかし以上のことは、「仁愛について」と「自由意志について」を取りあつかい、そのあと、「改善と再生について」の章が分かるまでは、はっきりした光のもとに照らし出すことはできません。

360・ 前節で述べたように、人が最初にもつ信仰は、自然的ですが、人が主に近づいていくと、それが霊的になっていきます。さらにこれは愛についても同じことが言えます。しかし、〈自然的信仰と霊的信仰〉のあいだ、また〈自然的愛と霊的愛〉のあいだの区別は、だれもまだ分かっていません。したがって、この大きな秘義について、説明しましょう。
 二つの世界、つまり自然的世界と霊的世界があります。そしてこの両世界には、太陽があります。しかもその両方の世界から、熱と光が出ています。ところで、霊的世界の太陽から出てくる熱と光には、〈いのち〉が宿っており、その〈いのち〉は、その太陽のまん中にいらっしゃる主からきます。それにたいし、自然の世界の太陽からくる熱と光には、〈いのち〉がありません。ただ、主要原因にたいする道具的原因のような役割で、霊的世界の太陽の熱と光をうける受け皿になって、それを人間に提供しています。ところで、霊的世界の太陽からくる熱と光は、ありとあらゆる霊的なものの起源になっているのです。このことは、承知しておいてください。霊とか生命が内在するからこそ、霊的なのです。それにたいし、自然的世界の太陽のもつ熱と光から、すべての自然的なものが由来しますが、それは、そのものとして見た場合、霊も生命もありません。

(2) さてここで、信仰が光であり、愛が熱であるということから、人が、霊的世界の太陽から出てくる光と熱をうけていればいるほど、霊的な信仰と愛のうちにあることがはっきりします。それと同時に、人が、自然の世界の太陽から出てくる光と熱を受ければ受けるほど、自然的信仰と愛のうちにいるわけです。以上のことから次のことが分かります。すなわち、霊的光は、自然的光が容器になって、その中にあるということ、また霊的熱は、自然の熱の中にあるということです。つまりは、霊的信仰は、自然的信仰のなかにひそんでおり、おなじく霊的愛は、自然的愛のなかにひそんでいるのです。これは、人が自然の世界から、霊の世界に進んでいく程度に応じて、大きくなっていきます。つまり、主がお教えになっているように、「主こそ光であり、道であり、真理であり、〈いのち〉である」と、信じる度合によって、進歩・成長していきます。

(3) したがって、ここで明らかなのは、人は霊的信仰のうちにあれば、自然的信仰のうちにもあるということです。それは、霊的信仰は、自然的信仰のうちにあるからです。信仰は光ですから、信仰の光が射してくると、人間の自然的本性は透明になってきます。それが愛に結びつくと、それだけ美しく、色彩がゆたかになります。愛が赤々と輝くのは、〈霊のほのお〉からくるもの、信仰が白く輝くのは、〈光のまばゆさ〉からくるものです。
 霊的なものが、自然的なもののなかに内在するのでなく、自然的なものが霊的なもののなかに内在するような場合、まるで反対のことが起こります。信仰も愛もかなぐり捨てた人は、そうなります。かれらの場合、自分ひとりになって考えているときは、心の内部が働いていて、それは、地獄からくるものです。そして知らず知らず、地獄からの思いで考えています。この世で友人たちと話しているときは、心の外部が働いていて、それは霊的な印象をあたえますが、実際は、地獄にうずまいている不潔な考えでいっぱいです。したがって、かれらは地獄にいます。なぜなら、前者の場合とくらべると、まる反対の立場にあるからです。

361・ 主への信仰と、隣人への愛をかねそなえている人の場合、霊的なものが、自然的なものの中に内在していて、その結果、かれらの自然的なものは、透き通っています。すると結局、人は霊的なことがらを深く味わうだけですが、それに比例して、自然的なことも、それだけ分かってきます。なぜなら、何かを考えたり、読んだり、聞いたりしても、それが本当かどうか、自分の内部で見るからです。それがピンとくるのは、主によりますが、これは主から、霊的な光と熱が、人の理性の上層部の霊気に流れてくるからです。

(2) 人がもっている信仰と愛が、霊的になればなるほど、その人はエゴ proprium から離れ、自分を見ることも、報いや報酬を求めたりすることもなくなり、ただ〈信仰の真理を感知するうれしさ〉や、〈愛からくる善を実行するよろこび〉を感じます。そのような霊的性格が増せば増すほど、それだけその喜びも祝福にかわります。人の救いはここから始まるわけで、これを「永遠のいのち」と言っています。
 人がこのような状態になると、この世にあるものでも、最高に美しく、愛らしいものと比較できるようになりますし、〈みことば〉の中に出てくるものとも比べられます。実のなった果樹、そのような果樹のある園、百花乱れ咲く草原、宝石、ご馳走、婚宴、お祭りとお祝いなどです。

(3) それが逆の場合、つまり霊的なものの中軸に自然的なものが納まっている場合、その人の内面は悪魔ですが、その人の外面は天使のようです。これは、高級な木材で造り金箔で塗った棺のなかの死体のようです。あるいは、人間の服装をした骸骨が、派手な車に乗っているようです。あるいは、ダイアナ神殿のように造った墓所にある死骸のようでもあります。
 また、かれらの内部は洞窟のなかのヘビの巣、外面は色とりどりの羽根をもつチョウのようです。そのチョウは、有益な果樹の葉に、見せかけの卵をぬりつけて、果物をダメにしてしまいます。かれらの内部はタカ、その外部はハトのようでもあります。タカは逃げるハトの〈信仰と愛〉の上におそいかかり、ハトがくたびれたところをつかまえて、食い尽くします。