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真のキリスト教


第五章 十戒 、その外的と内的意味

332節~335節

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332・ 以上に、四つのメモをつけ加えておきます。まず、第一のメモ。

わたしはある日、下の方から波がおし寄せてくるときのような叫びを耳にしました。一人が左側の者にむかって、「なんて正しい人たちなんだろう」と言ったかと思うと、別のもう一人が右側の者に、「なんと教養ある人たちか」と言い、第三の者がうしろから、「なんと知恵のある人たちなのだろう」と言っています。
地獄にも、正しい人や、教養ある人や、知恵ある人たちがいるのかといぶかって、そんな人に会ってみたいと思っていると、天界からわたしに声があって、「あなたは会って、聞いてみるといいでしょう」と言われました。
わたしは、霊のうちにあって、家から出ると、眼前がひらけてきました。そっちに向かって歩いていき、見おろすと、階段があるではありませんか。そこを下へくだり、おりてみると、イバラやアザミのまじった灌木におおわれた草原がありました。そこが地獄かどうか、たずねてみました。すると、「地獄よりひとつ上の下界 terra inferior だよ」とのことです。
それでわたしは、順々にひびいてくるざわめきのもとに、最初の「なんて正しい人たちなんだろう」と叫んでいるグループに近づいてみると、この世で情実とか賄賂をとっていた判事たちの集まりに出くわしました。それから、「なんと教養ある人たちか」といっている次のざわめきにむかって行くと、この世で詭弁をつかっていた人たちの集団を目にしました。「なんて知恵のある人たちなのだろう」といっている第三番目のざわめきのほうには、この世で検証人だった人たちのグループでした。
そこからまた、情実と賄賂で動いていて、正しい人たちだと呼ばれていた判事たちの第一グループに踵を返すと、眼にうつってきたのは、一方に黒い屋根のついた塀で囲んだ円形劇場のようなものでした。それがかれらの裁判所なのだそうです。北むきの側面には三つの入口があり、西むきの側面にも三つの入口があり、南側と東側には、入口がないのに気がつきました。それは、かれらのやる裁判が正義にもとづくものでなく、気ままであるということを示しています。

(2) 円形劇場の中央には、炉があって、係りの者が、硫黄とアスファルトにひたした松の木を投げこむと、その光が壁にうつってゆれ動き、たそがれどきの暗闇に飛ぶ鳥にも似た影をつくっています。ただし、その炉と、炉の光がゆれ動いてできた影は、判事たちの裁判を表わします。つまりどんな訴訟も、見かけを気にして色づけをし、情実で片づけていることです。

(3) 三十分ほどして、紅色に縁どったガウンを身につけた老若の判事がはいってきました。かれらは、判決を言いわたすため、テーブルにある席に、帽子をおいて座りました。それがまたなんと巧妙に手ぎわよく、見かけの正義で、情実にひっぱられて、判決をこねまわしたことか。判事は自分でも、不正が正に見え、正が不正に思っていると、見えたほどでした。わたしはそれを耳にし、感じとりました。判件をこねまわしている事実は、その顔にあらわれていたし、その話す声からも、ぴんときました。
そのときわたしには、天界からの照らしがありました。ひとつひとつが、法にかなったものかどうかです。かれらがどれほど一生懸命になって、不正を隠し立て、そのやったことが正義に見えるようつとめたかが分かりました。法律のなかから、気にいる条項を選びだし、それに問題点をあてはめ、その他のことは、見事な理屈をつかって、脇へやってしまったわけです。裁判のあと、判決文が、依頼人、友人、サクラたちに渡されましたが、連中は判事におかえしをしたいのか、道々ずっと、「なんて正しい人たちなのだろう」と叫びつづけていました。

(4) そのあとわたしは、天界の天使たちとかれらのことについて話をし、見聞きしたことをいろいろ伝えました。天使たちが言ったことは、その判事たちは、知的鋭眼をもっているとある人に見えても、正義感や平等意識はなにもないとのことです。天使たちはつづけて言います。
「ある特定の人にたいする縁故がなかったとしたら、銅像のように判事席にすわったまま、ただただ『賛成だ。あれにもこれにも賛成だ』というしかありません。というのは、かれらが行っている裁判は、どれもこれも偏見がもとで、それが縁者びいきとむすびつくと、初めから終わりまで、その人の味方になり、その結果、その人のことしか考えなくなります。何か反対でもあると、横目でじろりとにらみます。いちど手ごめにすると、クモがあみで獲物をとらえていくようにして、理屈で封じこめます。だから、自分がもっている偏見のあみにかからない場合、法にかなったことは、何も分かりません。何か少しでも理解できているか調べられたことがありましたが、何も分かって
はいませんでした。
あなたの住んでいる世界の方々は、そうと知ってびっくりなさるでしょう。でも、それこそ天界の天使たちが調べた結果の真理だと伝えてください。かれらときたら、正義が何か分からないわけですから、天界では、わたしたちがかれらを人間とは見ないで、人間の格好をした奇怪な存在とみています。その頭部は縁者びいき、胸部は不正、両手両足は屁理屈のダメ押し、足の裏だけは正義ですが、それも縁者の利益にならない場合は、その足で踏みつけます。

(5) かれらがどんなふうに現れてくるか、あなたはごらんになれます。そら、かれらの末路はやってきました」と。
見ると、突然、地面に大穴があいて、テーブルが次々と落ちていきます。そして円形劇場もろとも、吸いこまれていきました。かれらは、洞窟にとじこめられ、その中につながれました。
それから、わたしにたいして、「かれらがそこにいるのを見たいと思いますか」と言われましたが、見ると、その顔は磨きをかけたハガネのよう、胴体は、首から腰までヒョウの皮を身につけた像のよう、両足は、ヘビのようです。テーブルの上に置いてあった法律書は、トランプのカードにかわっています。裁判官の仕事はとりあげられて、その代わりに。硫化水銀を塗料にする仕事があてがわれていました。かれらはそれを、売春婦の顔を美しくみせるための化粧用に使うわけです。 以上を見終わってから、わたしはもう二つあったグループにも顔を出してみたいと思いました。一つは詭弁家だけがいるグループ、もう一つはそのダメ押しグループでしたが、わたしには、「すこしお休みなさい。かれらのすぐ上にある社会から、天使たちがつきそいとしてやってきます。その天使たちは、主からの光をあなたにもたらし、もっとめずらしいことを見ることになります」と言われました。

333・ 第二のメモ

しばらくして、下界のほうから、まえ耳にした「なんと教養のある人たちか、なんと教養ある人たちか」という声を、再び耳にしました。だれかいるのかと思って、あたりを見まわすと、「なんと教養ある人たちか」と叫んでいる者たちのすぐ上に、ある天界の天使たちが見えてきました。
それで、わたしはそのざわめきについて話しましたが、天使たちが言うには、かれらが教養のある人と言っているのは、ただあることがらが、そうであるかないかだけを推理している者のことで、それがはたしてその通りであると考えている者は、めったにいないと言うことです。
「だから、かれらときたら、吹いては去っていく風のよう、中空になった樹木の皮のよう、中身のないスモモの皮のよう、果肉のないくだものの表皮のようです。そのわけは、かれらの心には、内部の判断力が欠けていて、心は肉体的感覚とむすびついているだけなのです。だから、その感覚そのものが判断しなければ、なんの結論もだせない始末です。ひとくちに言うと、かれらはただ感覚的で、わたしたちはかれらを詭弁屋と呼んでいます。「詭弁屋 ratiocinatores 」と呼んでいるわけは、なんの結論もださず、聞いたことを想定しては、それに矛盾するようなことをすぐ口にして、あれこれ議論します。真理を攻撃することを、ことのほか愛し、論争をしては、真理をメタメタにします。かれらは、自分たちがこの世でだれよりも教養があると思っているのです」と。

(2) それを聞いてわたしは、かれらのもとに連れていってくれるように、天使たちにたのみました。天使たちはわたしを、ひとつの洞窟につれていきましたが、そこから下界にむかって階段がのびています。わたしたちはそこをくだって、「あゝ、なんと教養のある人たちよ」と言っている叫びのほうに行くと、なんと何百人もの人が、足で地面を踏みならし、同じ場所に立っているではありませんか。わたしはおどろいて、「どうしてまたかれらは、立って地面を足の裏でたたいているのですか」とたずねました。「あんなことをして、足で地面に穴でも掘ろうというのですかね」とつけ加えました。
天使たちはそれを聞いて、笑いながら言いました。「そんなふうに見えるのは、あることがらについて、〈それがそうだ〉というふうには考えないで、〈それがそうなのかどうか〉と思って、議論ばかりしているからです。考えがそれ以上進展しないため、かかとで、同じ地面をこすって、全然すすんで行かない様子で現れます」と。また、天使たちは言いました、
「自然の世界からここへやってくる人たちは、もうあの世に来ているのだと聞くのですが、あっちへ行きこっちへ行きで、グループをなしては、どこが天界で、どこが地獄で、どこに神がいらっしゃるのかと尋ね、教えられたあとでも、神はいらっしゃるのかどうかといって、推論したり、議論したり、論争したりしています。かれらがこうなるのも、現在自然の世界には、たくさんの自然主義者がいて、話が宗教のことになると、仲間同士とか他の者らと、論争におちいることが原因です。そして、このような話のもっていき方、論争のし方では、神がいらっしゃるという肯定的な信仰に落着くことは、めったにありません。かれらは、だんだんと、悪い霊たちの仲間いりをし、あんなふうになっていきます。というのも、神のみ力によらなくては、だれも〈善のもつ愛〉から発して、よいことをすることができないからです」と。

(3) それからまた、わたしはある集まりに連れていかれました。すると、卑しからぬ顔立ちで、立派な身なりをした人たちが見えてきました。天使たちが言うには、かれらは、かれらなりの光で
みると、あんなふうに見えるけれど、天界からの光が流れてくると、かれらの顔立ちも、身なりも、変わってくるとのことです。やがて、そのようになり、すすでよごれた顔と、黒ずんだ服装になっ
て現れました。ところが、天界の光が去ると、まえのような姿になりました。わたしは、集会のな
かにいる何人かの人と話をかわし、言いました、
「あなた方のまわりで、『あゝ、なんと教養のある人たちか』という群衆のざわめきを耳にしましたが、その最高の教養はなにかというようなことについて、あなた方とお話してもいいでしょうか」と。かれらは答えて、
「何でもおっしゃりたいことがあったらどうぞ。ご満足いただけますよ」と。それでわたしは、
「人が救われるための宗教とは、どんなものでしょう」とたずねると、
「そのようなご質問でしたら、いろいろと分類するのがいいでしょう。それがきまっていないと、答えられません。論議は、一・宗教とは何ものかであるかどうか。二・救いはあるかどうか。三・ある宗教は他の宗教より、いっそうの効果をもつかどうか。四・天界とか地獄はあるかどうか。五・死んだあと、永遠のいのちがあるかどうか。そのほか、いろいろあります」と、答えました。わたしは、「宗教は何ものかであるかどうか」という第一の質問をすると、かれらは、仰山な証拠をもちだして、議論しはじめました。わたしは、これを、集まっている人たちにただしてみるよう頼み、かれらはそうしましたが、この種の発題には、たくさん検討してみなくてはならないことがあって、夕方までには終わりそうもないという答が、みんなから返ってきました。それでわたしは、「一年かければ、終わるのではないでしょうか」と言うと、その中の一人は、百年かけても終わるまいとのことです。それでわたしは、「そのあいだ、あなたがたは、宗教なしにやっていかれるわけですね。救いは宗教にかかっているのでしょう。それであなた方は、救いの考えも、信仰も、希望もなしで、やっていかれるのですか」とたずねました。するとかれは、
「まずは、宗教が存在するかどうか、そして、それは何か、さらに何ものかであるのかどうかを証明しなくてはなりません。それが肯定されれば、宗教は知恵のある人たちのために存在することになります。それが否定されれば、宗教とはただ愚民のためのものです。宗教とは、一つの束縛であると言われていることは周知のことですが、それがだれのための束縛かを尋ねてみなくてはなりません。宗教が愚民のためだけのものでしたら、何ものでもありませんが、知恵のある者のために存在するのでしたら、何ものかであるはずです」と。

(4) それを聞いて、わたしは言いました、
「あなた方は、教養があるなんていう方々ではありません。なぜかというと、あることについて、はたしてそうなのかどうかということしか考えられないからで、問題をあちこち、もてあそんでい
るだけだからです。あることがらをはっきり知って、その中に入っていける人以上に、教養のある人はいないのです。それこそ、一歩一歩すすんでいくことでしょう。そして、少しずつ英知にむかっていきます。そうしなくては、真理にたいしては、爪の先でさえ、触れることがないばかりか、だんだん自分の視界から遠ざけていっています。
ですから、あることが、そうかどうかを論じているだけなら、かぶってみないで、帽子についてうんぬんし、はいてみないで、靴についてうんぬんしているようなものです。何かが存在するかどうか、それは考えだけのものかどうか、救いがあるのかどうか、死んだのちの永遠のいのちはあるかどうか、一つの宗教が他の宗教より優れているかどうか、天界や地獄はあるかどうかなど、結局あなた方は、何も分かっていらっしゃらないのではないでしょうか。あなた方は、第一歩のところにとどまって、その地面を踏みならしてばかりいます。一歩ずつ、歩をすすめて前進しないと、以上のことについても、何も考えていないことになります。心の中で、決断の外側にばかり立っていると、内心が硬化して、塩の柱になってしまいますよ。注意してください」と。
こう言って、わたしはたち去りましたが、かれらは腹を立てて、わたしにむかって、石を投げつけました。かれらはそのとき、わたしにとっては、人間の理性を欠いた像のように見えました。天使たちに、かれらの行く末を聞いたところ、かれらの中でも最低の者は、深いところへやられるということです。そこは砂漠で、重い荷物を背負っていくよう強制されます。そして、何かを理性で進めていくことができないため、つまらないことをべらべら喋り立てます。それを遠くからみると、荷物を運ぶロバのように見えます。

334・ 第三のメモ
そのあと、天使のひとりが、「わたしについて来てください。『あゝなんと知恵のある人たちだろう』と叫んでいる人々のところへ行きましょう」と言い、また、「あなたはそこで、怪物のような人たちに会えます。顔つきや体つきは、人間であって、人間ではないのです」と言いました。
「それじゃあ、ケダモノですか」と、わたしが問うと、答えて言うには、「ケダモノではありませんが、ケダモノ人間です。真理が真理であるのかないのか、まったく分からないのです。それでも、何か真理のようなものを望んでいるよう見せかけることはできます。わたしたちは、かれらのこと
を、『ダメ押し屋 Confirmatores』と呼んでいます」と。
わたしたちは、叫び声がするほうにむかって行くと、ある場所に着きました。すると、男たちが集会をもっており、そのまわりを大勢の者がとりまいています。そして、その群衆の中に、貴族がいて、耳をかたむけていましたが、そのあいだ中、話にあいづちを打っており、それがまたあまりにもはっきりしていて、後ろを振むいては、『あゝ何と知恵のある人たちだろう』と言っています。

(2) それにたいして、天使がわたしに、「あの人たちのそばに行かないで、集会の参列者を一人ここへ呼びましょう」と言って、呼び寄せ、わたしたちはその男といっしょに、いろいろ話ました。
その男は、ひとつひとつのことがらが、まるで真理だと思われるほど、ダメ押しをしました。わたしたちは、それと反対のことを、かれがダメ押しをして論証することができるかどうか尋ねましたが、かれはまえと変わらず、うまくできると言います。しかも、はっきりと、心から「真理って何ですか。ことがらの本性上、真理なんて、人が作ったもの以外のなにものでもないでしょう。何でもお好きなことを言ってください。真理であるかのように言わせてもらいます」と言うのです。 それでわたしは、「教会にかんすることは、みんな信仰で片付けられる、ということを真理にしてみてください」と言いました。すると、まわりに立っていた教育のある人たちさえ、感心して拍手するほど、上手に、手ぎわよく、やってのけました。そのあとわたしは、教会にかんすることは、みんな愛で片付けられる、ということを真理にしてみてください、と言うと、そのとおりやりとげ
ました。そのあとわたしは、愛は教会と何の関係もないということについて言わせました。するとかれは、その両方とも、うまく言いぬけて、恰好よくまとめたので、まわりの人たちがおたがい顔を見合わせて、「この人は、知恵者ではないでしょうか」と言う始末です。わたしは、
「正しく生きることこそ愛であり、正しく信じることこそ信仰だということは、ご存じでしょう。正しく生きている人は、正しく信じているわけで、信仰は愛あってこそ、愛も信仰あってこそ、ではないでしょうか。これが真理だと思われませんか」と言いました。
するとかれは、「それが真理だと証明してみせましょうか」と答えて、そのとおり論証し、「ほら、ごらんのとおり」と言ったかと思うと、そのまる反対のことを、あたかも真理のように、作り直してから、「これもまた真理であることが分かりますよ」と言います。
わたしたちは、これには苦笑して、「それはまる反対のことではないのですか。その二つのことが真理に見えるわけはないでしょう」と言うと、その男は怒って、「真理ですよ。両方とも真理なのです。人が真理だと言ったことが、真理になるしかないんでしょう」と応えました。

(3) この世で第一級の大使だった人がそばに立っていて、これには目をまるくして、「それとよく似たことがこの世でもあって、まるで気でも狂ったのではないかと、思わせることがあります。あなたに出来るなら、光が闇であり、闇が光であるかのように、やって見せてください」と言うと、かれはそれに応えて、「そんなのは簡単ですよ。光とか闇とか言っていても、目の状態に過ぎません。太陽の光から目をそらせたり、太陽をじっと見つめたりしていると、光が闇に変わるじゃありませんか。そのとき、目の状態が変わって、光が闇のように映ってきます。またその反対に、目をもとの状態にもどすと、闇が光に見えてきます。それはだれにでもはっきりしています。フクロウは、夜の闇を日中の光のように、昼の光を夜の闇のように見ているじゃありませんか。昼になると、太陽でさえ、ぼやけて黒ずんだ球体にしか見えません。人間でもフクロウの目をしていたら、光とか闇は、いったい何なんでしょう。だから光とは、目の状態からきている以外の何ものでもなく、そうだとすると、光は闇、闇は光になるわけです。そういうわけで、一方が真理であるとともに、他方もまた真理だと言えるのです」と。

(4) 以上のようなダメ押しが、ある人たちを迷わせたようなので、わたしは口を切りました、 「気がついたことですが、論じられた方は、本物の光と、にせものの光があるのをご存じないようです。両方とも、光のようには見えますが、にせものの光は、そのものとしては光でなく、本物の光にくらべると、闇です。フクロウは、このにせの光のうちにあるわけです。フクロウの眼には鳥類を切裂いて、食いつくしたいという欲望があり、その欲望の光がもとで、フクロウの眼は、夜になると見えるようになります。ネコについても、まったく同じで、穴倉のなかでは、ネコの眼はローソクの火のように見えます。ネコの眼には、ネズミを掻き裂いて、食いつくしたいという欲望があって、それがにせものの光を放っているのです。そこで、太陽の光は、ほんとうの光ですが、欲望がもとで起こる光は、にせものの光だということが分かります」と。

(5) そのあとで、大使はカラスは黒くなく、白いということが本当であるかのように論じてみるように言いました。その男は「そんなのは簡単です」と応え、ついで、「針かナイフをもってきて、カラスの羽毛をかきわけてみてください。あるいは、羽毛を切りとって、カラスの皮膚をよく見てください。白くはありませんか。カラスをおおっていたのは、影のような黒色じゃありませんか。それでもって、カラスの色は決められません。黒色はたんなる影なので、眼の専門家に聞けば分かりますが、黒い岩石やガラスを微塵にくだくと、その粉末は白く見えるというわけです。
それにたいし、大使は、「視覚ではカラスは黒く見えるじゃありませんか」と言うと、その詭弁家は答えて、「あなたは人間でありながら、外見から何かを考えてみたいと思われるのですか。たしかに外見から、カラスが黒いといえます。しかしそれについては、考えて言っているのではありません。たとえば、太陽がのぼるにしても沈むにしても、外見からそう言えますが、人間である以上、そう考えているわけじゃありませんね。実際は太陽は不動で、地球のほうが動いているのですから。カラスにしても同じで、外見は外見ですから、好きなように言ってください。カラスはまっ白だとも言えるのです。年をとると白くなりますよ。わたしはそれを見たことがあります」と。 
すると、そこにいあわせた人たちが、わたしの方に目をやったので、わたしは、カラスの羽毛は中が白くなっており、その皮膚も白いことはたしかだが、それはカラスにかぎったことでなく、全宇宙にある鳥はみんなそうだと言いました。しかも人間は、外見の色で、鳥の種類を見分けているわけなので、そうしないと、鳥という鳥はみんな白いということになり、それではどうにもならず。
不便きわまりないと言いました。

(6) そのあと大使は、その男が気が狂っているということを論証してみたらどうかと言うと、「できるけれど、そんなことはしない。気の狂っていない人なんかいない」と言います。それから人々は、人間が決めないかぎり、何の真理も存在しないということを、冗談で言っているのか、本当と信じて言っているのか、本音はどうかとただすと、かれは、「信じて言っているのだ」と断言しました。
やがて、その詭弁家は天使たちのもとに連れていかれて、かれがどんな性格をしているか、すみずみまで調べあげられました。調べが終わったあと、その男には理性のひとカケラもないと、天使たちは言いました。「というのは、道理 rationale から上にある部分は、みんな閉じてしまっており、道理以下の部分だけしか、開いていないのです。霊的光というものは、道理から上の部分にあるのですが、道理から下は、自然的光しかありません。人は、自然的光によると、自分の好みにあったものしか、受け入れようとしない性格があります。それで霊的光が自然の光のなかに浸透していかない場合、人は本当のものが本当だと見えないし、ウソがウソであることも分かりません。それが分かってくるのは、自然的光の中に入ってくる霊的光によるわけですが、その霊的光は天界の神、つまり主からくるものです。ですから、このような何でも処理する詭弁家は、人間でもないし、動物でもなく、むしろ獣人 bestia homo といえるでしょう」と。

(7) わたしは、このような人たちの運命はどうなのか、人間の命は霊的光に依存し、しかも人間の理性は、その霊的光がもとになっているのだから、命のある人たちと、いっしょに暮すことができるかどうかを、天使たちに聞いてみました。
天使たちは、このような人たちが一人でいるときは、何かを考えることも、話すこともできないで、ロボットのように、または昏睡状態にある人のようになって、つっ立ったままだと言います。それが耳になにかが響いてくると、目がさめるそうです。天使たちはまた、かれらの心の奥底は、悪質になっていると、つけ加えました。霊的光が、うえからその心の中にふりそそぐことはなく、ある種の霊的力がこの世をとおして入ってくるから、論じる能力だけは、与えられているということです。

(8) そう言い終わると、その男を調べていた天使たちが、「以上耳にしたことをもとにして、おおざっぱな原理をひきだしてみてください」と言う声がきこえました。それでわたしは、次のように結んでみました。すなわち、「自分の好きなように裏付ける論じ方は、よく分かった人がやることではありません。本当のものを本当とし、ウソをウソと見ることができ、しかもそれを確認できれば、よく分かっている証拠です」と。
そのあと、わたしは集会のほうに目をやりました。そこには、詭弁家が立っていて、群衆がそのまわりをとり巻いて、「ああ、なんと知恵のある人たちだろう」と叫んでいます。すると、かれらのまわりを、黒雲がとりまき、その中をミミズクやコウモリが飛びまわっています。そして、わたしにむかって言われたことは、
「くろ雲の中をとびまわっているミミズクやコウモリは、かれらが考えていることをあらわす表象であり、外観です。偽りを真理であるかのように見せる詭弁家は、この世界では夜鳥のかたちであらわされます。つまり、いつわりの光があって、それがかれらの眼にはいり、それに照らされ、暗闇のなかにあるものが、光のなかにあるように見えてきます。偽ったことをそうだと確認し、それが本当だと思えてくるだけでなく、それが真理だと信じてしまう人には、いつわりの霊光があるのです。かれらはみんな、後ろ向きの光があるので、前向きの光はありません」と。

335・ 第四のメモ

ある夜明けのこと、わたしが眠りからさめたとき、眼のまえに、さまざまの形をした幻影を見ました。それから朝がきて、それがいろいろな形をとった偽りの光だと分かりました。あるものは、文字をいっぱいに書きこんだ紙のようで、それが何回も折りたたんでいる中に、流れ星のように見えてきたかと思うと、空中に落ちて消えていきました。あるものは、開いてある書物のように見えましたが、そのなかには、小さな月のようにキラキラしているもの、ローソクの火のように燃えているものなどがありました。さらにその中には、高いところまでのぼっていく本があるかと思うと、地上に落ちて、塵となって消えていくものもありました。以上を見て、わたしが推理したことは、
自分が重要視した想像の産物について、あれこれ議論した者らは、流れ星の下にあるということです。霊界では、このような幻影があらわれますが、それは下方につっ立って、理屈をこねるときの雰囲気のなかで起こることです。
そうこうするうちに、わたしの霊眼がひらけて、頭に月桂樹の葉をつけ、花びらのようなガウンを身にまとった数々の霊たちがいるのに気がつきました。かれらは、自然の世界にあったとき、学問の誉れ高かった人たちの霊を意味します。わたしは、霊のうちにあったので、近づいていって、その集りの中に入っていきました。すると、わたしが耳にしたのは、かれらが「生来の観念 ideae connatae 」にかんして、おたがいに戦わせている激論で、人間にも動物のように、生まれつきもっている考えがあるかどうかということです。それを否定する側の者たちは、肯定側からはなれ、とうとう分離対立の状態です。それはちょうど、二つの軍隊が、剣をもっていがみあっているのとおなじです。もちろん、かれらは剣をもっているわけではありませんから、コトバの剣での戦いでした。

(2) するとそのとき、かれらの中央に、天使のような一人の霊が立って、大声をあげて言いました、
「わたしは、さほど遠くでもないところから、みなさんの声を聞いていました。つまり人間にも動物のように、生来の観念があるかどうかということで、両側とも議論で激しておられるわけですね。ところでわたしは、みなさんにお伝えしたい。人間には生来の観念なるものは存在しません。そして、動物にもそれは存在しないのです。だからみなさんは、議論にならないことで、議論しておられたのです。それは、「やぎの羊毛」、「百年かけてのばしたヒゲ」のように意味のないことです」と。それを聞いて、みんなかんかんに怒り、「あいつをつまみ出せ。常識を逸脱している」と叫んだのです。ところが、かれらが追い出そうとかかっても、その人は天界の光をまとっていて、つかみかかることができません。それは、天使の霊でした。かれらはしりぞいて、少しばかり遠のきました。天界の光がしずまってから、天使はかれらに向かって言いました、
「どうして興奮しておられるのですか。まずわたしの言うことを聞いて、その根拠を見定め、そこから自分で結論をだしてください。判断力のある方は、近づいてきてください。心のなかにある嵐は、しずめてください。わたしは、そうしてくださるものと思います」と。そう言われてから、まだ怒りもさめやらぬ声で、「じゃあ、言いなさい、聞いてあげよう」と、かれらは言いました。

(3) そこで、天使は話しはじめました、
「あなた方は、動物には生来の観念があると信じておられます。それは、動物の行為が、何かの思考力を出発にしているように見えることから、結論を下したのでしょう。ところが、かれらには思考力がありません。思考力がないところでは、観念というコトバはあてはまらないのです。思考力があるかないかは、あれやこれやの理由で、ああするかこうするかを決める能力です。考えてみてください。すばらしく器用に網をはる一匹のクモが、その小さい頭で、『こんなふうにして糸を張ってみよう。そしてヨコ糸でタテ糸を補強するといい。風が吹いて、わたしの武器がとんでいってはまずいからね。アミの中央には、糸の端がくる。そしてそこに何かがひっかかると、わたしにはすぐぴんときて、走っていってつかまえる。ハエが飛んできて、アミにひっかかると、わたしはすぐそいつを襲って、ぐるぐる巻きにし、食糧にするっていうわけさ』などと考えることができるでしょうか。 あるいは、一匹の蜂がいて、その小さな頭で、『さて飛ぼうかな。わたしは、花咲く草原がどこにあるか知っているぞ。その花から蜜蝋をとる。そこから蜜を吸うのだ。蜜蝋から小室をつくるが、その小室は順々につながっていて、わたしや仲間たちがそこを通路にして、自由に出入りする。そして、冬がやってきて、死んでしまわないよう、十分なだけ、その中に蜜をたんと貯えておこう』などと考えるでしょうか。そのほか、フシギなことがいろいろあり、人間がもっている政治や経済上の知恵に匹敵するばかりか、凌駕するものさえあります(前12、13節参照のこと)。

(4) なおまた、雄蜂がその小さな頭で考えるでしょうか、『わたしは仲間といっしょに、うすい紙で住まいを作ろう。そして、家の中にある壁は、迷路式に工作し、いちばん奥のほうに、出たり入ったりすることができるような広場をもうけよう。こうしておくと、われわれの家族以外の生物が、われわれが集まるいちばん奥に入ってくることはあるまい』と。
さらにカイコが、そのマユにあるあいだ、小さな頭で考えるでしょうか、『いよいよ、絹糸をつむぐときがやってきた。それが終わったら、今まで到達できなかった空中をとびまわり、仲間とたわむれ、子孫をのこすことにしよう』と。
そのほかのムシ類も、塀をはいまわっているあいだ、いずれサナギの過程をへて、最後にはチョウになると思っているのでしょうか。ハエについても、他のハエといっしょになるとき、あそこで集まるのではなく、ここで集まろうなどと考えるでしょうか。

(5) 小動物だけでなく、体が大きい動物の場合もおなじです。また、いろいろの種類の羽根をもったトリもそうです。かれらが集まったり、巣をつくったり、卵を産んだり、かかえこんだり、ヒナをかえしたり、そのための餌をはこんだり、とべるようになるまで教育したり、そのあとは、自分の子ではないかのように、巣から追い出したり、ほかにも数え切れないほどのことがあります。地のけもの、爬虫類、魚類もおなじです。このようなことを申しあげると、動物がみずからとる行動は、考えてやっているのではないことが分かります。思考力がなければ観念もありえません。動物にも観念があるなどと考えるのは、動物も人間と同じように考えており、ただ言語だけがちがうと、鵜呑みにしてしまうところからくる間違いなのです」と。

(6) そのあと、天使霊は、あたりを見まわしましたが、それは動物にも思考力があるのではないかなどと、まだ疑っている者がいたからですが、話をつづけて言いました、
「野生の動物にも、人間とよく似た行動があることから、思考力があると想像しておられるのでしょう。それでわたしは、その行動の由来を申しあげます。つまり、どんな動物にも、どんなトリにも、どんなサカナ・爬虫類・ムシにも、それなりの愛があり、それは、自然的・感覚的・肉体的な愛で、その愛が宿っているところが、頭です。しかも頭のなかにある脳です。ここをとおって、霊界の流入が、直接かれらの肉体の感覚のなかに浸透していきます。その感覚器官によって、行動が決まります。だからかれらの肉体がもっている感覚は、人間のよりずっと精巧なのです。霊界からくる流入のことを、「本能 instinctus 」と言っていますが、それは、思考という媒介をへないで、存在しているという意味です。もちろん、習慣によって生まれた副次的本能もあります。かれらのもっている愛は、霊界から流れてきて、かれらの行動を決定するものですが、それもただ、養分をとり繁殖していく以外の目的はありません。だから人間にある愛のように、次第に進歩していくための知識とか、理知とか、英知があるわけではありません」と。

(7) 人間にも、生来の観念など存在しないということは、人間には生まれつき備わっている思考内容 cogitatio がないし、思考のないところには、観念もないからです。しかも思考なくしては観念なく、観念なくしては思考もないという関係をみてもあきらかです。生まれたばかりの赤んぼうを見ても、乳を吸って息をしている以外、何もできません。乳を吸うことさえ、生まれてから始まったものではなく、母親の胎内でずっと吸いつづけてきたからできるわけだし、呼吸ができるのは、生きるためで、これは生命の普遍原理だからです。赤んぼうがもっている肉体の感覚は、とても漠然としたもので、対象物をとおして、だんだんとその状態から脱してくるわけで、運動感覚もおなじく習慣をとおして会得していきます。声をだすこと、しかも最初は観念をともなっていない発声ですが、それを習得しているうちに、ぼんやりした幻影のようなものが、次から次へと起こるようになります。それがはっきりしてくれば、不明確な想像がうまれ、そこから思考が生まれます。
以上の状態が形成されてくるにつれ、観念がうまれますが、これは前述したように、思考と一体化しており、思考は、何もないところから、教えこまれることによって、成長してくるのです。人間にとって、観念は生まれながら存在しているのではなく、形成されてくるもので、そこから人間のコトバと行動がほとばしり出ます。
人間に生来そなわっているのは、知る能力、理解する能力、味わっていく能力しかありません。これは、知ったことを愛するだけでなく、隣人と神を愛する傾向でもあります。そのことは、48節のメモや、後述するメモを参照してください。
そのあと、わたしはまわりを見まわしました。
するとライプニッツとヴォルフが、近くにいることに気づきました。かれらは、天使霊によってもち出された理論に、注意をむけていました。ライプニッツの方は、近づいて、賛意を表しましたが、ヴォルフの方は、否定したり肯定したりしながら、去っていきました。ヴォルフは、ライプニッツほど、内的判断力には長けていませんでした。