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真のキリスト教


第五章 十戒 、その外的と内的意味

291節~331節

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三 第一戒 「わたしの顔のまえには、他の神があってはならない。」

291・ 以上は、第一戒にあるみ言葉です(出エジプト20・3、申命5・7)。自然的意味、つまり文字上の意味で、偶像をおがんではいけないことが、およそ分かります。それは、
  「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それに伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神である」(出エジプト20・3~6)とあるからです。
 このいましめによって、偶像をおがんではならないことが、だいたい理解できます。それ以前も、それ以後も、主のご降誕まで、アジアでは各地で、偶像崇拝が行われました。偶像崇拝の原因は、主の到来までの教会は、すべて表象的・象徴的でした。象徴とか表象とかいうと、神のご性格が、いろいろな形や像で表わされたわけですが、そのような意味づけが失われてくるにつれ、一般民衆は、その形や像を神々として拝みはじめたところからきます。
 イスラエル民族もエジプトにいたころ、この種の祭儀をおこないました。かれらは砂漠で、エホバの代わりに、金の子牛を拝みました。それ以後も、偶像崇拝から脱却できなかったことは、〈みことば〉のあちこちにある歴史的記録や預言的記録から、よく分かります。

292・ 「わたしの顔のまえには、他の神があってはならない」という戒めにある自然的意味で、どんな人間でも、死者・生者をとわず、神としてあがめてはならないことを知ります。これはアジアおよびその周辺の諸地域で、行われたことでした。バール、アシュタロテ、ケモス、ミクロム、ベエルゼブブなどは、他ならぬ異邦人の神々であった点、アテネやローマにおけるサトゥルヌス、ジュピター、ネプチューン、プルート、アポロ、パラスなどとおなじです。以上のうち、ある者は最初聖者として敬われましたが、そののち神霊 numina となり、最後には神々となりました。かれらが生きている人間を神々として崇めたことは、メデアびとダリヨスの記録からもあきらかです、
  「だれも三十日の間、神にではなく、王にたいしてだけ願いごとをするように。そしてそれに違反した場合は、ライオンの穴に投げいれられるであろう」(ダニエル6・8~終節)。

293・ 自然的意味、つまり文字上の意味からすると、以上の戒めは、神以外のだれか、神から発したもの以外のなにかを、すべてに越えて、愛してはならないということです。それはまた、主のみ言葉にもあります(マタイ22・35~37、ルカ10・25~28)。なぜなら、すべてに越えて、愛している人間やものがあれば、それは愛している人にとっては、神であり、神聖なものである、ということになります。自分をすべてに越えて愛したり、この世をすべてに越えて愛している人は、自分やこの世が神です。だからこのような人は、心のなかで本当の神をみとめていません。かれらは地獄で、同類に合流しますが、そこには、自分とこの世をすべてに越えて愛してきた人が、みんな集まっています。

294・ この戒めがもっている霊的意味は、主イエス・キリスト以外の他の神を拝んではならないということです。それは、主こそこの世に来られ、〈あがない〉を果たされたエホバにましますからです。そのあがないがなかったら、人間も天使も、だれも救われなかったでしょう。主以外には、いかなる神も存在しないことは、〈みことば〉の次の箇所からも、はっきりします。
  「その日には、『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは、自分たちを救いだしてくれる方を待ちに待った。その待ちに待った方は、エホバである。エホバの救いをよろこび、たのしもうではないか』と人々は言う」(イザヤ25・9)。
  「砂漠で呼ぶ声がする、『エホバの道を準備せよ。われわれの神のために、荒野に道をつくれ。・・・・エホバの栄光があらわれ、あらゆる肉はこれを見るようになる。・・・見よ、主エホバは力を帯びて来られる。・・・牧者のように、自分の群れをやしなうであろう」(イザヤ40・3、5、[10]、11)。
  「神はあなたといっしょだ。それ以外の神はない。イスラエルの救いの神よ。あなたはほんとうに隠れています」(イザヤ45・14、15)。
  「わたしは、エホバではなかったのか。わたしの他には、神はいないはずではないか。わたし以外には、正義の神、救い主はいない」(イザヤ45・21、22)。
  「わたしはエホバである。わたしの他に救う者はいない」(イザヤ43・11、ホセア13・4)。
  「すべての肉が、わたしがあなたの救い主エホバであり、あなたのあがない主であることを知るように」(イザヤ49・26、60・16)。
  「われわれのあがない主、そのみ名は大能のエホバである」(イザヤ47・4、エレミヤ1・34)。
  「エホバはわが岩、わがあがないの主」(詩19・14)。
  「あなたのあがない主、イスラエルの聖者、エホバは次のように言われる、『わたしはあなたの神エホバである」(イザヤ48・17、43・14、49・7、54・8)
  「あなたのあがない主エホバは次のように言われる、・・・『わたしエホバは、万物を創造し・・・ひとりで・・・わたし自身の力で・・・』と」(イザヤ44・24)。
  「イスラエルの王であるエホバ、イスラエルをあがなう大能のエホバは、次のように言われる、『わたしは、最初であり・・・最後である。わたしを除いて神はない』と」(イザヤ44・6)。「そのみ名は大能のエホバ、あなたのあがない主、イスラエルの聖者、全地の神と呼ばれるであろう」(イザヤ54・5、8)。
  「アブラムは、わたしたちを知らず、イスラエルはわたしたちを認めない。だが、あなたはエホバ、むかしから、あなたのみ名は、われらの父、あがない主です」(イザヤ63・16)。
  「ひとりの男の子が、われわれに与えられた。その名は、すばらしき方、助言者、神、大能者、永遠の父、平和の君である」(イザヤ9・6)。
  「見よ、ダビデのために、正義の子孫を起こさせる日が来るであろう。かれは、王となっておさめる。・・・その名は、われわれの正義エホバである」(エレミヤ23・5、6、33・15、16)。
  「ピリポはイエスにむかって、『わたしたちに父を見せてください』というと、イエスは、『わたしを見る者は父を見る・・・あなたは、わたしが父におり、父がわたしのうちにいることを信じないのか』と言われた」(ヨハネ14・8、9)。
  「イエス・キリストのうちに、満ちみちているいっさいの神の徳が、肉体をとって、宿っている」(コロサイ2・9)。
  「わたしたちは、真理のうちにあり、・・・イエス・キリストのうちにある。この方はほんとうの神であり、永遠のいのちである。子供たちよ、偶像を避けなさい」(Ⅰヨハネ5・20、21)。 以上のそれぞれの箇所に、わたしたちの救い主である主こそ、エホバであることが、明確に示されます。つまりそれは、創造主・あがないの主・再生の主です。これが、第一戒のもっている霊的意味です。

295・ この戒めの天的意味は、主エホバは、無限・無辺・永遠であることです。全能・全知・遍在であることです。最初にして最後、始めであって終わりであり、かつてあり、いまあり、これからもあり続ける方、〈愛そのもの・英知そのもの〉、すなわち〈善そのもの・真理そのもの〉であること、したがって〈いのち〉そのものである、ということです。ですから万物の根源であるただ一人のお方です。

296・ 主イエス・キリストは、救い主であり、人の〈かたち〉を帯びた神、エホバご自身ですが、その方以外の神をみとめ、礼拝する者は、この第一戒にそむきます。それと同時に、永遠のむかしから、三人格の神が実際に存在すると信じこむ人もそうです。この種の誤謬に心を固めてしまった場合、人はますます自然的、物質的になりさがり、やがては心の中で、神の真理を理解することができなくなります。神の真理を耳にし、それを受け入れたにしても、曲解してけがし、ウソで固めます。そのような人は、アパートの一階か地下に住んでいる人とおなじで、二階や三階にいる人たちがしゃべっていることが何も聞こえません。それは、頭上にあるフロアが、音をさえ切っているからです。

(2) 人間の心は、三階建てのアパートのようです。最下には、永遠のむかしから存在する三位の神々を信じて、心を固くした人たちが住んでいます。二階と三階には、人間としての見える〈かたち〉を帯びた、ただひとりの神、つまり救いの神である主をみとめ、信じている人たちが住んでいます。感覚的で即物的 corporeus な人の場合、たんに自然的で、その人自身からみても in se spectatus、動物以外のなにものでもありません。ですから、話ができ、理屈をのべ立てたりすることができる以外は、野獣と大してかわりません。ちょうど動物園のなかに住んでいるようなもので、そのなかにはいろいろな種類の動物がいますが、その中でライオンの役を演じてみたり、クマの役を演じてみたり、トラやヒョウやオオカミの役を演じてみたりします。またヒツジの役を演じることもできますが、それにしても、内心せせら笑っているのです。

(3) 自然的な人間にすぎない人の場合、神の真理について考えても、世俗的な見方で、つまり感覚上の偽りからしか考えることがありませんし、精神が感覚を越えていくこともありません。だから、そのような人がもっている信仰の教義は、もみがらでつくったスープのようなもので、本人はそれをご馳走だと思って食べています。それはまた、預言者エゼキエルが命じられて作ったパン・ケーキのようです。かれは、小麦、大麦、大豆、メンズ豆、ハダカ麦に、人糞や牛糞をまぜあわせてつくりましたが、それは当時のイスラエル民族のもとにあった教会を表わしてます(エゼキエル4・9以降)。永遠のむかしから存在する神聖なる三位格があって、その各位格がひとりひとり神であるという教えにもとづいた教会の教義も、それとおなじです。

(4) そのような教義が、絵巻物のように、はっきりと眼前にえがかれたとしたら、その奇怪さは、だれの目にも明らかです。つまり三位の神々が一列に並んで立ち、第一の方が王笏と王冠を身につけ、第二の方が右手に〈みことば〉の書、左手に血の付いた金の十字架をもち、第三の方が翼をつけ、いつでも飛んで行って活動できる姿勢で、片足だけで立っているとします。その神々の上に、「三位の神はそれぞれ神にましましながら、ひとりの神である」と記されているとしたら、どうでしょう。かしこい人がいて、この絵を見たら、「何とまあ奇怪千萬な!」と言わずにはおられません。 それにたいし、ただひとりの神がいて、頭上に天界の光がかがやき、そこに、「この方こそ、わたしたちの神であるとともに、創造主、あがないの主、再生の主、救い主である」と記されている絵を見たとしたら違ってきます。英知のある人なら、その絵にキスをし、胸にいだいて家にもち帰り、その絵を見せます。自分の妻、子、使用人たちも、自分といっしょになって、心から喜ぶのではないでしょうか。

四・ 第二戒 「あなたの神『エホバ』の名を、みだりにとなえてはならない。エホバはその名をみだりにとなえる者の罪を、見のがされることはない。」

297・ 神エホバのみ名をみだりに呼ぶとは、その自然的意味つまり文字上の意味では、名前そのもののこと、また会話のなかで、いろいろ乱用することです。まずウソ偽りを言ったり、理由なく誓いを立てたりするときに、乱用することです。それもとくに、不敬ともいえる悪意をもって、あるいは、うわごとやまじない文句に、魔よけとしてつかったりすることです。
 とは言え、戴冠式、叙階式、入信式などで、神とその神聖性、〈みことば〉や福音書をとおして誓うことは、誓った本人があとで、自分のやった宣誓がウソだったと言わないかぎり、神のみ名をみだりにとなえることにはなりません。
 いずれにしても、神のみ名は神聖です。だからこそ、祈り・詩篇・信心業・説教・その他、教会にかかわりのある記録にあるように、教会の聖行には、いつも使用されます。実際、ありとあらゆる宗教には神がましまし、正しい目的で呼びかけるとき、そのみ名のもとに現存し、聞き入れ、こうして、神のみ名があがめられます。
 神エホバのみ名は、それ自身として神聖でした。ユダヤ人たちは当初から、あえて口にしようとしなかったし、「エホバ」と口ずさむことさえしませんでした。だからこそ、福音書記者や使徒たちは、そのみ名を口にすることを避け、エホバの代わりに「主」と言ったことは、旧約聖書が新訳聖書に翻訳引用された箇所を見ればわかります。そこで「エホバ」の代わりに「主」と言われています(マタイ22・37、ルカ10・27を参照。なお申命6・5その他と比較)。
 イエスのみ名が、それとおなじように神聖であることは、そのみ名にたいして、天上のもの地上のものすべてが、ひざをかがめ、ひざまずかねばならないと言っている使徒のことばからも周知のことです。地獄では、悪魔はだれひとり、そのみ名を口にすることができません。神のみ名はたくさんあって、みだりにその名を使ってはならないのです。エホバ、神エホバ、大能のエホバ、イスラエルの聖者、イエスとキリスト、聖霊などがそうです。

298・ 霊的意味からすると、神のみ名とは、教会が〈みことば〉のもとで教えているすべてのことですが、これはまた、主が呼びかけられたり、あがめられたりするときのことです。つまりそのようなことは全部、神のみ名という言葉でまとめられています。ですから、「神のみ名をみだりにとなえる」とは、ふざけ話、つくり話、ウソ、呪い、たわごと、呪文のなかで、聖なることを口にすることです。なぜなら、このようなことはまた、神とそのみ名をののしり、冒涜することにもなるからです。〈みことば〉も、〈みことば〉にもとづく教会の教えも、さらに祭儀のすべても、神のみ名になることは、次の箇所からも明らかです。
  「太陽ののぼるところで、わが名が呼び求められるであろう」(イザヤ41・25、26・8、13)。「日の出るところから、日が没するところまで、諸民族のあいだに、わが名はあがめられる。そしてあらゆる所で、わが名のために、香がささげられる。・・・あなたがたは、エホバの食卓が汚されたと言うとき、わが名をけがしている。・・・なおあなたがたは、わが名を鼻であしらう。・・・奪ったもの、足がわるいもの、病気にかかったものを、ささげるときそうだ」(マラキ1・11~13)。
  「諸国民はみんな、神のみ名においてあゆむ。そしてわれわれは、わが神エホバのみ名において、あゆむ」(マラキ4・5)。
  「かれらは一つの場所で、エホバを礼拝するようになる。そこにはエホバのみ名がおかれる」(申命12・5、11、13、14、18、16・2、6、11、15、16)。
 つまり、エホバへの礼拝が行われるということです。
  「イエスは言われた、『二人または三人が、わが名において集まっているところには、わたしはそのまん中にいる』と」(マタイ18・20)。
  「かれを受けいれ、そのみ名において信じる人にはみな、神の子となる力を与えられた」(ヨハネ1・12)。
  「信じない人は、すでにさばかれている。神のおんひとり子のみ名において、信じないためである」(ヨハネ3・18)。
  「信じる人は、その方のみ名において、いのちを得るであろう」(ヨハネ20・31)。
  「イエスは言われた、『わたしは、あなたのみ名を人々に示しました。・・・そしてあなたのみ名を知らせました』と」(ヨハネ17・6、26)。
  「主は、『あなたには、サルデスに少数の名前がある』と言われた」(黙示3・4)。
 以上の箇所以外にも、「神のみ名」とは、神からでた神性のこと、また礼拝の根拠・手段であることを示す箇所が、たくさんあります。「イエス・キリスト」の「み名」とは、〈あがない〉のすべて、教義のすべて、救いのすべてを意味します。「イエス」とは、〈あがない〉による救いのすべてのこと、「キリスト」とは、その教義による救いのすべてです。

299・ 「神のみ名をみだりにとなえる」とは、天的意味では、主がパリサイ人たちに言われたことです。
  「罪と汚し言葉は、全部ゆるされる。しかし、聖霊にたいする汚し言葉はゆるされないであろう」(マタイ12・31、32)。
  「聖霊への汚し言葉」とは、人間である主の神性、つまり〈みことば〉の聖性にむかってする冒涜です。「神エホバのみ名」とは、天的すなわち最高の意味で、主の神人性のことなのは、次の箇所からも明らかです。
  「イエスは、『父よ、あなたのみ名に栄光がありますように』と言われた。すると、天から声があって言った、『わたしはすでに栄光をあらわしたが、再び栄光をあらわすつもりである』と」(ヨハネ12・28)。
  「わたしの名において求めるものは、すべてそれを与える。父が子にあって栄光をうけるためである。あなた方がわたしの名において求めるものは、わたしはすべてそれを与える」(ヨハネ14・13、14)。
 「主の祈り」にある「み名があがめられますように」(マタイ6・9)の天的意味は、それ以外のなにものでもありません。おなじように、「み名」(出エジプト23・21、イザヤ63・16)もそうです。聖霊にたいする汚し言葉をはく人には、ゆるしがありません(マタイ12・31、32の〈みことば〉による)。以上は、天的意味で言われたことです。だから、「エホバは、その名をみだりにとなえる者の罪を、見のがされることはない」と、この戒めに付け加えています。

300・ ある人の名前とは、ただ名前のことだけではなく、その人の性格全部をあらわしています。これは、霊界での名前によって、はっきりします。霊界では、この世で洗礼のときにつけられた名前や、父親や先祖からとった名前を、保ちつづけるわけではありません。霊界ではひとりひとり、自分の性格によって名前がつけられます。天使たちは、それぞれの〈道徳的・霊的いのち〉にもとづいて、名前がつけられます。主の次のみ言葉も、そのような人のことを言っています。
  「イエスは言われた、『わたしはよい羊飼いである。・・・羊たちはわたしの声を聞き、羊飼いは、それぞれの羊をその名で呼び、かれらをみちびいていく』と」(ヨハネ10・3、11)。
 またおなじく、
  「サルデスには、自分の衣を汚さない者の名前がいくつかある。・・・勝利をえる者がいるが、・・・わたしはかれの上に、新しいエルサレムの都の名と・・・わたしの新しい名を書きつける」(黙示3・4、12)。
 ガブリエルとか、ミカエルは、天界での二人の天使の名前ではなく、天界で主についての英知をもち、主に仕えているすべての天使のことです。
 〈みことば〉にある人や場所の名前もまた、人名や地名のことではなく、教会にかんすることがらを示します。
 自然の世界でも、名前はたんなる名前ではなく、その人の性格を表わしますが、それは本人の名前にその性格が付随していることによります。「かれはこれを、自分の名前のためにやっている」とか、「名声のためだ」とか、「かれには偉大な名がある」などと言いますが、それは、その人の中にある性格、すなわちタレントや教養や功績その他から出たもので、著名であることを示しています。
 ある人の名前を傷つけたり汚したりすると、その人本人の生きた行為を非難し汚したことになることは、だれでも知っています。この両者は頭の中では一つになっています。だから、本人の名声が地に落ちると言うわけです。
 それと同じように、ある人が、王や長官や貴族の名に汚名を着せるようなことをするとき、その男はかれらの威光や品位を傷つけたことになります。
 同様に、人がある人の名前を、バカにした声で口にするとき、その人の生きた行為を軽蔑していることになります。これはどんな人にも通用することで、どこの国でも、法律で、人の名前、つまりその人の性格と名誉とを傷つけ、中傷してはならないことになっています。

五・ 第三戒 「安息日を聖とすることを覚えておくこと。六日間は働いて、自分のわざを全部なしとげなさい。ただし、第七日目は、あなたの神エホバの日である」。

301・ これが第三の戒めであることは、出エジプト記(20・8~10)と申命記(5・12、13)を参照してください。これは、自然的意味つまり文字上の意味では、六日間は人間のためであり、労働のためにありますが、七日目は主のために存在し、主によって人間が休息するためにあるということです。安息日 Sabbathum とは、その原語では「安息 quies」を意味します。イスラエルの子らにとって、安息日とは、主の表象であったことから、至聖 sanctitas sanctitatum を表わしていました。それは、主が地獄に対抗して六日間労苦と戦いをしのばれ、七日目にはそれに勝利して、休まれたことからきます。その日は、主のあがないの全体をしめくくる表象でした。だからその日は、聖そのものだったわけです。ところが、主がこの世に来られて、主を表象する必要もなくなったので、その日が、神について教えまなぶ日になりました。しかもその日は、労働を休む日、救いと〈永遠のいのち〉について、思いめぐらす日、隣人への愛を行う日です。その日が神のことがらについての教えの日になったことは、次のことからも明らかです。
  「その日、主は神殿や会堂で教えられた」(マルコ6・2、ルカ4・16、31、32、13・10)。
  「癒された人にむかって、『床をとって歩きなさい』と言われました。また、弟子たちが安息日に麦の穂をとって食べることくらい許されていると、パリサイ人にむかって言われた」(マタイ12・1~9、マルコ2・23~28、ルカ6・1~6、ヨハネ5・9~19)。
 霊的意味の上で、以上のことは、それぞれ教義について教わることを意味します。その日がまた、隣人への愛の日であることは、主が安息日になさったこと、教えられたことからも明らかです。(マタイ12・10~14、マルコ3・1~9、ルカ6・6~12、13・10~18、14・1~7、ヨハネ5・9~19、7・22、23、9・14、16)。
 以上のことからも、主がどうして、ご自分が「安息日の主である」(マタイ12・8、マルコ2・28、ルカ6・5)と言われたか分かるでしょう。そう言われたわけは、安息日こそは、ご自分を表象する日だったからです。

302・ 霊的意味でこの戒めが示しているのは、人間の改革 reformatio と、主のみ力による再生 regeneratio です。「六日間の労働」とは、肉とその欲にたいする戦いを意味し、また地獄からくると同時に、自分がもっている悪と偽りに対抗する戦いです。「第七日目」は、人が主とむすびつけられることで、それをとおして起こる再生のことです。その戦いがつづくあいだ、人間には霊の労苦があり、また再生が行われると、休息が生まれます。この点については、後述する「改善と再生」の章の内容から、知るところと思います。その中でも、とくに次のことは注意してください。

① 再生とは、人間が妊娠し、受胎し、誕生し、育てられるようなものである。
② 新しく再生する場合、その最初の行為は「理性による改革」と言われ、第二の行為は「〈意志による再生〉と、それにつづく〈理性による再生〉」と言われる。
③ 内部の人間 internus homo は、まず改革されなくてはならない。それによって、外部の人間 externus homo が改革される。
④ そのさい、内部的人間と外部的人間とのあいだに戦いが起こり、勝ったほうが、一方を支配するようになる。
⑤ 人間にとって、再生とは、新しい意志であり、新しい理性のことである。
 この戒めの霊的意味は、改革と再生です。それは改革と再生が、主の地獄に対する労苦と戦い、それに対する勝利と、つづく休息に符号しているからです。主はご自分の人間性を栄化され、それを神化なさいましたが、それにともなって、人間を改革・再生されて、霊化なさいました。これが「主に従う」ことです。主にとって、戦いは「労苦 labores」であったし、そう呼ばれていますが、それはイザヤ書53章と63章で、示されており、それと同様なことが、人間にたいする労苦として描かれています(イザヤ65・23、黙示2・2、3)。

303・ 天的意味によると、この戒めは、主との結びつきです。それはまた、地獄から身を守ることですから、平和でもあります。安息日とは、休息のことですが、その最高の意味では、平和です。主は「平和の君」と呼ばれ、またご自分を「平和 Pax]と呼ばれました。それは次の箇所にも、明らかに示されています。
  「ひとりのみどりごが、われわれのために生まれた。ひとりの男の子が、われわれに与えられた。支配権はその肩のうえにあり、その名は、すばらしい方、助言者、神、大能者、永遠の父、平和の君と呼ばれるであろう。その支配権と平和とはまし加わって、終わりがない」(イザヤ9・5、6)。
  「イエスは、『わたしはあなた方に平和をのこしておく。わたしの平和をあなたがたにあたえる』と言われた」(ヨハネ14・27)。
  「イエスは、『これらのことをあなた方に話したのは、わたしにあって平和を得るためである』と言われた」(ヨハネ16・33)。
  「よきおとずれを伝え、平和を告げ・・・『あなの神は王となられた』という者の足は、山の上にあって、なんとうるわしいことだろう」(イザヤ52・7)。
  「エホバは、あなたの魂を、平和のうちにあがなわれる」(詩55・18)。
  「平和は正義のわざ・・・安息は正義の労苦、とこしえにいたる保証である。それはかれらが平和の家に、安全の幕屋に、しずかな休み場に、住むことができるためである」(イザヤ32・17、18)。
  「イエスは、七十人をつかわして言われた、『どの家にはいっても、まずその家に平和があるようにと言いなさい。そしてもしその家の人が平和の子なら、その人のうえに、あなた方の平和が  のこるであろう』と」(ルカ10・5、6、マタイ10・12~14)。
  「エホバは言われる、『自分の民に平和を告げるように・・・。正義と平和はおたがいに接吻するであろう』と」(詩85・8、10)。
  「主ご自身が弟子たちに現れ、『あなた方に平和があるように』と言われた」ヨハネ20・19、21、26)。
 その他、主のみ力のもとにやって来る人々が、ひたされる平和の状態については、イザヤに記されています(65および66章、その他)。現在、主が創設される新教会にうけいれられる人たちこそ、その平和のうちに入れられます。天界の天使たちと、主にある人たちが宿している平和の本質については、『天界と地獄』(284~290節)を参照してください。なぜ主がご自分のことを「安息日の主」と呼ばれたか、つまり「安息と平和の主」と呼ばれたかは、以上からも分かります。

304・ 天上の平和とは、地獄にたいして、悪や偽りが峰起・侵入してこないことです。多くの点では、自然の平和に似ています。つまり戦いのあと、もうだれもが敵をおそれることなく、自分たちの町や家に住み、畑や庭園にいて、安全にしていることができます。またそれは、預言者がかつて、天上の平和を自然的にいったように、「男は、自分のぶどうの木やいちぢくの木の下で、恐れることなくすわっている」(ミカ4・4、イザヤ65・21~23)のです。
 また、重労働をしたあと、休息をとったり、レクリエーションをしているのに比べられますし、母親が子を生んだあと、母性愛 storge と言われる愛によって、うれしさがこみあげてきたときに比べられます。あるいはまた、嵐や黒雲や雷鳴のあとの晴れわたった空のようでもあります。あるいは、厳冬の時期も過ぎて春になり、畑には若々しい緑が目にしみ、庭や野原や森林には、花が咲きみだれてくる時のよろこびのようでもあります。あるいはまた、海路で台風や危険のあと、港に入り、待ちに待った土を足で踏むときの心の状態とも言えるでしょう。

六・  第四戒 「あなたの日を長くし、地上のさいわいを得るため、あなたの父と母を敬いなさい。」

305・ この戒めは、出エジプト記20・12と、申命記5・16にあります。「あなたの父と母を敬いなさい」とは、自然的意味つまり文字の意味では、両親を敬い、かれらに従い仕え、その恩にたいしては感謝することです。
 両親は養い育て、着物をきせ、社会的・道徳的に人間として行動ができるように、この世におくり出してくれます。また宗教的な掟をもって、天界に行けるようにみちびき、この世的な繁栄だけでなく、永遠にいたる幸福のために世話をします。そのすべてを愛から行いますが、その愛は主からくるもので、しかも主の代行をしているのです。
 それと関連して考えてみると、両親の死後、その孤児たちは、自分の面倒をみてくれる人たちを敬うことになります。ひろい意味では、国王とか行政官を敬うのも、この戒めによります。それは、両親が個別面で面倒をみてくれるのにたいし、かれらは共同面で、みんなにとって必要なことがらを配慮しているからです。またこの戒めがもっとも広い意味で言っているのは、祖国を愛することです。祖国 Ptria は、父親 Pater からそう呼ばれているように、人々を養い、保護しています。ただし、国や為政者を尊敬するということは、両親から始めなくてはなりません。そして、両親がその子たちに植えつけていくべきものです。

306・ 「あなたの父と母を敬いなさい」とは、霊的意味では、「神と教会をうやまい、愛しなさい」ということです。この意味からすると、「父」とは神のことです。神は万民の父だからです。また「母」は教会です。天界にいる幼児や天使たちにとっては、主を親とし、教会をとおして、天界で新しく生まれたわけですから、父親や母親は、主と教会以外にはいません。だから主は、
  「地上ではだれも、父と呼んではならない。あなた方の父はただひとり、天にいますあなた方の父である」(マタイ23・9)と言われています。
 これは、天界における幼児や天使たちのために言われたことで、地上の幼児とか人間のためではありません。同じように、主はキリスト教会の共同の祈りのなかで、
 「天にましますわれらの父よ、み名があがめられますように」と教えておられます。
 「母」とは、霊的意味では教会のことですが、それは地上における母親が、自然的食べ物で、自分の子どもたちを養いそだてるように、教会は、霊の食べ物で人々を養いそだてるからです。〈みことば〉のなかで、教会のことを、あちこちで「母」と呼んでいるのもそのためです。ホセア書には、
  「あなたがたの母と言いあいなさい。・・・かの女はわたしの妻ではないし、わたしはかの女の夫ではない」(2・2、5)とあり、イザヤ書には、
  「わたしは、あなた方の母を去らせたが、その離縁状はどこにあるか」(50・1、エゼキエル16・45、19・10)とあり、さらに福音書には、次のように記しています。
  「イエスは、弟子たちの方へ手をのべて言われた。・・・『わたしの母、わたしの兄弟とは、神の〈みことば〉を聞いて、それを行う人のことである』と」(マタイ12・48、49、マルコ3・33~35、ルカ8・21、ヨハネ19・25~27)。

307・ 「父」とは、その天的意味では、わたしたちの主イエス・キリストのこと、「母」とは、聖徒たちの交わりのことです。その交わりとは、全世界に散っている主の教会のことです。主が父であることは、次の箇所からも分かります。
  「ひとりのみどりごが、われわれのために生まれた。ひとりの男の子が、われわれに与えられた。・・・その名は、神・大能者、永遠の父、平和の君である」(イザヤ9・6)。
  「あなたはわれわれの父です。・・・アブラハムがわれわれを知らないと言い、イスラエルがわれわれをみとめないとしても、あなたは、・・・われわれの父、あなたのみ名はむかしから、われわれのあがない主です」(イザヤ63・16)。
  「『わたしたちに、父を見せてください』とピリポが言うと、主はかれに、『わたしを見る者は父を見る。わたしたちに父を見せてくれなどと、どうしてあなたは言うのか。・・・わたしが父におり、父がわたしにいることを、信じなさい』と言われた」(ヨハネ14・7~11、12・45)。 また、「母」は、天的意味では、主の教会のことで、それは、次の箇所からも分かります。  
  「わたしは、聖なる都新しいエルサレムが夫のために着飾った花嫁のように、用意をととのえてくるのを見た」(黙示21・2)。
  「天使はヨハネにむかって、『さあ、来なさい。小羊の妻である花嫁をお見せしましょう。・・・』と言って、聖なる都エルサレムを見せた」(黙示21・9、10)。
  「小羊の婚宴のときがきて、その花嫁は用意をととのえた。・・・小羊の婚宴の席に招かれた人は、さいわいである」(黙示19・7、9)。
  (そのほかにも、マタイ9・15、マルコ2・19、20、ルカ5・34、35、ヨハネ3・29、19・25~27を参照)。
 「新しいエルサレム」とは、現在、主によって創立されている新教会 Nova Ecclesia のことです。これについては、『啓示による黙示録解説 Apocalypsis Revelata 』(880、881節)を参照してください。以前のものではないこの教会こそ、天的意味での「妻」であり「母」です。この結婚から生まれてくる霊的子供たちは、仁愛の善と、信仰の真理です。そして、主のみ力でこの両者を宿している人たちは、「婚宴の子」「神の子」「主から生まれた者」なのです。

308・ すべて主の教会の教義を心にうけいれる人、この世で父母にたいして幼児がするように、主に従い、主にお仕えし、主によって育てられたいと思う人、つまり主におしえられたいと思う人には、天上の愛がもつ神聖な霊気が、たえず主から流れてきます。それは、心にとめておいてください。 この天上の霊気から、自然の霊気がうまれますが、これは幼児や子どもたちへの愛の霊気で、すこぶる普遍的なものです。この自然の霊気は、人間に影響をあたえているだけでなく、トリやケモノやヘビにいたるまで及んでいます。すなわち、魂のあるものだけでなく、魂のないものにまで及んでいます。
 主は、霊的なものに働きかけておられるのと同様、以上のようなものにまで、働きを及ぼしておられます。だからこそ、自然界では父親のような太陽と、母親のような大地を創造されました。つまり太陽は、共通の父、大地は共通の母で、その結婚から万物の繁殖が生じ、地面を美しくしています。
天上の霊気が自然の世界に流れ入ることによって、タネが実をつくり、さらに新しいタネをつくるという具合に、植物のすばらしい生成発展がおこなわれます。いろいろな種類の植物があって、しばらくは太陽のほうに顔を向け、太陽が沈むと顔をそむけてしまうのも、そのためですし、ある花は、太陽がのぼると開き、沈むと閉じます。
 また、夜が明けると、うるわしい声で鳴くトリがいるし、母親にされるように、大地から栄養を得ては、鳴くのもいます。植物もトリも、自分の父と母を敬っているのです。以上のことはみんな、主が自然の世界の太陽と大地をとおして、生物にも無生物にも、その必要なものを全部あたえておられる証拠です。ダビデは次のように言っています、
  「天界から、エホバをほめたたえよ。・・・日よ、月よ、エホバをほめたたえよ。・・・海の獣よ、淵よ、地からエホバをほめたたえよ。実をむすぶ木よ、すべての香柏よ、野獣よ、すべてのけものよ、這うもの、翼のある鳥よ、地の王たち、すべての民、若い男子と乙女たちよ、エホバをほめたたえよ」(詩148・1~12)。
 またヨブにもあります、
  「けものたちに尋ねてみるがいい。あなたを教えてくれるだろう。また空の鳥もあなたに告げ知らせるだろう。地の草木もあなたをさとすだろう。海の魚もあなたに話して聞かせるだろう。エホバのみ手が、それをされたということを、以上のすべてから分からない人が、いるだろうか」(12・7~9)。
 「尋ねてみるがいい。教えてくれるだろう」とは、主エホバが以上のものをお造りになったということを、以上のものから、眺め、注目し、判断しなさい、という意味です。

七・  第五戒 「あなたは殺してはならない。」

309・ 「あなたは殺してはならない」という戒めの自然的意味は、人を殺してはならない、だれかに致命的な傷害をあたえてはならない、また人の肉体を切ってはならない、ということです。またそれから、人の名前や名誉に致命的な打撃をあたえてはならないということでもあります。なぜなら、多くの人にとって、名誉と生命は並行しているからです。より広い自然的な意味では、敵意、憎悪、殺したいほどの復讐心も、人殺しになります。なぜなら、灰の中に木炭の残り火があるように、そのような心には殺人の意図がかくされているからです。
 地獄の火とはこのような火のことです。だから、憎悪で「燃えあがり」、復讐心を「燃やす」と言われています。これは、行為ではなくても、意図で殺しをやっていることになります。法律とか、仕返し、かたき討ちへの恐れさえなければ、とくにその心の中に、うらみや残虐性がかくされていれば、たちどころに行為にむすびつきます。憎しみは殺人であることは、主の次の〈みことば〉から、分かります。
  「むかしの人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなた方の聞いているところである。しかし、わたしはあなた方に言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者という者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう」(マタイ5・21、22)。
 その理由は、意図したものは、すべて意志をもっていることで、これはまた、そのものとしては行為することだからです。

310・ 霊的意味では、「人殺し」とは、人間の魂を殺し滅ぼしてしまう、ありとあらゆる方法のことで、それには多種多様のやり方があります。神や宗教、それに神への礼拝から、人々の心をそむけさせるようなことです。それには、躓きをおいたり、離反とか、うらみを起こさせるような思いを、吹きいれることです。これは、地獄でみんな悪魔やサタンがやっていることで、この世にあっては、教会の神聖なことがらを汚したり、冒涜したりする人間がつながっています。黙示録(9・11)で、「アドバン」とか「アポルオン」と呼ばれている深淵の王とは、偽りで、霊魂を滅ぼしてしまう連中です。預言の〈みことば〉では、「ほふる」と言っていますが、たとえば、
  「わが神エホバは、『ほふられるはずの羊を飼いなさい。羊の所有者は羊をほふったのだ』と言われた」(ゼカリヤ11・4、5、7)。
  「われらは毎日殺され、ほふられる羊のように見なされました」(詩44・22、23)。
  「ヤコブは、来たるべき者のなかに根をはるであろう。・・・かれは、ほふられたのだろうか。それは、ほふった人たちのほふりのように」(イザヤ27・6、7)。
  「盗人は、羊たちを盗んだり殺したりするためにしか来ない。・・・わたしは、かれらがゆたかに命を得るために来た」(ヨハネ10・10)。
  (その他にも、イザヤ14・21、26・21、エゼキエル37・9、エレミヤ4・31、12・3、黙示9・5、11・7)。
 ということで、悪魔のことは、「初めから人殺しである」(ヨハネ8・44)と言われています。

311・ 天的意味あいでは、「殺す」とは、主にたいしムチャクチャに怒りを発するとか、憎悪をもやすとか、主のみ名を抹殺したいと思うことです。記されているように、主を十字架につけたのも、そんな人々がやったことで、以前のように主がこの世に来られたとしたら、かれらはユダヤ人と同様なことをやるでしょう。それは、「ほふられた小羊が立っている」(黙示5・6、13・8)とか、「十字架につけられた方」(黙示11・8、ヘブル6・6、ガラテヤ3・1)によって、表わされています。

312・ 主による改革がなかったら、人間の内部はどんなふうでしょう。それは、地獄にいる悪魔やサタンどもを見て、わたしにはよく分かり-ました。かれらは、人間の魂の中にいます主を、たえず殺そうとしていますが、それができないものですから、主に心をささげている人たちを殺そうとつとめています。しかしそれも、この世の人のようにはできないので、かれらの魂をほろぼし、信仰と仁愛とをダメにしてしまうため、精いっぱいの攻撃をしかけてきています。かれらの憎しみや復讐心は、めらめらと黒煙をあげる火とか、ぱっと燃えあがる火のようです。ところが、それも実際の火ではなく、見かけです。
 かれらの心にある残虐性は、その上にある中空で見えてきますが、それは天使たちとの戦乱あるいはその虐殺・殺戮とでも思わせるような感じです。かれらには、天界にたいする怒りと憎しみがあって、それがもとで、このような恐ろしい幻影がうかびあがってくるようです。さらに遠くから見ると、かれらはありとあらゆる野獣、トラ、ヒョウ、オオカミ、キツネ、イヌ、ワニ、各種各様のヘビの姿をしています。そして、表象のかたちで温和な動物が目にうつってくると、幻影にあってさえ、それに飛びかかり、かき裂こうとします。わたしの眼前にやって来たことがありますが、それは幼児をもつ女たちの傍に立つ龍のようで、その幼児を食いつくそうとしていました。それについては、黙示録(12章)に記録されています。これは、主と主の新教会にたいする憎しみを表わしたもの以外のなにものでもありません。
 この世にあっても、主の教会を破滅させようとする人たちは、それと同じですが、仲間どうしではそのようには映りません。それは道徳的なことをやって見せている肉体が、その思いを吸いとって隠ぺいするからです。ところが、肉体ではなく霊を見る天使たちの眼前には、前述したように、悪魔のすがたが動物の形に見えてきます。主が人の目をあけて、霊界を眺めみる能力をあたえられないかぎり、このようなことを知る人がいるでしょうか。ほかにもまだ、たくさん大切なことがありますが、以上は、人間にとって永久に隠されたままだったに違いありません。

八・ 第六戒 「あなたは、姦淫してはならない。」

313・ 自然の意味では、この戒めは、姦淫するだけでなく、みだらなことを欲し行い、好色的なことを考えたり話したりすることを禁じています。欲情を起こすだけで姦淫することになることは、主のみ言葉からも明らかです、
  「『姦淫するな』と言われていることは、あなた方の聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、欲情をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたので  ある」(マタイ5・27、28)と。
 その理由は、欲情というものは、意志するかぎり、行為に準ずるからです。誘惑は理性のなかに入っていくだけですが、意図は意志のなかに入っていき、欲情が意図されると、行為になります。
 これについては、『結婚の愛および姦淫の愛について De Amore Conjugiali et de Amore Scorta-torio 』(一七六八年、アムステルダム)という書の中にいろいろ述べられています。そのなかに、「姦淫の愛と、結婚の愛の対立」(423~443)、「私通について」(444~460)、「姦通およびその種類と程度」(478~499)、「処女性を失わせる欲情」(501~505)、 「相手をいろいろ代えていく欲情」(506~510)、「暴行への欲情」(511、512)、 「無垢な者をそそのかす欲情」(513、514)、「姦淫の愛と結婚の愛両者の責任のとり方」 (523~531)があります。自然的な意味でこの戒めが禁じている内容は、以上全部です。

314・ 霊的意味で「姦淫する」とは、〈みことば〉の善をけがし、その真理をまげることです。「姦淫する」には、その意味さえあったことは、〈みことば〉の霊的意味がいままで隠されていたので、分かりませんでした。〈みことば〉にある「姦淫する moechari, adulterari, scortari」には、以上のような意味が含まれていることは、次の箇所からも明らかです、
  「エルサレムの大路を行きめぐり、公平を行い、真理を求める者をさがして見つけ出せ。・・・わたしがかれらを満ちたらせた途端、かれらは姦淫をおこなった」(エレミヤ5・1、7)。
  「わたしは、エルサレムの預言者のうちに、恐ろしい頑迷さを見た。かれらは姦淫をおこない、ウソを言った」(エレミヤ23・14)。
  「かれらは、イスラエルのうちで愚かなことをし、姦淫をおこない、わたしの言葉をウソをまじえて語った」(エレミヤ29・23)。
  「かれらは、姦淫をおこなったが、それはエホバを捨て去ったからである」(ホセア4・10)。
  「口寄せや占い師のところへ行って、かれらと姦淫する者の魂を、わたしは断ち切るつもりである」(レビ20・6)。
  「かれらの神々をしたってこれと姦淫しないため、この地に住む者たちと、契約をむすんではいけない」(出エジプト34・15)。
 バビロンは、他のところに比べ、はるかに〈みことば〉をけがし、ひん曲げたりしたため、大いなる売春婦と呼ばれました。黙示録には、それについて記しています、
  「バビロンは、その不品行にたいする激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた」(黙示14・8)。
  「天使は、『大淫婦にたいする裁きを見せよう。地の王たちは、この女と姦淫をおこなった』と言った」(黙示17・1、2)。
  「姦淫で土地をくさらせた大淫婦を神は裁かれた」(黙示19・2)。
 ユダヤ民族は、〈みことば〉をひん曲げたので、主はかれらを、「不品行の時代」(マタイ12・39、16・4、マルコ8・38)とか、「姦夫のすえ」(イザヤ57・3)と言われています。そのほか、多くの箇所で、「姦淫」とか「不品行」は、〈みことば〉にたいする不品行やわい曲を意味しています。(エレミヤ3・6、8、13・27、エゼキエル16・15、16、26、28、29、32、33、23・2、3、5、7、11、14、17、ホセア5・3、6・10、ナホム3・4)。

315・ 天的意味で「姦淫する」とは、〈みことば〉の神聖な性格を否定し、それを汚すことです。天的意味は、前述の善をけがし、真理をひん曲げるという霊的意味からきます。教会と宗教にかんするすべてのことがらを心のなかでせせら笑う者は、〈みことば〉の神聖な性格を否定し、汚します。それは、キリスト教世界にある教会と宗教にかんすることは、みんな〈みことば〉に由来しているからです。

316・ ある人が、ほかの人にたいしてだけでなく、自分自身にたいしてでさえ純潔に見えながら、実際にはまったく不潔であることがあります。その原因にはいろいろあります。欲情というものは、意志のなかにあるあいだは、行為になるもので、悔い改めによって、主がとり除いてくださらないかぎり、なくなることはありません。その行為をしないからといって純潔であるとはかぎりません。その行為のゆるしがあったとしても、それが罪だからという理由で、欲しないのが純潔です。
 ある人が姦淫や不倫を行わないのは、国の法律とか罰にたいする恐れからだけの場合もあります。名声や名誉の失墜をおそれる場合もあります。性病への恐れもあります。家でおこる妻とのいさかいや、そこから生まれる不安定な生活への恐れもあります。あるいは妻の場合は、夫や親戚から復讐されたり、かれらの召使いにムチで打たれたりするのを恐れることもあるでしょう。そのほか、貪欲のため、あるいは病気、乱用、年齢、インポテンツから起こる衰弱などを気にして、控えていることもあるでしょう。
 つまり、自然的・社会的道徳的法律がもとになっているだけで、霊的律法がもとになっているのではないとき、その人は内部では姦淫者、密通者なのです。そのような人は、それが罪だとは思わず、自分の霊のなかでは、神のみまえで何も悪いことをやっていないと思っています。しかし、世間の目で肉体的に関係しなくても、霊のなかで罪をおかしています。したがって、死んだあと、霊になると、それを弁護するようなことを、はっきり口にします。
 さらに姦淫者とは、約束を破る契約不履行者です。また古代人の中にいたサチルスやプリアプスのようです。かれらは森の中をさまよっては、「処女はどこだ。花よめ、妻たちはどこにいる。いっしょに遊ぼうじゃないか」とわめいていたということです。霊界では、姦淫者は、サチルスやプリアプスそのままの姿で現れます。または発情期の雄山羊のようでもあり、ちまたを走っては、たわむれる相手をさがし、かぎまわっている犬のようでもあります。結婚して夫になり、青春の力をもちながら、春のチューリップのように咲いても、月日をへて、しおれ枯れていくのにも比べられます。

九・ 第七戒 「あなたは、盗んではならない。」

317・ 自然的意味で、この戒めは、文字のうえからも、盗みや強盗、それに平和のときに略奪することを禁じています。一般的に言うと、ある人にたいして、その人のもつ善益を、ひそかに、またはある種の口実をつけて、取り去ることを禁じています。それはまた、あらゆる種類のペテン、不法な利潤追及、利息の請求、強制執行、それに納税の場合の所得隠しや、債務を履行するさいのウソ偽りなどもそうです。被雇用者が自分の仕事を不まじめに、ずるがしこく、やるようなときも、この戒めに反します。商売人が、商品、重さ、量、計算で、人をだますときもそうです。上官が兵の給料の天引きをするのも同様です。裁判官が、友情、報酬、縁、またその他の理由で、法律や証拠を曲げて判決を下し、正当に所有している人の財産を、本人から奪うような場合もそうです。

318・ 霊的意味でいうと、「盗む」とは、他人の信仰の真理をなくさせることですが、これは偽りや異端によって起こります。
 利得のためとか、名誉獲得のためにだけ仕事をしている神父や、〈みことば〉からよく分かっても真理に反することを教えている祭司たちは、霊的な泥棒です。なぜなら、信仰の真理という救いの手段を、人々から奪い去ってしまうからです、
  「羊の囲いの中に入るのに、門をとおらないで、他の所からのり越えてくる者は、盗人であり、強盗である。・・・盗人が入ってくるのは、盗むため、殺すため、抹殺するためである」(ヨハネ10・1、10)。
  「地上に宝をたくわえてはならない。天に宝をたくわえなさい。・・・天では、盗人がやって来ることもないし、盗みとることもない」(マタイ6・19、20)。
  「泥棒があなたのところへ入ったり、強盗が夜やってきたとしたら、あなたは殺されてしまう。それでかれらは、欲しいだけ奪っていくのではないだろうか」(オバデヤ5)。
  「かれらは、町の中をめぐり、城壁の上を走り、家々によじのぼり、泥棒のように窓から入る」(ヨエル2・9)。
  「人をだます者、盗賊になっておし入る者、山賊になって外を荒らしまわる者がいた」(ホセア7・1)。

319・ 天的意味では、「盗人」とは、主にそなわっている神のみ力を認めようとせず、主ご自身の功績と正義を自分のものにする人のことです。このような人は、主を礼拝するとしても、主を信ぜず、自分を信じている人です。神を信ぜず、自分に信をおいている人のことです。

320・ 間違ったことや異端的なことを教え、それが真理であり、正統であるといって、民衆を鵜呑みにさせ、しかも〈みことば〉を読んで、その結果、なにが本当で、なにがウソかをよく知っている人がいます。つまり宗教上の偽りを信じこませ、作り話をして、人をまどわします。
 それはちょうど、ペテン師と各種のペテンに似ています。そのようなまどわしは、霊的意味では、それ自身として盗みですから、贋金を造って、それに金のメッキをしたり、金色に色づけして、本物のようにして売りつけるサギ師と同じです。あるいは、水晶を精巧に切って磨きあげ、硬化させ、ダイヤモンドとして売る人間です。
 あるいはスフィンクスや猿に人間の着る洋服を着せ、顔をベールでおおい、馬や騾馬に乗せて町の中をひきまわし、古い家系の貴族のお通りであると呼ばわるインチキ師です。あるいはまた、普通の生きた人間の顔にいろとりどりの顔料を塗りたくって、その美しさをわざと隠してしまう人のようです。
 また、あたかも金や銀のように光る透明石膏や雲母を人に見せて、これを金脈から掘りあてたかのように売りつける人間です。あるいは、人を本当の神礼拝から劇場へ誘い出す者、会堂から見せ物小屋へとひっぱり出す人のようでもあります。
 ありとあらゆる誤謬で固まり、真理にはなんら重要性をおかず、利益と名誉をねがって、祭司の職務を執行している者がいますが、このような人たちは、霊的盗人です。かれらは外からどんな家の戸でもあけられるカギをもっている泥棒のようでもあります。
 そして、肉のついた獲物があればと、鋭い眼つきで探しまわっているヒョウやタカのようでもあります。

十・ 第八戒 「あなたは隣人にたいして、偽りの証言をしてはならない。」

321・ 「隣人にたいして、偽りの証言をする」とは、自然的意味からすると、判事のまえとか、裁判所以外の人々のまえで、デタラメの証言をすることです。それもある種の悪事について、根も葉もなく、人の不利になるよう罪を帰せたり、神のみ名や、なにかの神聖なものや、自分のコトバに誓って、あるいは特定の人の名とか評判にたよって、証言したりすることです。
 もっと広い自然的な意味で、この戒めが禁じていることは、あらゆる種類のウソ、しかも悪い意図をもった政治上の偽善のことを言っています。とくに隣人を裏切ったり、中傷したりすること、人の全人格のよって立つ名誉・名声をひっくりかえすことなどです。
 いちばん広い自然的な意味からすると、いろいろな動機から、特定の人にたいして、ワナをしかけたり、ペテンにかけたり、悪い仕掛けをしたりすることで、それには、敵意、憎悪、復讐、嫉妬、羨望などが原因になっています。以上のような悪意には、そのものとして、偽りの証言がかくされているためです。

322・ 「偽りの証言をする」とは、その霊的意味では、信仰にかんしての偽りを、真理だと思いこませたり、生活上の悪を、善だとして信じこませたり、あるいはその逆のことを吹き込むことです。しかもそれを無知からでなく、知ったうえでやることです。つまり、真理は何で、善は何かを知る以前でなく、知ったあと、そうすることです。主も、次のように言われました、
  「もしあなた方が、盲人であったなら、罪はない。しかし今あなた方が『見える』と言いはるところに、あなた方の罪がある」(ヨハネ9・41)と。
 このような偽りを、〈みことば〉では、「うそ mendacium」といったり、この種の意図については、「だまし dolus」といっています。次の箇所をみてください。
  「われわれは、死と契約をむすび、地獄と協定をむすんだ。・・・われわれは、うそを避けどころとし、偽りのなかに身をかくした」(イザヤ28・15)。
  「かれらは、そむく民であり、うそつきの子らで、エホバの教えに耳をかたむけようとしない」(イザヤ30・9)。
  「預言者をはじめ、祭司にいたるまで、みんなうそをついている」(エレミヤ8・10)。
  「住んでいる人たちは、うそつきで、その舌でもって、口からだましをはく」(ミカ6・12)。 
  「あなたは、ウソを言う者をほろぼされる。エホバは人をだます者をきらわれる」(詩5・6)。
  「かれらは、自分の舌でウソを言い・・・だまし抜いて生きることを教える」(エレミヤ9・56)。
  「うそ」とは、偽りのことです。だから、主は言われました、
  「悪魔は、うそをつくとき、本音をはいている」(ヨハネ8・44)。
 (「うそ」が偽りとか偽言であることについては、次の箇所にもあります。エレミヤ23・14、32、エゼキエル13・6~9、21・29、ホセア7・1、12・1、ナホム3・1、詩120・2、3)。

323・ 「偽りの証言をする」は、その天的意味では、主と〈みことば〉を冒涜すること、その結果、教会から真理を追いだしてしまうことです。主は真理そのものであると同時に、〈みことば〉です。また天的意味で「証言する」とは、真理を語ること、「証言」は、真理そのものです。したがって、「十戒は、証言とも言われている」のです。(出エジプト25・16、21、22、31・7、18、32・15、40・20、レビ16・13、民数17・4、10)。 
 そしてまた、主は真理そのものです。だから、ご自分についてそのことを証言なさいました。
  「主は、真理そのものである」(ヨハネ14・6、黙示3・〔7、14〕)。
  「ご自分でそれをあかしし、ご自分についての証人でもある」(ヨハネ3・11、8・13~19、15・26、18・37、38)。

324・ 人をだまそうと、策略をもって、偽りを口にし、霊的情愛から出たような作り声をし、しかもそれに〈みことば〉からの真理を、ゆがめながらもとりまぜて、しゃべる連中のことを、古代人は「魔法使い Incantatores 」と言いました(それについては、『啓示による黙示録解説』462節を参照)。
 かれらはまた、大蛇であり、善悪を知る木のヘビです。このような偽り者、ウソつき、だまし屋は、自分が憎んでいる相手と、愛嬌よく、親しげに話しているわけですが、話しているあいだ、背中に相手を殺すための剣を忍ばせているようなものです。あるいは、剣に毒をぬって、敵を急襲する者に似ています。あるいは、飲み水に毒草をまぜたり、あまいぶどう酒やケーキに毒を入れたりする人のようです。かれらはまた、性病をわずらっていながら、好色的なあまえ声をだす売春婦のようです。トゲ科の植物で鼻に近づけてみると、嗅覚細胞をマヒさせてしまうものに似ています。毒のはいった甘汁です。また秋の乾燥期に芳香をはなつ汚物です。〈みことば〉では、このような人をヒョウで表わしています(『啓示による黙示録解説』572節を参照のこと)。

十一・  第九・十戒 「あなたの隣人の家のものをほしがってはならない。あなたの隣人の妻、召使いと下女、お牛とロバ、それから隣人に属するものは、どんなものでもほしがってはならない。」

325・ 現在つかわれている教理問答集では、以上が二つの戒めに分かれています。つまり、第九戒として、「あなたは、隣人の家のものをほしがってはならない」、第十戒として、「あなたの隣人の妻、召使いと下女、お牛とロバ、それから隣人に属するものは、どんなものでもほしがってはならない」です。この二つの戒めは、ひとつのことを言っており、しかも出エジプト記(20・14)と申命記(5・18)では、一節にまとめていますから、以上の二つの戒めは、同時にとりあつかいます。だからといって、一つの戒めにしてしまおうというのではなく、以前からそうであったように、二つの戒めです。それは、以上の戒め全部のことを「十のみことば Decem Verba」といっているからです (出エジプト34・28、申命4・13、10・4)。

326・ 以上二つの戒めは、まえに述べているすべての戒めに関連づけられます。つまり、悪いことはしてはいけないし、それを欲望の対象にしてもならないわけです。要するに、人間の外部だけでなく、内部もそうでなくてはならないのです。すなわち、悪いことをするというのではないけれど、それを実行したいと意図することは、それを実行することだからです。主は言われます、
  「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、心のなかですでに姦淫をしたのである」(マタイ5・27、28)と。
 そして、欲望がとり除かれて、はじめて人間の外部は人間の内部になります。つまり人間の内部と合体するのです。これについても、主は次のように教えておられます、
  「律法学者、パリサイ人たちよ。あなた方はわざわいである。杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦で満ちている。盲目なパリサイ人よ。まず、杯の内側をきよめるがよい。そうすれば、外側も清くなるであろう」(マタイ23・25、26)と。
 この章の始めから終わりまで、主は言っておられます。パリサイ人たちの心の内部とは、第一、二、五、六、七、八戒で禁じられていることへの欲望です。主はこの世で、教会の内部のことをお教えになったことは、周知のとおりです。教会の内部にあるものとは、悪を欲求しない心で、主は、人間の内部と外部とがひとつになるように、お教えになりました。これが新しく生まれ変わることで、それについて、主はニコデモにむかってお話しになりました(ヨハネ3章)。だれも主によらなければ、新しく生まれ変わること、再生すること、つまりは内部的人間になることはできません。
 この二つの戒めは、それに先行するあらゆる戒めに、欲望をとり除くという点で、関連づけられます。それでまず、家、それから妻、それから召使い、下女、お牛とロバがきます。そして、最後に隣人のものはどんなものでも、とあります。家は、それに続くすべてのものを含んでいます。家のなかに、夫あり、妻あり、召し使いあり、下女あり、お牛あり、ロバありだからです。その次に、妻とありますが、それに続くものが妻にふくまれています。夫が家の中での主人であるように、妻は主婦だからです。召し使いと下女がその下にあり、お牛とロバがその下です。そして最後にそれより下またはそれ以外のすべては、それは隣人に所属するもの全部を意味します。ここで、以上のすべては、全体として見ても、個別的に見ても、広義でも狭義でも、以上の二つの戒めのなかに含まれるわけが理解できます。

327・ 以上の戒めを霊的意味からみると、霊に反する欲望がみんな禁止されています。それは、教会にある霊的なことがらに反するもので、教会がもつ霊的なことがらとは、主として〈信仰と愛〉に関係があることです。それは、欲望がコントロールされなかったら、肉は好き勝手にふるまって、あらゆる不法におちいるからです。パウロも言っています、
  「肉の欲するところは霊に反し、霊の欲するところは肉に反する」(ガラテヤ5・17)と。
 またヤコブは、
  「人が誘惑におちいるのは、それぞれの欲にひかれるからで、それが魅力的にみえると欲情がおこり、その欲情がはらむと、罪を生み、罪が熟すると、死を生みだす」(ヤコブ1・14、15)。 またペテロは、
  「主は、・・・不義な者ども、とくに汚れた情欲におぼれ、肉にしたがって歩む者を罰して、さばきの日まで閉じこめておかれる」(Ⅱペテロ2・9、10)と言っています。
 要約すると、霊的意味で解釈した場合、以上の二つの戒めは、いままで霊的意味で、欲望にしたがってはいけないと言っていること全部に関係してきます。それはまた、天的意味でいままで述べられてきたこと全部にも、関係があることです。ただし、これを繰り返して述べることはムダでしょう。

328・ 肉の欲・目の欲・その他の感覚の欲は、霊の情愛・願望・喜びのような欲求から切り離すと、動物の欲望とまったく同じです。本質的には動物的なものだからです。反面、霊の情愛は、天使のもっている性格で、人間固有のものと言えます。したがって、人が肉欲にふければふけるほど、それだけ動物的・野獣的となり、霊的願望に従えば従うほど、それだけ人間的・天使的になります。
 肉の欲は、しぼんで乾き切ったブドウや野ブドウにたとえるなら、霊の情愛は、たっぷり果汁がはいったおいしいブドウ、あるいはそれからとったブドウ酒の味にたとえられます。肉の欲が、ロバや山羊やブタのいる家畜小屋だとすると、霊の情愛は、おだやかな馬とか、羊、小羊などがいる小屋です。両者は、ロバと馬、山羊とヒツジ、ブタと小羊がちがうように、ちがっています。おおざっぱに言って、鉄くずと金塊、石灰と銀、さんごとルビーのようにちがうのです。
 欲情とその行為は、血と肉のようにむすびついており、火と油のような関係です。欲情が行為になると、呼吸とか話をするさい、肺臟からでてくる空気のようであるとともに、航海のおり、帆にあたる風のよう、機械が動くおりの水車にあたる水のようでもあります。

十二・  十戒にある十の掟は、神の愛にかんすることと、隣人への愛にかんすることを、全部ふくんでいる。

329・ 十戒のなかの第一戒、第二戒、第五戒、第六戒、第七戒、第八戒、第九戒、第十戒の八つのいましめのなかには、神への愛とか、隣人への愛については、なにも言っていません。神を愛さなくてはならないとか、神のみ名をあがめなくてはならないとか、隣人を愛さなくてはならないとか、隣人とのつきあいは、誠実・正直にしなくてはならないなどと、言っているわけではありりません。
 言っているのは、「わたしの顔のまえには、他の神があってはならない」、「神の名をみだりにとなえてはならない」、「殺してはならない」、「姦淫してはならない」、「盗んではならない」「偽りの証言をしてはならない」、「隣人のものをほしがってはならない」です。つまりは、神にたいしても、隣人にたいしても、悪いことを欲してはいけない、考えてはいけない、やってはいけないということだけです。
 まっすぐに、愛とか仁愛にかんすることを命令なさらないで、それに反することを禁じておられるわけは、人が〈悪と罪〉を避ければ、それだけ〈愛と仁愛の善〉を、求めるようになるからです。 〈神への愛〉と〈隣人への愛〉の出発点は、悪いことをしないことです。そしてその次に、善いことをすることがきます。それについては、『仁愛について』の章を見てください。
(2) 二種類の愛があって、たがいに対立しています。それは、善を欲し行う愛と、悪を欲し行う愛です。前者が天上の愛であるのにたいし、後者は地獄の愛です。全地獄が悪いことをする愛のうちにあるのにたいし、全天界は、善いことをする愛のうちにあります。人は今のところ、あらゆる種類の悪のうちに生まれつき、しかも生来地獄的なものへ向かう傾向があるわけですから、人はもう一度生まれなくては、つまり再生しなくては、天界に行くことはできません。
 だからこそ、天界の善を望むようになるまえに、まずは地獄からの悪が取り除かれる必要があります。悪魔から切り離されなくては、だれひとり主によって受け入れられるようにはなりません。悪が取り除かれると、人は善ができるようになるのですが、それについては、『悔い改め』の章と、『改善と再生について』の章で説明していきます。

(3)人が行う善が、神のみまえにも善になっていくまえに、まず悪がとりのぞかれなくてはなりません。それについて、イザヤをとおして、主は言われます、
  「あなた方は身を洗って、清くなり、わたしの目の前から、あなた方の悪い行いを除き、悪を行うことをやめ、善を行うことをならいなさい。・・・たといあなた方の罪が緋のようであっても、雪のように白くなる。紅のように赤くても、羊の毛のようになる」(イザヤ1・16~18)。
 エレミヤにも、これと似たようなのがあります、
  「エホバの家の門に立ち、そこでこの言葉をのべて言え。・・・万軍のエホバ、イスラエルの神はこう言われる、あなた方の道と、あなた方の行いを改めなさい。・・・あなた方は、『これはエホバの神殿だ、エホバの神殿だ、エホバの神殿だ』(つまり教会のこと)という、偽りの言葉を頼みとしてはならない。・・・あなた方は、盗み、殺し、姦淫し、偽って誓い、・・・わたしの名がかかげてある家に来て、わたしのまえに立ち、『われわれは救われた』と言いながら、このようなあらゆる憎むべきことを行っている。はたしてこの家は、盗賊の巣となったのか。・・わたし自身、それを見たのだと、エホバは言われる」(エレミヤ7・2~4、9~11)。

(4) 悪から洗われ、清められないかぎり、神への祈りも聞きいれられません。それは、イザヤをとおして教えられていることです。
  「エホバは言っている、『ああ、罪ぶかい国びと、不義を負う民よ、・・・かれらは後ずさりして堕落した。・・・だから、あなた方が手を伸べるとき、わたしは目をおおって、あなた方を見ない。たとい多くの祈りをささげても、わたしは聞かない」(イザヤ1・4、15)。
 悪を避け、十戒のおきてを実行する人には、愛と仁愛がともなってくることは、ヨハネによる福音書で、主の〈みことば〉から明らかです。
  「イエスは言われる、『わたしの戒めを心にいだいて、これを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人に、わたし自身をあらわすであろう。・・・そしてわたしたちは、その人といっしょに住むであろう』と」(ヨハネ14・21、23)。
 ここで、戒めと言われていますが、これはとりわけ十戒のいましめのことで、悪をしてはいけないし、それを望んではならないということです。そうすることによって、〈神への愛〉と〈隣人への愛〉がともないくるわけで、悪をとり除けば、善が生じてきます。

330・ 人は、悪を避ければ避けるほど、善を望むようになると言われていますが、それは、悪と善は相対立していて、悪は地獄から、善は天界からくるものだからです。そのため、地獄すなわち悪がのぞかれれば、のぞかれるほど、人は天界に近づき、善を眺め見るようになります。以上のことは、十戒のうちの八つの戒めから見ても、うなずけることでしょう。ということで、次のようになります。

① 人は、他の神々を礼拝しなくなればなるほど、真の神を礼拝するようになります。
② 人は、神のみ名をみだりに唱えなくなればなるほど、神に由来するものを愛するようになります。
③ 人は、殺したいと思ったり、憎しみや復讐で行動をおこしたりしなくなればなるほど、隣人の幸福を望むようになります。
④ 人は、姦淫をおかすことを欲しなくなればなるほど、自分の妻と忠実に生きたいと思うようになります。
⑤ 人は、盗みをしたいと思わなくなればなるほど、誠実を求めるようになります。
⑥ 人は、ウソの証言をしたいと思わなくなればなるほど、本当のことを考えたり口にしたりするようになります。
⑦・⑧ 人は、隣人のものをほしがらなくなればなるほど、隣人がその所有物によって幸福になることを望むようになります。
 以上のことから、十戒にあるいましめは、〈神への愛と隣人への愛〉のすべてを、ふくみもっていることが分かります。だからパウロも言っています、
  「人を愛する者は、律法を全うする。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』など、そのほかにどんな戒めがあっても、結局『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』という言葉に帰する。愛は隣人に害を加えることはない。だから、愛は、律法を完成する」と(ローマ13・8~10)。

 以上にたいし、新教会では、あと二つの基本的原則をつけ加えています。

① 悪を罪として避けるにしても、神のみ前によろこばれる善をするにしても、だれしも、自分の力でできるわけではありません。ただし、人が悪を罪として避ければ避けるほど、善をするようになりますが、それは自分の力でなく、主のみ力によります。

② 人は、悪を罪として避け、自分の力でやるようなつもりで、悪に対抗して戦わなくてはなりません。ただし、それが罪だからという理由以外の理由で、悪を避ける場合、実際は悪を避けているのではなく、ただそれが、世間の目にさらされないようにしているだけです。

331・ 悪と善は、共存することはできません。そして悪が除かれれば除かれるほど、それだけ善が目標になり、善として感じられるものになります。その理由は、霊界ではひとりひとりが、自分の愛の霊気をもっており、それをあたりに発散させては影響を与えています。つまりは、共感を生んでいるか、反感を生んでいるかです。このような霊気あってこそ、善人と悪人が分離されているわけです。
 善がはっきりし、感じとれるものになり、しかも愛されるようになるには、そのまえに、悪がとり除かれなくてはなりません。この事実は、自然界にある種々様々なことがらからも、たとえをもちだしてみることができます。ヒョウを自分の家に飼っている人がいて、飼い主はヒョウに餌をやっているから、いっしょに住んでいても安全です。ところが、その人の家を訪問する人は、まずその動物を別のところに移さなくては、中にはいれません。

(2) 王や王妃の食事に招かれた場合、まずその人は自分の顔や手を洗わなくては、食卓に近づくわけにはいきません。また結婚式があって、そのあと花嫁と床をともにする場合、まず全身を洗い、新婚のガウンを身につけるのではないでしょうか。それからまた、純粋の金や銀をとり出す場合、まずその鉱石を火できよめ、不純物をとり除くのではないでしょうか。また小麦を倉におさめるときは、そのまえに収穫から毒ムギをとり除くのではないでしょうか。あるいは大麦の収穫があって、それを家のなかにもちこむまえに、モミガラを脱穀機でとり除くのではないでしょうか。

(3) また、魚を料理して食卓に供するまえ、かたいウロコはとって、火をとおすのではないでしょうか。庭の植木にある葉にムシがついたとき、葉が全滅し、果実も落ちてしまうのを防ぐため、ムシの駆除を行うのではないでしょうか。位の高い人や、その令嬢が花嫁として訪問してくるとき、玄関や家のなかにある汚れたものは、だれもがいやがって、それをきれいにかたづけるのではないでしょうか。若い女が結婚したいと言っても、腫物でおおわれ、吹出物やあざが一面にできている場合、いくら顔に化粧をし、はなやかに着飾ったり、口先でこびへつらい、愛嬌をふりまいたとしても、愛する気持ちに、なれないのではないでしょうか。

(4) 人はまず、悪から足を洗わなくてはなりません。何でも主がタダでそれをやってくださると期待してはなりません。それはちょうど、召使いが、顔も衣服もススとホコリでおおわれていながら、主人のまえに出てきて、「ご主人さま、わたしを洗ってください」と言っているようなものです。主人はその召使いに、「何を言っているのだ。アホな召使いが。ここに、水も石鹸もタオルもある。おまえには手があるだろう。しかも自分でやろうと思えばできる。自分で洗いなさい」と言うでしょう。 主なる神も言われます、
「わたしの力で清めるには方法があります。それはまた、わたしの力をつかって、あなたが欲すること、できることです。だから、わたしからの賜物と贈物を、自分のものとして使い、自分を洗いきよめなさい」と。
 人間の外部が清められるためには、内部によらなくてはならないと、主はマタイによる福音書(23章の初めから終わりまで)で教えておられます。