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真のキリスト教


第一章 創造の神について

神の無限 Infinitas・無辺 Immensitas・永遠 Aeternitas について

27節-34節


27, 28, 29, 30, 31, 32, 33, 34


27・ 自然の世界にあって、万物を有限にしている二つの属性がありますが、そのひとつは空間、もうひとつは時間です。世界は神によって造られましたが、それと同時に、空間と時間が造られ、それがこの世界を有限なものにしています。それで、空間と時間の出発点 initia でもある無辺Immensitas と永遠 Aeternitas について考えていきましょう。

 神の無辺は空間にかかわり、永遠は時間にかかわりがあります。そして無限 Infinitas は、無辺と永遠をふくんでいます。無限は有限を越えており、無限について認識することは、有限な精神のできることではありません。それでも、ある程度まで感じとれるよう、順序だてて説明してみましょう。

[Ⅰ] 神は、みずからのうちに存在し実在される方で、宇宙万物の存在と実在の源であるから、無限である。

[Ⅱ] 神は、世界が始まるまえ、つまり空間と時間が存在するまえにあった方として、無限である。

[Ⅲ] 神は世界ができたあと、空間や時間を越えながらも、空間や時間のうちにまします。

[Ⅳ] 神の無限は、空間にかんしては無辺であり、時間にかんしては永遠である。とは言え、神の無辺には、空間はなく、神の永遠には、時間はない。

[Ⅴ] 理性が照らされれば、この世にある多くのものから、創造主である神の無限を見ることができる。

[Ⅵ] 被造物はすべて有限である。そして有限なものは器となって、無限な方をうけとめ、人間の場合は、無限な方のイメージをやどしている

 以上について、それぞれの項目で検討していきましょう。

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28[Ⅰ]神は、みずからのうちに存在し実在される方で、宇宙万物の存在と実在の源であるから、無限である。

 神はおひとりで、みずから存在される方 Ipsumです。万物の最初の存在であるとともに、宇宙に実在・存続するものすべての〈みなもと〉です。それでは次に、人間の理性は、創造された宇宙の数多くのものから、それを見ることができることについて、説明いたします。

 人間の理性は、最初の存在者 Primum Ens または最初の存在 Primum Esse が、無限であることをみとめることができますが、その方がどんな方かは分かりません。だから定義するにしても、全面的に無限な方で、みずからのうちに存続し、実体そのものであり、独一の実体である、としか言えないのです。そして、実体については、形相としてしか、述べられません。つまり形相そのもの、独一の形相です。

 それでは、この形相とはどんな形相でしょう。まず無限が何だか、はっきりしないのです。最高度に分析的で、高められた人間精神も、それ自身は有限であって、その有限性はとり除かれません。神の無限性がそれ自身のうちでどんなものか、見ることができません。神を見るとはいっても、陰のなかで、背後から見るような感じです。モーセが神を見たいと願って祈ったとき、言われたことでした、 「わたしはあなたを岩の裂け目に入れて、あなたはわたしのうしろを見る」(出エジプト332023)。

 〈神のうしろ Posteriora Dei〉とは、この世界にあって見えているもの、とりわけ〈みことば〉のなかで感じとられるものです。だから、神がその存在または実体として、どんな方かを知りたいと思ってもムダで、せいぜい有限なもの、造られたものをとおして、そのうちに無限があるものとして、そこに神をみとめることで、満足しなければなりません。

 これ以上を望む者は、大気にさらされたウオのようであり、また空気をぬいた器のなかのトリのようです。トリはあえいでは息絶えます。あるいはまた、暴風にあおられながら、舵をとらず、岩礁や砂にのりあげる船のようです。

 神の無限性をその内奥からまさぐろうとする人は、外に表われているはっきりした印で、神の無限性をみとめるだけでは、満足しないのでしょう。ある古代の哲学者は、世界の永続性について、自分なりの精神に照らして、見ることも理解することもできないからと、海水に身を投じたということです。神の無限性を知りたいと思う者もおなじです。

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29[Ⅱ]神は、世界が始まるまえ、つまり空間と時間が存在するまえにあった方として、無限である。

 自然の世界には時間と空間がありますが、霊の世界では、それほど現実的に actualiter ではありませんが、見かけの上 apparenter での時間と空間があります。この世に時間と空間があるわけは、一つのものを他のものと、大きなものを小さなものと、多数を少数と、区別するためです。それはまた、量や質についても同じです。つまり、肉体にある感覚器官が対象を見わけ、精神にある感知力がその対象によって刺激されて、思考と選択ができるようになるためです。

 自然の世界に時間がはいってきたのは、地球が地軸を中心に回転しているためです。この回転は、黄道にそって、ある一点から次の一点へと進みます。このような推移は、太陽によって起こっているように見えます。そして地球全体は、この太陽から熱と光をうけています。そこで、一日に朝・昼・夕・夜の時間帯がうまれ、一年には、春・夏・秋・冬の季節が生じ、一日の時間帯が明暗をつくり、一年の四季は寒暑を生み出すことになります。

 自然の世界に空間が生じたのは、物質がつまっている大地が地球内にかためられ、それが部分として区別されるとともに、広がりをもっているからです。

 ところが霊の世界には、物質的な空間も、それに対応する時間もありません。むしろ、見かけapparentiae の上での空間と時間がありますが、それは霊や天使がおかれている心の状態から生じた区別に対応しています。したがって、霊的世界での時間と空間は、かれらのもつ意志の情愛と、理性の思考に、マッチしています。ここでの見かけも、かれらの状態にしたがって固定していますから、現実的な reales 時間と空間です。

(2) 人が死んだのちの魂とか、天使や霊の状態は、なんの広がりもないし、空間や時間のうちにはないといった俗説があります。だから死後のたましいは、「プー」つまり「どこか」にあり、霊や天使は「気 Pneumata 」であって、エーテル、大気、呼気、風のようなものだと言われています。ところが、かれらは実体的な人間で、自然世界の人間とおなじように、空間と時間のうちに、おたがいに生活しているのです。ただその時間と空間は、かれらの心の状態によってきまっています。

 もし万一、時間も空間もなかったら、たましいがおもむくところ、つまり天使や霊が滞在する宇宙は、針の穴を通過し、一本の髪の毛の先にさえ、集中できるものになります。来世に実体的延長extensum substantiale がなかったら、そうなるはずですが、そのような実体的延長があるからこそ、天使たちは物質的延長をもつ人間以上に、おたがいがはっきり、分離・区別されているのです。 とはいえ、来世での時間は、日・週・月・年に分けられるようなものではありません。太陽は出没することも、回転することもなく、天頂と地平線の中間にあって東に位置し、とどまっています。かれらにも空間はあります。というのは、来世では自然世界で物質として存在しているものが、すべて実体として存在しているわけです。以上については、創造について扱っている本章のあとで、いろいろと述べるつもりです。

(3) 今まで申しあげたことから、理解できると思いますが、この世と来世にある個々あらゆるものは、時間と空間あってこそ有限です。そして人間の場合ですが、肉体だけでなく、たましいも有限なのはそのためで、天使や霊の場合とておなじです。

 だからこそ結論として、「神は無限であって、有限ではない」と言えます。神ご自身は、宇宙の創造主・形成者・造り主であって、万物を限定されました。神はご自身の太陽によって、万物を限定しておられますが、その太陽の中心に、主がいらっしゃいます。太陽は神の本質に由来し、神の本質は、ご自身から放出される霊気のようです。

 有限化 finitio の始源は、その太陽にあるのです。その有限化へのプロセスは、この世の自然界で終わっていますが、それも神ご自身が、造られていない方として、みずから無限な方だから、そうなります。

 ところで、無限な方は、人間の眼には、まるで〈何ものでもないもの〉のように映りますが、それは人間自身が有限で、有限なものから考えをすすめているからに他なりません。人間の思考力には、この種の有限性が染みついてるからこそ、その有限性をとり除くと、残りは〈何ものでもないもの〉としてしか、感じられません。ところが本当のことを言うと、神こそ、万事かぎりない方 infinite omne で、人間は神にくらべると、みずからは〈何ものでもないもの〉なのです。

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30[Ⅲ]神は世界ができたあと、空間や時間を越えながらも、空間や時間のうちにまします

 神みずからも、神からまともに発する神性も、遍在 omnipraesens ですが、空間のうちにはありません。しかしながら、この世の人間にも、天界の天使ひとりひとりにも、また天界の下にいるそれぞれの霊のもとにも、いらっしゃいます。これは、自然的に考えただけでは分かりません。霊的に考えれば、多少なりとも分かってきます。

 自然的に考えただけでは分からないのは、自然の考えには、空間が居座っているからです。つまりこの世に存在するもの、すなわち眼にうつるものすべてに、空間の枠がはめられていて、そこから考えが形造られるからです。大小さまざまのものは、すべて空間にあり、長さ・幅・高さをもったものも、すべて空間にあります。一口に言うと、計量し、数えられ、形があるものは、全部空間のうちにあるのです。

 とは言っても、人は霊的光に少しでも助けられれば、以上のことをある程度、自然的に考えただけでも分かります。ただし、「霊的に考える」とは何かを、最初もうしあげましょう。

 霊的思考は、空間からとられるものではなく、すべては状態からとられるものです。状態というと、愛・生命・知恵・情愛・喜びのほか、おおざっぱに、善と真理について言えることです。本物の霊的思考には、空間と共通するものが何もありません。ずっと高級で、天界が地上を見おろすように、空間概念を下に見おろしています。

(2) 神は、空間なき空間、時間なき時間のうちにいらっしゃいます。その理由は、神が永遠から永遠まで、いつも同じで、世界創造の前後をとおして変わらないためです。創造のまえには、神のうちにも、みまえにも、空間や時間はありませんでした。空間や時間が生じたのは、それ以後のことです。だから、神はいつも同じで、空間なき空間、時間なき時間のうちにいらっしゃるわけです。

 したがって、自然は神ご自身と切りはなされたものでありながら、神はその自然のなかに、遍在しておられます。それはちょうど、人間の実体的なもの、物質的なものすべてに、生命がゆきわたっていながら、それと混同していないのと似ています。あるいは、眼にとっての光、耳にとっての音、舌にとっての味、土地や水にとってのエーテルのようだとも言えます。地球はエーテルをとおして保たれ、回転をつづけているのです。その他にもいろいろあります。

 このような動因 agentia がなければ、実体も物質も、一瞬で消滅・霧散してしまうでしょう。人間の精神にしても、神が絶えず、しかもくまなく、臨在しておられないなら、空中の泡のように消えていくでしょうし、精神活動の出所でもある大脳・小脳ともども、霧と化していくでしょう。こうして人間全体は、地上の塵、空中にただよう一片の香りでしか、なくなるでしょう。

(3) だから神は、あらゆる時間のうちにありながら、時間がないのです。〈みことば〉で、過去や未来のことを現在で言っているのも、そのためです。イザヤは、

  「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。・  ・・その名は、『・・・大能の神、・・・平和の君』ととなえられる」(イザヤ9・6)と記しており、ダビデは、「主はわたしに言われた、『おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ』」(詩2・7)と描いています。これは、来るべき主のことですが、おなじく、「あなたの目の前には、千年も過ぎ去ればきのうのごとく」(詩90・4)とあります。

 神は、全世界どこでも臨在しておられますが、それでいて、神のうちには、この世の属性、つまり空間とか時間に固有の属性は、なにもありません。これは、目を見ひらいていれば、〈みことば〉の他の箇所からも、いろいろ感じとることができます。エレミヤは、「わたしは近くにいる神であって、遠くの神ではない。・・・人は、ひそかな所に身を隠して、  わたしに見られないようにすることなどできようか。・・・わたしは天と地とに満ちているではないか」(エレミヤ232324)と記しています。

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31[Ⅳ]神の無限は、空間にかんしては無辺 Immensitas であり、時間にかんしては永遠 Aeternitas である。とは言え、神の無辺には空間はなく、神の永遠には、時間はない

 神の無限性は、空間にかんしては「無辺」になりますが、それは、広大無辺というコトバが、厖大なひろがりをもったもの、広漠とした場所について、使われているためです。また、神の無限性は、時間にかんしては「永遠」になりますが、それは、この「永遠に」というコトバが、時間で計られながらも、終わりなく続いていくことに、使われているためです。

 たとえば、地球をそれ自身としてみると、空間のなかにあるものとして考えられ、その回転やら推移の面でみると、時間のうちにあるものとされています。これが時間となり、空間となっていますが、それも、感覚経験からはじまって、反省意識のもとで、感じとられます。

 ところで、神のうちには、空間も時間もないと前述しましたが、時間や空間は、実は神から始まっているのです。だから、空間に関連させて考えると、神の無限は「無辺」となり、時間に関係させて考えると、神の無限は「永遠」になります。

(2) 天界の天使たちは、神の無辺は、〈存在の面から見た神性 Divinitas quoad Esse 〉のこと、神の永遠とは〈実在の面から見た神性 Divinitas quoad Existere 〉のことです。それは同時に、 〈愛の面から見た神性〉が「無辺」で、〈英知の面から見た神性〉が「永遠」ということでもあります。天使たちは、神性から、空間と時間を抽象し、その結果、両概念を得ているのです。

 それにたいし、人間の場合、空間と時間のうちにある事物をとおしてしか、考えることができません。そのため、空間を知るまえに「神の無辺」を感知したり、時間を知るまえに「神の永遠」について、何か感じとったりすることはありません。そんなことをしたら、船が難破して水中に埋没するか、地震で地盤が陥没するように、失神状態におちいります。それでも、悟りに固執すると、気絶したりすることがあるだけでなく、神を否定することにもなりかねません。

(3) わたしもかつて、「永遠のむかしからまします神とは何か」とか、「世界創造のまえに神は何をなさったか」とか、「神は創造について計画をねられただろうか」とか、「創造の手順についてどのように考えられただろうか」とか、「全くの空虚のなかで、そのような熟考がありえただろうか」など、その他つまらないことを、思い巡らしたことがあります。

 しかし、ここで失神してしまわぬよう、わたしは主によって、内奥の天使がいる天界の霊気と光のうちにあげられました。すると、自分が固執していた空間と時間の概念がすぐとり去られ、神の永遠は、時間上の永遠ではないことが分かりました。世界創造以前には時間はなかったわけですから、神についてそのように考えることは、全くムダだということです。

 それに、「永遠のむかしからまします神」といっても、あらゆる時間的なものから抽象されていて、日や、年や、世紀をふくんでいません。むしろ万物は、神のみまえに忽然と生まれたのです。結論として、世界が神によって創造されたのは、時間のなかで起こったことではなく、むしろ時間は、創造と同時に神によって導入されたことが分かります。

(4) ここにひとつのメモをつけ加えておきます。

 霊界の末端に、人間の姿をした怪物の像が二つ見えました。口をあけ、喉をひろげていて、「永遠のむかしからいます神」について、つまらないこと、無意味なことを考えている者を、呑みくだしているように見えます。しかしこれは、世界創造以前の神について、とてつもないことを考えている者が描いているファンタジーなのです。

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32[Ⅴ]理性が照らされれば、この世にある多くのものから、創造主である神の無限を見ることができる

 人間の理性が、神の無限性を見ることができる根拠を、いくつか挙げておきます。

① 被造宇宙のなかには、二つとして同じものがありません。似たものでも同一ではないことは、教養ある人なら理性で、見て確信できます。実体でも物質でも、一つ一つが無限の数にのぼります。地球の回転からしても、この世で継起するものは、二つとして同じ結果をもたらすことがありません。それは、黄道面にたいする地軸の角度が、同一地点への回帰を不可能にしているからです。これはまた、人間の顔についても言えます。全世界で一つの顔が、もう一つの顔と、全く同じであることはないし、これからも永久にないでしょう。このような無限の多様性は、創造主である神の無限性なくしては、ありえないことです。

(2) またある人の気質が、もう一人と同じということもありません。つまり「十人十色 Quot capita tot animi(頭の数だけちがった心)」といっているのです。ある人の心、つまり意志と理性が、別の人のそれと同じではありえないし、ある人の話すコトバが、その音調もその背後にある考えも、他の人と同じであったり、身振りや情愛をふくめたある人の行動が、他の人とぴったり同じであるということもないのです。このような無限の変化から、創造主である神の無限性が、鏡にうつすように見えてきます。

(3) ある種の無辺性や永遠性は、動植物のタネのなかに植えつけられています。無辺性は、タネが無限にまで繁殖していくことから知られますし、また世界創造以来、そのタネが間断なく存続し、永久にまでつづいていくことから、永遠性を感じさせます。

 動物界のなかから、海中の魚類を例にとって考えてみましょう。魚類がその卵の数だけ殖えていったら、二、三十年で大洋がサカナでいっぱいになり、サカナだらけになるばかりか、水があふれて全大陸を水びたしにし、陸地を不毛にしてしまうでしょう。ところがそんなことにならないよう、サカナ同士で食べあっていくように、神は配慮されています。

 植物のタネの場合もおなじです。一粒のタネから毎年出てくるだけの数でふえていけば、二、三十年で地球上だけでなく、多くの他の天体の表面も、おおってしまうことになります。苗を見ても、その一粒のタネが百倍・千倍とふえていきます。その調子で二、三十年したらどうなるか、計算してみれば分かります。以上の例からも、神の無辺と永遠が、だいたいどんなものか分かります。そこには、なにか似た関係があるからです。

(4) 照らされた理性にとっては、神学の各部門と、それにかかわる理知と英知が、無限にふえていくことから、神の無限性を知らされます。人間の知恵は、タネから出てくる樹木、樹木から出てくる森林のように、次から次へとふえていき、とどまるところがありません。人間の記憶はその土壌で、理性がタネです。また意志はそこから生まれる果実です。この理性と意志という二つの能力は、この世の生活の終わりまでだけでなく、永久に、耕され、完成されていきます。

(5) 創造主である神の無限性は、無数にある星からも想像できます。星というと、太陽の数に匹敵し、またその数だけ世界が存在します。天空の星座には、複数の地球があって、人間・動物・鳥類・植物がおり、それについては、目撃したところから記した小著があります。

(6) わたしにとって、天使のいる天界と地獄の様子から、神の無限性が、手にとれるようにはっきりしています。天界も地獄も、あらゆる種類の善と悪への愛にもとづいて、数え切れない社会と集団を形成し、ひとりひとりが自分のもっている愛にしたがって、場所をえているからです。

 そこにいる者は、だれもかれも人類から集まってきた者で、世界の創造以来、これからも永久にふえていきます。各自それぞれの場所と持ち場をもっていながら、全員がそこでつながりをもっていて、天使のいる全天界は、ひとりの神人 unus Divinus Homo をあらわし、全地獄はひとりの奇怪きわまる悪魔をあらわしています。天界と地獄、およびそこで見られる数え切れないほどのフシギから、神の全能にともなう無辺性を、はっきり知ることができます。

(7) 人間が死んだあと、永遠の生命が待ちうけていることは、神が永遠でなくてはありえないことです。すこし推理をはたらかせてみれば、だれでも分かることでしょう。

(8) その他にも、人間のもっている自然の光や霊の光に照らしてみれば、無限に通じることがたくさんあります。自然の光で考えても、幾何学では、無限にむかういろいろな系列があります。無限にむかって進んでいく高さの段階にも三種類あって、自然的段階といわれる第一段階は、霊的段階といわれる第二段階の完全性には到達できないし、この第二段階も天的段階といわれる第三段階の完全性にはいたりません。

 同じように、目的・原因・結果のあいだにもそのような関係があって、結果は原因以上に完全性をもつことがなく、原因はその目的ほど完全性をもつことがありません。

 大気についてもそれが言えます。その三段階は、最も高いところにオーラ、その下にエーテル、その下に空気があります。空気のもつ性格が、エーテルの性格に格あげされることも、エーテルがオーラになることもありません。ただし、そのいずれにも、完全性の高まりがあって、それは無限です。 霊的光についてもそれが言えます。動物がもっている自然的愛は、創造をとおして人間に生来与えられている霊的愛にまで、高められることはありません。これはまた、動物のもっている自然的な理知と、人間がもっている霊的理知の関係についてもいえますが、これについては、未知の分野でもあるので、ほかの箇所で説明させていただきましょう。

 以上のことからはっきりするのは、世界のありとあらゆるものには、創造主である神の無限性をあらわす好例が、かぎりなく存在していることです。個々のものが普遍的なものにあやかり、またどのようにして神の無限性をあらわしているかは、深淵のように奥ふかく、大洋のように広いので、人間の精神はその中にただよう小舟です。自然的人間からわき起こってくる嵐に、気をつけなくてはなりません。その嵐は、自然人が安心して立っている舟尾もろとも、マストや帆のついた舟を、のみこんでしまうことがあるからです。

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33[Ⅵ]被造物はすべて有限である。そして有限なものは器となって、無限な方をうけとめ、人間の場合は、無限な方のイメージをやどしている。

 被造物はすべて有限です。それは、神エホバは、ご自身のまわりをとりまく〈霊界の太陽〉をとおして、万物を造られたからです。その太陽は、〈愛を本質とするご自身〉から出た実体によってできています。その太陽の熱と光によって、全宇宙は造られました。それは、最初のものから最後のものにまでいたっていますが、創造の過程を順序だてて説明することは、ここでは、割愛しておきましょう。大要は、これからあと述べていくつもりです。

 ただここで知っておいていただきたいのは、一は他から形づくられ、その結果段階 gradus ができたこと、霊界には三つの段階があって、自然界にもそれに対応した三つの段階があることです。それはこの地球の組成にあずかっている非活動の物質にもあります。ただし、その段階の由来と性格については、『神の愛と神の英知にかんする天使の英知 Sapientia Angelica de Divino Amore et Divina Sapientia 』(一七六三年、アムステルダム)や、『霊魂と肉体の交流 De Commercio Animae et Corporis』(一七六九年、ロンドン)に、くわしく述べられています。

 この段階があるから、後から生じたものはすべて、前からあるものを受ける器になっています。前からあるものも、それ以前からあるものを受ける器になっていて、ここに、もっとも原初的なものを受ける連綿とした系列があるのです。天使的天界の太陽は、その最初のものから成り立っています。このようにして、無限性を受ける器が、有限なものになっているわけです。

 このことは、万物はどれひとつをとっても、無限に分割されることができるという、古代人の英知とマッチしています。無限は有限をいれることができないから、有限は無限の器にはなれないという通説がありますが、「創造」について述べたわたしの著書のなかで、次のことははっきりしています。 すなわち、神がご自身の無限性を有限なものとなさったのは、ご自身から出た実体によるもので、ここから、霊界の太陽をつくる最初の囲界 Primus ambitus が生じました。それからまた、その太陽をとおして、非活動物質からなる最外部までの、他の囲界を完成なさいました。このようにして、この世界を段階をおって、つぎつぎに限定なさいました。そのようになさったわけは、原因が分からないかぎり、休むことを知らない人間の理性を、満足させるためでした。

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34・ 神の無限性がイメージとして人間のなかにあるということは、〈みことば〉から明らかです。  「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造ろう』と。神は自分  のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造された」(創世1・2627)。

 ここで、人間は神を器に盛った有機体であるとともに、その器なりの有機体であることが分かります。

 人間の精神は、人間存在の根拠・基盤になっており、三つの段階にしたがい、三つの分野にまたがるものです。第一は天的段階で、最高天界の天使たちはそこにいます。第二は霊的段階で、中間天界の天使たちはそこにいます。第三は自然的段階で、最外部天界の天使はそこにいます。

(2) 人間の精神は、以上三つの段階にしたがって、神の流入をうけいれる器としてつくられています。ただし、人間が自分の道を平らにし、その門をあけていく程度以上に、神が流入をくださるということはありません。

 もし人が、最高の天的段階にまでそれを行えば、ほんとうに神の像 imago Dei となり、死後、最高天界の天使になります。もし人が、中間の霊的段階にまでしか、道をととのえ門をあけないなら、たしかに神の像とはなりますが、それほど完成されたものにはなりまん。死んだのちは、中間天界の天使になります。それから人が、最外部の自然的段階にまでしか、道をととのえず、また門をあけなければ、神を認め、信心深く神に仕えても、最外部段階でしか神の像とはならず、死後は、最外部天界の天使になるでしょう。

 そしてさらに、神をみとめ、信心ぶかく神に仕えることをしない場合、神の像であることをやめ、理解と言語の能力以外は、動物に似たものになります。そうなると、最高の天界に相応する自然的最高段階も閉じてしまって、愛にかんしては、地上のケダモノと変わりません。中間の霊的天界に相応する自然的中間段階が閉じてしまうと、愛にかんしてはキツネ、理性の透視力にかんしては、たそがれどきのトリのようです。最外部の自然的段階が霊の面で閉じてしまうと、愛にかんしては野獣、真理を理解する能力では、サカナのようになってしまいます。

(3) 神のいのちは、天使的天界の太陽からくる流入をとおして、人間を活発にしますが、それはこの世の太陽からくる光とか、透明な物体に染みとおる光の流れにたとえられます。

 最高段階でいのちをいただくことは、ダイヤモンドに入る光の流れのようであり、第二段階でいのちをいただくことは、水晶に入る光の流れのようであり、最外部段階でいのちをいただくことは、ガラスとか、透きとおった被膜に入る光の流れのようです。

 この最後の段階が霊の面で閉じてしまうと、つまり神を否定し、サタンに仕えたりすると、神からのいのちをいただいても、それは不透明物質か、腐った木材か、沼地の雑草か、糞土その他に入っていく光の流れで、そうなると人間は霊的な屍です。

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