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真のキリスト教


第四章 聖書・主の<みことば>

236節~281節


6. 〈みことば〉の文字の意味をとおして、主とむすばれ、天使たちの仲間いりをする  236 237 238 239

7. 全天界にわたって〈みことば〉が存在し、天使の英知はそこから生まれる。 240 241 242

8. 教会は〈みことば〉から生まれ、人が〈みことば〉を理解する程度におうじて、そこに教会が成立する。 243 244 245 246  247

9. 〈みことば〉のひとつひとつには、主と教会との結婚、ひいては、善と真理との結婚がある。248 249 250 251 252 253

10. 異端は、〈みことば〉の文字上の意味からでてくる。それで心を固めてしまうと罪になる 254 255 256 257 258 259 260

11. 主はこの世にあって、〈みことば〉のすべてを完成させ、それによって〈みことば〉となられた。つまり究極の最外部にいたるまで、神の真理となられた。261 262 263

12. 現在この世にある〈みことば〉以前にも〈みことば〉があったが、消失してしまった。264 265 266

13. 〈みことば〉によって、教会外の人たちにも光が存在しているが、かれらは〈みことば〉をもっていない。 267 268 269 270  271 272

14. 〈みことば〉がなかったら、だれひとり、神・天界と地獄・死後の生命はおろか、主さえ知ることはない 273 274 275 276

第一のメモ 277   第二のメモ 278   第三のメモ 279   第四のメモ 280   第五のメモ 281


236・ 人が〈みことば〉を読むとき、どんなふうにして、霊的天使たちはそれなりの意味を、天的天使たちはそれなりの意味を感じとるか、例をもってお話しします。十戒にある四つのいましめを例にとってみます。
 第五戒は、「あなたは殺してはならない」です。これは、殺すことだけでなく、憎しみをもつこと、だれかれのかたき討ちをすることも禁じられます。霊的天使にとって、「殺す」とは、悪魔的な行為をすること、人のたましいを殺すことを意味するのにたいし、天的天使にとって、「殺す」とは、主にたいし、つまりは〈みことば〉にたいし、憎しみをもつことを意味します。

(2) 第六戒は、「あなたは姦淫してはならない」です。人は、「姦淫する」とは、売春すること、猥褻なことをすること、みだらな話をすること、不潔な思いにふけることを考えていますが、霊的天使にとって、「姦淫する」とは、〈みことば〉の善をけがし adulterare、〈みことば〉の真理をまげる falsificare ことです。また天的天使にとっては、「姦淫する」とは、主の神性を否定し、〈みことば〉を冒涜することになります。

(3) 第七戒は、「あなたは盗んではならない」です。「盗む」というと、人は、泥棒をするとか、だまし取るとか、あれこれ、なんくせをつけては、隣人の財産をうばうことであると思っていますが、霊的天使にとって「盗む」とは、偽りや悪だくみで、他の者の信仰上の真理や善をはぎとることだと考えます。天的天使にとって「盗む」とは、主のものを、自分から出たものだと思ったり、主の正義と功績を、自分のものにすることです。

(4) 第八戒は、「あなたは偽証してはならない」です。「偽証する」とは、ウソをつくこと、またウソをついて人の評判を落とすことと思われています。霊的天使にとっては「偽証する」とは、本当でないことを本当だといい、悪いことを善いことだと、言ったり、思い込ませたりすることです。天的天使にとって、「偽証する」は、主や〈みことば〉を、口ぎたなくののしることです。

(5) 以上の説明で分かると思いますが、〈みことば〉の霊的意味と天的意味は、自然的意味に内在し、その中から発展的に引っぱり出されるものです。しかもフシギに思えることは、天使たちは、人間がそれで何を考えているかは知らないまま、天使のレベルで考えています。それがまた、天使たちも人間も、目的・原因・結果というような相応関係ではありますが、考えていることが一つになっています。天的天界には、現実に、目的性が存在しています。霊的天界には、原因性が存在しています。そして、自然的天界には、結果性が存在しているのです。このように、〈みことば〉をとおして、人間は天使たちの仲間入り consociatio をしていることになります。

237・ 霊的天使たちは、〈みことば〉の文字上の意味から、霊的なもの spiritualia を引き出し、天的天使は、天的なもの caelestia を引き出す言いましたが、それは、それぞれの天使の性格にあったもので、同質なもの homogenea だからです。このことは、動物界・植物界・鉱物界という自然にある三界に比べてみると、よく分かるでしょう。
 動物界では、食べたものから乳糜ができあがると、血管は、それなりの血液を吸収し、神経繊維はそれなりの液体を吸収摂取し、原繊維質となっている実体は、それなりのエネルギーを吸収します。
 植物界では、樹木は、幹・枝・葉・実をともなって、根のうえにつっ立っています。その根をとおして、幹・枝・葉のために、土壌から、ごく粗雑な液体を摂取吸収します。さらに果実の中にあるタネには、ずっと純化された液をおくっています。
 鉱物界では、地中奥深く、あるところには、金・銀・銅・鉄などが埋蔵されていますが、岩石の気化や流出によって、金も、銀も、銅も、鉄も、それなりの原質を吸収します。そして水溶液になったものが、その原質をはこび回っているのです。

238・ 文字のうえでの〈みことば〉は、宝石・真珠・王冠などが、順序よく並べて入れてある手箱のようなものです。〈みことば〉を神聖なものと信じ、生活に役立たせるために読む人の場合、そのこころの思いは、手箱をもって天界にのぼっていき、その途中で箱をあけ、中にある宝石が天使たちのもとに届けられるような感じです。その宝石を見、手にとって調べる天使たちのよろこびは格別です。
 人間には、そのよろこびが通じてきます。そこで人間は天使たちの仲間入りをし、ピンとくるような交流がおこなわれるのです。天使たちの仲間入りをしたり、また当然主とむすびあわせられる目的で、聖餐式が制定されましたが、天界では、そのパンが〈神の善〉となり、ブドウ酒が、〈神の真理〉となります。そしてその両者とも、主によるものなのです。
 以上のような相応は、創造のはじめから存在しています。ただしこれは、天使たちがいる天界と地上の教会、大ざっぱに言って、霊の世界と自然の世界が、一つになるため、つまりは主が、両方の世界につながりをつけておくためです。

239・ このような天使への仲間入りは、〈みことば〉の文字上の意味、つまり自然的意味に準じて行われます。その理由は、人間ひとりひとりには、創造のとき以来、天的・霊的・自然的の三つの段階的生命があり、その自然の状態つまりこの世にあるあいだ、まじりけのない真理のうちにいる程度におうじて、天使の「霊的状態」にあり、さらに、それにしたがって生活する程度におうじて、天使の「天的状態」にいることになります。
 それにもかかわらず、死んでから、この霊的・天的な状態に入っていかないのは、この二つの状態が、本人のもっている自然的概念の中に埋もれてしまっているためです。死後、自然的なものが失われても、霊的・天的なものは依然同様にとどまり、そこから本人の思考概念が生まれてきます。それで、〈みことば〉のうちにだけ、霊と生命があるといわれた理由が分かります。主は言われます、
  「わたしがあなた方に話すことばは、霊であり、〈いのち〉である」(ヨハネ6・63)。
  「わたしが与える水は泉となり、永遠の〈いのち〉にいたる水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4・14)。
  「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きるものである」(マタイ4・4)
  「永遠の〈いのち〉にいたる食べ物のために働くがよい。これは人の子が、あなた方に与えるものである」(ヨハネ6・27)

七・  全天界にわたって〈みことば〉が存在し、天使の英知はそこから生まれる。

240・ 天界にも〈みことば〉があることについては、今まで知られていなかったし、また知ることが不可能な状態でした。それは、天使も霊も人間であって、われわれの世界の人間と、顔も体つきもそっくりだということ、何事につけても、人間にあるのと、そっくりなものが、かれらにもあることを、教会が知らなかったためです。ただ一つのちがいは、かれらは霊的存在で、かれらのもっているものは、全部霊的な起源から出ているのにたいして、人間は自然的世界のうちにあって、人間に備わっているものは、全部自然的な起源をもっていることです。
 以上が分からないと、〈みことば〉が天界にも存在し、それを天界の天使だけでなく、天界の下層にいる霊たちも、読んでいる事実が、分からないでしょう。その事実がいつまでも隠されていたのでは困るので、わたしには、天使や霊たちの仲間入りをし、かれらとコトバをかわし、かれらにあるものを目撃し、そのあと、見たこと聞いたことの数々を、述べるチャンスが与えられました。それが 『天界と地獄』という著作(一七五八年、ロンドンにて)で実現しました。
 その書物からも、天使や霊が人間であって、この世の人間に備わっているものは、みんなかれらにも、十二分に備わっていることが、分かると思います。天使や霊が人間であるということは、上掲書(73~77節、453~460節)を、この世の人間と同様なものが、かれらにも備わっていることについても、同書(170~190節)を参照してください。なお、かれらには、神への礼拝式も、会堂での説教もありますし(221~227節)、記録や書物(258~264節)、さらに聖書や〈みことば〉の朗読もあります(259節)。

241・ 天界における〈みことば〉について述べてみましょう。〈みことば〉の記述スタイルは、自然世界にあるものとは全然ちがった霊的なもので、この霊的記述法は、まぎれもない文字から成りたっています。その文字の一つ一つには特定の意味があり、その文字の上や間に、線・屈折・点があって、それが文字の中にもあることがあり、意味を強める働きをします。
 霊的王国の天使たちがつかっている文字は、われわれの世界にある印刷文字に似ています。また天的王国の天使たちがつかっている文字は、ある場合はアラブ文字に似ていますが、ある場合は古代ヘブル文字に似ています。ただし上と下に屈折があり、上と間と中にはマークがついています。そのいずれにも、はっきりした意味あいがあります。

(2) かれらには以上のような記録法がありますから、〈みことば〉に出てくる人名や地名は、かれらなりに記され、意味あいをもってきます。どの部分にも、霊的意味と天的意味があって、それが何を意味しているかは、知恵のある者はよく分かっています。「モーセ」は、モーセが記録した神の〈みことば〉のことですが、一般的な意味では、歴史上の〈みことば〉のことです。「エリヤ」は、預言的〈みことば〉のこと、「アブラハム」「イサク」「ヤコブ」は、それぞれ天的神性、霊的神性、自然的神性の面からみた「主」のことです。「アロン」は、主の祭司的性格をあらわし、「ダビデ」は、主の王的性格をあらわします。ヤコブの息子たちの名前やイスラエル十二族は、天界と教会のいろいろな性格をあらわし、主の十二人の弟子の名前もおなじです。
 「シオン」や「エルサレム」は、〈みことば〉をもとにした教義の面からみた教会です。「カナンの地」は、教会そのものです。ヨルダンの両岸にある場所や都市は、教会にあるいろいろな性格と、その教義の性格を示します。数詞についても同じです。天界でつかわれている言葉には、数そのものはありませんが、数に対応する事物を数であらわします。天界における〈みことば〉も、文字上の意味では同じで、われわれの〈みことば〉に相応していること、したがって同一のものであることが、以上ではっきりしたと思います。

(3) フシギといえばフシギですが、以上のような具合に記されている天界の〈みことば〉は、無学単純な人には単純に理解でき、知恵のある者には味わい深く理解できるようになっています。前述したように、文字の上にある数々の屈折やマークは、意味内容を深くします。そして無学単純な者は、それに気づかず知りませんが、知恵のある者は、だれでもその英知に応じて、最高の内容にいたります。
 主によって霊感をうけた天使たちは、〈みことば〉の文字を書き、その範例がそれぞれの大きな社会にあって、その一点一画も変更できないよう、奉納庫におさめられています。わたしたちの世界にある〈みことば〉もまた、天界にある〈みことば〉とおなじように、無学単純な者は、単純に理解できるのにたいし、知恵のある者は、味わい深く理解できるようになっています。とはいっても、それぞれ程度はちがっています。

242・ 天使にとっては、どんな英知も〈みことば〉からきます。かれら自身がこれを断言しています。〈みことば〉が分かってくればくるほど、光の中にいることになります。天界の光とは、神の英知のことで、それはかれらの目のまえを照らす光です。〈みことば〉のコピーが収められている奉納庫には、そのほか天界にあるどんな光も凌駕する、明るい燃えるような光があります。
 天的天使の英知は、霊的天使の英知にまさりますが、それは霊的天使の英知が、人間の英知にまさっているのに、よく似ています。天的天使は、主のみ力によって、〈愛の善〉のうちにいるのにたいし、霊的天使は、主のみ力によって、〈英知の真理〉のうちにいます。そして〈愛の善〉があるところでは、英知も同時にかね備えているのにたいし、真理のあるところでは、愛の善がそなわっている程度にしか、英知からくるものを備えていません。だからこそ、主の天的王国の〈みことば〉は、霊的王国の〈みことば〉とは、ちがったふうに記されているのです。つまり天的王国の〈みことば〉には〈愛の善〉が表わされ、それが〈愛からくる情愛〉のしるしを帯びているのにたいし、霊的王国の〈みことば〉には〈英知の真理〉が表わされ、〈真理からくる内面の感知力〉のしるしを帯びています。
 結論として、この世にある〈みことば〉には、どれほどの英知が秘められているかということが言えます。つまり、口では言い表わすことができない天使の英知が、すべてに隠されています。主のみ力で、〈みことば〉をとおして天使になるはずの人間なら、死んだのち、そんな英知の中に吸収されていきます。

八・  教会は〈みことば〉から生まれ、人が〈みことば〉を理解する程度におうじて、そこに教会が成立する

243・ 教会は〈みことば〉から生まれることは、疑いの余地がありません。なぜなら、〈みことば〉は神の真理であり(189~192節)、〈みことば〉から教会の教義がうまれ(225~233節)、〈みことば〉をとおして、主とむすばれるようになるからです(234~239節)。
 しかし、「〈みことば〉を理解するということ intellectus Verbi」こそ、教会の成立につながると言えば、疑いをさしはさむ人がいるでしょう。なぜなら、〈みことば〉を保持し、それを読み、あるいは説教をとおしてそれを聞き、〈みことば〉の文字上の意味から何かを知って、それだけで教会が成立していると信じる場合が、多いからです。ただし、人は〈みことば〉のこの部分や、あの部分について、どのように解釈するか分かっていませんし、またその重要性さえ感じていません。
 さて、ここで明確にしておきたいのは、〈みことば〉が教会を成立させているのではなく、「〈みことば〉を理解すること」が、教会の成立につながっているということです。教会にいる人にとって、〈みことば〉を理解すればするほど、教会の性格を身に帯びてくることになります。

244・ 教会というものは、〈みことば〉の理解に比例しています。なぜなら、教会は、〈信仰の真理〉と〈仁愛の善〉が規準になっていて、この両方とも普遍的なものです。つまりこの二つは、 〈みことば〉の文字上の意味全体にゆきわたっているだけでなく、宝箱の中の宝石のように、その中に内蔵されているわけです。〈みことば〉の文字上の意味は、人の目のなかに流れてくるわけですから、どんな人にもはっきり見えます。ところが、霊的意味として秘められている部分は、真理のために真理を愛し、善のために善を行う人でないかぎり、はっきり見えません。そのような人の目には、文字上の意味が隠しもっている宝物が、あらわにされます。これが、基本的に教会を形づくっていくのです。

245・ 教会は、その教義が基準になっています。そして教義は〈みことば〉から生まれるものです。それは、周知のことと思います。ただし、教義が教会をつくるのではなく、教義がもっている首尾一貫した純粋さ integritas et puritas、つまりは〈みことば〉の理解こそ、教会をつくるものです。
 しかしながら、ひとりひとりの人間の場合、つまり特殊教会 specialis ecclesia の場合、教義が教会をつくるのではなく、信仰とその教義にしたがった生活が、教会をつくります。同様に、とりわけ個人では、教会を構成・成立させるのは〈みことば〉ではなく、〈真理にもとづいた信仰〉と、 〈その真理を吸収・適用した善〉にもとづく生活なのです。
 〈みことば〉とは、金や銀が、地中深く、多量に埋蔵されている鉱山に似ています。あるいはまた、奥深く掘っていけばいくほど、高価な宝石をとり出せる鉱山にも似ています。この鉱山の開発は、 〈みことば〉の理解をとおして行われます。〈みことば〉の理解がなかったら、その中に、しかもその内奥と奥底に、秘められているものが何であっても、人間のうちに教会を成立させるわけにはいきません。アジアにある鉱山が、ヨーロッパをゆたかにすることはありませんが、その鉱山の所有者とか経営者になれば、ゆたかになるのと似ています。
 〈みことば〉から〈信仰の真理〉と〈生活上の善〉を探究する人は、ペルシャ王や、中国・モンゴルの帝王に仕える宝物担当官に似ています。教会関係者は、その宝物担当主任で、好きなだけ、自分のために利用できる特権が与えられています。ところが、〈みことば〉を手にし、それを読んでも、信仰のための純粋な真理や、生活上の善そのものを、そこから吸収しようとしない人は、宝庫の存在を聞いて、それを知っても、それによって一文の得にもならない人とおなじです。〈みことば〉を手にしながら、純粋な真理への理解力も、純粋な善への意志も、〈みことば〉から汲みとっていこうとしない場合、人から借金して、金持ちになったと思ったり、人の土地・家屋・財産を見て、その所有者になったと錯覚している人に似ています。これが幻覚であることは、だれもが分かります。あるいは、豪華な衣装を着、金ピカの馬車に乗り、前後左右に従者をひきつれて走っても、何ひとつ自分のものになっていない人と同じです。

246・ ユダヤ民族がそうでした。〈みことば〉を手にしていたかれらは、緋色のきぬを身につけ、毎日ぜいたくに暮らしていた金持ちと同じだったことは、主のたとえにもあります。かれらは、〈みことば〉があっても、そこから真理や善を吸収していこうとはしません。それに反し、からだ中、吹出物で覆われ、門の外に横になっていた乞食ラザロが、主の哀れみをうけました。ユダヤ民族は、〈みことば〉から、わずかの真理さえ身につけなかっただけではありません。真理の一片すら、かれらの目につかなくなるまで、偽りだらけにしてしまいました。真理は偽りによって覆われただけでなく、抹消され、放棄されてしまったのです。だからこそ、預言者という預言者が、みんな主の到来を予告していたにもかかわらず、ユダヤ民族はメシアを認めませんでした。

247・ 預言者たちは、イスラエルとユダヤ民族が、〈みことば〉の意味と内意をゆがめてしまった結果、その教会を完全に破壊し、消滅させてしまったと、あちこちで言っています。教会を破滅させるとすれば、それしかありません。〈みことば〉が正しく解釈されるにしても、まちがって解釈されるにしても、「エフライム」というコトバで、預言者たちがそれに言及しています。とくに預言者ホセアの書がそうです。それは、〈みことば〉で「エフライム」とは、教会における〈みことば〉の解釈のことを意味しているからです。〈みことば〉の正しい解釈こそ、教会を作っていくのです。だから「エフライム」の名が出てきました。
  「大切な子、喜びの子である」(エレミヤ31・20)。
  「長子である」(エレミヤ31・9)。
  「エホバのかぶとである」(詩60・7、108・8)。
  「勇士である」(ゼカリヤ10・7)。
  「矢がいっぱいある」(ゼカリヤ9・13)。
 エフライムの子たちとも呼ばれています。
  「武装し、弓をたずさえ」(詩78・9)
 「弓」とは、偽りに対抗して戦う〈みことば〉よりくる教義のことです。だから、また、
  「エフライムは、イスラエルの右側に寄って、祝福をうけた。そして、ルベンに代わって受け入れられた」(創世48・5、11以降)。したがって、
  「エフライムは、その兄弟マナセとともに、すべてに越えて、かれらの父ヨセフの名のもとに、イスラエルの子らの祝福をうけ、モーセによって称賛された」(申命33・(13)~17)。
(2)〈みことば〉にたいする理解がダメになると、教会はどんなになるか、それについて、預言者たちがエフライムをとおして、記しています。とくにホセアがそうです。たとえば、
  「イスラエルとエフライムはともに滅びる。・・・エフライムは孤立し、裁きに押しつぶされ、メタメタになる」(ホセア5・5、9、11~14)。
  「エフライムよ。わたしはあなたに何をしようか。あなたの聖性は、あけぼのの雲のよう、朝露のように消え去る」(ホセア6・4)
  「かれらはエホバの地に住むことはない。エフライムはエジプトに帰り、アッシリヤで汚れたものを食べる」(ホセア9・3)
  「エホバの地」とは教会のことです。「エジプト」とは、自然的人間の科学的知識のこと、「アッシリヤ」は、その知識をもとにした理屈のことで、以上の二つによって、〈みことば〉はその内面的な解釈さえも、ひん曲げられてしまいました。だからこそ、「エフライムはエジプトに帰り、アッシリヤで汚れたものを食べる」とあるのです。

(3)「エフライムは、風を牧し、東風を追う。日ましに偽りと荒廃はまし加わり、アッシリヤと取り引きをし、エジプトには、油を売る」(ホセア12・1)。
 「風を牧す」とか、「東風を追う」とか、「偽りと荒廃はまし加わる」は、真理をひん曲げ、その結果、教会を滅ぼしてしまうことです。また「エフライムの淫行」も、おなじような意味をもっています(「淫行」とは、〈みことば〉の解釈を曲げてしまうこと、つまり純粋な真理の歪曲です)。  「わたしは、エフライムを知っている。淫行をおこない、イスラエルは汚された」(ホセア5・3)
  「わたしは、イスラエルの家に恐ろしいことを見た。エフライムはそこで淫行をし、イスラエルは汚されたのだ」(ホセア6・10)と。
 「イスラエル」とは教会自身で、「エフライム」は〈みことば〉の解釈です。教会は、その解釈をもとにし、それに準じて成立します。だから「エフライムは淫行をし、イスラエルは汚され」ました。

(4)イスラエルとユダヤの民族にある教会は、〈みことば〉をひん曲げたため、完全に滅びてしまいました。それでエフライムについては、こう言われています、
  「エフライムよ、あなたを捨てよう。イスラエルよ。あなたを渡そう。アデマをそうしたように。またセボイムにしたように。あなたを扱うことにする」(ホセア11・8)。
 預言者ホセアにあっては、頭のてっぺんからつまさきまで、〈みことば〉の純粋な解釈がひん曲げられ、それがもとで教会が滅んでしまったこと、「淫行」とは真理の歪曲のことであるということから、その預言者には、今日教会のそのような状態を、表象するよう命じられました。つまり、
  「かれは淫行の妻をうけいれ、その妻から子供たちが生まれた」(ホセア1)。
またかれは、「姦淫をおこなう女を妻にする」(ホセア3)ことになったのです。
 教会は、その中にある〈みことば〉の解釈で成り立っています。〈みことば〉をもとにした純粋な真理が分かってこそ、教会は現存し、値打ちのあるものになりますが、それがひん曲げられると、教会はガタガタになり、かえって汚れたものになってしまいます。それを知り、はっきりさせていただきたいと思い、以上を述べました。

九・  〈みことば〉のひとつひとつには、主と教会との結婚、ひいては、善と真理との結婚がある。

248・ 〈みことば〉の一語一語には、主と教会とのあいだの結婚があり、ひいては善と真理とのあいだの結婚があります。このことは、今まで取り扱っていませんし、取り扱うことができませんでした。それは、〈みことば〉の霊的意味が、まだ明らかにされていませんし、それがはっきりしないうちは、結婚についても、はっきりしないからです。〈みことば〉の意味には二種類あって、その文字上の意味に秘められています。それは、「霊的意味」と「天的意味」と言われている二つです。

 〈みことば〉の霊的意味と言えば、ほとんどが教会にかんすることで、天的意味では、ほとんどが、主にかんすることです。同時に、霊的意味は、神の真理にかんすることで、天的意味は、神の善にかんすることです。したがって、〈みことば〉のうちには、そのような結婚があるわけです。ただしこれも、〈みことば〉の霊的・天的意味をもとにして、単語や名称の意味内容を知らなくては、理解できません。ある単語や名称は、善について述べたもの、あるものは真理について述べたもの、あるものは、その両方の意味を含むものだからです。それが分からなくては、〈みことば〉の一語一語のなかにある結婚が見えてきません。この秘義が今まで明らかにされなかったのは、そのためです。
 〈みことば〉の一語一語にこのような結婚があるからこそ、〈みことば〉の中には、同じものの繰り返しと思われる対句的表現が、何回も出てきます。しかしこれは、繰り返しではなく、一つは善を、一つは真理をあらわしています。そして両者を同時にとらえるとき、ここに結合が生じ、一つのものを表わすことになります。ということから、〈みことば〉には、神よりの神聖な性格が備わっています。なぜなら、神のみわざには、すべて善は真理と結びつき、真理は善と結びつくからです。

249・ 〈みことば〉の一語一語には、主と教会との結婚、ひいては、善と真理とのあいだの結婚があると言いました。つまり主と教会とのあいだの結婚があるところには、善と真理とのあいだの結婚があります。そして後者の結婚は、前者の結婚からきています。それは、教会あるいは教会に属す
る人が真理のうちにあるとき、主はご自分の真理を生かしてくださるからです。また同様に、教会に属する人が真理を理解してくれば、主は人の理性のなかに、仁愛の善をとおして流入を与え、人間に生命を注いでくださいます。
 ひとりひとりの人間には、「理性」と「意志」と呼ばれている二種類の生命機能が働いています。理性は、真理の器、英知の器です。意志は、善の器、仁愛の器です。人が純粋な真理をもとにして、みずからの理性を形成していくとき、しかもそれを外見上、自分の力でやるとき、理性と意志は、一つのものとして働きます。それはまた、人の意志が〈愛の善〉で満たされ、それが主の力でなされるときでもあります。だから、人間には〈真理のいのち〉と〈善のいのち〉があり、〈真理のいのち〉は理性に、〈善のいのち〉は意志にあります。この二つがマッチするとき、もう二つでなく、一つのいのちになります。これが主と教会の結婚であるとともに、人間における善と真理の結婚でもあります。

250・ 〈みことば〉のなかには、同じことの反復と思わせるような、対の語句があることが、気をつけて読んでみると分かります。
 たとえば、〈兄弟 frater と仲間 socius〉、〈貧しいものpauper と乏しい者 egenus〉、〈荒廃 vastatio と孤独 solitudo〉、〈空虚 vacuitas と虚空 inanitas〉、〈敵 hostis とかたき inimicus〉、〈罪 peccatum と悪業 iniquitas〉、〈怒り ira と憤怒 excaudescentia 〉、〈民族 gens と民 populus〉、〈喜び gaudium と歓喜 laetitia〉、〈悲しみ luctus と涙lacrymatio〉〈正義 justitia と公正 judicium〉などです。
 以上は同義語のようですが、実際はそうではありません。それは、兄弟、貧しい者、荒廃、空虚、敵、罪、怒り、民族、喜び、悲しみ、正義などは、善について述べられ、その反対の意味では、悪について述べられているのにたいし、仲間、乏しい者、孤独、虚空、かたき、悪業、憤怒、民、歓喜、涙、公正などは、真理について述べられ、その反対の意味では、偽りについて述べられているからです。
 ただし、このような秘義が分からないまま読んでいると、貧しい者と乏しい者、荒廃と孤独、空虚と虚空その他は、同じことのように思われます。ところが、別物なのです。ただ結びあわされるとき、一つのものになります。
 〈みことば〉のなかには、火とほのお、金と銀、青銅と鉄、木と石、パンと水、パンとブドウ酒、緋の衣と細布など、多くのものが結びあわされて出てきます。ところで、火・金・青銅・木・パン・緋の衣は、善にかんして言われているのにたいし、ほのお・銀・鉄石・水・ブドウ酒・細布は、真理にかんして言われています。
 おなじように、「心を尽くし、精神を尽くして」神を愛するように言われている反面、神は人間のうちに、「新しい心と新しい霊」をお送りくださるとも言われています。それは「心」が〈愛の善〉について言われているのにたいし、「精神」とか「霊」は、〈信仰の真理〉について言われているからです。それと同時に、善と真理の両方をかねているため、対にならないで、単独で出てくる語もあります。いずれにせよ、以上のことやその他多くのことは、天使たちを除いて、また自然的意味だけでなく霊的意味に理解している人たちを除いては、不明確です。

251・ 同じことの繰り返しと見える対句が、〈みことば〉に種々ありますが、〈みことば〉の中から、一々それを示していくことは、紙面の関係上たいへん面倒です。しかし、わたしは疑いをもっていただきたくないので、「民族と民」および「喜びと歓喜」の対が出てくるところを引用してみます。「民族と民」が出てくるところは、次のとおりです。
  「罪ぶかい民族と、重い悪業をする民は、わざわいである」(イザヤ1・4)。
  「暗やみに歩く民は、大きな光を見た。・・あなたは民族をふやされた」(イザヤ9・2、3)。「アッシリヤは、わたしの怒りのつえである・・・わたしは偽善的な民族にたいしてかれを遣わし、わたしの憤りの民にたいして、かれに命じる」(イザヤ10・5、6)。
  「その日には、民らのしるしとして立つエッサイの根が生じる。・・・かれらは民族をさがし求める」(イザヤ11・10)。
  「エホバは民らを打つ。・・・そこにいやしがたい苦難がある。その苦難は、民族らへの怒りをもって支配する」(イザヤ14・6)。
  「その日には、万軍のエホバに贈り物がとどけられる。そこには離ればなれになって、はだかにされた民がいる。・・・囲まれ、踏みにじられた民族がいる」(イザヤ18・7)。
  「力強い民はあなたを褒め、強力な民族はあなたを恐れるであろう」(イザヤ25・3)。
  「エホバは、すべての民を包むもの、すべての民族をおおうものを取り除かれる」(イザヤ25・7)。
  「民族よ、近づけ。民らよ、口づけせよ」(イザヤ34・1)。
  「民との契約のうち、諸民族の光のうちに、わたしはあなたを招いた」(イザヤ42・6)。
  「すべての民族は一つに集まり、民らはつどうように」(イザヤ43・9)。
  「見よ、諸民族にむかうわたしの手、民らに向かうわたしの手、・・・わたしの印をとり除こう」(イザヤ49・22)。
  「わたしは、民らの証人としてかれを立て、諸民族にたいする君公、立法者とした」(イザヤ55・4、5)。
  「見よ。北の国から民がやってくるが、それは偉大な民族で、地の果てからやってくる」(エレミヤ6・22、23)。
  「わたしは、あなたが諸民族からの恥ずかしめを、これ以上耳にすることがないようにしよう。あなたは、民らの責めを負うことはない」(エゼキエル36・15)。
  「すべての民と民族は、かれをあがめる」(ダニエル7・14)。
  「諸民族にたいし、また民らの中で、『あなたの神はどこにいるのか』など、ひとことも言わせないでください」(ヨエル2・17)。
  「わたしの民の残った者たちは、かれらを掠奪し、わたしの民族の残った者たちは、かれらのものを相続するようになる」(ゼパニヤ2・9)。
  「数多くの民らと無数の民族が、エホバを求めて、エルサレムに来るようになる」(ゼカリヤ8・22)。
  「わたしの目は、主の救いを見た。それは、あなたがすべての民のまえに準備されたもの、諸民  族にたいする啓示の光である」(ルカ2・30~32)。
  「あなたは、すべての民と民族のなかから、あなたの血によって、わたしたちをあがなわれた」(黙示5・9)。
  「あなたはふたたび、民らと諸民族について預言せねばならない」(黙示10・11)。
  「わたしを、諸民族のかしらにしてください。わたしが知らない民が、わたしに仕えるように」(詩18・43)。
  「エホバは、諸民族のはかりごとをむなしくし、民らのくわだてをくじかれる」(詩33・10)。「あなたは、諸民族のあいだで、わたしを笑い草にし、民らのあいだでは笑い者にされた」(詩44・14)。
  「エホバは、民らをわれわれの下に服させ、諸民族をわれわれの脚下におかれました。・・・神は諸民族を治められる。・・・民らは、いさんで集まりくる」(詩47・3、8、9)。
  「民らはあなたをほめたたえ、諸民族はあなたをあがめますように。あなたは、民らを公平にさばき、地の諸民族をおみちびきになります」(詩67・2~4)。
  「エホバよ、あなたの民を恵むことを覚えていてください。・・・あなたの諸民族のよろこびをよろこびとしてください」(詩106・4、5)。
 諸民族 gentes と民ら populi をならべているわけは、「諸民族」とは、善のうちにある者のこと、逆の意味で、悪のうちにある者のことを言い、「民ら」とは、真理のうちにある者のこと、逆の意味で、偽りのうちにある者のことを言います。したがって、主の霊的王国出身者は、「民ら」と呼ばれ、主の天的王国出身者は、「諸民族」と呼ばれています。それは、霊的王国のうちにいる者は、みんな真理のうちに、つまり理知のうちにいるのにたいし、天的王国のうちにいる者は、みんな善のうち、つまりは英知のうちにいるからです。

252・ 他にも同じような例がたくさんありますが、「よろこび gaudium」と「歓喜 laetitia 」を例にとります。
  「見よ、喜びと歓喜は、雄牛をほふる」(イザヤ22・13)。
  「喜びと歓喜は追いかけ、悲しみと嘆きは逃げていく」(イザヤ35・10、51・11)。
  「われらの神の家から、喜びと歓喜が絶えてしまった」(ヨエル1・16)。
  「喜びの声と歓喜の声は・・・絶えてしまった」(エレミヤ7・34、25・10)。
  「十月の断食は、ユダの家にとって、喜びと歓喜になるであろう」(ゼカリヤ8・19)。
  「エルサレムにあって歓喜し、よろこべ」(イザヤ66・10)。
  「エドムの娘たちよ、よろこびと歓喜をあじわえ」(哀4・21)。
  「天は歓喜し、地はよろこぶ」(詩96・2)。
  「わたしに、よろこびと歓喜を聞かせてください」(詩篇51・8)。
  「シオンにあっては、よろこびと歓喜がみいだされる。感謝と歌声がある」(イザヤ51・3)。「そこには歓喜があり、かれの誕生をよろこぶ多くの人がいる」(ルカ1・14)。
  「わたしは、よろこびの声、歓喜の声、花むこの声、花よめの声を絶やそう」(エレミヤ7・34、16・9、25・10)。
  「その場所にはまだ、よろこびの声、歓喜の声、花むこの声、花よめの声が聞こえてくる」(エレミヤ33・10・11)。(その他の箇所)。
 喜びと歓喜の両方が出てくるわけですが、それは、喜びが善について言われているのにたいし、歓喜は真理について言われているからです。あるいは、喜びは愛について、歓喜は英知について、言われています。喜びは〈心のよろこび〉、歓喜は〈霊の歓喜〉です。つまり喜びは意志からでているのにたいし、歓喜は理性のはたらきです。主と教会との結婚が、この両者のうちにあることは、前述したとおりです。
  「よろこびの声、歓喜の声、花むこの声、花よめの声」(エレミヤ7・34、6・19、25・10、33・10、11)。主は花むこ、教会は花よめです。
  「主は花むこである」(マタイ9・15、マルコ2・19、20、ルカ5・34、35参照)。
  「教会は花よめである」(黙示21・2、9、22・17)。だから洗礼者ヨハネは、イエスについて「花よめをもつ者が、花むこである」(ヨハネ3・29)と言いました。

253・ 〈みことば〉の一語一語に、神の善と神の真理の結婚があって、そのため多くの箇所で、「エホバ」と「神」、「エホバ」と「イスラエルの聖者」のように、実際はひとつでも、二つに表現されています。「エホバ」とは、〈神の愛〉による〈神の善〉からみた主のことですが、「神」とか「イスラエルの聖者」とは、〈神の英知〉による〈神の真理〉からみた主のことです。エホバと神、エホバとイスラエルの聖者など、〈みことば〉のなかの多くの箇所で言及されていますが、それが一つのものであることについては、救い主である主についての教義で述べていくつもりです。

十・  異端は、〈みことば〉の文字上の意味からでてくる。それで心を固めてしまうと罪になる。

254・ 〈みことば〉は教義がなかったら理解できないこと、そしてその教義は、純粋の真理が見えてくるための〈ともしび〉であることについては、前述したとおりです。理由は、〈みことば〉がまぎれもない相応 correspondentiae によって書かれているからです。したがって、多くは真理の外観をともなってはいますが、はだかのままの真理 nuda vera ではありません。たんに自然的人間が分かるように記されているところがたくさんありますが、それは、無学単純な人には、無学単純な人なりに分かり、理知的な人には、理知的に分かり、英知のある人には、英知で味わいながら分かっていくように記されているからです。
 〈みことば〉とはどんなものか、いまお分かりでしょう。真理の装いでもある外観は、〈はだかのままの真理〉として受けとられることもありえますが、そうだと断定してしまうと偽りです。つまり、それ自身として、間違って受けとっていることになります。真理の外観を、純粋な真理として受けとり、断定してしまうところから、キリスト教の世界に、かつて存在し現在でも存在する、あらゆる種類の異端が生まれました。
 異端それ自身が人を罪に定めることはありませんが、異端の中にあって、それを断言すること、しかも〈みことば〉を引用し、自然の人間の理屈をこね、悪い生活をすることこそ、人を罪に定めることになります。
 人はみんな、自分の国や両親の宗教をもって生まれ、幼児のときからその中で育てられ、そのあとその宗教を維持存続させていきます。それで、この世での職業上の関係から、また真理探究上での理性的ひよわさもあって、偽りから足を洗うことは、できないことです。ただし、悪い生活をしたり、純粋の真理を根だやしにしてしまうほど、偽りに心を固めてしまえば、それが人を罪に定めます。 自分の宗教にとどまり、神を信じ、キリスト教徒として主を信じ、聖なる〈みことば〉をもち、宗教が教える十戒のいましめにしたがって生活する場合、偽りにおちいるとは言えません。真理を耳にして、自分なりにそれを感じとり、それを心からいただいて、偽りから抜け出ることもできます。ところが、自分の宗教にあるデタラメの部分で、心を固めた場合はちがいます。それは偽りの中に強いてとどまり、それから抜けでられなくなるのです。人がその偽りに誓いを立てたような場合、その偽りは固まってしまいます。自己愛でそれに固執したり、自分なりの理性にうぬぼれたりすると、とくにそうなります。

255・ わたしは霊界で、何千年も前に、この世で生活し、自分の宗教の偽りに心を固めてしまった人と話したことがあります。かれらは、依然として同じ考えのなかに、とどまっていました。また同じ宗教の中で、みんなと同じように考えてはいても、自分の中にある偽りで心を固めていない人たちとも、話しました。それで後者は、天使たちに教わって偽りを捨て、真理をうけいれ、救われましたが、前者は救われないと分かりました。
 人間はだれでも、死んだのち天使の教えをうけ、真理のことが分かります。そして、真理をもとにして、偽りのことが分かった人は、受けいれられます。ただしこれも、偽りでまだ心がまだ固まっておらず、真理を見ている人に限られています。ところが、心が固まってしまっている場合、真理を見たいとも思いません。真理を見たあと、身を後ろにひき、それをあざけるか、ひん曲げるかします。 その理由を、はっきり言ってしまえば、心を固めると、人の意志に入り、人の意志は、人そのもので、それが理性を好きなようにあやつるからです。それにたいし、考えただけの場合、理性に入ってきはしても、意志を使うところまできていませんから、人のうちには入りません。玄関か、門前に座ってはいても、家の中には入りこんでいないもののようです。

256・ 以上を例をあげて説明してみましょう。〈みことば〉では多くの箇所で、神が怒り、いきどおり、責任を問い、罰をあて、地獄に投げいれ、こころみ、その他これに類することをなさっているように、記しています。これを単純に、しかも幼児のように信じ、そのため神を恐れ、神に反する罪をおかさないよう注意する人は、その単純な信仰のゆえに、罪に定められることはありません。しかしながら、怒りや、いきどおりや、責任追及や、そのほか悪になるようなことが、神の側に存在すると信じ、しかも神は、その怒り、いきどおり、復讐心から、人を罰するものと信じるほど、心を固くしてしまった場合、人は罪に定められます。
 それは、神は愛そのもの、慈悲そのもの、善そのものであるという純粋な真理をぶちこわしてしまうからです。神は怒ったり、いきどおったり、復讐したりする方ではないはずです。〈みことば〉のなかで、神がそのようになさる方だと記してあれば、それは見かけ上のことです。つまりこれは真理の外観 apparentiae veri に過ぎません。

257・ 〈みことば〉の文字上の意味では、純粋な真理を秘める外観上の真理がたくさんありますが、この外観にもとづいて、すなおに考えたり、話したりすることは、悪いことではありません。ただ、それで心を固めてしまえば、罪になります。すなわち、内にひそむ神の真理を、そのかたくなな心で、ぶちこわしてしまうからです。これを、自然の中にある例で説明してみましょう。説明したり教えたりする点では、霊的なものより、自然のものの方が分りやすいでしょう。
 太陽が地球のまわりを回り、しかも毎年同じことをしているように、肉眼にはうつっています。だから、太陽がのぼったり沈んだりします。朝・昼・夕・夜がうまれ、春・夏・秋・冬と、日と年がきざまれていきます。ところが太陽は、じっとしている火の海で、地球こそ毎年一回回転し、毎年一回大きく公転しています。
 単純さと無知がもとで、太陽がまわっていると考えたとしても、地球が地軸のもとで自転し、黄道に沿って公転しているという自然の道理を、ぶちこわすことにはなりません。ところが、自然的な人間の理屈から、回っているのは太陽だと断言し、しかも〈みことば〉にも、太陽がのぼったり沈んだりしていると書いてあると言って、心を頑固にした場合、真理を弱め、それをぶちこわしてしまうのです。そのあと、全宇宙の星座が、日毎、年毎に、まわっているように外見では見えても、一つの星でさえ、自分の存在している所定の位置から、他の星の力で動かされていくことはないという事実を眼前に示されても、この真理を信じることはできないわけです。
 太陽が動いているということは、外見上の真理ですが、それが動いているのではないことは、純粋な真理です。それでも人は、外見上の真理にしたがって、太陽がのぼったり沈んだりしていると言いますが、それはそれで許されています。それ以外に言いようがないからです。しかし、心の中で固く信じてそう考えれば、理性の力をマヒさせ、くもらせることになります。

258・ 〈みことば〉にある真理のもつ外観を、心で固く信じることは、罪あることです。それは、その確信によって偽りが入りこみ、その結果、うちに秘められている神の真理がムダになってしまうからです。そのわけは、〈みことば〉の文字上の意味のひとつひとつには、みんな天界との交流があります。そして前述したように、文字上の意味の一語一語には、ぜんぶ霊的意味があって、人間から離れて天界に向かうに応じて、開かれます。しかも霊的意味は、どれもこれも、純粋の真理ですが、人が偽りのうちにあって、文字上の意味をその偽りに応用するとき、そこに偽りが定着します。偽りが入ってくれば、真理は人間から離れて、天界に向かう途中で、分解してしまうわけです。
 それはちょうど胆汁のつまった白びかりのする皮袋を、人にむかって投げつけ、それが相手にとどかないうちに、空中で破れ、その中にあった胆汁がまき散らされるようなものです。人はその胆汁で染まった空気を吸って、背を向けるなり、口をつぐむなりして、舌に触れないようにします。
 あるいは、スギ枠にはいった皮袋があって、その中の液が酸化し、ウジがわいたとします。運搬の途中、皮袋が破れて、その悪臭をかいだ人が吐き気をもよおし、臭気をさけて鼻の中に入らないよう、扇でもって吹きはらいます。あるいはまた、アーモンドの殻のなかに、アーモンドのかわりに、生まれたばかりのヤマカガシがいて、殻がやぶれ、ヤマカガシの子が風にのって、人の目にふれたらどうでしょう。それに触れないよう身をかわすことは当然です。
 偽りの中にいる人が〈みことば〉を読むときも、おなじです。〈みことば〉の中のある文字上の意味を、自分のあやまった考えにあてはめようとしますが、その種の考えは、流入として、天使たちの方にしのびよることがないよう、天界にいく途中で排除されます。偽りが真理に触れるのは、針の先端が神経繊維や眼球に触れるようなものです。神経繊維だと、刺激によって螺旋状のうずを巻いて、ひっこんでいくことは知られています。眼球にしても、ちょっとでも触れようものなら、目蓋をとじてしまいます。そのように、ひん曲げられた真理は、天界との交流をたやし、天界を閉じてしまうことは明らかです。だから異端となる誤謬をもって心を固めるのは、罪になるわけです。

259・ 〈みことば〉は、ありとあらゆる美味しさと楽しさがある「天界のパラダイス」だと思ってみてください。おいしい果物と美しい花々にあふれ、その中央に〈いのちの木〉があり、そのわきに〈いのちの水の泉〉があり、庭園のまわりは森林になっています。
 教義にもとづいて神の真理の中にある人は、〈いのちの木〉のある中央にあって、よろこびと楽しみがいっぱいに味わえます。神の真理のうちにあっても、教義にもとづいていない場合、人は、その文字上の意味にたよっているわけで、その周囲にいて、森林を眺めているだけです。あやまった宗教の教義を信じ、その間違いに心を固くした人の場合、森のなかはおろか、その外側の荒地にいて、そこには草木さえ生えていません。かれらが死んだのち、こんな状態になることについては、『天界と地獄』のなかに示されています。

260・ それに加えて、文字上の意味というものは、内に秘められている純粋な真理が傷つかないよう、守りの役を果していることを知る必要があります。文字上の意味は、あれやこれやと自分なりの判断で解釈されても、その内部にあるものには傷がつかないし、汚されもしません。文字上の意味が、人によってちがったふうに解釈されたとしても、それ自身が傷つくことはありません。ただ神の真理に反する偽りを心に宿すとき、心のほうが傷つくのです。これは、誤りに心を固くした人だけができることです。そこに、〈みことば〉にたいする暴行があります。
 このようなことが起こらないよう、文字上の意味による守りがあるわけです。ある宗教によって誤った考えをもちながらも、その誤りを確信し切っていない人たちのための守りです。〈みことば〉のなかで、「ケルブの天使」とあるのは、その〈みことば〉の文字上の意味を守る役の天使のことで、〈みことば〉では、ケルブをその意味で使っています。アダムがその妻とともにエデンの園を追放されたあと、その入口に置かれた守り役が、ケルブの天使たちでした。それについては、次のように記してあります、
  「そこで主なる神は、人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、まわる剣の炎とを置いて、〈いのちの木〉の道を守らせた」(創世3・23、24)。

(2) 以上がどんな意味をもっているかは、「ケルブ(訳注・「ケルビム」は「ケルブ」の複数)」とか、「エデンの園」とか、「いのちの木」が何のことか分からないと、だれにも理解できないでしょう。しかも「まわるつるぎの炎」は何でしょう。以上のひとつひとつについては、ロンドンで出版した『天界の秘義』の該当する章に説明してあります。つまり、「ケルブ」とは守りのこと、「いのちの木への道」とは、〈みことば〉の霊的意味の真理をとおして人間に示される〈主への入口〉のことです。「まわる剣の炎」とは、最外部にある神の真理を意味します。〈みことば〉はその文字上の意味では、意味をまわして読みかえることができるからです。次のことも、同じことを言っています。
  「金でできたケルビムを、贖罪所の両端に置くこと。それは天幕のなかの箱の上にある」(出エジプト25・18~21)。
 「箱」とは〈みことば〉のことです。その箱の中には十戒が入っていましたが、それは〈みことば〉の原型 primitivum でもあります。そこにある「ケルビム」は、守りのことです。だからこそ、主はケルブの守る間で、モーセと語りあわれました(出エジプト25・22、37・9、民数7・89)。主はここで、自然的意味でお語りになりました。それも、人とお語りになるさいは、〈みことば〉の満ちみちたやり方でなさいます。文字の意味にあっては、神の真理が、それなりの充満 plenum を示しているのです(214~224節参照)。
 「幕屋の天蓋とたれ幕のうえにケルビムを織る」(出エジプト26・1、31)とは、それです。つまり、幕屋の天蓋とか、たれ幕は、天界と教会の末端部 ultima のことです。だから〈みことば〉には、次のような箇所があります(220節参照)。「エルサレムの神殿の壁および外宛には、ケルビムがあった」(列王6・29、32、35)。また(前221節を参照のこと)。同じように、「新しい神殿にはケルビムがあった」(エゼキエル41・18~20)と。

(3)〈みことば〉のうちにまします主や、天界や神の真理には、あからさまに近づくのではなく、最外の末端部をとおして、間接的に近づくようにするための守り役が、ケルビムです。だからこそ、ツロの王については、次のようにあります、
  「あなたは、英知に満ち、美しさのきわみで、はかり知れない印である。あなたはエデンの園にあって、もろもろの宝石があなたをおおい・・・あなたは、守りの羽根をひろげたケルブ・・・守りのケルブよ、わたしは火の石のまん中であなたを滅ぼした」(エゼキエル28・12~14、16)。
 「ツロ」は、〈真理と善の認識〉という面からみた教会のこと、「ツロの王」とは、そのような認識がもとになっている〈みことば〉のことです。ここでの〈みことば〉は、その末端部での〈みことば〉のこと、「ケルブ」は守り役のことであることは、明らかです。それは、「あなたは、はかりしれない印である。・・・もろもろの宝石があなたをおおい・・・あなたは守りの羽根をひろげたケルブ・・・」、また「守りのケルブよ」とあるからです。ここで言われている「もろもろの宝石」とは、文字上の意味からくるもののことです。前述したこと(217、218節)を参照してください。
  「ケルビム」が末端部にある〈みことば〉のこと、守りのことであるからこそ、ダビデも言っています、
  「エホバは天界から頭をひくくして下られ、・・・ケルブに乗って走られた」(詩18・9、10)。
  「イスラエルの牧者よ、・・ケルビムの上に座られる者よ、光を放ってください」(詩80・1)。
  「エホバはケルビムの上に座せられる」(詩99・1)。
  「ケルブに乗って走る」とか、「ケルビムの上に座る」「ケルビムの上に座す」とは、〈みことば〉の末端部の意味の上にあることを示します。〈みことば〉にある神の真理とその性格については、四頭の動物によって描写されておりますが、この四頭の動物はまた「ケルビム」とも呼ばれています (エゼキエル1、9、10章)。それはまた、み座の中央と傍にいる四頭の動物のことでもあります(黙示4・6以降)。(アムステルダムで出版した小著『啓示による黙示録解説』239、275、314節参照)。

十一・  主はこの世にあって、〈みことば〉のすべてを完成させ、それによって〈みことば〉となられた。つまり究極の最外部にいたるまで、神の真理となられた。

261・ 主がこの世で〈みことば〉をことごとく全うされ、それによって神の真理つまり〈みことば〉になられたということは、ヨハネによっても分かります。
  「みことばは肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみと真理に満ちていた」(ヨハネ1・14)。
 「肉体となる」とは、究極の最外部における〈みことば〉 Verbum in ultimis になることです。主がどのようにして、究極の末端 ultima にまで〈みことば〉になられたかは、ご変容にあたって、弟子たちに示されたことです(マタイ17・2以降、マルコ9・2以降、ルカ9・28以降)。
 そこで、モーセとエリヤが栄光のうちに現れたとありますが、モーセとは、かれの筆になる〈みことば〉、つまり一般的にいって、〈歴史的みことば〉のことです。エリヤとは、〈預言的みことば〉のことです。
 究極最外部の〈みことば〉として、主はまたヨハネの眼前に、黙示録(1・13~16)にあるように、表わされました。そこで、主について記してあることは、ぜんぶ〈神の真理〉つまり〈みことば〉の最外・究極部を意味しているのです。主は、あらかじめ〈みことば〉であったし、〈神の真理〉でした。それは初めから in primis そうでした。すなわち、
  「初めに〈みことば〉があった。〈みことば〉は神のもとにあった。そして神は〈みことば〉であった」(ヨハネ1・1、2)とあります。
 ところが、〈みことば〉が肉体となられたことによって、主は、末端・最外部にまで〈みことば〉になられました。それについては、「最初 primus であり、最後 ultimus の方である」とあるとおりです(黙示1・8、11、17、2・8、21・6、22・12、13、イザヤ44・6)。

262・ 主が〈みことば〉をことごとく全うされたということは、ご自分によって、律法と聖書の記録が、成就したと言っておられる箇所から明白です。つまりすべては成ったのです。イエスは次のように言っておられます。
  「わたしが律法と預言者を廃するために来たと思ってはいけない。廃するためでなく、全うするために来たのである」(マタイ5・17、18)。
  「イエスは会堂に入り、朗読のために立ちあがられた。そのとき、イザヤ預言者の書がわたされたが、それを開かれると、次のように書かれた箇所が見つかった。『エホバの霊はわたしのうえにある。そのためわたしに油が注がれたが、それはわたしをつかわして、貧しい人たちに福音をのべつたえ、心のくだけた者をいやし、とらわれている者には解放を告げ、目の見えない者には見える力をあたえ、主のめぐみの年を知らせるためである』と。それから、書物を巻いて・・・言われた、『きょうこの記録は、あなた方の耳にしたこの日に、成就した』と」(ルカ4・16~21)。
  「聖書が成就されるためにこそ、わたしとともにパンを食べた者が、わたしの上にかかとをあげたのだ」(ヨハネ13・18)。
  「滅びの子をのぞいては、かれらの中だれも滅びることはないということは、聖書が成就するためである」(ヨハネ17・12)。
  「イエスはペテロに、『剣をさやにおさめなさい。・・・成就されなくてはならない聖書のみことばがあるではないか。・・・これが起こったのも、聖書の記録が全うされるためである』と」(マタイ26・52、54、56)。
  「聖書が成就されるため、人の子について書いてあるように、人の子は去っていく」(マルコ14・21、49)。
  「かれは罪人の中に加えられたとある聖書の記録は、このようにして成就した」(マルコ15・28、ルカ22・37)。
  「聖書が成就するため、かれらは自分らのために、わたしの衣服を分配し、わたしの上衣はクジ引きにした」(ヨハネ19・24)。
  「そののちイエスは、すべてが聖書の成就するように、完結していったことを知られた」(ヨハネ19・28)。
  「イエスは酢を口にされ、『成った』、つまり『全うされた』と言われた」(ヨハネ19・30)。
  「このようなことが起こったのは、その骨はくだかれないという聖書のことばが、成就するためである。また聖書のほかの箇所に、『かれらは、自分らが刺し通した方を見あげる』とある」(ヨハネ19・36、37)。
 主は世を去るまえ、〈みことば〉はすべて、ご自分について記されていること、またそれを成就するためご自分は世に来られたことを、弟子たちにむかって教えられました。次の〈みことば〉がそうです。
  「『預言者が語ったすべてのことがらを信じるのに、愚かでにぶい人たちよ』と、かれらに言われた。『キリストは苦しみを受けて栄光に入るはずではなかったのか』と。それからモーセから始まってすべての預言者にわたり、ご自分について記されている聖書の記録のすみずみまで、かれらに解きあかされた」(ルカ24・25~27)。なおイエスが言われたことは、
  「モーセの律法と預言書と詩篇には、わたしについて記されてあることは、全部成就されなくてはならない」(ルカ24・44、45)とあります。
 主はこの世にあって、〈みことば〉のすべてを、その子細な部分にいたるまで、成就されたということは、次のようなご自分の言葉からも明らかです。
  「わたしは、はっきりあなた方に言うが、天地は過ぎ去っても、律法の一点一画が過ぎ去ることはなく、すべては成就する」(マタイ5・18)と。
 以上、主が律法の全部を成就されたということは、十戒の全部の意味ではなく、〈みことば〉の全部を成就されたということが、今理解できます。律法とは〈みことば〉全体のことです。次の箇所からも明らかです。
  「イエスは、『あなたがたの律法には、[わたしは、あなた方が神々であると言った]と書いてあるではないか』と言われた」(ヨハネ10・34)。
 以上は詩篇82・6に記されています。また、
  「群衆はこたえて言った、『われわれは、キリストは永遠に生きるということを、律法から聞き知っている』と」(ヨハネ12・34)。これは、詩篇89・30、(37)、詩篇110・4、ダニエル7・14にあります。
  「かれらの律法に記されている〈みことば〉が成就するために、かれらは理由なくわたしを憎んだ」(ヨハネ15・25)。これは、詩篇35・19にあります。また、
  「律法の一つが欠けるより、天地が滅びるほうが簡単である」(ルカ16・17)。
 他の箇所にも、ところどころ出てきますが、ここで「律法」とは、聖書全体のことです。

263・ 主が〈みことば〉であるとは、どういうことなのか、知っている人は、ごくわずかです。主が〈みことば〉をとおして、人びとを照らしたり教えたりなさるとは思っていますが、主が〈みことば〉であるとは思えません。でも、人それぞれに、自分なりの意志と、自分なりの理性があり、その結果、ひとりが他のひとりとちがうことは、分かります。意志は、愛の器であるとともに、愛からくるあらゆる善の器です。また理性は、英知の器であるとともに、英知からくるあらゆる真理の器です。だからこそ、人間ひとりひとりは、自分なりの愛、自分なりの英知です。同じことですが、自分なりの善、自分なりの真理です。人間が人間であるのはそのためで、人間に人間らしさがあるのも、そのためです。
 主にかんして言うと、主は愛そのもの・英知そのもの、つまりは善そのもの・真理そのものです。それは〈みことば〉にある〈善という善・真理という真理〉を満たされたからこそ、そうなのです。つまり、考えることも語ることも、真理以外の何ものでもない人がいたら、その人自身が真理です。欲することも行うことも、善以外の何ものでもない人がいたら、その人自身が善です。主は、〈みことば〉のなかにある〈神の真理と神の善〉をすべて満たされました。それは〈みことば〉の自然的な意味においてだけでなく、〈みことば〉の霊的な意味においてもそうでした。そして、善そのもの、真理そのものとなられました。つまり〈みことば〉になられました。

十二・  現在この世にある〈みことば〉以前にも〈みことば〉があったが、消失してしまった。

264・ モーセや預言者をとおして、イスラエルの民に〈みことば〉が与えられましたが、それ以前にも、犠牲祭があったし、エホバの口ずから ex ore Jehovae 預言者たちが預言したということが、モーセの書にも記されています。犠牲祭があったことは、次の箇所からわかります。
  「イスラエルの子らに命じられたことは、異邦人たちの祭壇をたおし、かれらの像をくだき、かれらの社をなくすることであった」(出エジプト34・13、申命7・5、12・3)。
  「イスラエルは、シッテムでモアブの娘らとみだらなことをした。かの女らは、民が神々に犠牲をささげるよう、また供え物を食べるよう、勧めたのであった」(民数25・1~3)。
  「シリヤからきたバラムは、祭壇をたてさせ、雄牛と羊をいけにえとしてささげた」(民数22・40、23・1、2、14、29、30)。
  「かれらはヤコブから星がうまれ、イスラエルから王笏が起こると言って、主についても預言した」(民数24・17)
  「かれらはまた、エホバの口ずから預言した」(民数22・13、18、23・3、5、8、16、26、24・1、13)。
 ここで分かることは、モーセによってイスラエル民族のため定められた儀式によく似た神聖な儀式が、異邦人にもあったことです。これがまた、アブラハムの時代以前にもあったことは、モーセの記した言葉からも知らされます(申命32・7、8)。それがとくに明白なのは、サレムの王メルキセデクの場合です。
  「かれは、パンとブドウ酒をとり出し、アブラムのため祝福し、アブラムはかれに、全部の十分の一を与えた」(創世14・18~20)。
 メルキセデクは、主を表象しています。かれは、いと高き神のための祭司と呼ばれているからです(創世14・18)。そして、ダビデは、主について言っています、
  「あなたは、メルキセデクの位にしたがって、永遠に祭司です」(詩110・4)と。
 メルキセデクがパンとブドウ酒をとり出したとありますが、それは、聖餐式のなかの神聖なもの、つまりは教会のなかにあって、この上なく神聖なものだからです。以上やその他いろいろ、イスラエル民族への〈みことば〉以前にも、前述のような啓示の〈みことば〉があった証拠があります。

265・ 古代人に〈みことば〉が存在したことは、モーセが指摘していますし、モーセの引用からも分かります(民数21・14、15、27~30)。その〈みことば〉の歴史的記録は、『エホバの戦い』と呼ばれ、預言的記録は、『宣言』と呼ばれています。〈みことば〉の歴史的記録から、モーセは次の部分を引用しています。
  「それゆえに、『エホバの戦いの書』にこう言われている。『スパのワヘブ、アルノンの谷々、谷々の斜面、アルの町まで傾き、モアブの境に寄りかかる』と」(民数21・14、15)。
 その〈みことば〉にある『エホバの戦い』とは、われわれのもっている〈みことば〉にもあるように、主がこの世に来られて、地獄と戦われ、勝利をおさめられることについて、記されたものです。またこのような戦いについては、ヨシュアがカナンの異邦人とたたかった戦いや、イスラエルの士師や王がたたかった戦いにみられるように、われわれのもっている〈歴史的みことば〉にも、あちこちに見られ、記されています。

(2) 次は、そのような〈みことば〉の預言的記録からの引用です、
「それゆえに宣言者たちは言っている。『人々よ、ヘシボンにきたれ、シホンの町を築き建てよ。ヘシボンから火が燃え出し、シホンの都から炎が出て、モアブのアルを焼きつくし、アルノンの高地の君たちを滅ぼしたからだ。モアブよ、お前はわざわいだ、ケモンの民よ、お前は滅ぼされるだあろう。かれは、息子らを逃げ去らせ、娘らをアモリびとの王シホンの捕虜にさせた。かれらの子らは滅び去った、ヘシボンからデボンまで。われわれは荒した、火はついてメテバに及んだ』と」(民数21・27~30)。
 翻訳では、「格言の編者」とありますが、ヘブル語で「モシャリム Moschalim」というと、格言のことだけでなく、預言的な宣言のことでもありますから、「宣言者 Enuntiatores 」とか、「預言的宣言 Enuntiata Prophetica 」と言うべきでしょう(民数23・7、18、24・3、15参照)。そこでバラムは、預言でもあった自らの宣言を「述べた」のですが、それはまた、主について述べたもので、ここではマシャル Maschal と単数で扱っています。モーセから託された言葉は、格言ではなく、預言だったのです。

(3) 以上の〈みことば〉がまた、神の霊感をうけたものであったことは、エレミヤ書にもあり、大体おなじことが言われています、
  「ヘシボンから火が出、シホンの家から炎が出て、モアブのひたい、騒ぐ者らのかしらの頂を焼いたからだ。モアブよ、おまえはわざわいだ。ケモンの民は滅びた。おまえのむすこらは捕え移され、おまえの娘らも捕え行かれたからである」(エレミヤ48・45、46)と。
 なお、古代の〈みことば〉の預言書と言われていたこの書は、ダビデやヨシュアは「ヤシャルの書」とか、「公正なる者の書」と呼んでいます。ダビデによると、
  「ダビデはこの悲しみの歌をもって、サウルとその子ヨナタンのために哀悼を表した。これは、ユダの人々に教えるための弓の歌で、ヤシャルの書にしるされている」(サムエル下1・17、18)と。またヨシュアにによると、
  「ヨシュアは言った・・・『日よ、ギベオンの上にとどまれ、月よ、アヤロンの谷にやすらえ』。・・・これはヤシャルの書にしるされているではないか」(ヨシュア10・12、13)。

266・ ここで、イスラエルに与えられた〈みことば〉以前に、この地上には、とくにアジア地域に、古代の〈みことば〉が存在したことが分ります。この〈みことば〉は、当時この世に生存していた天使たちによって、天界で保有されています。現在でもなお、これがタタール地方の人たちのもとに存在することについて、聖書にかんするこの章の終わりのメモで、触れるつもりです。

十三・  〈みことば〉によって、教会外の人たちにも光が存在しているが、かれらは〈みことば〉をもっていない。

267・ 〈みことば〉のありかである教会が、どこかこの世にあって、それで主のことが分かってこなくては、天界とのつながりはありえません。すなわち、主こそ天地の神です。主なくしては救いもありえません。〈みことば〉こそ、主との結び目であり、天使たちへの仲間いりであることは、前述したとおりです(234~239節)。
 たとえ少数の人の教会であっても、教会は〈みことば〉のあるところに存在する、これで十分でしょう。この〈みことば〉をとおして、地上の全地に主は現存されます。なぜなら、この〈みことば〉によって、天界と人類がむすばれるからです。

268・ 〈みことば〉によって、地上あまねく、主の現存と結合、天界の現存と結合があります。それが、どんなふうかを申しあげます。
 主のみまえにあっては、天使たちの全天界は、地上の教会もふくめて、ひとりの人間のようです。それが実際に「人間 Homo 」として見えることについては、『天界と地獄』(59~86節)を参照してください。
 その人間のなかで、〈みことば〉が読まれ、それによって主を知る教会が存在するわけですが、それは心臓や肺臓のような役を果しています。主の天的王国が心臓で、主の霊的王国が肺臓です。人体の中では、以上二つの命の泉から、他の肢節・内臓・器官のすべてが生き、存続しています。それと同じように、宗教をもっていて、唯一の神を礼拝し、正しく生きている人、つまりそのようにして前述した「人間 Homo 」に属し、心臓や肺臓のある胸部以外の肢節・内臓にかかわりをもつ人もすべて、〈みことば〉をとおして、主や天界とつながりをもち、教会といっしょに存続し、生きていることになります。それは、全人体にある肢節や内臓が、心臓や肺臓からいのちを得ているように、キリスト教会にある〈みことば〉は、教会外の人にとっても、主のみ力で、天界をとおして、いのちとなっています。
 またそれと同じような交流がありますが、その交流がもとで、〈みことば〉を読むキリスト信者たちは、かの「人間」の胸部を占めています。かれらは全体の中心をなしており、その周囲には教皇派の人たち、そのまわりにはマホメット教徒がいますが、マホメット教徒は主を最高の預言者つまり神のおん子として認めています。そのうしろの方には、アフリカ人がおり、いちばん外側を、アジアやインドの諸国民、諸民族がかこんでいます。

269・ 天界社会それぞれに、同じようなことがあることから、結論づけられますが、天界全体にも、以上と同じようなことがあるということです。すなわち、天界社会のひとつひとつは、天界の雛型で、それがまたひとりの人間のようになっています。(それについては、『天界と地獄』41~87節を参照してください)。
 天界の社会にはぜんぶ、以上と同じように、その中央部にいる者が、心臓と肺臓に関連があり、最大の光を身にまとっています。光そのものは、真理を感知する力です。かれらは、中央からその周辺のすみずみまで光をおよぼし、社会の構成員全体に光をしみとおらせ、それがかれらの霊的いのちになっています。示されたことですが、中央にいて、心臓・肺臓部を構成し、最大の光をおびている天使たちがいなくなると、周辺にいた天使たちは、その理性に陰がさし、たちまち真理の感知力が弱まると言って、なげいている様子でした。やがてその人たちがもどってくると、光が射してきて、以前とおなじように、真理が感知できるようになりました。
 以上は、この世の太陽からくる熱と光にくらべられます。熱と光は、樹木や植物を成育させます。ただし両端にいる場合や、雲の陰になったりすると、太陽はただ昇ってくるにすぎません。それとおなじように、天界での太陽として、主は天界に光と熱をお与えになりますが、その光は、本質上〈神の真理〉で、そこから天使と人間に、あらゆる種類の理知と英知が流れます。そのことは、〈みことば〉に関して、言われていることです。
  「〈みことば〉は神のみもとにあった。そして神であった。それは、この世に生まれてくるすべ  ての人を照らす方である。その光はまた、やみの中にあらわれた」(ヨハネ1・1、5、9)。 ここでの〈みことば〉は、〈神の真理〉の面からみた、主のことです。

270・ 以上のことから明らかになることは、プロテスタントや改革派のもとでは、〈みことば〉は、霊の交流をとおして、すべての異邦人と国民を照らしているということです。また主のご配慮によって、この地上にはいつも教会があり、そこで〈みことば〉が朗読され、その〈みことば〉をとおして、主が知られるようになっていることです。したがって、教皇派によって〈みことば〉が捨て去られそうになったとき、主のみ摂理によって、宗教改革が行われ、それによって〈みことば〉が隠れた場所からひき出され、引用されるようになりました。ユダヤ民族の場合も、〈みことば〉がことごとくひん曲げられ、汚されて、何の役にも立たない状態におかれたとき、主は天界から下り、〈みことば〉としてこの世に来られ、〈みことば〉を全きものとされ、それによって〈みことば〉の再構成と回復をはかり、地上の住民にふたたび光をあたえられました。主の〈みことば〉には、次のような節があります。
 「暗闇に座っている国民は、大きな光を見た。・・・死の土地・死の陰に座っている人たちに、光がのぼった」(イザヤ9・2、マタイ4・16)。

271・ 現代教会の末期には、〈天地の神である主〉をみとめないこと、また信仰が愛から切りはなされる結果、暗黒のおとずれることが、予告されています。それで〈みことば〉にたいする理解が失われ、教会がほろんでしまわないため、主は〈みことば〉の霊的意味をいまや明らかにされました。つまり〈みことば〉からくる真理の光がほとんど消え去ろうとするとき、それを回復させる無数の内容が、〈みことば〉の霊的意味のなかにあり、自然的意味のなかにも含まれている、ということを啓示されました。この教会の末期にあたって、真理の光がほとんど消え去ることは、『黙示録』の中のあちこちに予告されていますが、主の次の〈みことば〉からも分かります。
  「その日々の患難ののち、太陽はくらくなり、月はその光をあたえず、星々は天から落ち、天体はゆり動かされるであろう。そのときかれらは、人の子が栄光と力とをもって、天の雲に乗ってくるのを見るであろう」(マタイ24・29、30)。
 「太陽」とは、愛の面からみた主のことです。「月」とは、信仰の面からみた主のことです。「星々」とは、真理と善をみとめることです。「人の子」とは、〈みことば〉の面での主のことです。「雲」は、〈みことば〉の文字上の意味のこと、「栄光」は、〈みことば〉の霊的意味のこと、あるいは文字上の意味をつらぬい出る輝きです。

272・ 〈みことば〉をとおして、人と天界が交流をかわしていることを、わたしは数多くの経験で知らされました。
 わたしは、イザヤ書の第一章からはじめて、マラキ書の最終章とダビデの詩篇まで、その霊的意味に考えをとどめて、通読しているあいだ、はっきり感じとることができたのは、その一節一節に、天界の特定社会との交流があり、〈みことば〉の全体は、全天界と交流をもっているということです。 それでなお、理解を深めたことは、主が〈みことば〉であるのと同じく、天界も〈みことば〉であるということです。なぜなら、天界は、主のみ力によって天界なのです。
 そして、〈みことば〉をとおして、主は、天界の万事のうちに、万事でいらっしゃいます。

十四・  〈みことば〉がなかったら、だれひとり、神・天界と地獄・死後の生命はおろか、主さえ知ることはない

273・ 人は〈みことば〉によらなくても、神の存在、天界と地獄の存在、そのほか〈みことば〉で教えられていることを、知ることができると思い、それを自分の確信にしている人がいます。そのような人は、〈みことば〉をもとにするのでなく、理性がもっている自然の光で、考えているわけで、〈みことば〉を信じるより、自分を信じています。
 理性の光で考えてみれば分かることですが、人間には、「理性」と「意志」と呼ばれている二種類の生命力 facultates vitae があります。理性は意志に従属しますが、意志は理性に従属しません。理性はただ、意志が意志の力で何をなすべきかを教え示すだけです。だからこそ、英才でもあり、衆にすぐれて倫理道徳のことが分かっても、その道にのっとって生活していない人がたくさんいます。その道を実行したいと思えば、ちがった生活をしてもいいはずです。
 考えれば分かると思いますが、人間の意志は、その人の我 proprium で、これは生来悪です。だから理性にも偽りがあるのです。したがって人間は、自分の意志の我からくることしか、分かろうとしません。何かを知るにしても、我によってしか知ろうとしないため、人は自分の意志の我をもとにしてしか、つまり自分のことやこの世のことしか、知ろうとしません。それ以上のことは暗やみです。太陽や月や星を眺めても、あるいはその起源を思いめぐらしても、それ自らの力で、存在しているとしか考えません。〈みことば〉によって、神の万物創造を知っても、この世の学者たちの中で、これを自然に帰する人が多いのをみても、分かります。まして〈みことば〉にもとづいたことは何も知らないとすると、どうでしょう。
 アリストテレス、キケロ、セネカのように、神や霊魂の不滅について記録をのこした古代の知者がいますが、かれらは自分固有の理性で、初めから考えたのではないのです。前述のように、古代の 〈みことば〉から初めて知った人たちの伝承がもとになっています。自然神学の著者たちは、何ひとつ自分から汲みとったものはなく、〈みことば〉が存在している教会から、推理をとおして知ったことを、確認しているにすぎません。以上を確認した人たちの中には、信じなかった人もいるはずです。

274・ 島国うまれの国民を見るチャンスがあたえられました。かれらは、団体生活のうえで理性的でしたが、神について何も知りませんでした。かれらが精霊界にあらわれると、まるでスフィンクスです。しかし人間として生まれた以上、霊のいのちを受ける能力があるわけですから、天使たちから教えをうけますが、これも、人間としての主をみとめて、〈いのち〉を得るようになるためです。 自分の力で生きていると思っている人がどんなふうに見えるか、地獄にいる者たちを見れば、よく分かります。かれらの中には、高位聖職者や教養人がいましたが、神について耳を貸そうともしません。だから、神の名を口にすることもできないのです。わたしは、かれらと会って話しました。また神について、だれかがしゃべったのを聞いただけで、かっとなって、怒り狂う人たちとも話しました。
 神について、何も耳を貸そうとしない場合は、どんなふうになるか、考えていただきたいと思います。その中には、神について語り、神について書き、神について説教した人までいます。人の性格は、意志に依存し、悪い意志からは、悪い人がうまれます。だから前述したように、この意志が理性をひっぱっていくと、〈みことば〉から出てきた真理さえ、消し去ってしまうのです。
 神が存在し、死んだのちにも〈いのち〉があることを、自分なりに知っているとすれば、人間が、死後も人間であることを、どうして知らないのでしょう。人の霊魂すなわち霊が、風やエーテルのようなものだと信じるのは、どうしてでしょう。風とかエーテルのようなものが、ふたたび自分の骨や亡骸と、ひとつに合体するまでは、目でも見えないし、耳でも聞こえないし、口でも話せないとは、またどうしたことでしょう。自然の光だけにたより、その中に教義をとじこめてしまうと、自分を拝んでいることにならないでしょうか。「神のみを礼拝すべし」ということを、〈みことば〉から知っているにもかかわらず、何千年もまえから、しかも現代にいたるまで、こんなことをやっている始末です。人間の我からは、こんな礼拝しか起こってきません。太陽礼拝や月礼拝もおなじです。

275・ 最古の時代から、宗教は存在していました。地球の住民はどこでも、神について知っていたし、死後のいのちについても、ある程度知っていました。それは自分たちの力とか、自分たちの我からくる理知をつかってでなく、古代の〈みことば〉がもとで(前264~266節参照)、またそのあとは、イスラエルに与えられた〈みことば〉がもとになって、それを知っていました。
 以上二種類の〈みことば〉を起源にして、インドとインド諸島へ、さらにエジプトやエチオピアを通じてアフリカの諸王国へ、宗教的なものが流れていきました。さらにそれは、アジアの海域からギリシヤへ、さらにそこからイタリアへと流れていったわけです。
 ところが、〈みことば〉はとりもなおさず、天界に相応するこの世の表象を記したもの、その意味で書かれたものでしたから、異邦人たちの宗教も偶像化し、ギリシヤにいたっては、神話化してしまいました。
 神の属性やご性格が、それだけの数の神々となり、その最高神をヨーヴィスと言いましたが、これはおそらくエホバからきたものでしょう。かれらは、楽園、洪水、聖火、および四つの時代つまり、第一の黄金時代から、最後の鉄の時代について、知っていました(ダニエル2・31~35参照)。

276・ 人間固有の理知を使えば、神とか、天界と地獄とか、教会にかんする霊的なことがらについて、知ることができると信じている人がいます。しかし、自然の人間は、本来霊的なものに反対で、心の中に霊的なものが入っても、それを根だやしにしてしまうか、野菜や穀物の根を食うムシのように、インチキが混りを好んでいることに気づかないままです。ワシに乗って、高いところを飛んでいるとか、ペガサスにまたがって、パルナッソスやヘリコンの丘を飛んでいるとか、夢想している人とおなじです。
 まさに地獄にいるルチフェルのようです。かれらは地獄にいても、自分が「あけぼのの子」であると言っているのです(イザヤ14・12)。または、頭上を天にとどかせる塔を造ろうと、シナルの地にある谷にすすんで行った連中に似ています(創世11・2、4)。あるいは自分がゴリアテのようだと思いながら、ひたいに石をくい込むほどに打ちつけられ、のけぞって倒れるとは予想だにしない人のようです。このような人には、死んだのちどんな運命が待っているか、申しあげましょう。まずは酔いどれのようですが、あとで痴呆的になり、やがては暗やみに座る愚か者です。そんな気ちがいにならないように、気をつけなくてはなりません。

277・ 以上につけ加えて、次のようなメモを記します。第一のメモ。

ある日わたしは、霊の状態で、霊界のいろいろなところを、のぞいていましたが、それは、霊界の随所で見かけられる天界の表象を観察するためでした。天使たちのいる家があって、その家の中に大きな財布があり、中にたくさんの銀がつまっているのを見ました。財布はあいたままでしたから、入っている銀を取出すことも、奪うこともできました。その財布のかたわらには、番人として二人の青年が座っていました。その置いてある場所は、馬小屋のなかのまぶねのように見えました。そのとなりに部屋があって、そこには純潔な妻と、ひかえ目なおとめたちが見え、また部屋のすぐそばには、幼児がふたり立っていましたが、その子たちとは、幼稚な遊びでなく、知恵のあるつきあい方をするようにとのことです。そのあと、売春婦の姿が見え、死んだ馬が横になっていました。
以上が見えたあと、教えられました。以上によって表象されたのは、〈みことば〉の自然的な意味で、しかもその自然的意味に、霊的な意味があるということです。銀がつまった大きな財布は、いろいろなものの中に、真理をみとめることを意味します。それが開いたままの状態で、しかも番人の青年がついていたことは、だれもがそこから真理の認識をとり出すことはできても、霊的な意味をけがさないようにとの警戒を表わします。その意味の中に、真理そのものが存在しているからです。
馬小屋の中にあった〈まぶね〉は、理性にとって必要な〈霊の養い〉を意味します。なぜ〈まぶね〉かと言うと、〈まぶね〉から食物を得る馬は、理性をあらわしているからです。となりの部屋に、ひかえ目なおとめたちが見えましたが、それは真理の情愛のことで、純潔な妻とは、善と真理の結びつきのことです。
幼児たちは、英知の中にある純真無垢を意味します。というのは、だれよりも高い英知をもつ最高天界の天使たちは、純真無垢であるために、遠くからみると、幼児のように見えるからです。
死んだ馬と売春婦は、現在多くの人によって、真理にたいする理解力は、ことごとく死滅しています。売春婦は、真理を曲げること、死んだ馬は、真理への理解力がなくなったことを意味します。

278・ 第二のメモ

ある日、天界からわたしに、ヘブル文字で記された紙キレがおくられてきましたが、それは古代人が書いたような文字でした。古代人の使った文字は、現在では部分的に、線になってしまっていますが、かつては文字の上端に、小さな角型のしるしをつけて、屈折させたものでした。そのときわたしのかたわらにいた天使たちは、その文字そのものから、全体の意味が分かるし、それが分かるのは、まず線状の部分、および文字の先端の湾曲によるものだと言っていました。それを離して書いた場合と、くっつけて書いた場合とで、どんな意味をもつかも、説明してくれました。アブラムやサラの名前に「H」をくっつけて、無限や永遠を示すと言います。また詩篇32・2にある〈みことば〉ですが、文字すなわち音節だけをもとにして、その要約した場合の意味が何かを、わたしに説明してくれました。また主は、悪いことをする人たちにも、哀れみ深い方であるということです。
天使たちがわたしに知らせてくれたことは、第三天界にある記録は、屈折した文字および様々に湾曲した文字からなっており、そのひとつひとつが、それなりの意味をもつこと、音声のために発する母音は、情愛に相応すること、第三天界では、iとeの母音を発することができないこと、その代わりにyとeuがあること、さらに、母音のa、o、uは、完全音として、使われているとのことです。
またかれらは、子音の文字を硬音でなく、軟音として、発音するのだそうです。だからヘブル語の中にある文字には、まん中に点をつけて、軟音として発音する印にするそうです。なお、霊的天界では、硬音的文字がつかわれています。その理由は、そこにいる天使たちは、真理のうちにおり、真理は硬くなることもあるからです。反面、主の天的王国、すなわち第三天界の天使たちが宿している善には、その硬さがないということです。かれらのもっている〈みことば〉が記されると、小さな角じるしや、先端に意味をもたせた屈折文字になるとのことでした。以上のことからも、主の次の〈みことば〉の意味がはっきりしてきました。
「すべてが成就するまでは、律法の一点、一画もすたれることがない」(マタイ5・18)。
また、
「律法の一画が落ちるよりは、天地が滅びるほうが、もっとやさしい」(ルカ16・17)。

279・ 第三のメモ

モーセが『エホバの戦い』および『宣言』と言っている二書から引用して書いたものを、七年まえに、わたしが集めていたとき、ある天使たちが来て、この書物は古代の〈みことば〉で、その歴史的な記録が『エホバの戦い』と呼ばれ、その預言的なものが『宣言』と呼ばれたのだと言いました。なお、その〈みことば〉は、まだ天界で保有され、天界にいる古代人が使っているそうです。かれらがこの世にいたときは、それが〈みことば〉だったわけです。天界でそれをまだ〈みことば〉として使っている古代人はというと、部分的にカナンとその周辺地域にいた人たち、それに、シリヤ、メソポタミヤ、アラビヤ、カルデヤ、アッシリヤ、エジプト、シドン、ツロ、ニニベ出身者で、以上の諸王国の住民は、みんな表象的な祭儀をおこなっており、そのため相応の知識をもっていました。その当時の英知は、その知識がもとになっており、その知識をとおして、かれらは内的な感知力をもち、天界と交流していました。その〈みことば〉がもっている相応を知っていた者は、知者・賢者と呼ばれ、後代になって、易者や星うらない師になりました。

(2) ところが、その〈みことば〉には、天的なもの・霊的なものを、婉曲的に示すような相応がいっぱいあり、そのためでしょうか、多くの者が〈みことば〉をねじ曲げるようになりました。したがって、主の神聖なみ摂理により、時代の経過とともに、それが姿を消し、それに代わって、それほど婉曲な相応によらないで記された〈みことば〉が与えられましたが、それこそ、イスラエルの子らにつかわされた預言者をとおして、与えられたものです。
この〈みことば〉には、カナンの地だけでなく、アジアの周辺地域にあった地名がいろいろ書きとめられています。そのような地名はすべて、教会にかんすることがらとか、教会の状態を示すものです。ただしこのような意味づけは、古代の〈みことば〉がもとになっています。だからこそ、アブラムは、かの地に行くように命じられ、ヤコブの子孫たちも、その地に導かれたわけです。

(3) イスラエルに与えられた〈みことば〉以前に、アジアにあった古代の〈みことば〉について、目新しいことに言及しましょう。その〈みことば〉は、大タタール地方に住んでいる諸国民のもとで、まだ保有されているということです。わたしは霊界で、その地方出身の霊や天使たちとコトバをかわしましたが、かれらが言うには、自分たちは、〈みことば〉をもっていて、古い時代からそれを所有し、この〈みことば〉にしたがって、神聖な祭儀を行っており、それも、まぎれもない相応によって、行っているものだとのことです。また、ヨシュア記(10・12、13)やサムエル記下(1・17、18)に記録されている『ヤシャルの書』もその中のひとつだし、モーセによって書きのこされている『エホバの戦い』とか『宣言』(民数21・14、15、27~30)などの書物も、かれらはもっているといっています。
わたしがかれらのまえで、モーセがそこから引用した言葉を読むと、かれらはそのコトバが、その書の中にあるかどうかを調べていました。以上のことから、古代の〈みことば〉が、まだかれらのもとにあるのを知りました。かれらと話をしている途中、かれらは自分たちがエホバを礼拝しており、ある者は見えない神として、ある者は見える神として、礼拝しているそうです。

(4) それからまた、かれらは中国人以外の外国人を自分たちの中に受けいれるようなことはしないそうです。中国の皇帝は、かれらの中から出ているから、中国人とは平和にすごせると言っています。なお全世界で、自分たちの地域ほど人口が多いところはないと信じています。それも、中国人が外敵に対抗する守りとして、自分たちの手で昔建てた、何千キロにも及ぶ長城を見ても、分かるはずだと言います。その他わたしが天使たちから聞いたことは、天地創造、アダム、エバ、エデンの園、それから洪水までの、子らと子孫、またノアとその子らについて記されている『創世記』は、かれらの〈みことば〉の中にもあり、モーセはそこから書き移したのだそうです。 大タタール地方の天使や霊たちは、東側にある南の方位にいて、ずっと上位にある広がりの中に住んでいるため、ほかの人たちとは切り離されています。また、キリスト教の世界からは、だれも入れないようにしています。だれか上ってくる者がいた場合、もう帰れないよう、保護監禁されます。隔離されているわけは、別のちがった〈みことば〉をもっているからです。

280・ 第四のメモ

わたしはある日、樹木の茂みのなかをくぐって通じている歩道を、遠くから見ました。そこに、若者たちが群れをなして、集まっています。そして、英知にかんすることをしゃべる話し合いがグループの数だけありました。これは霊界であったことです。
わたしはそっちの方へ近づいてみると、衆にすぐれた英知があるために、みんなから中心人物として尊敬されている一人の男がいました。かれは、わたしの方に眼をやるなり、
「わたしは、あなたがこちらにいらっしゃるのを目にとめてから、わたしの眼に入ったり、出たり、急に現れたり、消えたりしているので、びっくりしているのです。さては、あなたは、わたしどもがもっている〈いのち〉のうちには、いらっしゃらないのでしょう」と、言いました。それでわたしは、にっこりして答えました、
「わたしはオドけているのでもないし、ウェルトゥムヌス(訳注・四季、庭園・果樹園の神)でもありません。ただ、あなた方がもっている光の中にあったかと思うと、その陰の中に入ったりして、あっちにいったり、こっちにいったりしています。つまりここでわたしは、旅人であるとともに、同郷人でもあるのです」と。
そこでこの知者は、わたしをじっと見すえて、言いました、
「予想もつかないような面白いことをおっしゃる方ですね。あなたはどなたですか」と。それで、わたしは、
「わたしは、あなた方がかつて住み、そこから脱出した自然の世界とよばれている世界にいます。それと同時に、あなた方がいまいて、霊界と呼ばれている世界にもいるのです。だから、自然の状態にあると同時に、霊の状態にもいます。自然の状態では、地上の人間といっしょですが、霊の状態ではあなた方とごいっしょです。自然の状態では、わたしはあなた方には見えませんが、霊の状態にいるとき、見えてきます。わたしがこんなふうなのも、主がなさったことです。
あなたは照らされた方です。だから自然世界の人間が、霊界の人を見ることも、その逆もできないのをご存じでしょう。したがって、わたしが自分の霊を肉体にしずめると、あなたには見えなくなり、肉体から霊を引っぱりあげると、見えるようになります。これも、霊と自然のあいだの違いからきます」と言いました。

(2) その人は、霊と自然のあいだの違いと聞いて、
「そのちがいは、何のことですか。それは、より純粋かどうかではありませんか。だから、霊といえば、より純化された自然のことでしょう」と言いました。わたしは、
「そんな違いではありません。自然がどんなに純化 subtilisatio されても、霊化されていくわけではありません。その違いは、むしろ〈前にあるもの prius〉と〈あとから出てきたもの posterius〉のあいだの性格的相違で、そのあいだには、有限の比率 ratio finita は存在しません。ある原因がその結果のなかにひそんでいるように、〈前にあるもの〉は、〈あとから出てきたもの〉のなかにひそんでいます。あるいは、ある結果がその原因がもとになっているのとおなじく、〈あとから出てきたもの〉は、〈前にあるもの〉が、もとになっているのです。そこで、一方は他方の目には、映らないことが分かります」と言うと、かの知者は言いました、
「その違いについて考えてみましたが、今のところまだはっきりしません。何とか感じとれればいいのですが」と。わたしは、
「霊と自然とのちがいについては、感じとれるようになるばかりか、見えるようになりますよ」
と言い、さらにわたしは、
「あなたは、ご自分の仲間といっしょのときは、霊の状態で、わたしといっしょのときは、自然の状態なのです。それは、あなたは仲間といっしょのときは、どんな霊や天使にも共通の霊のコトバで話し、わたしといっしょのときは、わたしの母国語で話しておられるからです。霊や天使は、人間とコトバをかわすときは、その人間の国語をつかいます。フランス人とはフランス語で、ギリシャ人とはギリシャ語で、アラブ人とはアラブ語というふうに話すわけです。

(3) だからコトバに関するかぎり、あなたは、霊と自然の区別がつきますから、やってみてください。あなたの仲間のなかに行き、そこで何かを言い、その音声を途中で切って、仲間どうしで記憶にとどめ、そのとおりをわたしのまえで話してみてください」と言いました。
かれはそのようにしました。口に音声を含みもちつつ、わたしのところへもどってきて発音しましたが、それはまったく異様で奇妙な音声で、自然の世界のコトバではありませんでした。このような経験を何回かくりかえしてみて、実にはっきりしたことは、霊界の人たちにはみんな、霊のコトバがあり、自然のコトバとは何の共通点もなく、人はみんな死んでから、このコトバの中に自分から入っていくのだそうです。わたしが一度経験したことで、霊のコトバと自然のコトバは、音質のうえでもちがっていて、霊のコトバは、自然の人には、どんなに大声を出しても聞こえないし、自然の音声も、霊の人間には聞きとれないことがあります。

(4) そのあと、わたしはその人と周囲にいる人たちに、自分の仲間のところへ行き、紙キレにある文章を記し、その紙をもってわたしのところへもどり、読んでくれるように頼みました。かれらは、それを実行して、手に紙をもってもどり、読みあげましたが、それができないのです。それは、その記したものは、上端にストロペ印がついたアルファベット文字からなっていて、そのひとつひとつの文字が、ある事柄の意味をしめしていたためです。ひとつひとつのアルファベット文字が、そこである特定の意味をもっていることで、主が「アルパであり、オメガである」と言われているわけがはっきりしました。
かれらは、繰り返し、仲間のところへもどり、何かを記し、またもどってきました。それで、かれらの書いたものは、自然の記録ではぜったいに表わせないものを無数に含みもっていることが分かりました。つまりは、霊の人間は、自然の人間にとって、きわめることができないこと、口では言い表わせないことを考えているわけで、このような内容は、別のかたちの記録や言語には、ぜったいに移しかえられないということです。

(5) そのとき、そこにいあわせた人たちは、霊的な思考力が、自然的な思考力を、はるかにしのいでいて、前者は後者にとって、口では言い表わすことができないと言いましたが、のみこみにくい様子でした。それでわたしは、かれらに言いました、
「経験してみていただけませんか。あなた方のいる霊の社会に入っていって、何かを考えたら、それを記憶にとどめて、もどってきて下さい。そしてわたしのまえに、そのことを言い表わしてみてください」と。
そこでかれらは入っていき、考えてから、それを記憶にとどめ、もどってきて、その考えたことを言い表わそうとしましたが、できません。純粋に霊的な思考概念にふさわしい自然的な思考概念が、みつからないのです。そのような考えを表現するだけの単語がありません。思考概念は、話すと単語となって出てくるものだからです。
そのあと、かれらはもう一度入っていき、もどってきて、確認したわけですが、霊的概念というものは、超自然的で、自然の人間には表現不可能なもの、口では言い表わせないもの、はかり知れないものだということです。それは、はるかに高度です。だから、かれらによると、霊的概念または思考は、自然的なものに比べてみると、概念中の概念、思考中の思考です。また、それで表現する内容は、本質のなかの本質 qualitates qualitatum、情愛のなかの情愛です。さらにその霊的思考力は、自然的思考力の出発点であり、起源なのです。そこで、霊的な英知は、英知のなかの英知であって、自然の世界にいる知者にとっても、表現不可能なものだと気がつきました。

(6) そのとき、上位の天界から、天的英知と呼ばれる、より内奥のすぐれた英知が、まだあるのを聞きました。天的英知と霊的英知との関係は、霊的英知と自然的英知との関係に対応します。そして、これらは順序よく、諸天界をへて、主のかぎりない神的英知から流れてきます。
わたしとコトバをかわしていた人は、それにつけ加えて言いました、
「わたしには、はっきり感じとれて、分かったことですが、ひとつの自然的概念には、数多くの霊的概念がふくまれているということ、またひとつの霊的概念には、数多くの天的概念がふくまれているということです。このことからも、次のような結論がでます。つまり分割されてくると、ますます単純化されてくるのではなく、ますます多様化されてくるということです。なぜなら、ますます無限者に近づいてくることになるためです。その無限者のうちに、あらゆるものが限りなく存在しています」と。

(7) こう言い終わったとき、わたしはまわりの人たちに、次のように言いました、
「以上、三つの実験結果から、霊的なものと、自然的なものは、どれほど違っているかがお分かりになったと思います。ということです。自然の人間は、霊の人間に見えないし、霊の人間は、自然の人間に見えないのはなぜか、ということです。たしかに、両者とも完全に人間の形をしていて、その形をとおして、一方が他方を見ることができると、それぞれに思っています。ところが、両者の心には、その〈かたち〉を形成する内部のものがあります。そして霊や天使の場合、その心が霊的なものによって形成され、人間の場合、この世では自然的なものによって形成されています」と。 そのあと、上位の天界から声がして、傍に立っている一人に呼びかけ、「ここまでのぼってきなさい」と言われました。その人がのぼっていきましたが、もどってきて、
「天使たちも最初は、霊的なものと、自然的なものとのあいだの違いが、分からなかったのです」と」と言いました。
そのわけは、両方の世界に同時にいて、両者を比較できる人がいなかったし、このような比較がなかったら、違いも分からない、ということです。

(8) わたしたちは、お別れするまえ、この問題についてもう一度話しあい、この相違はどこからくるかについて、話しました、
「あなた方は霊界にいて、物質的でなく、実体的なあり方をしています。実体的なものは、物質的なものの始源 initia materialium です。物質 materia とは、実体 substantia の集まり以外のなにものでもありません。だから、あなた方は始源の状態におり、したがって個別的ですが、わたしたちは、始源に由来したもの principiata で、合成体です。あなた方は個々別々のあり方 in particularibus をしていますが、わたしたちは、共有的 in communibus です。共有的なものは、個別的なもののなかへは入っていけません。そのように、自然的なものは、物質ですから、実体的なものである霊のなかには入っていけません。それはちょうど、船のロープが針の穴に入れないのと同じです。あるいは、神経腺の一つが、そのもとになっている繊維の一本に入れないのとおなじです。自然の人間は、霊の人間が考えていることを考えることができないし、話すこともできないのは、そのためです。だからパウロは、第三天界から聞いたことは、口では言いあらわせないと言っているのです」と。また続けて、

(9) 「物事を霊的に考えるとは、時間と空間からはなれて考えることで、物事を自然的に考えるとは、時間と空間をとおして考えることです。自然的な思考概念にはすべて、時間や空間に由来するものが、くっついてきますが、霊的概念にはそれがありません。だから、霊界は自然の世界のように、時間と空間のうちにはありません。ただそのような時間・空間の外見 apparentia があるのです。その点、考えることも、感じとることも、ちがってきます。そして、あなた方は、永遠のむかしからある神の本質や全能、つまり世界創造以前の神について考えることができますが、それは、時間をはなれて神の本質を考え、空間をはなれて神の全能を考えることができるからです。すなわち、人間の自然的概念を越えるものを把握することができるのです」と。

(10) それからわたしは、永遠のむかしからいます神の本質とか遍在について、つまり世界創造以前の神について、いちど考えてみたときのことを話しました。自分の思考概念から、空間とか時間をとり去ることができず、神に自然の概念が混入して、いらいらしていたのですが、そのとき、「空間や時間の考えを捨てなさい。そうしたら見えます」と言われました。それを捨てて考えられるようになると、見えました。そのとき以来、永遠のむかしからまします神について、考えられるようになりましたが、それは、永遠のむかしからある自然とは、ぜんぜんちがいます。神があらゆる時間のうちにましますとは、神には時間がないこと、神があらゆる場所にましますとは、神には場所がないことだからです。
ところが、自然の場合、あらゆる時間のうちにあるとは、時間のうちにあること、あらゆる場所にあるとは、場所のうちにあることなのです。自然には、それなりの時間と空間がともなっていますから、初めがことは、ありえないのですが、時間も空間もない神には、初めがありません。したがって、自然は神から出たもので、永遠のむかしからあるものではないし、それなりの時間と空間をともなって、時間のなかに存在すると言えます。

281・ 第五のメモ

わたしは、霊界と自然界の両方に、同時にいるチャンスを主から与えられました。それで、天使たちとは、人間と話すときのように話しました。そ±れをとおして分かったことは、死んだのち、今までは未知だったあの世へ去っていった人たちの状態です。(わたしは、自分の親戚・友人の全部とコトバをかわし、王候・貴族また知識人たちとも話しあいましたが、かれらは、それぞれの行くべきところへ行っています。この経験は、もう二十七年つづいています。)だから、善良な生活をおくった人、悪い一生を送った人など、人の死後の状態がどんなふうか、生きた体験で描きだすことができます。ただここで、自分の偽りの教義を、〈みことば〉をつかって固めてきた人たちの状態について、ちょっと触れてみましょう。とくに、信仰のみによる義認で、心を固くしてしまった人のことです。かれらの状態は、次のような経過をみせます。

① 死んでから、霊の面で生きかえります。それは、心臓が鼓動をやめて、普通三日目ですが、本人には、前世にいたときと同じ肉体のうちにいるように見え、しかもまだ前世にあって生きているとしか思えません。ただし、もう物質的な肉体でなく、実体的な肉体のなかにいます。そして、実際には物質ではありませんが、本人の感覚には、物質的肉体のように見えます。

(2)② 何日かたって、わたしはある世界にいるのに気づきました。そこにはいろいろの社会がつくられていて、「霊たちの世界 Mundus Spirituum 」と呼ばれています。それは、天界と地獄の中間にあります。数え切れないほどたくさん社会があって、それがみんな、善良な自然的情愛と、悪辣な自然的情愛にもとづいて、すばらしく整然と、ととのえられています。善良な自然的情愛でととのえられている社会は、天界と交流をもっていますが、悪い自然的情愛でととのえられている社会は、地獄と交流しています。

(3)③ 新参の精霊、つまり霊の人は、いろいろの社会にみちびかれ、連れていかれます。そこには、よい社会も、悪い社会もありますが、善や真理にたいし、どれほど感応しているか、悪と偽りにたいし、どれほど感応しているかによって、調べられます。

(4)④ 善や真理にたいし感応性がある場合、その人は、悪い社会から引きはなされて、よい社会に入れられますが、それもまた多種多様で、本人の自然的情愛に相応する社会が見つかるまでつづきます。つまり自分の情愛に相応する善を味わえるところへ行くまでです。そして、そこで自然の情愛をぬぎすてて、霊的情愛を身につけるようになります。それから、天界へのぼっていきます。ただしそれも、この世で仁愛の生活をおくり、主に信頼をおき、悪を非として避けるという、信仰生活をおくった人にこそ起こることです。

(5)⑤ ところが、理屈をこねて、偽りで自分の心を固めた人、とくに〈みことば〉をつかってそうした人は、自然のいのち、しかも悪い生命をもっていることになります。そのような人の場合、悪が偽りに、偽りが悪にへばりついています。かれらは、善や真理にたいする感応性がなく、悪や偽りにたいして動かされるわけですから、よい社会からひきはなされて、悪い社会に入れられます。そのような社会も多種多様で、本人の愛がもっている欲望に呼応する社会が見つかるまでつづきます。

(6)⑥ 内部にあっては、悪い情愛すなわち欲望しかないのに、外部ではよい情愛をこの世ではマネていた人がいますが、そのような人は、外面的にはよく見えたり、悪く見えたりします。またこの世で、団体の頭だった人は、霊界でも、以前やったことがある仕事の大小に応じ、全体か部分か、あれこれの社会での統率者になることがあります。しかしながら、真理を愛するでもなし、正義を愛するでもなければ、真理や正義を知るよう照らされることもないので、何日かたつと、クビになります。わたしは、ある社会から他の社会へと、転々としていた人を見ましたが、どこでも何かの管理職をあたえられるのですが、いつも短期間ののち、解雇されます。

(7)⑦ 何回もクビになったあげく、働くのがいやになった人がいます。また、自分の評判を落とすのを恐れて、気力を失い、もうこれ以上仕事をさがそうとしない人もいます。そんな人は背後にしりぞき、悲しげに座っていますが、やがて人気のないところへしりぞきます。そこには小屋があって、かれらは中に入り、する仕事が与えられ、やれば食べ物を得、やらなければ飢えても、与えられません。だから必要にせまられて、何かやります。かれらの食べ物は、われわれの世界の食糧と似ていますが、霊的起源をもっており、各自の役立ちにおうじて、主のみ力で、天界からみんなに分け与えられます。怠け者は、役たたずですから、与えられません。

(8)⑧ しばらくすると、仕事に嫌気がさしてきて、小屋から外へ出ます。祭司であれば、建物を建てたいと思うのです。すると、切り石、レンガ、梁木、板の山が目に映り、それからヨシやイグサ、また粘土、モルタル、石灰などが積んであるのを見て、建物を造りたいとの思いにかられ、家を建てはじめます。石をとり、材木をとり、ヨシをとり、土をとって、一つまた一つと、自分の目には順序ただしくやっているように見えても、デタラメに積みあげていきます。ところが、日中できあがったものが、夜にはくずれます。次の日、くずれたガラクタを集めては、また造りあげようとします。それも建てるのがいやになるまで続けます。以上は相応からくるものです。〈みことば〉からいろいろ引用して、信仰についての偽りを確認しようとしますが、かれらの建てる教会は、偽り以外のなにものでもないことを示しています。

(9)⑨ そののち嫌気がさして、そこを出ていき、何もしないでぽつんと座っています。前述したように、怠け者には天界からの食べ物が与えられないので、空腹を感じ始め、どうやって食糧を手に入れ、飢えをしのごうかとしか、考えなくなります。こんな状態のとき、ほどこしをしてくれるような人がやってきて、「何もしないで、座っているのはどうしてなの。いっしょに、うちへいらっしゃい。何かする仕事を与えて、食べさせてあげるから」と言います。
かれらは喜んで立ちあがり、その家までいっしょにいき、それぞれ仕事が与えられ、その仕事によって食べ物が供されます。ところが、信仰についての偽りで心を固めてしまった人は、みんな善い役立ちでなく、悪い役立ちのわざをするわけです。誠実ではなく、いやいやながら、しかも人目をぬすむようなやり方をします。それで、仕事もしないで、ぺちゃくちゃしゃべったり、歩きまわったり、眠ったりしますから、雇用者にとっても、これ以上仕事につかせておくわけにはいきません。役立たずでクビです。

(10)⑩ クビになると、かれらの目が開け、ある洞穴の方へ通じる道を見つけます。なかに入ってから、食糧があるかどうかたずね、あると分かると、その中にいさせてくれと頼みます。いいと言われて、奥にはいり、かれらのうしろで戸は閉められます。その洞窟の頭がやってきて、 「もうおまえたちは外へ出られんぞ、ほら、あいつらはおまえらの仲間だ。みんな働いている。働いた分だけ、食糧は天界から与えられる。それをおまえ達に知ってもらうため言っておく」と言います。それに加えて、いっしょに働く連中も、
「おれたちのお頭は、ひとりひとりがどんな仕事に適しているか知っていて、みんなに毎日の仕事を課していく。それを果たし終えたら、おまえ達にも食糧が与えられる。仕事を終えていなければ、食べ物はない。だれか他人に悪事をはたらけば、洞窟の隅にとじこめられ、のろいの塵で造られたベットに横たわるしかない。だが、そこは大へんつらいところだ。それもお頭が、その男に後悔の様子が見られるまで、つづけられる。そのあと、そこからだされ、自分の仕事をやるよう命じられるんだ」と。

(11) それからまた、言われることですが、仕事が終わったら、散歩したり、おしゃべりをしたり、そのあと居眠りをしたりしてもいいことになっています。洞窟の奥のほうには、売春婦がいて、そこにいって、好きな女を自分用に指名することが許されていますが、乱交することは、罰則で禁止されています。地獄はこのような洞窟からできています。それは、永久につづく強制労働収容所なのです。
そのうちのある洞窟に入って見るチャンスが与えられましたが、それは、わたしが知っておくためでした。姿を現わした人たちは、みんなみすぼらしい感じでした。かれらはだれひとり、おたがいがこの世でどんな仕事をしていたか知らないのです。ところが、わたしといっしょにいた天使がわたしに、この人はかつての世では雇われ人、この人は軍人、この人は知事、この人は祭司、この人は貴族、この人は大金持ちというふうに、教えてくれました。しかしこの人たちはみんな、自分たちが奴隷で、同類の仲間同士であるとしか思っていません。それは、外面的にちがっていても、内面的には似た者同士だからです。霊界では内部の呼応で、寄り添うのです。

(12) 地獄は、おおかた以上のような洞窟や強制労働収容所からなっていますが、サタンがいるところは、悪魔がいるところとは、ちがった連中からなっています。サタンとは、偽りのうちにあり、その結果、悪くなった者で、悪魔とは、悪のうちにあり、その結果、偽り者になった連中です。サタンは、天界の光に照らされると、死骸のように青ぐろい色をしており、ある場合はミイラのようにどす黒くなっています。悪魔は、天界の光に照らされると、黒びかりがしており、ある場合は、ススのようにまっ黒です。いずれにしても、顔も体も怪奇そのものですが、石炭が燃えてでる光にそっくりの自分なりの光のもとでは、怪物ではなく、人間に見えます。それは、おたがいのつきあい上、必要だからそうなっています。