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真のキリスト教


第四章 聖書・主の<みことば>

2.今まで、みことばの霊的意味については、知られていなかった。

193節~207節

193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207

二. いままで、〈みことば〉の霊的意味については、知られていなかった。

193. 〈みことば〉は、神よりのものだからこそ、その内実は霊的です。こう言われて、承認・賛同しない人はいないはずです。でも、その霊的なものとは何か、それが〈みことば〉のどこに隠されているかは、今までのところ分かった人がいたでしょうか。霊的なものが何かは、この章の最後にあるメモで明らかにされ、それが〈みことば〉どこに隠されているかは、これからの各節で述べていきます。
 〈みことば〉がその内実で霊的であるわけは、それがエホバである主からくだり、天使のいる諸天界をつらぬいているからです。神性そのものは、それ自身としては、口では言い表せないもの、感じとれないものですが、天降りの過程で、天使たちが感知でき、やがて人間にも感知できるものになりました。そのように、霊的意味 sensus spiritualis は、自然的意味の内部にあるもので、それはちょうど、人間には霊魂があるように、コトバには〈理性の思考力〉があり、行為には〈意志から出る情愛〉があるのとおなじです。
 自然界で眼前にあるものと比較してみましょう。それはちょうど、脳膜や軟脳膜のなかにある大脳のようなもの、樹木や樹皮にかこまれた枝のようなもの、卵の殻におおわれたヒナがもつ生殖の全機能のようなものです。
 ところで、〈みことば〉の霊的意味が、自然的意味のなかにひそんでいることなど、今までだれの頭にも浮かばなかったことです。それで、現在までに明らかにされたどんな秘義よりすぐれ、そのものとしても卓絶したこの秘義を、次のような順序で説明してみることによって、理性の目にはっきりさせる必要があると思いました。

[Ⅰ] 霊的意味とは何か。
[Ⅱ] 〈みことば〉には、個々全体にわたって、霊的意味がある。
[Ⅲ] したがって、〈みことば〉は神の霊感によるもので、その単語のひとつひとつは神聖である。
[Ⅳ] その霊的意味については、今まで知られていなかった。
[Ⅴ] 主からくる純粋な真理のうちにある者を除いて、その霊的意味が分かっている人は、まだいない。
[Ⅵ] 霊的意味から理解する〈みことば〉のすばらしさ。

194. [Ⅰ]霊的意味とは何か。
 霊的意味とは、教会のある教義を証明するため、〈みことば〉を調べて、それをあてはめるときの字義上の解釈ではありません。このような解釈は、「文字の上での〈みことば〉の意味」とか、「教会内での〈みことば〉の意味」と言われてもいいでしょう。
 霊的意味は、文字の意味に現れてくるものではありません。それは、肉体のなかにある霊魂のように、両眼に映って出る理性の思考力のように、また顔面にあらわれる愛情のように、文字の内部にひそむものです。その霊的意味の主目的は、人間のためだけではありません。天使のためにも、〈みことば〉が霊の働きとなって、その意味をとおして、天界との交流をおこなうためです。
 だから、〈みことば〉は、その内面から霊的なものです。しかも、相応 correspondentiae によって書かれています。相応によって書かれていると言いましたが、それは、最外部の意味でみると、預言書や、福音書や、またヨハネによる黙示録に記されている文体にほかなりません。通俗的に見えても、神の英知と、天使のあらゆる知恵がこめられています。相応がどんなものかは、『天界と地獄』(一七五八年、ロンドン)を参照してください。その書物のなかには、天界にあるもの全部と、人間にあるもの全部とのあいだの相応(87〜102節)や、天界のあらゆるものと、地上のあらゆるものとのあいだの相応(103〜115節)が記されています。これは後述しますが、〈みことば〉からの引用によって、もっと明らかになるでしょう。

195. 主から、〈天的神性〉・〈霊的神性〉・〈自然的神性〉が、順次でてきます。〈天的神性〉とは、主の神的愛から発出するもの、つまり〈善であるものすべて〉です。〈霊的神性〉とは、主の神的英知から発出するもの、つまり〈真であるものすべて〉がそうです。〈自然的神性〉とは、以上の両者からなっていて、その複合でもあり、最外部にあるものです。
 第三天界すなわち、最高の天界を形成している〈天的王国の天使たち〉は、主から発出している神性、いわゆる〈天的神性〉のうちにいます。かれらは、主によって、〈愛の善〉にひたっています。
 第二天界、すなわち中間の天界を形成している〈霊的王国の天使たち〉は、主から発している神性、いわゆる〈霊的神性〉のうちにいます。かれらは主によって、〈神の英知〉にひたっています。
 第一天界、すなわち最下の天界を形成している〈自然的王国の天使たち〉は、主から発している神性、いわゆる〈自然的神性〉のうちに、つまり主による仁愛の信仰のうちにいます。
 教会に属する人びとも、かれらの愛、英知、信仰によって、以上の王国のいずれかにおり、どの王国にいたとしても、死んだのちはその王国にはいります。天界には、それぞれの天界の段階に応じて〈主のみことば〉があります。最外部の意味では自然的なもの、内部の意味では霊的なもの、内奥部には天的なもの、つまりそれぞれの意味に、神性があるのです。したがって、三種の天界の天使たちに、それに合った〈みことば〉の意味があるのですが、人間にもおなじことが言えます。

196. [Ⅱ] 〈みことば〉には、個々全体にわたって、霊的意味がある。

 それは、例証による以外に、分かりやすいものはないでしょう。次のとおりですが、黙示録でヨハネは言っています、
「わたしが見ていると、天が開かれ、そこに白い馬がいた。それに乗っている方は、『信仰と真理の人』と言われ、正義にもとづいてさばき、戦う方である。その目は燃えるほのおであり。その頭には多くの冠があった。またかれ以外には、誰も知らない名が、その身にしるされていた。かれは血染めのころもをまとい、その名は『神のみことば』である。また天の軍勢が、純白でけがれのない亜麻布を着けていた。・・・かれの衣服とズボンには、「王の王」、「主の主」という名がしるされていた。また見ていると、ひとりの天使が、太陽の中に立っていた。かれは大声で叫んだ、『さあ、大宴会に集って・・・王たちの肉、将軍の肉、また勇者の肉、馬の肉、馬に乗っている者の肉、また、すべての自由人と奴隷との肉、小さき者と大いなる者との肉をたべなさい』と」(黙示19・11〜18)。
 以上が何のことかは、〈みことば〉の霊的意味からでなくては、だれも分からないでしょうし、また相応の知識がなかったなら、霊的意味も分からないでしょう。というのは、単語には、どれもこれも相応があり、どんな単語にも、ムダがないからです。相応の知識が教えていることは、「白い馬」とは何か、「それに乗っている方」とは何か、燃えるほのおのような「目」とは何か、頭にのせた「多くの冠」とは何か、「血染めのころも」とは何か、天の軍勢が着ている「純白の亜麻布」とは何か、「太陽の中に立っている天使」とは何か、招かれそこに集められた「大宴会」とは何か、「王たちの肉」、「将軍の肉」、その他いろいろの肉を食べるよう言われているが、それは何か、などについてです。
(2) 霊的意味で、以上がそれぞれ何のことかは、『啓示による黙示録解説』(820〜838節)と、小著『白馬』をごらんいただければ、分かります。それ以上の説明は、蛇足になるでしょう。
 ただし、そこで示されていることは、主が〈みことば〉の面で描かれていて、燃えるほのおのような「主の目」は、主の〈神としての愛〉にある固有の〈神の英知〉という意味です。頭上の「冠」とか、「主以外にはだれも知らない名」とは、主による〈みことば〉が神の真理であるということ、霊的意味にかんしては、主以外のだれもその実態が分からず、また主が啓示された人にしか分からないということです。「血染めのころも」とは、〈みことば〉の自然的意味、すなわち文字上の意味のことで、暴虐で血塗られています。そこに記されている「みことば」が何かは、明白です。それは、「その名は『神のことば』である」からです。それが主であることも、実にはっきりしていて、白馬にまたがっている方の名は、「王の王」、「主の主」とあり、また黙示録17・14には、「小羊は勝利をえられた。なぜなら、小羊は、主の主、王の王であられるから」と記されています。
(3) 〈みことば〉の霊的意味が明らかにされるとすれば、それは教会のためです。白馬とか、それに乗っている方だけではありません。太陽の中に立っている天使がみんな来て、王の肉、将軍の肉などを食べるよう招いたとあるのは、主によって与えられる善を、すべて同化させなさいという意味です。
 肉体のなかに霊魂があるように、内部に霊的意味が存在しないとすると、どんな表現も、ムダな単語の羅列で、いのちとたましいが通っていないものになります。

197. 黙示録21章は、新しいエルサレムについて記しています。
「その都は、高価な宝石のように、透明な碧玉のようにかがやていた。それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の天使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに記してあった。・・・城壁は、百四十四キュビトであった。これは、人間の、すなわち天使の尺度による。城壁は、碧玉で築かれ、その土台は、さまざまな宝石でかざられていた。それには、碧玉、サファイヤ、めのう、緑玉、縞めのう、赤めのう、かんらん石、緑柱石、黄玉石、ひすい、青玉、紫水晶などがある。十二の門は真珠でできていて、都そのものが、すきとおったガラスのような純金であった。都は四角形で、長さ・幅・高さ・が同じである。すなわち一万二千丁あった。その他・・・」(黙示21・11、12、16〜21)。
すべて以上のことは、霊的に解釈しなくてはなりません。『啓示による黙示録解説』(880節)にあるように、「新しいエルサレム」とは、主によって創立される新しい教会のことです。「エルサレム」とは教会のことですから、都とか、門とか、城壁とか、土台とか、その寸法など、ここで言われていることは全部、霊的意味があります。教会にかんすることは、霊のことがらだからです。それが何かは、『啓示による黙示録解説』(896〜952)に記しましたから、それ以上のことはムダですから記しません。
 ただここで知っていただきたいのは、霊魂が肉体にしみこんでいるように、霊的意味は、ただ記述の各部分に内在しているだけです。その霊的意味がなかったら、記されたものから、教会について何も分かっていません。都が純金からできているとか、門が真珠でできているとか、城壁が百四十四キュビトで、それが人間の、すなわち天使の尺度によるとか、都の長さ・幅・高さが一万二千丁であるなどは、何のことか分からないでしょう。しかし相応の知識のもとで、霊的意味が分かれば、「城壁」、「土台」は、〈みことば〉の文字の意味からくる〈教会の教義〉のこと、「十二」、「百四十四」、「一万二千」などの数は、どれも全体としてとらえた真理と善のことであることが分かります。

198. 教会の終末ともいえる〈代の終わり〉について、主はご自分の弟子たちをまえに、お話になりました。それは、状態が次第に変化していくことを予告なさったものです。主は言われます、
「そのさいに起こる患難ののち、たちまち日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子のしるしが天に現れる。またそのとき、地のすべての民族はなげき悲しむ。人々は、力と大いなる光栄とをもって、人の子が天の雲に乗ってくるのを見る。かれは大きなラッパの響きで、天使たちをつかわし、天のはてからはてにいたるまで、四方から、その選民を呼びあつめる」(マタイ24・29〜31)。
 以上を読んでも、日や月が暗くなる、星が落ちる、主のしるしが天に現れる、かれらが天の雲に乗った主を見る、ラッパをもって天使たちを集めるなどが、どんな霊的意味をもっているのか分かりませんが、ここでは教会にかんする霊的なことがらが、ひとつひとつの言葉にこめられています。つまり、教会の末期状態が述べられています。
 暗くなるとある「太陽」は、その霊的意味で、主への愛のことです。光を放つことをやめるとある「月」は、これは、主にたいする信仰のことです。空から落ちる「星」は、真理と善の認識です。「天に現れる人の子のしるし」とは、主のみ力によって、〈みことば〉の中にある神の真理があらわれることです。「嘆きかなしむ地上の民族」というのは、信仰がもっている全部の真理と、愛がもっている全部の善が欠落することです。「力と栄光をもって、天の雲に乗って、人の子が来る」とは、〈みことば〉の中に主が現存しておられること、啓示のことです。「天の雲」は、〈みことば〉の文字上の意味のことです。「栄光」は、〈みことば〉の霊的意味です。「大きなラッパの響きで、天使たちをつかわす」とは、〈神の真理〉がかがやく天界のことです。「天のはてからはてにいたるまで、四方から、その選民を呼びあつめる」とは、主への信仰を保ち、その掟にしたがって生活する人々によって、新しい天界と、新しい教会が構成されるという意味です。
 日や月が暗くなり、星々が地に落ちるとは、主がこの世に来られるまえの教会の状態に似ています。これは、予言者の言葉からもはっきり汲み取れます。イザヤ書には、
「見よ、エホバの日が来る。残忍で、激しい怒りの日である。・・・天の星と、その星座とは、光を放たず、太陽は出ても暗く、月はその光をかがやかさない。わたしは、その悪のために、この世を罰する」(イザヤ13・9〜11、24・21、23)とあり、ヨエル書には、
「主の日が来る。暗やみと暗黒の日である。日も月も暗くなり、星もその光をうしなう」(ヨエル2・1、2、10、3・15)とあり、またエゼキエルは、
「わたしは、空をおおい、星を暗くし、太陽を雲でおおい、月に光を放たせない。わたしは、空のかがやく光を、ことごとく暗くし、あなたの国をやみとする」(エゼキエル32・7、8)と記しています。
 「主の日」とは、教会のなかに、愛の善も信仰の真理も、その痕跡さえうしなったとき、主が来られることで、そこには主を認めようとするものは何もありません。だから、「暗やみと暗黒の日」と呼ばれているのです。

199. ご在世の当時、主は相応によって、自然的に話されると同時に、霊的に話されていたことは、主の譬え話からも、よく分かります。その話のコトバひとつひとつには、霊的意味が内在しています。十人の乙女の譬えを例に引用してみましょう。
「そこで天国は、十人のおとめがそれぞれ明かりを手にして、花婿を迎えに出ていくのに似ている。その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。思慮の浅い者たちは、明かりはもっていたが、油を用意していなかった。しかし思慮深いお浅い者たちは、明かりといっしょに油も用意していた。花婿の来るのがおくれたので、かれらはみな居眠りをして、寝てしまった。夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と呼ぶ声がした。そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれ明かりを整えた。ところが思慮の浅い女たちが、思慮の浅い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちに分けてください。わたしたちの明かりが消えかかっていますから』。すると思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに、足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
 かれらが買いに出ている中に、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿といっしょに婚宴のへやに入り、戸がしめられた。そのあと、ほかのおとめたちも来て、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った」(マタイ25・1〜12)
 以上のコトバひとつひとつに霊的意味があり、だからこそ神聖なものであるということは、霊的意味の存在とその性格を知らないかぎり、分からないと思います。
 霊的意味では、「天国」とは、天界のこと、教会のことです。「花婿」とは主のことで、「婚宴」とは〈愛のもっている善〉と〈信仰がもっている真理〉をとおして、主と人々とのあいだで結ばれる結婚です。「おとめたち」とは、教会の教えをうけている人たちです。「十人」は、全員をあらわします。「五人」は」一部の人です。「明かり」は、信仰に関することがら、「油」は、〈愛からの善〉に関係あることがらです。「眠る」とか、「起きる」とは、この世の自然的人生と、死後の霊的人生のことです。「買う」とは、みずからのために用意すること、「店に行って、油を買う」とは、死後、ほかの人たちから、〈愛がもっている善〉をゆずってもらうことです。
 ところが、その場では油はゆずってもらえませんでしたから、油を買って明かりを手に、婚宴が行われている場所の入口までやってきましたが、花婿から、「わたしは、あなたがたを知らない」と言われます。それは、人はこの世でのいのちが終わってからも、自分が生きたいのちの性格を保っているということです。以上のことから、まぎれもない相応によって、主はお語りになったこと、しかもそれは、ご自分のうちにあり、ご自分のものである神性から出たものであることが、はっきりしたと思います。
 「おとめたち」とは、教会の教えをうけている人たちのことですが、だからこそ、預言者をとおして、〈みことば〉では、シオン、エルサレム、ユダ、イスラエルのおとめとか娘と言われているのです。「油」は、〈愛がもっている善〉を意味します。だから〔イスラエルの〕教会の聖なるものには、すべて油が注がれました。
 主がお語りになったその他の譬え話や、〈みことば〉のすべてには、おなじような相応があります。だから、主が語られた〈みことば〉は、霊であり、いのちであると、主は言っておられるのです。(ヨハネ6・63)

200. [Ⅲ] 〈みことば〉が神の霊感によるもので、その単語のひとつひとつが神聖なのは、霊的意味があるためである。

 主エホバがお語りになったというので、〈みことば〉は聖なるものであると、教会では言われています。ところが、〈みことば〉の文字の意味の上だけでは、その神聖さが現れてこないためでしょうか、その神聖さに疑いをもちはじめ、そのあと、〈みことば〉を読んでも、いろいろ理由をつけて、その疑いをふかめ、「これが神聖といえるだろうか」とか、「これが神のものといえるだろうか」と、自問自答します。
 このような考えが、多くの人の心に影響をあたえ、ぐんぐん大きくなり、やがては〈みことば〉がつまらない書物として捨て去られ、その結果、主と人間とのあいだの結び目が失われてしまっては大へんです。それで主は、〈みことば〉の霊的意味を啓示し、〈みことば〉にはどこでも、神聖さが隠されていることを知らせてくださいました。ここで、そのいくつかを例示してみましょう。
 〈みことば〉には、エジプト、アッシリア、エドム、モアブ、アンモンの子、ペリシテ、ツロ・シドン、ゴグなどについて記していますが、このような名前が、天界や教会のことがらを意味していると知らないとするとどうでしょう。〈みことば〉は民族や国民について、あれこれ記していても、天界や教会については、わずかしか述べていないのではないか、俗世のことがらばかりで、天上のことはほんのわずかしか述べていない、と勘違いしてしまいます。しかし、かれらとその名前が何のことか知っていれば、誤謬から真理にむかうこともできます。
(2) おなじように、〈みことば〉には、庭園、林、森と、オリーブ、ブドウ、スギ、ポプラ、カシのような樹がよく出てきます。また、小羊、羊、山羊、子牛、雄牛もよく出てきます。それに、山、丘陵、谷、そこにある泉、川、水、また、それと同じようなものがたくさんでてきます。〈みことば〉の霊的意味について何も知らない場合、人は文字どおりに理解した範囲にしか分かりません。「庭園」「林」「森」が、英知、理知、知識のことであることなど分からないでしょうし、「オリーブ」「ブドウ」「スギ」「ポプラ」「カシ」などの樹木が、教会の善と真理、しかも天上的なもの、霊的なもの、理知的なもの、自然的なもの、感覚的なものを表していることなども、分からないでしょう。それに、「小羊」「羊」「山羊」「子牛」「雄牛」が、純粋無垢、仁愛、自然的愛情を表わしており、「山」「丘陵」「谷」は、教会の高貴な部分、より低い部分、最低の部分を表わしていることなども、分からないと思います。
(3) 「エジプト」は科学的知識 scientificum 、「アッシリヤ」は理性的なもの rationale 、「エドム」は自然的なもの naturale 、「モアブ」は〈善のけがし adulteratio boni〉、「アンモンの子」は〈真理のけがし adulteratio veri〉、「ペリシテ人」は、仁愛の欠けた信仰、「ツロとシドン」は、〈善と真理の認識〉、「ゴグ」は、〈内部が欠けた外面的信心〉のことです。ごく大ざっぱに言って、〈みことば〉で「ヤコブ」は、自然的教会を意味し、「イスラエル」は、霊的教会を意味し、「ユダ」は、天上の教会を意味します。人が以上のことを知ってくると、〈みことば〉は、天界のことしか取り扱っていないこと、この世のことは、天界をささえている土台でしかないことが分かってきます。ただし、〈みことば〉からも、これを明らかにしてみましょう。
(4) イザヤ書には、次のようにあります。
「その日、エジプトから、アッシリヤに通う大路があって、アッシリヤ人はエジプトに、エジプト人はアッシリヤへ行き、エジプト人は、アッシリヤ人とともに、主に仕える。その日、イスラエルは、エジプトとアッシリヤとともに、三つあい並び、全地のうちで祝福をうけるものとなる。万軍の主は、これを祝福して言われる、『さいわいなるかな、わが民エジプト、わが手のわざなるアッシリヤ、わが嗣業なるイスラエル』」(イザヤ19・23〜25)。
 以上の霊的意味は、主のご到来と同時に、科学的知識も、理性的なものも、霊的なものも、ひとつになるということです。そのとき、科学的知識は理性的なものに仕え、その両者は霊的なものに仕えるということです。つまり、前述のように、「エジプト」は科学的知識、「アッシリヤ」は理性的なもの、「イスラエル」は霊的なものを意味し、「その日」と二度でてくるのは、主の到来の第一回目と、第二回目を意味します。

201. [Ⅳ] 〈みことば〉の霊的意味については、いままで知られていなかった。

 自然界に存在するものはすべて、そのひとつひとつが霊的なものに相応しています。またそれと同時に、人間の体にあるものもすべて、そのひとつひとつが、霊的なものに相応しています。これは、『天界と地獄』(87〜105節)で述べました。ただし、相応 Correspondentia とは何かについては、今日まで、まだ知られていません。
 とにかく、最古代では、それがごくあたりまえでした。その当時生きていた人たちにとって、相応の知識は、知識のうちの知識でした。それは、知識・学問にかんする書物・巻物の類は、すべて相応で書かれていたほど、一般的でした。古代教会の書である『ヨブ記』は、相応であふれています。エジプトの象形文字や、太古の物語なども、その例外ではありません。
 古代教会は、全般にわたって、霊的なものの表象の教会 ecelesiae repraesentativae spiritualium でした。その教会の儀式とか、その儀式制定上の規則は、まぎれもない相応からできていました。イスラエルの子孫たちの教会も、みんなそうです。燔祭とか、犠牲祭とか、食べ物・飲み物の供物類は、その一部始終、相応によるものでした。幕屋とその中に置いたものも全部そうです。かれらが行った祭りの行事、たとえばタネなしパンの祭、幕屋祭、初穂祭も、相応です。アーロンやレビ族の祭司職、祭司たちの衣服もそうです。あれこれの相応のもとになる霊的な由来は何か、それについては、『天界の教義 Arcana Caelestia』(ロンドン)に述べられています。それ以外にも、かれらの信仰生活と日常にかんする規定や判定には、相応がとり入れられていました。
 この世にある神的なものは、相応にもとづいて現れます。だからこそ、〈みことば〉も、まちがいなく相応にしたがって書かれています。主は、神のみこころから語られたわけですが、それも相応をとおして語られました。神よりのものは、この自然の中では、〈神よりのものに相応する事物〉、つまり〈天的・霊的と言われる神よりのものが隠されている事物〉に、呼応するわけです。

202202. 大洪水以前の人たち、つまり最古代教会の人たちは、天界の天使たちと語り、しかも相応をとおして、天使たちと語りあうことができたそうです。だからかれらは、地上にあるものに何か目をとめるとき、それについて自然的に考えるだけでなく、同時に霊的にも考え、その結果、天界の天使たちとむすばれるような英知をもっていました。
 また、わたしが聞いたことですが、(創世記5・21〜24にある)エノクは、その仲間といっしょに、仲間のくちから、相応する事柄をあつめ、その知識を自分の子孫たちに広めたということです。それがもとで、相応の知識は、アジアにある諸国に知られるようになったばかりではありません。まずは、カナン、エジプト、アッシリヤ、カルデヤ、シリヤ、アラビヤ、ツロ、シドン、ニネベでそれが栄え、それがさらにギリシャ語に訳されました。ただしそこで神話化されてしまいましたが、それについては古代文書が示しているとおりです。

203203. 相応の知識は、アジアにある諸民族のあいだで、長期にわたって保存されましたが、それを保存したのが、いわゆる「易者 divinatores」や、「知者 sapientes」で、ある人たちからは、「占星師 magi」と呼ばれました。それを例証するため、サムエル記上の5、6章をあげてみたいと思います。
 そこに記されていることは、十戒が刻みこまれている二枚の石板をおさめた神の箱 arca が、ペリシテ人にうばわれ、アシドドにあるダゴンの神殿に置かれたそうです。しかもダゴン像は、神の箱のまえで、地上にたおれ、そのあと、像の頭部も、両手首も、切りはなされ、神殿のしきいの上に落ちたといっています。アシドド人も、エクロン人も、その神の箱のために、体が腫物だらけになり、地はネズミで荒らされました。すなわち、金で腫物を五つ、ネズミを五つ作り、荷車を一台新しく作って、そのうえに神の箱を置き、そのそばに、金製の腫物とネズミを捉え、雌牛二頭に引かせます。牛は道中、車のまえを鳴きながら歩いて、神の箱をイスラエルの子たちに返しますが、その雌牛と車は、イスラエルの人たちによって、犠牲として焼かれ、こうしてイスラエルの神との和解が成立します。

 以上は全部、ペリシテ人の占い師によって考案されたことです。これは相応によるものでした。それは、それぞれがもっているシンボル的意味によります。「ペリシテ人」というと、愛から切りはなされた信仰を持っている人のこと、「ダゴン」は、そのような宗教意識をあらわしています。かれらは、「腫物」にやられたといいますが、それは、自然的愛のことです。自然の愛は、霊的愛から切りはなされると、汚れたものになります。また、「ネズミ」は、真理をひん曲げることによって起こる教会の荒廃のことです。「新しい車」は、自然的教会がもっている教義のことです。〈みことば〉で「車」とは、霊的真理からくる教義のことだからです。「め牛」は、自然的な範囲での〈善良な情愛〉のことです。「金製の腫物」とは、自然的愛でも、浄化され善良になった場合です。「金製のネズミ」は、善によって、教会の荒廃がおしとどめられた状態です。〈みことば〉で「金」は、善を意味するものだからです。「め牛が道中鳴く」ということは、人間の自然的悪からくる欲望が、善良な情愛に転じることのむずかしさを言っています。車もろとも、め牛が燔祭としてささげられるとは、このようにして、イスラエルの神がなだめられるという意味です。ペリシテ人が占い師たちのすすめに従ってやったことは、全部、相応でした。そこで相応の知識は、いろいろの民族のあいだで、長期間保存されていたことが分かります。

204204. 当時の教会の祭儀は表象的で、相応をもとにしたものでしたが、それも時がたつと、偶像化しはじめ、さらに魔術的になっていきました。その結果、主の神聖な摂理のもとで、相応の知識はだんだん衰え、イスラエルとユダヤ民族のうちでは、完全に消滅してしまいました。この民族が守っていた祭儀は、相応そのものから成っていて、天界にあるもののシンボルでしたが、かれらは、それが何のことか分かっていませんでした。かれらときたら、徹底した自然的人間で、霊的なことがらや天上的ことがらについては、何も知ろうとしなかったし、知ることもできませんでした。
 だから、相応など分かるはずはありません。相応とは、「霊的なものや天的なものの表象 repraes entationes を、自然的なもののうちに見ること」だからです。

205205. 諸民族がもっていた偶像なども、むかしは、相応の知識から生まれたものです。それは、地上に現れてくるものは、どれもこれも相応物だったからです。樹木だけでなく、各種の動物・植物、それに魚類その他みんなそうでした。相応の知識をもっていた古代人は、天界にあるものに相応する像をつくって、それにたのしみを覚えました。それが天界と教会に関係のあるものの縁になったからです。だから、かれらはそれを自分たちの宮に置いたり、自宅に据えたりしましたが、拝むためでなく、それが意味する天上物を思いださせるためでした。エジプトには、子牛、雄牛、蛇の像をすえているところがあり、少年、老人、おとめの像があります。「子牛」や「雄牛」は、自然的人間の情愛や力をあらわし、「蛇」は、感覚的人間がもっているずるがしこさを示します。「少年」は、純真無垢と仁愛をあらわし、「老人」は英知を、「おとめ」は、真理への情愛をあらわすなど、さまざまです。
 相応の知識が失われてくるにつれ、子孫たちは、古代の人たちが宮の中やその近辺にいろいろな像を置いているのを目にして、それを神聖なものとして崇め、しまいには神託を告げるものとして、拝みはじめたのでした。
 古代人にとって、庭園や森林には、樹木の種類にしたがって、祭儀を行いました。また山や丘のうえでも、行事をありました。「庭園」とか「森林」は、英知や理知をあらわし、樹木の一本一本にも、なんらかの意味がありました。たとえば、「オリーブの木」は、愛がもっている善をあらわし、「ぶどうの木」は、その善からくる真理をあらわし、「杉の木」は、理性的な善と真理をあらわします。「山」は、最高の天界をあらわし、「丘」はその下にある天界をあらわします。主がこの世に来られる前まで、多くの東洋人のあいだで、相応の知識が保たれていたことは、主のご降誕にあたって、東方からやってきた賢者たちを見ても分かります。
 「それで星にみちびかれ、『黄金、乳香、没薬』をたずさえてきた」(マタイ2・1、2、9〜11)
 ここで、かれらをみちびいた「星」は、天界からの認識をあらわします。「黄金」は天上の善をあらわし、「乳香」は霊的善をあらわし、「没薬」は自然的善をあらわします。そしてあらゆる祭儀は、以上の三つから成っています。ただし、イスラエルとユダヤの民族にモーセから与えられた祭儀・律法・掟のすべてと、〈みことば〉のすべては、相応以外のなにものでもなかったのに、かれらのもとで、相応の知識はまったく姿を消していました。そのわけは、かれらは根っからの偶像崇拝者だったため、自分たちの祭儀が、天上的なものや霊的なものを表しているのを認めたくなかったのです。
 かれらは、あらゆるものが、それ自身から神聖である sancta ex se と思っていました。したがって、天上的なものや霊的なものが、かれらの目についたら、それを拒否したでしょうし、冒涜したにちがいありません。それゆえ、〈永遠のいのち〉があるなど、全くわからなくなってしまったほど、かれらには天界が閉ざされていました。だから、かれらは全聖書が主について預言し、主の到来を告げているにもかかわらず、主をみとめようとしなかったわけが分かります。かれが主を拒否した理由はただ一つ、主が天上の王国について教えても、この世の王国について、何も教えなかったからです。かれらが望んでいたメシヤは、全世界、全民族のうえに、自分たちを高めてくれるメシヤだったわけで、永遠の救いについては、どうでもよかったのです。

206206. 〈みことば〉の霊的意味は、相応の知識をとおして分かってくるものですが、その相応の知識は、それ以来あったためしはありません。初代教会のキリスト信者たちは、ごく単純素朴だったので、この種の知識が、目前にあらわにされるわけにはいきませんでした。あらわにされると、かれらには全く用をなさないか、理解されないことでしょう。
 そのあと全キリスト教世界にわたって、暗黒時代がおとずれます。それはとくに、各種各様の異端がはびこったためです。そのあと、〈永遠のむかしからまします神聖三位格〉とか、〈神エホバの子としてでなく、マリヤの子としてのキリストの人格〉について、ニケア公会議の協議と決定がありました。そこから流れてきたのが、現代の義認信仰で、そこで三つの神がそれなりの役割を占めることになります。
 人間の肢体が頭部に依存しているように、現代教会の教えは、ことごとくその信仰に依存していることになります。なぜなら、〈みことば〉という〈みことば〉が、このあやまった信仰の立証に利用されたりすると、霊的意味の現れるチャンスを失うからです。たとえ現れたにしても、その霊的意味を誤謬信仰にあてはめてしまうでしょうし、それによって〈みことば〉の神聖さを汚すでしょう。このようにして、みずから天界を完全に閉じ、教会から主を追い出してしまうでしょう。

207207. 今や、霊的意味をあらわすための相応の知識が啓示されました。つまり、教会の神的真理が、今になって光のもとに照らされたわけです。〈みことば〉の霊的意味のみなもとです。この真理が人のうちにあるあいだ、〈みことば〉の文字の意味は、くつがえされません。
 〈みことば〉の文字の意味というものは、あちこちに曲げられる可能性があります。曲げられれば、偽りと化し、内部にある神聖な性格は、外部もろとも、くずれ去ってしまいます。ただし、それが真理のほうに向かえば、内部はとどまります。これについては、これからいろいろと述べていくつもりです。
 霊的意味が、いまや明らかになってきたということは、天が開かれたのを見たヨハネや白馬のこと、太陽のまん中に天使が立って、すべての者が大宴会に招かれたということ[これについては、『黙示録』19・11〜18参照]、からも分かるでしょう。
 それが長いあいだ認められなかったということは、白馬に乗っているお方と一戦まじえようとしている獣や地の王たちの話からも分かります。また子供を産んだ女を砂漠に追いこみ、その口から川のように水を出して、女を溺れ殺そうとした龍の話からも分かります。