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真のキリスト教


第一章 創造の神について

 Divinum Esse にましますエホバ

18節-24節

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18・ 最初、「神存在 Divinum Esse 」について、それから「神の本質 Divina Essentia」について考えてみましょう。両者ともおなじことを言っているようですが、「存在 Esse 」は、「本質Essentia 」より、もっと普遍的意味あいをもっています。本質は存在を前提にし、その存在から、本質が生まれます。神存在については、人間のありとあらゆる概念思考を越えているので、書きあらわすことは、できません。人の考えに浮かんでくるのは、みんな造られたもの、有限なものであって、造られないものとか、無限なもの、つまりは神存在など、浮かんできません。神存在は、万物のみなもとであるとともに、万物がこれからも存在しつづけられるように、万物のうちにまします〈存在そのもの ipsum Esse 〉です。さて、神存在については、次の各章にしたがって、さらにつっこんだ考察をしていこうと思います。

[Ⅰ] その唯一の神は、存在 Esse の源である点で、「エホバ Jehovah」と呼ばれる。つまりひとりの神として、存在される方、存在された方、存在をつづけられる方である。最初 Primusであるとともに最後 Ultimus である方、初め Principium であるとともに、終わり Finis である方、アルパであるとともにオメガである方である。

[Ⅱ] その唯一の神は、実体そのもの ipsa Substantia、形相そのもの ipsa Forma である。天使も人間も、それに由来する実体であり、形相である。そして天使と人間は、その神のうちにあり、神がまたかれらのうちにいますかぎり、神の面影とイメージを宿すものとなる。

[Ⅲ] 神は、〈みずからのうちに存在する方 Esse in se 〉であるとともに、〈みずからのうちに実在する方 Existere in se 〉である。

[Ⅳ] みずからのうちに存在し実在する神は、みずからのうちに存在し実在する、もうひとりの別の神を生みだすことはできない。したがって、同じ本質をもつ別個の神はありえない。

[Ⅴ] むかしも今も、神を複数にするのは、神存在が分かっていないからである。

 以上について、それぞれはっきりさせていきましょう。


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19 [Ⅰ]その唯一の神は、存在 Esse の源である点で、「エホバ Jehovah」と呼ばれる。つまり、ひとりの神として、存在される方、存在された方、存在をつづけられる方である。最初 Primus であるとともに最後 Ultimus である方、初め Principium あるとともに終わり Finis である方、アルパであるとともにオメガである方である



 「エホバ」とは、「わたしはあってある者 Sum et Esse」という意味なのは、周知のとおりです。最古代では、神を「エホバ」と呼んでいたことは、創造の記録である『創世記』から分かります。その第一章で「神 Deus 」と呼ばれていたものが、第二章では「エホバなる神 Jehovah Deus 」となっています。そののち、アブラハムの息子たちは、ヤコブのとき以来、エジプト時代を記念してか、神のみ名を忘れてしまいました。それがまた、ふたたび思い出されるようになりました。

  「モーゼは神に言った、『・・・[その名は何というのですか]とわたしに聞くならば、何と答  えましょうか』。神は言われた、『[わたしはあってある者 Sum qui Sum]。・・・イスラエル  の人々にこう言いなさい、[「わたしは有る Sum」というかたが、わたしをあなたがたのところ  へ遣わされました]と。・・・人々にこう言いなさい、[あなたがたの先祖の神であるエホバ Jehovah が、わたしをあなたがたのところへつかわされました]と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である」(出エジプト3・131415)。

 唯一の神こそ、「わたしはあってある者」すなわち「エホバ」ですから、造られた宇宙のなかで、「みずからによって存在するもの Esse ab Ipso 」に、向かわせないものは何もないのです。それについて、これから述べるつもりですが、次の〈みことば〉からも分かります。

  「わたしは最初であるとともに、最後であり、初めであるとともに、終わりであり、アルパであるとともに、オメガである」(イザヤ44・6、黙示1・8、112213)。

 これは、最初から最後まで、唯一無比の方がましまし、そこから万物が生じてきたということです。(2) 神がアルパであるとともにオメガであり、最初であるとともに最後であるといわれているわけは、ギリシャ語では、アルファベットの最初がアルパで、最後がオメガだからです。つまり万物をひとつにまとめた言い方です。霊界では、アルファベットの一字一字に何らかの意味があり、音色に関係する母音は、ある種の情愛または愛をあらわします。霊や天使たちのコトバや文書は、それがもとになっています。

 ただしこのことは、今まで秘義 arcanum として、だれも知りませんでした。ところが事実、これは普遍的な言語で、天使や霊たちはみんな使っています。ただこの世の人間のコトバとは、何の共通点もありません。死んでから人間は、みんなこのようなコトバをつかうようになりますが、その言語は、創造とどうじに、人間みんなに植えつけられたものなのです。

 だから全霊界にわたって、だれでも他の者が言っていることがわかります。わたしは何回となく、そのようなコトバを聞かされました。そして、この世の言語と比較してみて、地上の自然的なコトバとは、全然ちがっていることに気づきました。なにしろ、それぞれの母音をともなう文字の一つ一つが、ある事柄を意味しているという点で、その構成の始まりから違うのです。

 ですから、神がアルパであるとともにオメガであるということは、神ご自身が、最初から最後まで、唯一無比の方で、その方から万物ができているということです。天使たちの霊的な考えからあふれ出てくるコトバや文書については、『結婚愛 De Amore Conjugiali』(326~329節)と、これから申しあげることを参考にしてください。


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20 [Ⅱ]その唯一の神は、実体そのもの ipsa Substantia、形相そのもの ipsa formある。天使も人間も、それに由来する実体であり、形相である。そして天使と人間は、その神のうちにあり、神がまたかれらのうちにいますかぎり、神の面影とイメージを宿すものとなる


 神は存在者 Esse にましますかぎり、実体 Substantia でもあります。存在していながら実体ではないとすると、それは架空の存在 ens rationis でしかありません。実体とは、存続する存在 ens  subsistens 以外のなにものでもないのです。実体なら、形相 forma でもあります。形相のない実体もまた、架空の存在になってしまいます。ということで、神は実体であるとともに形相ですが、それも唯一無比の形相で、第一のもの、形相そのものです。

 さて、この神の形相は、それ自身として人間の〈かたち〉を帯びているということ、つまり神は、人間そのもの Ipse Homo にましまし、しかもそれが、万事かぎりない方であるということについては、『神の知恵と愛 Sapientia Angelica de Divino Amore et Divina Sapientia 』(一七六三年、アムステルダム)に述べられています。つまり天使とか人間とかは、天界をとおして、みずからあふれさせている神性 Divina を受けいれることができるよう、造られ整えられた実体と形相のことなのです。

 だから『創世記』には、人は、神のイメージであり、似姿であるといわれています(創世1・2627)。また他の箇所にもあるように、人は神から生まれた神の子供です。そして、神のみこころにそって生き、神によってみちびかれれば、それだけますます内面的に深まって、神のイメージを宿すようになるということが、それにつづく記録のあちこちに記されています。

 神は最初の実体、最初の形相で、それは人間の〈かたち〉をしています。この考えを否定すると、人間の精神は、神ご自身についても、人間の出生についても、世界の創造についても、たやすく妄想や幻想に落ちこみます。神については、原初の状態にある自然宇宙とか、宇宙のひろがりとか、虚空 inane とか、無 nihilum の概念をいだくようになるでしょうし、人間の出生については、偶然の積み重ねで、元素が合体して形をなしたものと思うでしょう。また世界の創造については、地理上の一点が出発になり、それから次第に線になって、実体や形相に発展していったと言っても、何のことだか、さっぱり分かりません。こんなふうに考える人にとっては、教会が言っていることは、みんな陰府の国の暗がりでしかありません。

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21・ [Ⅲ]神は、〈みずからのうちに存在する方 Esse in se 〉であるとともに、〈みずからのうちに実在する方 Existere in se 〉である



 神エホバは、みずからのうちに存在する方です。なぜなら神は、「わたしはある方 Sum」・それ自身である方 ipsum ・唯一無比の方・最初である方・永遠から永遠にいたる方・何物かが存在するときの〈みなもと〉となる方だからです。最初であるとともに最後である方・初めであるとともに終わりである方・アルパであるとともにオメガである方なのです。このみずからある方は、みずからによって a se 存在しているのではありません。そうなると、みずからが出発となって ex se ponit prius、時間のうちにあることになり、無限でないことになります。これを、永遠のむかしから ab aeterno 存在すると言ったところで同じです。そうすると、みずから存在するもうひとりの神を、想定することになります。すなわち、「神よりの神 Deus a Deo」が存在すれば、神がご自身をかたちづくられたことになり、造られない無限の神ではなくなります。みずからが、みずからによって、または他の何かで、規定されることになるからです。

 神が〈みずからのうちに存在する方〉であるということは、みずから愛である方 Amor in se 、みずから英知である方 Sapientia in se、みずから生命である方 Vita in se 、そして、万物が何ものかとして存在するときかかわる存在の〈みなもと〉である方のことです。神はみずから〈いのち〉にましますからこそ、神です。このことは、ヨハネによる福音書(5・26)やイザヤ書の主の〈みことば〉から明らかです。

  「わたしは主 Jehovah である。わたしはよろずの物をつくり、ただわたしだけが、天をのべ、地をひらき・・・」(イザヤ4424)。

 神はおひとりです。そして神ご自身以外には、神は存在しないのです(イザヤ4514152122、ホセア13・4)。神は、〈みずからのうちに存在する方 Esse in se 〉だけでなく、〈みずからのうちに実在する方 Existere in se 〉です。というのは、存在も実在するのでなければ、何ものでもないからです。それは、実在も、存在するのでなければ、何ものでもないのと同じです。存在と実在は表裏一体です。それとおなじように、実体のない形相も考えられません。実体に形がなかったら、それについて何かを述べることはできません。それには何の性格もなく、それ自身としては、無であるということになります。

 ここで、「存在 Esse 」と「実在 Existere 」について言っているのと同じことが、「本質Essentia」と「実存 Existentia 」についても、言えるというわけではありません。というのは、存在と本質、実在と実存は、それぞれ違うからです。それは、先在 Prius と後在 Posterius との関係で、先在するもののほうが、後在するものより、普遍的であるわけです。

 ということで、神の「存在 Esse 」には、「無限」とか「永遠」というコトバがあてはまり、神の「本質 Essentia 」とか「実存 Existentia 」には、神の「愛」や「英知」があてはまります。そこから、「全能」とか「全知」という二つの属性も分かってきますが、これについては順序よく説明していくつもりです。

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22・ 神はみずから存在し、唯一無比で、最初にあり、みずからのうちに存在・実在し、しかも万物が存在・実在するための〈みなもと〉です。自然のままの人間は、自分の理性からは、そういったことは何も理解できません。自然の人間が、理性の力で考えて分かることといえば、自然に属することだけです。人間の自然理性にとっては、それが本質にかなっていることで、幼児期から年少期にいたるまで、自然に属することだけしか入ってこないのです。

 とは言っても、人間はまた霊であって、死んだのちも生きつづけるよう造られており、霊たちの世界で、霊たちの仲間いりをします。だからこそ、神は〈みことば〉によってご自身を啓示し、天界や地獄があることを教えてくださいました。しかも人間は、みんな天界か地獄かのどちらかで、自分の〈いのち〉と信仰にもとづいて、永久に生きるのです。

 神はまた、〈みことば〉によって、「わたしはある」方、すなわち存在者であり、みずからのうちに、それ自身として存在する唯一無比の方、最初であり、初めであり、万物存在の〈みなもと〉であることを、啓示してくださいました。

(2) 自然のままの人間も、この啓示あってこそ、自然を越え、自分を越えて、神の属性を見ることができるようになります。それも遠くから眺めるような感じです。もちろん神は、人間のそば近くにおられ、本質のうえでは人間のうちにおられます。神は、神を愛する人間のそばにおられるのです。神を愛する者とは、神のご命令にしたがって生き、神を信じる人のことです。そのような人たちは、神を見るといえます。

 信仰とは、霊的視力のことでなくて何でしょう。神のご命令にしたがって生きるとは、救いと永遠のいのちが神からくることを、実際にみとめることではないでしょうか。ところが、霊的な信仰ではなく、自然的な信仰の場合、ただの知識であって、その〈いのち〉も疑似的なものにすぎません。それでも神を見るといえますが、遠くから眺めているだけで、しかも神について話しているときにかぎります。それはちょうど、明るい光のもとに立って、すぐそばに人間の姿を見て、その人に触れることができる場合と、深い霧のなかにとざされたまま、そこにいるのが人間なのか樹木なのか岩なのか、見わけがつかない場合のちがいに似ています。

(3) あるいはまた、高い丘のうえにある街で、町の人たちと、あちこち歩きまわってはしゃべっている場合と、その丘から見おろして、下にいるのが人間なのか動物なのか銅像なのか、見わけがつかない場合のちがいのようです。あるいはまた、ある惑星にいる人が、仲間をそばで見ている場合と、別の天体にいて、望遠鏡を手にしてその惑星を眺め、そこに人間が見えると言っている場合とのちがいのようです。後者の場合、実際に見えるのは、衛星の明るい部分にある土地と、斑点のように見える水でしかありません。

 そのように、神を見たり、神から発する属性を心で思いめぐらす人にも、〈信仰と愛のいのち〉でうけとめている場合と、それを知識だけでうけとめている場合とでは、ちがってきます。ここに霊的人間と、自然的人間とのあいだの相違がうまれます。自然的人間は、〈みことば〉が神聖であることを否定するだけでなく、宗教を荷物として背中に負うているようで、神を見るのでなく、オウムのように神を口ずさんでいるだけなのです。


23 [Ⅳ]みずからのうちに存在し実在する神は、みずからのうちに存在し実在する、もうひとりの別の神を生みだすことはできない。したがって、同じ本質をもつ別個の神はありえない。


 今まで述べてきたことは、神はただおひとりで、宇宙の創造主であるとともに、みずからのうちに存在・実在し、みずからのうちにまします神 Deus in se であることです。ですから、「神よりの神 Deus a Deo 」は不可能です。なぜなら、みずからのうちに存在し実在しておられるという神の本質そのものが、それを不可能にしているからです。神から生まれるといっても、神から発するといっても、それはおなじことで、つまりは神によって造られることになるわけで、創造とちがわないことになります。

 したがって、神には三つの位格があり、そのおひとりおひとりが神で、同一の本質をもち、別個のおひとりが永遠のむかしから生まれ、第三の神は永遠のむかしから発した方であるという信仰が、教会にもちこまれましたが、これは神の唯一性 unitas Dei を全面的にくずします。しかも、神とは何か分からなくなるばかりか、理性にもとづく霊の働きを、ことごとく追いはらってしまいます。

 したがって、こうなると人間はもう人間ではなく、話すことができるという以外は動物とちがわないほど、全く野生的になります。こうして教会がおしえている霊性とは、似ても似つかないものになってきました。それというのも、自然のままの人間は、教会の霊性をタワゴトだと言っているからです。だからこそ、神について奇怪な異端が、次から次へと起こりました。位格に分割してしまった三位一体説が教会にもちこんだものは、ただ夜の闇であっただけではありません。死をもちこみました。

(2) 神には三つの本質があり、それがみんな同じであるということ identitas trium

Essentiarum Divinarum は、理性をつまずかせます。天使たちから聞いてわかったことですが。かれらは、おたがい平等の神が三つ存在することなど、口にも出てこないそうで、もしだれかが来て、そんなことを口にしようものなら、本人自身がはじき出されてしまうそうです。それを口にした途端、丸太のように硬直して、身を下方に投げ、そのあとは、地獄にいる無神論の徒にくわわります。幼少期に、神の三位説を植えつけられてしまうと、どうなるでしょう。三位説には三神論がつきものです。それで心を固めてしまうと、霊の乳も食物も断たれ、理性的判断ができなくなり、やがて霊の面で死んでいきます。

 宇宙の創造主であるひとりの神を信じ、その神をあがない主、再生の神としてあがめる者は、ダビデ時代のシオンの都か、神殿建設あとのソロモン時代の都エルサレムのようです。それにたいし、三位の神を信じ、三位のそれぞれが独立した神であると信じる教会は、ヴェスパシアノ帝によって破壊され、神殿は火をつけられたシオンの都エルサレムです。

 ひとりの神を信じ、そこに神としての三つのご性格 Divina Trinitas がありながらも、位格はひとつであると信じている人の場合、いのちにあふれ、天人 homo angelus になります。それにたいし、複数の位格からなる複数の神を信じる者は、可動式鉄骨でつくられた台の上に、サタンが立っているようで、そこからサタン式口調で話す声がきこえてきます。


24 [Ⅴ]むかしも今も、神を複数にするのは、神存在がわかっていないからである。


 8節で、前述したように、神がおひとりであることは、人の心のなかに刻みつけられています。これは、神から人の魂のなかに注がれる流入のなかでも、芯になることです。ところが、人が神にむかってのぼっていくには、手段となる認識力が必要ですが、それが足りないので、この流入が、人間の理性にまでくだってきません。人はみんな神への道を自分で準備するわけで、それは認識力をとおして、受けいれ態勢をつくります。

 認識力 cognitiones が不足すると、どうなるでしょう。神がおひとりであること、しかも神は独一的存在でなくてはならないこと、全自然界はその神によることなどが、理性的な直感力でも見とおせなくなります。そのため、次のようことが、分からなくなります。

① 霊界には、霊や天使がおり、人は死んだのち、かならずそこへ行くこと。

② その霊界には、中央に神エホバによる純粋の太陽がましますこと。

③ その太陽から、愛を本質とする熱と、英知を本質とする光が出てくること。

④ 霊界にあるものはすべて霊的で、人間の内部に影響をおよぼし、それが意志と理性をはたらかせ  ていること。

⑤ 神エホバは、ご自身の太陽を〈みなもと〉として、霊界をつくられ、無数にある霊的実体をすべ  てお造りになったこと。また自然界を造られ、無数に存在する自然的物質も、すべて造られたこ  と。

⑥ いままでだれも、霊的なものと自然的なものとの違いが分からず、まして霊的なものの本質が何  なのか分からなかったこと。

⑦ 愛と英知には三つの段階があり、それにもとづいて、天使のいる天界は秩序づけられていること。 人間の心はそれと同じように、三つの段階に区分されているが、それは各自が、自分の〈いのち〉  と信仰にもとづいて、死後三層の天界の一つにあげられるためであること。

⑨ 以上のようなものもすべて、神なくしては、その片鱗さえ存在するようにはならない。神とは、  みずからのうちに存在し、万物のみなもとで、最初であるとともに、始源である方であること。 以上が分かるためには、心を高くあげ、神をみとめることができる認識力が必要ですが、それが欠けていたのです。

(2) 「人はのぼっていく homo ascendit」と言われますが、これは「神によってあげられる a

Deo elevatur 」という意味です。人は何かを認識するにも、それを準備するための自由意志があります。そして理性を媒介として、〈みことば〉から何かを認識するさい、神がくだって人間をひきあげてくださる一連の過程があります。人の理性は、認識をとおしてのぼっていきますが、それは神が、み手をもって、人をささえ導かれているからです。その認識の過程は、ヤコブが見た階段 gradus

scalae に比べられます。階段は地面に支えられ、その上部は天にとどき、そこを天使たちがのぼり、エホバはそのうえに立っておられます(創世281213)。

 このような認識がなく、人がそれをないがしろにしている場合は、まったくちがっています。そのとき理性は、壮麗な宮殿の一階にある住まいの窓にむかって、地上からはしごがかけられている状態にくらべられます。人々はそこに留まったままで、霊が住んでいる二階の窓にまでとどきませんし、まして、天使のいる三階の窓にはいたりません。そこで人は、自然の物質的大気のなかで、眼と耳と鼻を働かせて、じっとしているにすぎないのです。そこからは、天界とか、神の存在や本質については、物質的・気分的な考えしか浮かんできません、人は神について考えても、存在するかどうか、唯一か多数かなどについても、判断がくだせませんし、まして神の存在や本質について、思いめぐらすことはできません。古代でも現代でも、多神教がうまれたのはそのためです。

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