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真のキリスト教


第四章 聖書・主の<みことば>

1.聖書、すなわち<みことば>は、神の真理そのものである。

189節~192節

189 190 191 192

189. 〈みことば〉は、神よりのもの、神によって霊感をうけたもの、神聖なものであることは、だれもが口にしています。ただし、その〈みことば〉の中のどこに神聖なものが宿っているのか、今まであまり知られていません。それは文字に記された場合、〈みことば〉は、ごくありふれた書物、しかも外国語で書かれていて、文体も高尚でまばゆいばかりというわけではないし、世間の書物に比べ、体裁も変わらないからです。
 したがって、自然こそ神であると思い、神よりも自然を崇拝している人、つまり自分なりに自分の我をもとにして考えてはいても、主によって、天界の光で考えようとしない人は、〈みことば〉について、たやすく誤謬におちいり、〈みことば〉を軽視するようになります。それを読んでいても、「これはいったい何だ」、「あそこには、どんな意味があるのか」、「これが神よりのものなのか」と、自問自答します。
 また「無限の英知をもつ神が、こんなふうに言えるのか」、「神聖だといっているけれど、それはどこにあり、どこからくるのか」、「それは、宗教家が言っていることで、しかも人に信じこませているのではないか」と言います。

190. このように考えている人は、天地の神である主エホバが、モーセや預言者をとおして、〈みことば〉を語られたとは考えません。また、主は神の真理である、なぜなら主は、エホバそれ自身としてお語りになったから、とも考えません。そればかりか、エホバと同一のお方である救い主であられる主が、福音書の記者をとおして〈みことば〉を語られたこと、ご自身の口をとおしても多くを語り、聖霊の口でもある〈霊のいぶき〉で、その他にも種々語られ、それも十二人の使徒をとおしてなされたことについても、分かっていません。主は、口ずから言われているように、霊であり〈いのち〉です。照りかがやく光です。真理です。それは、次の箇所からも、はっきりします。イエスは言われました、
「わたしがあなた方に話した言葉は、霊であり、また〈いのち〉である」(ヨハネ6・63)。  
また、ヤコブの井戸のそばで、ひとりの女性にむかって言われます、 「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、水を飲ませてくれと言った者が、だれであるか知っていたら、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらうことであろう。・・・わたしが与える水を飲む者は、いつまでも渇くことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の〈いのち〉にいたる水が、わきあがるであろう」(ヨハネ4・6、10、11、14)と。
 「ヤコブの井戸」とは、〈みことば〉のことです(申命記33・28にもあります)。したがって、〈みことば〉にまします主が、そこに座って、女と話しておられたのです。「生ける水」とは、〈みことば〉の真理です。
「イエスは言われた、『だれでも渇く者は、わたしのところに来て飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から、生ける水が川となって、流れ出るであろう』と」(ヨハネ7・37、38)。ペテロは、イエスにむかって言われました、
「永遠の〈いのち〉の〈みことば〉をもっているのは、あなたです」(マルコ13・31)。また、イエスは言われています、
「天地は滅びるであろう。しかし、わたしの言葉は滅びることはない」(マルコ13・31)。
 主の〈みことば〉は、真理であり、〈いのち〉です。ヨハネによる福音書のなかで教えておられるように、主ご自身、真理であり〈いのち〉なのです。 「わたしは、道であり、真理であり、〈いのち〉である」(マルコ14・6)。また、
「初めに〈みことば〉があった。〈みことば〉は神とともにあった。神は〈みことば〉であった。・・・この〈ことば〉に〈いのち〉があった。この〈いのち〉は、人の光であった」(ヨハネI・1〜4)。
 〈みことば〉とは、〈神の真理の面からみた主〉のことで、そのうちにしか、〈いのち〉も光もありません。だから、主によって語られた〈みことば〉は、主のことです。つまり、主は、「生ける水の泉」(エレミヤ2・13、31・9)、「救いの泉」(イザヤ12・3)、「泉」(ゼカリヤ13・1)、「生ける水の川」(黙示22・1)なのです。そのため言われていることは、
「み座の正面にいます小羊は、かれらの牧者となって、いのちの水の泉に、導いてくださるであろう」(黙示7・17)
 その他の箇所でも、〈みことが〉は、「至誠所」「幕屋」と呼ばれ、主が人とともに住まわれる場所を意味します。
 
191. とは言っても、自然のままの人間は、以上で示された〈みことば〉が神の真理そのもので、そのうちに神の英知と神の〈いのち〉があると、納得できるわけではありません。それは、〈みことば〉を文体の面から見ているためで、それではよく分からないからです。しかし、〈みことば〉が書かれている文体は、それこそ神の文体であって、その他の書物の文体など、どんなに高尚で優美であっても、到底かないません、〈みことば〉がもっている文体は、あらゆる面で神聖 Sanctum です。その神聖な性格は、あらゆる単語のうちにあるだけでなく、場合によっては、文字自身のうちにもあります。だから、人を主にむすびつけ、天界を開くことになります。
 主から発出するものには二つあって、それは〈神の愛〉と〈神の英知〉ですが、それはまた〈神の善 Divinum Bonum〉と、〈神の真理 Divinum Verum〉とも言えます。〈みことば〉は、その本質からして、この二つです。前述したように、〈みことば〉は、人を主に結びつけ、天界をひらくわけですから、〈愛の善〉と〈英知の真理〉で満たします。つまり、人の意志を〈愛の善〉で、人の理性を〈英知の真理〉で満たします。したがって、〈みことば〉をとおして、人に〈いのち〉が与えられます。ただし、〈みことば〉から〈神の真理・泉の水〉を汲みとるよう、吸収する目的で読む人にかぎり、〈いのち〉が与えられることを知っておかなくてはなりません。それと同時に吸収した神の真理を、生活に適用したいと思う人にも限られます。〈みことば〉を読んでも、それで名誉を獲得し、この世での報いをえたいと思って読む場合は、まったく反対です。

192. 肉体には霊魂があります。それと同じく、〈みことば〉には霊的意味が内在しています。これを知らないと、どんな人でも、〈みことば〉の文字の意味でしか判断できません。〈みことば〉の文字の意味は、〈みことば〉の霊的意味にたいしては、宝物を入れておく箱でしかありません。だから、この内的意味が分からないとき、〈みことば〉の神聖な性格は分からないでしょう。それは、宝石を、外側をおおう母石で見ているようなものです。あるいは、ただの石ころのようにしか見えないことが多いのです。碧玉とか、青金石とか、石綿とか、瑪瑙から出来ている箱を見て、その中に、それなりの秩序で含まれているダイヤ、ルビー、紅しま瑪瑙、黄玉などを判別できないのと同じです。それが分からないあいだは、目に映ってくる物質の外観でしか、その箱の価値をみとめないとしても、フシギではありません。
 〈みことば〉の文字についても、同じようなことが言えます。〈みことば〉が神からのもの、神聖このうえないものであることが疑えなくなるよう、主はわたしに啓示してくださいました。それは、本質的には霊的なものである内的意味のことです。それは自然的なものである外部の感覚にたいして、霊魂が肉体に内在するように、内在しています。その内的意味とは、文字を活性化する霊です。したがって、その内的意味こそ、〈みことば〉の神性と聖性を保証するものです。そしてもし本人が望むなら、自然のままの人間にも、それを確信させることができます。