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真のキリスト教


第三章 聖霊と神のおん働き

三一の神について

185節~188節

185 186 187 188


185・ 以上に次のことをつけ加えます。第一のメモ。

霊界には、自然の世界とおなじように、気温と地帯の差があります。この世にあるものは、何でも霊界にありますが、その起源がちがっています。自然界には太陽と赤道との距離にもとづいて、気温差がうまれますが、霊界は、〈ほんとうの愛とほんとうの信仰〉から生まれる〈意志の情愛および理性の思考〉にもとづいて、気温差が生れます。
霊界にある寒冷地帯は、自然世界にある寒冷地帯とおなじように見えます。雪をかぶったツンドラや海域もあります。この世にあって、霊的なことを考えようともしないで、理性を眠らせてしまった人、そのため何の役立ちも果し得ないでいる人たちが、そこへ来て住みます。かれらは、「北国の霊」と呼ばれています。

(2) あるとき、わたしはこの北国の人たちが住んでいる寒冷地帯の一部を見たいと思いました。それで、全土が雪でおおわれ、全海域が氷でとざされているように見える北方のある地域に、霊の
状態のまま連れていかれました。その日は安息日で、人々が見えてきましたが、この世の人間とおなじくらいの背丈をした霊たちでした。ところが寒さのため、かれらは頭にライオンの毛皮をかぶり、ライオンの口をかりて口を動かしています。体は、前と後ろは腰までヒョウの毛でおおい、足はクマの毛でおおっています。またわたしは、馬車に乗っている人を大勢見ましたが、その中には龍の格好をきざんだ馬車に乗り、前の方にラッパの音を吹きならして進んでいるのもあります。しっぽを切った小馬が、その馬車を引っぱっていて、たけり狂ったケモノのように走っています。御者は手綱をしっかり手にもって、しきりに馬をせきたてています。
礼拝堂に向かう大勢の人たちが、とうとう見えてきました。その礼拝堂も雪で深くうもっていて、よく見えません。堂守たちが雪をかいて、やってくる参列者たちが入れるように、穴を掘っています。人々は下るようにして中に入っていきました。

(3) わたしは、礼拝堂のなかも見せてもらいました。ローソクや松明がたくさん立ててあって、明るくなっていました。石材の祭壇があり、そのうしろに、「父、子、聖霊の三位の神は、本質的にはひとりの神であるが、人格的には三つにまします」と記された板がかけてありました。やがて、祭壇に向かって立っていた祭司が、祭壇のところにある板にたいして、三度ひざまずき、手に書物をもって説教壇へとのぼっていき、三位の神についての説教をはじめました。かれは、次のように
叫びました、
「ああ、なんとすばらしい奥義でしょう。いと高きにいます神が、永遠のむかしからおん子を生みたまい、おん子をとおして聖霊を遣わされたこと、そしてこの三者が本質においては結びあわされ、裁き・あがない・活動という属性では、それぞれに違っているとは! ただし、それを理性で直視すると、眼が曇ってきて、視界は汚れてきます。それはちょうど、太陽を肉眼で見つめると、目がくらむのとおなじです。だからみなさん、わたしたちはこの点では、信仰にたいし理性を従順にしていなくてはなりません」と。

(4) そのあと、かれはまた叫んで言いました、「ああ、わたしたちの神聖なる信仰は、なんとすばらしい奥義なのでしょう。すなわち、父なる神は、おん子の義を人間に帰せられ、聖霊をお遣わしになりましたが、その聖霊は義の転嫁をとおして、義の保証をおこなってくださいます。それは要するに、罪のゆるしであり、刷新であり、再生であり、救いです。義の流入とか、義の働きについては、ロトの妻が化した塩の柱がそうであるように、人は何も分かっていません。また義が人のうちに住まい、その状態を保つことについても、人は海のサカナ同然の無知です。
しかし、みなさん、この信仰の中にこそ、宝が隠され、保管され、秘められていて、そのごく一部さえ、人間には分からないのです。したがってそれについても、わたしたちは信仰の従順のもとに、理性をおさえなくてはなりません」と。

(5) ちょっと息をとめてから、また叫ぶように話しました、
「ああ、選びとは、何とすばらしい奥義でしょう。神はお望みの人にたいし、お望みのときに、思し召しと、恵みそのものから、信仰をそそがれますが、神がそのような信仰をお与えになる人こそ、選ばれた人です。そして、神がその信仰を注がれるさい、人間は木の塊に過ぎませんが、注がれたあと、人間は樹木になります。善行とは、そのような樹がむすばせる実のことで、樹木は表象的な意味で、わたしたちの信仰のことです。実はかならずしも、樹木にともなうものではありません。だから樹木の価値は、実にあるわけではありません。いずれにしても、このことは異端に聞こえても、神秘的な奥義なのです。したがってみなさん、理性を信仰の従順のもとに置くべきです。」

(6) それからしばらく中断して、記憶をまさぐっていましたが、続けて言いました、
「秘義の宝庫から一つをとり出して申しあげると、霊的なことについては、人間には自由の一かけらもありません。われわれの団体の高位聖職者や指導者たちは、その神学上の法典のなかで、信仰とか救いにかんすること、つまり霊的なことがらについて、人間は、欲すること、考えること、理解することなど何もできないし、それを吸収するために、自分自身を適応させること、応用することは不可能だと言っています。だから、わたしは本気で言っているのですが、人間は霊的なことにかんしては、みずから理性をつかって考えることはできませんし、考えていることを口にすることもできません。その点では、オオム、カササギ、カラスと変わりません。霊的なことでは、人間は実際ロバなのです。人間が人間であるのは、自然的な面でだけ言えます。
しかしみなさん、とは言ってもこの点で、ご自分の理性をうらめしく思わないでください。他の問題と同様、理性を信仰に従わせることです。われわれの神学は、底なしの淵のようですから、その中に入りこむと、理性は視界を失って遭難します。でも、よく聞いてください。わたしたちは、それにもかかわらず、頭上たかくかがやく福音の光をあびているのです。もちろん、われわれの髪の毛と頭蓋骨がさまたげになって、その光が理性の内奥部に浸透してこないのは残念ですが」と。

(7) そう言い終わると、壇上から降り、祭壇に向かって祈ったあと、儀式は終わりました。わたしは、たがいに話をしている人たちの方に近づいていきました。そのなかに祭司がいましたが、その祭司にむかって、回りの人たちは、「英知に満ちあふれたすばらしいお説教には、いつまでも感謝しています」と言いました。それで、わたしはかれらに、「何かお分かりでしたか」と尋ねると、かれらは、「耳を大きくひらいて、全部聞きとりましたが、どうして分かったかどうか尋ねられるのですか。理性はその点では麻痺しているのですよ」と答えました。祭司は、それに口添えして、「聞いても理解しないあなた方は、さいわいである。あなた方の救いは、そこにあるから」と言いました。

(8) そのあと、わたしは祭司と話し、祭司が学位のある人かどうか尋ねると、かれは、「わたしは学位をもった教師です」と答えました。
それでわたしは、次のように言いました、
「先生、わたしはあなたが奥義を述べておられるのを聞きました。そのような奥義を知っておられても、その内容がお分かりにならなければ、何もご存じないことになります。それはちょうど三重の鍵をかけた宝箱のようで、それを開けて、理性で中をのぞいて見ないかぎり、それが値打ものか、ガラクタか、有害物か分かりません。イザヤ書(59・5)にあるように、マムシの卵か、クモの巣かも知れませんよ」と。
そう言った途端、祭司はおそろしい顔つきで、わたしをにらみつけました。礼拝出席者たちは、そこからしりぞいて、自分たちの馬車に乗りこみました。かれらは、パラドックスに酔いしれ、空しい言葉に迷わされ、信仰とか救いの手だてについては、何もかも暗闇にとざされたままでした。

186・ 第二のメモ

わたしはある日、人間にとって、神学的なことを考えるのは、どの精神領域に属するか考えていました。神学的なことは霊的であり、天的でもあることから、最高の領域に属することだと、初めは信じていました。一軒の家が三層に分れているように、また天使たちの住まいが、三種の天界に分かれているように、人間の精神も、三つの領域に分かれていると考えていました。
すると、天使がやって来て、こう言いました、
「真理のために真理を愛する人にとっては、神学は最高の領域にまでのぼっていきます。というのは、そこにその人の天界が存在し、天使たちがひたっている光のうちにあるからです。倫理学の場合、神学によって照らされ、感じとられる時、霊的なものとの交流があるため、神学の下、つまり第二の領域にあります。政治に関係あることは、最初は倫理道徳の下にあります。科学に関係あることは、多岐にわたっており、しかも一般的なものと特殊的なものがあって、より上層にあるものに向かう入口になります。霊的なこと、道徳的なこと、政治的なこと、科学的なことが、以上のように整理されてくると、人は正義と公正から物事を考え、行うようになります。それは、太陽の光がエーテルを通過し、さらに大気圏に浸透したあと、人間や動物や魚類の視界を照らすように、天界の光でもある真理の光は、最高の領域からはじまって、それに続くものを照らすからです。 真理のために真理を愛するのではない場合、つまり自分の名誉名声のためにだけ真理を愛している場合、それとは様子が異なっています。かれらにとって、神学的なものは、科学的なものが扱われる最外部領域で扱われています。ある人は神学と科学とを混同していますが、他の人は混同しません。同じ領域ではあっても、その下に政治的なもの、さらにその下に道徳的なものが置かれています。と言うのは、かれらの場合、上の方にあるはずの二つの領域が右側では開かれておらず、そこには公正に関する内的根拠も、正義の情愛もなく、器用さだけを示します。
それは、あたかも理知でもって話しているように、何についてでも話すことができ、道理にかなっているかのように、とりあげられた内容に、確証をあたえる器用さです。かれらがもっぱら愛着している対象は、偽りです。なぜなら、このような対象は、感覚からくる虚構に密着しているためです。だから、〈みことば〉のもとで、教義の真理を見るにあたって、生まれつきの盲人の域を出ない人が、この世にこんなにもたくさんいるのです。かれらは、真理を耳にすると、その香りで吐き気をもよおし、まいってしまうことがないよう、鼻をつまみます。ところが、偽りにたいしては、全感覚をひらいて、クジラが潮を吸いこむように、吸いこみます」と。

187・ 第三のメモ
わたしはある日、黙示録にでてくる龍、ケモノ、偽予言者などについて考えこんでいました。すると、わたしの眼前に天使の霊があらわれて、「何を考えこんでいるのですか」と尋ねたので、わたしは、「偽予言者についてです」と言いました。
そこで天使は、「偽予言者といわれている仲間の場所へ、連れていってあげましょう」と言い、しかも、「かれらは、(黙示録13章にある)地からあがってきたケモノのことで、小羊に似た二本の角があり、龍のように物を言う連中です」と言いました。
その天使のあとについて行くと、驚いたことに群衆がいて、そのまん中に高位聖職者たちがおり、キリストの功徳を信じる以外に人は救われない、善行はすすめられるが、それは救いにはつながらない、と教えているではありませんか。しかも、平信徒の場合は、まずは単純素朴な者から、教職への従順というきずなで、しっかり結びつけられていなくてはならないし、また内部では宗教心にもとづいて、愛徳の実践にはげまなくてはならない、諭しています。

(2) その中のひとりが、わたしを見るなり、「われわれの神殿をごらんになりたいですか。そこには、われわれの信仰の象徴となる像がおいてありますよ」と言いました。わたしは、近づいていって見ると、いかにも壮大な神殿があって、そのまん中に、女神像がおいてありました。深紅の衣を着け、右手に金貨、左手に真珠からできた鎖をもっています。ただし、この像も神殿も、幻想によって生まれたものでした。地獄の霊たちは、自分の心の内部をかくし、外部だけを開いて、幻想によって、何か壮大なものを表現することができるのです。
これが妄想だと気がついて、わたしは主に祈りました。するとたちまち、わたしの心の内部がひらかれて、壮大な神殿に代わって、屋根から床まで、ヒビ割れてガタガタになった一軒の家が見えました。家の中には、女神像のかわりに、頭は龍、胴体はヒョウ、足はクマ、口はライオン、まさしく「海からはいあがったケモノ」(黙示13・2)として描かれている偶像がかかっているのを見ました。床にかわって、カエルがわんさといる沼地です。その沼の下には、大きな岩があり、その岩の下に、〈みことば〉がありますが、人目に触れないよう、完全にかくされています。
わたしは、以上を見てから、案内してくれたペテン師にむかい、「これがあなた方の神殿ですか」と聞くと、かれはそうだと答えます。ところがそう答えた途端、かれの内部の目が開かれて、わたしとおなじものが見えてきました。それを見て、「これは、いったいどうしたことか」と、大声で叫びました。
そこでわたしは、それが見えてきたのは天界からの光によるので、それによって、おのおのの霊がどんな性質をもっているか、また霊的愛から分離してしまっている信仰が、どんなものかが分かると言いました。

(3) そうしているうちに、東風が吹いて、神殿の幻想をふきとばし、沼地をかわかし、〈みことば〉をささえている岩をあらわにしました。それから天界から春の温かい空気が吹きこんできたかと思うと、なんと、外見ではごく簡単に見える天幕が、そのおなじ場所にあらわれたではありませんか。わたしのそばにいた天使たちは、「あれはアブラハムの幕屋です。三人の天使がやってきて、イサクの誕生を告げたのは、あの幕屋です。ちょっと見たところ簡単な格好をしていますが、天界からの光の流入で、ますます壮大なものに見えてきます」と言いました。
やがてかれらにも、天界がひらかれ、そこに英知をやどしている霊的天使がいるのがわかりました。そしてそれが光の流入によって、エルサレムの神殿に似た天幕であることに気づいたのです。わたしは、それに目を注いでいると、土台石が見えてきました。それには〈みことば〉が置かれ、そのまわりは宝石でちりばめられ、側面にむかって、まばゆい光を放っています。側面の壁の上には、ケルビムの格好をした者がいて、その壁をとりどりの色で美しく照らしています。

(4) わたしがそれに目をまるくしていると、天使たちは、「もっとすばらしいものが見えてきますよ」と言いました。すると、第三天界がひらかれました。第三天界には、愛を宿している天的天使たちがいます。見ると、燃えるような光が流れてきて、先の神殿が消え去り、そのかわりに、〈みことば〉である土台石のうえに、主おひとりが立っておられるのが見えました。それは、ヨハネに現れた主のみ姿と、よく似ていました(黙示1)。
ところがそのとき、天使たちの内心が、神聖な思いに満たされ、その神聖さで、かれらは顔を伏せるようにしたため、主によって、第三天界からくる光の道がとざされ、第二天界からくる光の道がひらかれました。
その結果、以前の神殿が姿をあらわし、それに天幕も見えてきました。しかもその幕屋は、神殿のまん中です。それで分かったことは、黙示録(21章)で言われていることです、「見よ、神の幕屋が人とともにあり、神が人とともに住む」(21・3)。また、
「(新しいエルサレムで)、わたしは聖所が見えなかった。全能の神である主とその小羊とが、その聖所なのである」(21・22)と。

188・ 第四のメモ
わたしは、天界とその下にあるいろいろなフシギを見る機会が、主からあたえられました。壮大な宮殿があり、その奥のほうに神殿がありました。神殿の中央に、金でできたテーブルがあって、そのうえに〈みことば〉が置いてあり、そこに二人の天使が立っていました。そのテーブルを囲んで、座席が三列に並んでいました。第一列目の座席は、深紅色をした純絹でおおわれていました。第二列目の座席は、ライトブルーの純絹で、第三列目の座席は、まっ白の純絹でおおわれています。テーブルの上には、高い天井があり、それにはまばゆいばかりの宝石をちりばめた天蓋がひろがっています。その光が、夕立のあと、青くすんだ天空にかかる虹のように輝いています。すると突然、座席にすわれるだけの人数の教職者が、祭司の服装をしてあらわれました。片側には整理ダンスがあって、護衛の天使が立っていますが、その中にはきらびやかな祭服が、きれいに並べて置いてあります。
さて、主が招集なさった会議がはじまりました。天界から声があって、「じっと考えてみましょう」と聞こえてきました。それにたいし、「何についてですか」と聞くと、「救いの主と聖霊についてです」と応えが返ってきました。かれらは、そのことについて考えてみても、照らしがありません。照らしを願うと、天界から光が射してきて、まずかれらの後頭部を照らし、それから額を照らし、最後に顔を照らしました。それで、命じられたように、最初、救いの主について考えはじめました。

(2) 第一の命題は、「おとめマリヤのうちで人間性をとられたのは、どなたですか」
ということです。〈みことば〉の置いてあるテーブルのそばに立っていた天使は、かれらのまえで、ルカによる福音書を読みました、
「天使はマリヤに言った、『見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。かれは大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう・・・』。 そこでマリヤは天使に言った、『どうして、そんなことがあり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに』。天使が答えて言った、『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生まれ出る子は、聖なるものであり、神の子ととなえられるでしょう』」(ルカ1・31、32、34、35)。
それから、マタイによる福音書の次の箇所も読みました。
「天使は、夢のなかでヨセフに言った、『ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは、聖霊によるのである。・・・』ヨセフは、うい子 が生まれるまでは、かの女を知ることがなかった。そして、その子をイエスと名づけた」(マタ イ1・20、25)。その他、福音書からいろいろ引用して、読みあげました(たとえば、マタイ3 ・17、17・5、ヨハネ1・18、3・16、20・31)。
また、主がご自分の人間性の面で、神の子と呼ばれていること、またそのご自分の人間性の面から、エホバをご自分の父と呼ばれたことなどの引用も、たくさんありました。エホバご自身がこの世に来られると予告する預言書からの引用もありました。その中でも、イザヤ書からの引用が二つありました。
「その日、人は言う、『見よ、これはわれわれの神である。わたしたちはかれを待ち望んだ。かれはわたしたちを救われる。これはエホバである。わたしたちは、かれを待ち望んだ。わたしたちは、その救いを喜び楽しもう』と」(イザヤ25・9)。
「荒野に呼ばわる者の声がする、『主の道を備え、砂漠に、われわれの神のため、大路をまっすぐにせよ。・・・こうしてエホバの栄光があらわれ、人はみな、ともにこれを見る。・・・見よ、 エホバなる神は、大能をもってこられる。・・・エホバは、牧者のように、その群れを養う」 
(イザヤ40・3、5、10、11)。

(3) 天使はまた言いました、
「エホバご自身がこの世にこられ、人間性をとり、〔それによって、人類を救い、あがなわれた〕 のです。だからこそ、かれは預言者によって、
「救い主」とか「あがない主」とか呼ばれているわけです」と。それから、かれらのまえで、次の聖句を読みあげました。
「神はただ、あなたとともにいまし、このほかに神はなく、ひとりもいない。イスラエルの神、救い主よ、まことにあなたは、ご自分を隠しておられる神である」(イザヤ45・14、15)。
「わたしはエホバではなかったのか。わたしのほかに神はない。わたしは義なる神、救い主であって、わたしのほかに神はない」(イザヤ45・21、22)。
「ただわたしだけがエホバである。わたしのほかに救う者はいない」(イザヤ43・11)。
「わたしは、あなたの神エホバである。あなたは、わたしのほかに神を知ってはならない。わたしのほかに救う者はいないのだ」(ホセア13・4)。
「こうして、すべての人は、わたしがエホバであって、あなたの救い主、またあなたのあがない主であることを知るようになる」(イザヤ49・26、60・16)。
「われわれをあがなう者は、その名を万軍のエホバという」(イザヤ47・4)。
「かれらをあがなう者は強く、その名は万軍のエホバといわれる」(エレミヤ50・34)。
「わが岩、わがあがない主なるエホバよ」(詩19・14)。
「あなたのあがない主、イスラエルの聖者であるエホバはこう言われる、『わたしはあなたの神エホバである』と」(イザヤ48・17、43・14、49・7、54・8)。
「エホバよ、あなたはわれわれの父、いにしえからあなたの名は、われわれのあがない主です」(イザヤ63・16)。
「あなたのあがない主であるエホバはこう言われる、『わたしはよろずの物を造ったが、それはわたしひとりでやった』と」(イザヤ44・24)。
「イスラエルの王、イスラエルをあがなう者、万軍の主であるエホバは、『わたしは初めであり、 わたしは終わりである。わたしのほかに神はない』と言われた」(イザヤ44・6)。
「その名は、万軍のエホバ。あなたをあがなわれる方は、イスラエルの聖なる方であって、全地の神ととなえられる」(イザヤ54・5)。
「見よ、わたしがダビデのために、一つの正しい枝を起こす日がくる。かれは王となって世を治 め、・・・その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる」(エレミヤ23・5、6、33・15、16)。「その日には、エホバは全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つだけと なる」(ゼカリヤ14・9)。
(4) 座席についていた人たちは、以上の聖句に啓発されたのでしょう。異口同音に、エホバご自身が、人間をあがない救われるために、人間性をおとりになったと言いました。すると、祭壇のうしろの方に身を隠していたローマ・カトリック教の人たちの声が、聞こえてきました。「エホバが神人になるなんて、どうしてありうることでしょうね。それで、全宇宙の創造主なんですか」と。 座席の第二列目にすわっていた人の中で、うしろを振り返り、「おや、それではどなたですか」
と言った者がいました。祭壇のうしろにいた人は、祭壇のそばに立って、「それは、永遠のむかしからいますおん子です」と答えました。しかし、それにたいして言われたことは、「あなたがたの信仰では、永遠の昔からいますおん子が、全宇宙の創造主でもあるわけですか。それでは、おん子とは、つまり永遠のむかしから生まれたもうた神とは、どんな方ですか。また、唯一で不可分である神の本質が、どうやって分離され得るのでしょう。つまり、その全体でなく、その一部をとりあげて、世にくだられたと考えられるわけを教えてくださいませんか」と。
(5) 主に関する議論もありましたが、それは、おん父と主は、霊魂と肉体がひとつであるように、ひとつであるかどうかということです。もしそうであれば、霊魂はおん父にましますということになります。そのとき、座席の第三列にすわっていた人で、アタナシオス信条といわれる信条から、引用し、朗読してくれた者がいました、
「われわれの主であり神のおん子であるイエス・キリストは、神であり人であります。ただしそれは、二つのものでなく、ひとりのキリストです。つまり完全に一つであり、一つの人格をなしています。それはちょうど、霊魂と肉体がひとりの人間を形成しているように、神であり人であるお方は、ひとりのキリストなのです」と。
朗読した人は、以上の言葉が記されている信条は、全キリスト教界で、しかもローマ・カトリックの人たちによって、受けいれられていると言いました。それにたいして、「それ以上なにが必要なのでしょう。霊魂と肉体がひとつになっているように、父なる神と、主は、ひとつです」と言ったり、「したがって、わたしたちは、主の人間性は、エホバの人間性だからこそ、神であると見ており、主に近づくことができるのは、その神人性のおかげで、おん父と呼ばれている神性に近づくにも、それ以外の方法はないのです」と言ったりしました。
その結論として、天使が〈みことば〉を引用して証明した多くのことのなかでも、イザヤ書の次の〈みことば〉があります。
「ひとりのみどりごが、われわれのために生まれた。ひとりの男の子が、われわれに与えられた。・・・その名は、霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君ととなえられる」(イザヤ9・6)。また、
「たといアブラハムが、われわれを知らず、イスラエルが、われわれを認めなくても、・・・エホバよ、あなたはわれわれの父、いにしえから、あなたの名は、われわれのあがない主です」(イザヤ63・16)。
ヨハネによる福音書によると、
「イエスは言われた、『わたしを信じる者は、・・・わたしをつかわされた方を信じるのであり、 またわたしを見る者は、わたしをつかわされた方を見る』と」(ヨハネ12・44、45)。
「ピリポはイエスに言った、『主よ、わたしたちに、父を示してください。・・・』イエスは彼に言われた、『・・・わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなた方は信じないのか」(ヨハネ14・8、9、10、11)。また、
「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10・30)と、イエスは言っておられます。しかも、
「父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。・・・またわたしのものはみな、父のものである」(ヨハネ16・15、17・10)。終わりに、
「イエスは言われた、『わたしは道であり、真理であり、命である。だれもわたしによらなくては、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14・6)。

(6) 朗読者はさらに、主がご自分と父についてここで言われたと同様のこと、また人間が自分と自分の霊魂について言うことができるいろいろなことを、つけ加えました。これを聞いて、全員は異口同音に、主の人間性が神であり、その父に近づけるよう、主の人間性に近づく べきだということで一致しました。というのは、エホバである神は、その人間性を介してこの世にくだり、人の目に見える方、近づくことのできる方になられました。かつて古代の人々には、おなじく人間の〈かたち〉で、見えるもの、近づくことのできるものになられましたが、そのときは、天使を介していました。ただし、この〈かたち〉は、やがてこの世に来られる主の表象でした。だから古代人のもとでは、教会はあらゆる点で、表象的だったのです。

(7) そのあと、聖霊について考えるときが来ました。まず、父と子と聖霊にかんしては、父なる神は高いところに座り、子は父の右に座をしめ、さらに、人間を照らし、教え、義とし、聖化するために、聖霊が遣わされます。そのとき、天界から声がしました、
「わたしたちはそんな考えは受け入れられません。エホバなる神が遍在されていることを、知らない人はありません。これを知り認める者は、またエホバご自身が照らし、教え、義とし、聖化されることを認めるはずです。そこには、人格的には別個なかたちで、父および子より小さく、父および子から区別された、仲介の神がいますわけではないのです。したがって、今までいだいてこられたむなしい考えを捨てて、正しい考えを受け入れてください。そうすれば、はっきり分かるようになります」と。

(8) するとそのとき、神殿の祭壇近く立っていたローマ・カトリックの人のなかから声がして、 「それでは、聖霊とは、何のことですか。福音書の記者もパウロも、〈みことば〉のなかで、そのみ名を口にしていますよ。学識のある教職者がそうであるだけでなく、わたしたちですら、聖霊によって導かれていると、言っているではありませんか。現在キリスト教の世界で、聖霊とそのおんはたらきを否定する人がいるでしょうか」と言いました。
それにたいし、第二列目の席に座っていた者のうちの一人が、そちらへ顔を向けて答えました、
「あなたがたは、聖霊がそれなりの人格、それなりの神である、と言っておられますが、一つの人格から出たり発出したりする人格って何でしょう。人格から出るのは、働きではありませんか。一つの人格がもう一つの人格から、出たり発出したりするわけにはいきませんが、働きならそれが可能です。神から出たり発出したりする別の神などありませんが、神性ならあることです。つまり、ひとりの神が、別の神から、別の神を通じて、出たり発出したりはしませんが、唯一の神をみなもととして出てくる神性ならあることです」と。

(9) これを聞いて、座席についていた人たちは、口をそろえて次の結論に同意しました。すなわち、聖霊は、それ自身として人格 persona per se ではないし、それ自身としての神 Deus perseでもない。聖霊とは、遍在しておられる唯一の神、すなわち主から出、発出する神聖なご性格Sanctum Divinum のことである、と。
〈みことば〉が置かれている金のテーブルの傍に立っていた天使たちが、言いました、
「よろしい。預言者たちが聖霊から〈みことば〉を語ったとは、旧約のどこにもありません。エホバから語ったとあります。新約で、聖霊とあるのは、発出する神性のことです。その神性が、照らし、教え、活かし、改革し、再生させるのです」と。

(10) そのあと、聖霊について、別の討議がつづきました。聖霊といわれている神性は、はたしておん父から出るものか、主から出てくるものか、という問題です。この討論が行われているあいだ、天界から光が射してきて、かれらには次のことが見えてきました。
聖霊と言われる神聖なご性格 Sanctum Divinum は、おん父を出発点として ex Patre 、主をとおして per Dominum、発出するのではなく、主を出発点として ex Domino、おん父の力で a Patre、発出しています。それはちょうど、人間の活動の場合、肉体をとおして、霊魂の力で、発出しているのでなく、肉体を出発点に、霊魂の力で、発出しているようなものです。
「父がお遣わしになった方は、神の言葉を語る。神は聖霊をかぎりなく賜うからである。父は子を愛して、万物をその手にお与えになった」(ヨハネ3・34、35)。
「エッサイの株から一つの芽が出、・・・その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊である」(イザヤ11・1、2)。
「エホバの霊は、かれの上に与えられ、それはかれの上にとどまる」(イザヤ42・1、59・19、20、61・1、ルカ4・18)。
「わたしが、父のもとからあなた方に送る聖霊が来るとき・・・」(ヨハネ15・26)。
「かれはわたしに栄光をもたらすであろう。かれはそれをわたしから受けて、あなた方に知らせる。父がおもちになっているものはみな、わたしのものである。聖霊は、わたしのものを受けて、 それをあなた方に知らせるのだと、わたしが言ったのはそのことである」(ヨハネ16・14、15)。
 「わたしが去って行かなければ、あなた方のところに助け手は来ない」(ヨハネ16・7)。
「助け手は聖霊である」(ヨハネ14・26)。
「イエスはまだ、栄光を受けてはおられなかったので、聖霊がまだ下っていなかった」(ヨハネ7・39)。
栄光をお受けになったあと、
「イエスは、かれらに息を吹きかけて言われた、『聖霊をうけなさい』と」(ヨハネ20・22)。
ヨハネによる黙示録には、
「主よ、あなたのみ名をほめたたえない者が、ありましょうか。あなただけが聖なる方です」 
(黙示15・4)とあります。

(11) 主がもっておられる神としてのおん働きは、主ご自身の遍在をもとにして、聖霊をとおして、分かってくることです。主は、聖霊について、弟子たちにお話しになりましたが、それは、ご自分が父のみ力で、お送りになるものです。そのとき言われたことは、
「わたしは、あなた方を捨てて孤児にはしない。あなた方のところに帰ってくる。・・・その日には、わたしはわたしの父におり、あなた方はわたしにおり、またわたしがあなた方におることが分かるであろう」(ヨハネ14・18、20、28)と。この世を去られる直前、主は言われました。
「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」(マタイ28・20)と。
天使は、かれらのまえで、以上のことを読み終えたあと、
「今まで読んだことと、〈みことば〉にある多くの他の箇所から、はっきりしていることは、聖霊と呼ばれる神性なご性格は、父のみ力で、主を出発点として、発出するものだということです」とつけ加えたところ、座席についていた人たちは、「それこそ、神の真理です」と言いました。

(12) 最後になって、次のような宣言文が出されました、
「本会議で熟考した結果、わたしたちは次のことを明確に知るとともに、神聖な真理として認めます。すなわち主であり、神であり、救い主であるイエス・キリストのうちに、神の三性が存在するが、それは、父と呼ばれている神性 Divinum a quo、子と呼ばれている神人性 Divinum Humanum、聖霊と呼ばれている発出する神性 Divinum procedens で、『キリストのうちに、満ちみちた神の
すべてのご性格が、肉体をとって宿っておられる』(コロサイ2・9)と、断言できます。だから、教会の神はひとつです」と。
(13) この壮厳な会議も終わって、議員たちは立ちあがりました。すると、護衛の天使が、整理ダンスの中から、座席についていたみんなに、それぞれすばらしい衣服をもってきました。それは、あちこちに金の糸で刺繍がしてあります。天使は、「婚礼の衣裳を受けとってください」と言いました。かれらは、栄光にひたされながら、キリスト教の新しい天界の方へとつれていかれました。この地上での主の教会、つまり新エルサレム教会は、その天上の教会と結ばれています。