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真のキリスト教

第一章 創造の神について

ひとりの神について

16節-17節


16・ ここで一つのメモをつけ加えておきます。

わたしは、自然界から霊界に、最近やってきた何人かの人を見ました。かれらは教職者で、その中のひとりは司教でしたが、〈永遠からいます神の三つの位格〉について話しあっていました。かれらは、わたしの方に近づいてきて、以前は全然知らなかった霊界について、しばらく話しあいました。そのあとで、わたしは次のように言いました、
 「わたしはあなた方が、永遠のむかしからいます神の三位格について、話しておられるのを耳にしましたが、先程までおられた自然の世界で、どんなふうに考えておられましたか。この偉大な秘義について、説明してみてください」と。
 そのとき司教は、わたしの方を見つめながら、次のように答えました、
 「あなたは平信徒とお見かけしますが、この偉大な秘義について、わたしが考えていることを申しあげ、教えてさしあげましょう。わたしが今まで考え、今でもそう思っていることは、父である神、子である神、聖霊である神が、威光を帯びて天上の玉座にすわっておられるということです。
 父なる神は、純金の玉座にましまし、その手に笏をもっておられる。子なる神は、その右にある純銀の玉座にすわり、頭上に王冠をかぶっておられる。聖霊なる神は、そのそばにあって、まばゆく光る水晶の玉座にすわり、その手にハトをもっておられます。三位の神のまわりには、宝石でできた三層のシャンデリアが輝いています。この玉座を中心に、ずっと遠くまで、数えきれないほどの天使が立っていて、みんな礼拝と賛美をささげています。
 父なる神は、子なる神と、たえず義とされる人間について語りあい、地上で天使たちに迎えられ、永遠の生命の冠をさずけられるにふさわしい者が、だれかを決められます。聖霊なる神は、その該当者の名前を聞くと、地上をあまねく経めぐって、かれらのもとへ行きます。そのさい、義の賜物と、義とされる者にしるされる、救いの保証をたずさえます。
 かれらのもとに着き、霊感をおよぼすと同時に、炉の煙を吹きはらうように、罪をはらいきよめ、それを純白にするのです。かれらの心から、石のような頑固さをとり除いて、肉の柔らかさをあたえ、その霊と精神をあたらしくし、再生させ、顔には幼児の面影をきざみ、そのひたいに十字架の印をつけ、かれらを選ばれた者、神の子と呼びます」と。
 話し終えると、司教はわたしにむかって言いました、
 「わたしは地上で、この偉大な秘義を説いてきたのです。それでわが修道会の者も、わたしの言っていることに、だいたい賛意をあらわしたわけですから、平信徒のあなたも、わたしの言うことに賛同なさると思います」と。

(2) 司教が話し終えたとき、わたしは司教とまわりにいる教職者たちを見まわしましたが、みんな以上の話に、ことごとく賛意をあらわしているようすでした。それでわたしは、次のように答えました、
 「わたしはあなたの信仰をお聞きし、考えてみたのですが、神の三一性については、ことごとく自然的・感覚的に、いやむしろ物質的にさえ、とっておられるためでしょう。当然のことですが、そこから、三神の概念がでてきています。
 父なる神について、み手に笏をもって玉座にすわっておられるとか、子なる神が頭上に王冠をいただて玉座にましますとか、聖霊なる神が、み手にハトをもって玉座にいますとか、また聞いたとおりに、地上をあまねく経めぐるなどは、あまりに感覚的に考えておられるのではないでしょうか。だからわたしには、あなたのおっしゃるように信じるわけには参りません。わたしは幼少のときから、「ただおひとりの神」以外の神を、思ってもみませんでした。それしか信じられませんから、あなたの言われたことは、どれもこれも、意味をなさないのです。
 聖書に、エホバが座したもうたあるその「玉座」も、〈み国〉のことであり、「笏」とか「王冠」は〈支配と統治〉のこと、「右に座したもう」は、〈神がおん自らの人間性をとおしてもっておられる全能〉のこと、聖霊について述べられていることは、〈神の遍在のおん働き〉だと考えます。司教さん、どうか「唯一の神」について考え、ご自分の道理をはたらかせて、よく思いめぐらしてみてください。すると、以上のことが、はっきりお分かりになるにちがいありません。

(3) あなた方は、神がおひとりなのは、本質が一つだからと言い、しかもその本質は三つの位格ともどもに分割できないものだと言われます。それでいて、その唯一の神について、それぞれ位格が三つあり、一つだと言ってはならないと言われます。しかも各位格の性格は、みんなちがっているのです。それは三神を心にすえておられるからに他なりません。
 こうなると、神の本質を三つに分割していることに、ならないでしょうか。しかも、神がおひとりだとは、言うことも、考えることもできないことになります。神性はただひとつであると言われるなら、それでもいいでしょう。しかし、「父は神であり、子は神であり、聖霊は神である。そして、それぞれの位格はまた、おひとりおひとりが神である」と言われながら、唯一の神を考えることができるでしょうか。信仰しようにも信仰できないのは、矛盾だからではないでしょうか。そんなふうに考えたのでは、唯一の神ではなく、ただ同様の神性をもっているとしか言えません。それは、次のことでもお分かりでしょう。
 多数の人が一つの元老院とか会議や協議会をつくっても、個々を含めた全員が同意見になれば、同心一致とは言えますが、それでもって、ひとりの人間になったわけではありません。三個のダイヤモンドをとって、一つの実体からできているからといって、これを一つのダイヤモンドだとは言えません。実体は一つでも、それぞれのダイヤは、重量によって価値がちがいますから、三個です。一個だというわけにはいけないのです。

(4) それでもあなたがたは、神には三つの位格があって、各位格は、おひとりおひとりが、それ自身として Per se 神であり、しかもそれが、ひとりの神であると言われているようです。それに、世界中どこでも、健全で明るい理性の持ち主なら、神がおひとりであることを認めているので、それで教会でもみんな、そのように告白するよう、命じておられるわけですね。あなたがたも、同じように言わなくては、恥ずかしいのでしょう。しかし三神を頭において、唯一神を口にしているわけですから、こんな矛盾をコトバにからませていることこそ、恥ずかしいことではないでしょうか。
 これを聞いて、司教とその同伴の教職者たちは、そこを去っていきました。去りながらうしろを振りかえり、「神はおひとりだ」と叫ぼうとしましたが、できません。かれらの思いが、舌の動きを、はばんでいたのです。やっと口が割れたかと思うと「神は三つだ!」と口走ってしまいました。そばで見ていた人たちは、この奇妙な光景に接して、声高に笑って立ち去っていきました。


17・ そのあとわたしは、神の三一性とは、三つの位格に分立していることだと、主張できる才子は、どこにいるでしょうかと尋ねました。
 すると三人が前に出てきましたので、わたしは、
 「神の三一性を三つの位格に分けて考え、しかもその位格のおひとりおひとりが、それ自身神であり、主であるとするわけは、どこにあるのですか。口では神がおひとりであると告白されていますが、それでは口と頭とでは、南と北との差ほどあるのではないでしょうか」と言って、聞きました。それにたいし、かれらは次のように答えました、
 「三つの位格が一つの本質をなしているということと、この神の本質こそひとりの神であるということとのあいだには、大したひらきはありません。わたしたちは、世の中では、三位を擁護してきました。これはお守りのように大事にしてきた信仰なのです。つまり神の位格は、それぞれの役目をもっておられるということです。父なる神は裁かれます。子なる神は仲介の労をとられます。聖霊なる神は、責任転移 imputatio と仲介の役割をはたされます」と。

(2) それでわたしは、聞きかえました、
 「神の本質 Divina Essentia とは何のことですか」と。するとかれらが言うには、
 「それは、全能・全知・遍在・無辺・永遠、それに威光の平等性です」と。それにたいし、わたしは言いました、
 「多くの神々がいても、本質においてひとつであるとおっしゃるのでしたら、神はもっと増えてもいいわけです。たとえば、モーゼ、エゼキエル、ヨブにとっての神シャダイは、第四の神ということになります。同じく、ギリシャやローマの昔には、神々にたいし、同等の属性と、似たような本質をあてはめていました。サトゥルヌス、ヨヴィス、ネプトゥルヌス、プルート、アポロ、ユノー、ディアナ、ミネルヴァ、それにメルクリウス、ヴェヌスなどみんなそうです。
 ただし、以上の神々がみんなで、ひとりの神をなしているとは言えません。あなた方三人にしても、お見かけするところ、同様の教養を身につけられ、その点では本質的におなじようですが、あなた方三人が、一人の教養人を形成しておられるわけではありませんからね」。
 それにたいして、かれらは笑って言いました、
 「ご冗談でしょう。神の本質は、それとはちがいます。神の本質は一つであって、三つに分割されているわけではありません。神の本質は分割不可能です。神の本質について、分割とか割当てはあてはまりません」。

(3) それを聞いて、わたしは、
 「その点について、討論をつづけましょう」と言い、尋ねました、
 「いったい位格とは何のことですか。それには、どんな意味があるのですか」と。かれらは、
 「位格とは、自分以外のところにある部分とか性格のことではなく、自分固有の自存 Proprie subsistere を意味します。教会の先輩たちは、みんなそのように位格を定義づけていますから、わたしたちもおなじです」と言いました。わたしは、
 「それが位格の定義ですね」と聞きかえすと、かれらは、
 「そうです」と答えました。
 そこをとらえて、わたしは言いました、
 「ということは、父は子の一部ではないし、父も子も、聖霊の一部ではないのです。ということは、父・子・聖霊のそれぞれが別々の考えと権利と能力をもっていて、おのおの固有の意志がはたらき、それが前提で結びつきがあり、思し召しのさいは、交流が可能であるということになりますね。だから三つの位格ということは、三つの神ということになりはしませんか。それにまだあります。位格を「自分固有の自存 Proprie subsistere 」と定義されましたね。そうするとあなた方は、神の本質 Essentia Divina を三つの実体 Tres substantiae に分けられたことになります。一方では、神の本質は一つで、分割できないものであると言っておられ、他方では、それぞれの実体つまり位格には、他の二者にない特性があって、この特性は融通 communicari のきかないものであり、それが、裁き imputatio、仲介 mediatio 、活動 operatio になっているということでした。すると結局、三つの位格にある三つの神ということになるのではありませんか」。
 これを聞いてかれらは、
 「それについては、ちょっと調べてからお答えすることにします」と言って、ひきあげようとしました。

(4) そこにひとりの知者がいて、それを聞いて、かれらに言いました、
 「わたしとしては、このように高尚な問題を、あんなひ弱な論理で扱いたいとは思いません。そのひ弱さはさておいて、あなた方の考えでいくと、三つの神になります。それこそ明るい光のもとでは歴然としています。しかし世界の人をまえに、三神を公言することなど、恥ずかしくてできることではありません。そんなことをすると、気ちがいか、愚か者呼ばわりされるからです。アカ恥をさらさないためには、口でひとりの神を宣言するに、越したことはないのです」と。
 そう言われても、三人は自分たちの意見に固執したまま、耳を貸そうとしません。立ち去りぎわに、二こと三こと、形而上学的な用語を口ずさんでいました。わたしはそのとき、かれらにとっては、形而上学こそ神託のようなもので、そこから答を引き出したいのだなと思いました。