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真のキリスト教



第三章 聖霊と神のおん働き


158節~162節


まとめ 158 

メモ 159 160 161 162


158・ 

この章では、「聖霊」について述べているわけですが、旧約聖書には、「聖霊 Spiritus Sanctus 」と言われているものは何もなく、ただ「聖性の霊 Spiritus Sanctitatis 」という言葉が三か所で使われていることに注意してください。ダビデが一回(詩51・11)イザヤが二回(イザヤ53・10、11)です。
 ただし新約聖書では、福音書にも、使徒行伝にも、使徒たちの手紙にも、「聖霊」がたびたび出てきます。それは、主がこの世に来られて言われたことは、ご自分が出発点となって、父によって、聖霊が出るということです。そのとき初めて聖霊について言及されました。
  「主だけが聖なる方です」(黙示15・4)。
 これがまた、天使ガブリエルによって、母マリヤにも伝えられました、
  「あなたから生まれでる子は、聖なる方です」(ルカ1・35)。
 また次のように言われています。
  「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、聖霊がまだ下っていなかった」(ヨハネ7・  39)。
 ただし、それ以前に、聖霊がエリザベツを満たすと言われ(ルカ1・41)、それから、ザカリヤ (ルカ1・67)、シメオン(ルカ2・25)も、聖霊に満たされました。というのは、その当時すでに、この世におられた主のおかげで、聖霊と呼ばれたおん父エホバの霊が、かれらを満たされたわけです。実際、旧約聖書では、どこにも預言者たちが、聖霊によって語ったとは言っておらず、エホバによって語ったと言っています。つまりあちこちで、「エホバはわたしに言われた」とか、「エホバの〈みことば〉がわたしにのぞんだ」とか、「エホバは言われた」とか、「エホバの言葉」とあります。それが疑えないことであることを、エレミヤ書からだけでも引用してみましょう。
  (エレミヤ1・4、7、11~14、19、2・1~5、9、19、22、29、31、3・1、6、10、12、14、16、4・1、3、9、17、27、5・11、14、18、22、29、6・6、9、12、15、16、21、22、7・1、3、11、13、19~21、8・1、3、12、13、9・3、7、9、13、15、17、22、24、25、  10・1、2、18、11・1、3、6、9、11、17、18、21、22、12・14、17、13・1、6、9、11~15、25、14・1、10、14、15、15・1~3、6、11、19、20、16・1、3、5、9、14、16、17・5、19~21、24、18・1、5、6、11、13、19・1、3、6、12、15、20・4、21・1、4、7、8、11、12、〔14〕、22・2、6、11、〔16〕、18、24、29、30、23・2、5、7、12、15、24、29、31、38、24・3、5、8、25・1、3、7~9、15、27~29、32、26・1、2、18、27・1、2、4、8、11、16、19、21、22、28・2、12、14、16、29・4、8、9、16、19~21、25、30~32、30・1~5、8、10~12、17、18、31・1、2、7、10、15~17、23、27、28、31~38、32・1、6、14、15、25、26、28、30、36、42、〔44〕、33・1、2、4、10~13、17、19、20、23、25、34・1、2、4、8、12、13、17、22、35・1、13、17~19、36・1、6、27、29、30、37・6、7、9、38・2、3、17、39・15~18、40・1、42・7、9、15、18、19、43・8、10、44・1、2、7、11、24~26、30、45・2、5、46・1、23、25、28、47・1、48・1、8、12、30、35、38、40、43、44、47、49・2、5~7、12、13、16、18、26、28、30、32、35、37~39、50・1、4、10、18、20、21、30、31、33、35、40、51・25、33、36、39、52、58) エレミヤ書だけでも以上のとおりです。それは、他の預言者にも全部あてはまります。つまり、聖霊が語られたとか、エホバが聖霊をとおして語られた、という箇所はありません。

159・ これにメモをつけ加えます。第一のメモ
天界で天使たちといっしょだったある日のこと、下方はるか遠くに、大きな煙がたっていて、そこから、ひょいひょいと火が燃えあがっているのが見えました。わたしといっしょに話しあっていた天使たちにむかって、わたしは言いました。
「地獄に煙が立ちのぼっているのは、理性の判断で偽りを信じこんだ場合で、火は自分にさからう者にたいして燃えあがるわけですが、これをこの世で知っている人は、わずかしかいません。生きて肉体にいれば、わたしもいっしょですが、この世では、炎は、煙の燃えたもの以外のなにものでもありません。これも知られていないのです。わたしはそれを何回となく経験しています。暖炉のなかにある木から煙があがっていますが、燃え木をとってみると、煙が炎になり、その炎は、煙の形とそっくりです。煙のひとつひとつは小さな火花で、それがまとまると、ぱっと燃えあがり、火薬に火をつけたようです。」また、
「わたしたちが下に見ている煙もそうです。煙のひとつひとつは偽りで、炎となって燃えあがる火は、偽りにたいする執念のほのおです」と。
(2) 天使たちはそのとき、
「かれらのなかで、けむったり燃えたりしている偽りとは何でしょうね。下りて近づいていき、それを感じとれるよう、主に願ってみましょう」と、わたしに言いました。
その願いがかなえられました。わたしたちのまわりに光の輪ができて、それがずっと下のほうまで続いています。すると、霊たちのグループが四組見えてきました。かれらは、父なる神は見えない方だからこそ、ぬかずいて礼拝する必要があるが、この世に生を受けたそのおん子は、見える人間だから、礼拝するには及ばないと、強調していました。
両側に眼をやると、左側に学識のある教職者、そのうしろに学識のない教職者が見えました。右側には、教養のある信徒、そのうしろには教養のない信徒がいます。わたしたちとかれらとの間には、大きな裂け目が口を開いていて、渡ることができません。
(3) わたしたちは、左側に眼を向け、耳を傾けました。そこには学識のある教職者と学識のない教職者たちがいて、神について、次のように議論しているのが聞こえました、
「われわれの教会の教義から、われわれが分かっていることは次のとおり。すなわち全ヨーロッパを通じ、神についての教えは教会の中で一つだということです。つまり父なる神は見えない方であるからこそ、ぬかずいていくべきで、それと同時に、神としてのおん子も聖霊も、おん父とおなじく永遠だからこそ、見えない方であるということです。父なる神は全宇宙の創造主で、全宇宙のうちに存在しておられるから、われわれがどこに眼を向けても、そこに臨在しておられます。父に向かって祈るとき、無条件で聞きいれてくださいます。おん子による仲介をうけ入れて下さったのちには、聖霊をおくってくださいます。その聖霊は、われわれの心のなかに、おん子の義の栄光をそそぎ、わたしたちを祝してくださるのです。
われわれは、教会の学者として叙せられた者ですが、説教をしながらも、聖霊の派遣という聖なるおん働きを胸に感じ、心の中に聖霊の現存からくる信心を、息のように呼吸しています。われわれがこんなふうに感じるのは、見えない神に向かって、われわれの全感覚を傾中しているからです。その神は、われわれの理性の目に、それぞれ別々に働いておられるのでなく、聖霊をつかわされることで、われわれの心と体にある全組織に、あまねくゆきわたって働いておられます。これは、見える神への信心からは、起こりえないことです。つまり、人間として見える神が、心に映っているのではないのです」と。
(4) ここまで来ると、かれらのうしろに立っていた学識のない方の教職者たちが、それに拍手して、次のようにつけ加えました。
「〈神聖なもの sanctum〉は、〈目に見えず感知できない神〉からしか、出てきません。その神聖なものが、われわれの聴覚の表面に触れるとすぐ、われわれの顔の表情はほころび、芳香をはなつオーラのよろこびを感じ、胸をうつのです。それは、目に見えるもの、感じとられるものの場合はちがいます。それが耳に入ってきても、ただ自然的なものにすぎず、神よりのものではありません。同じような理由から、ローマ・カトリック教徒は、ラテン語でミサをうたい、神秘のやどるホスチアを聖櫃からとり出して、それを顕示します。人々はそれを、きわめて深い奥義として、そのまえにひざまずき、神聖な雰囲気を呼吸するのです」と。
(5) わたしたちは、そのあとで、教養のある信徒と、そのうしろにいる教養のない信徒の方に向きました。すると、教養のある信徒が、まず次のように言っているのを聞きました、
「われわれは、古代では、最高の知恵者は、「エホバ」と呼ばれる見えない神を礼拝していたことを知っています。しかし、その後の時代になって、亡くなった王候を神々として崇めるようになりました。それが、サトゥルヌス、ジュピター、ネプテューン、プルート、アポロ、であり、ミネルバ、ダイアナ、ヴィーナス、テミスで、神殿を造って、かれらを神として崇めました。時代が下るにつれ、それから偶像崇拝がはじまり、全土にゆきわたって、人々の心は狂ってきました。そして、われわれは、祭司や長老たちと心を一つにして、今もむかしも、永遠からまします三位の神と、それぞれの位格が神にましますことを信じ、それが、見えない神であることに満足しています」と。
そのあと、教養のない信徒たちが言いました、
「そのとおりです。神は神、人間は人間です。ただし『神は人間である』と言えば、庶民一般の考えは、神についても、とかく感覚的ですから、ずっと近づきやすくなることはたしかです」と。
(6) そう言い終わった途端、かれらの目が開いて、わたしたちがすぐ傍にいるのに気がつき、自分たちの言っていることを聞いていたことで腹を立て、おし黙ってしまいました。そのとき、天使たちは、天与の能力で、かれらが話す元になっている外部、つまり下部思考を閉鎖し、かれらの内部、つまり上部を開いて、それを元にして、神について語るように促しました。そこでかれらが口にしたのは、次のとおりです。
「神って何だね。形は見えないし、声も聞こえない。だから結局は、神とは、その原初・終極の自然以外のなにものでもない。われわれの目にも映るし、われわれの耳にも響いてくるからこそ、自然を見・聞きしているわけだ」と。それを聞いて、わたしたちは、かれらに言いました、 「あなた方は、父なる神しか認めなかった、ソッツィーヌスを信じていらっしゃるのですか。あるいは、救いの主である方の神性を否定したアリウスとか、その追従者たちを信じているのではありませんか」と。
それにたいして、かれらは、「そうではありません」と答えました。わたしたちは、「あなた方の声の奥底には、そんな考えがありますよ」と言ったところ、しばらくして気をとりもどして、神について質問を発した者もいましたが、まえしゃべった連中と同じようなことを言いました、「神って何だろう。われわれは、好きなだけいくらでも神を作れるんじゃないか」と。
(7) それでわたしたちは、次のように話しました。
「〈この世に生を受けた神のおん子〉について、あなた方と話してもムダですが、次のように言うことはできると思います。神について、神にむかう、神からくる信仰とは、何でしょう。神を見たものはだれもいないわけですから、人生の初期とそれに続く時期には、あざやかな色をした水球のように映えてみえますが、第三期に入ると、無に帰してしまうかも知れません。そんなことにならないよう、神エホバはこの世にくだり、人間性をとり、見える姿を帯びられました。それは、神が架空の存在 Ens rationis ではなく、かつて存在し、現在も存在し、永遠から永遠まで存在する方であることを確信させるためでした。神はまた、ただ三音節からなる単語(訳注・Jehova で三音節で発音される)ではなく、最初から最後にいたる存在のすべてです。したがって、神はご自身の姿を信じるすべての人たちの命であり救いですが、神を見えないものと言ったり、信じたりしている人には、命でも救いでもありません。ここでは、信じることと、見ること・認めることは、同じことだからです。だからこそ、主はピリポにむかって、
「わたしを見る者は、父をも見るのです」と言われ、他のところでも、
「父のみ心は、子を信じることです。子を信じる者は、永遠のいのちがあります。子を信じない者
は、いのちを見ないだけでなく、神の怒りがその上にとどまる」(以上ヨハネ3・15、16、36、14・6~15)とあります」と。
これを聞くと、四つのグループの中で、鼻から煙と火を出して腹を立てていた者がたくさんいました。そこでわたしたちは去っていきましたが、天使たちも、わたしを家へ見送ったあと、もといた天界へと、のぼっていきました。

160・ 第二のメモ
わたしはある日、天使たちのお伴をして、霊たちの世界を歩いていました。ここは、天界と地獄の中間にあり、死後の人間は、最初みんなここに来ます。そして善良な人間は天界へ、邪悪な人間は地獄へ行く準備をします。わたしは、天使たちとあれこれ話しあいました。たとえば、わたしが肉体的に生存しているこの世では、夜になると、大小さまざまの星が、無限に空に現れます。それも、われわれの世界に光をおくる太陽系と同じ太陽が、それだけ存在していることなどです。わたしは、
「わたしが見るところでは、あなた方の世界でも、星が見えるということですから、わたしがいる世界と同じだけ、星が存在しているのでしょうね」と言いました。
天使たちはこの話を聞いて、うれしそうに次のように言いました。
「多分そうでしょう。天界のひとつひとつの社会は、天界の下方にいる人々の目には、ときどき星のように光っています。天界の社会は無数にあって、〈善への愛〉からくる情愛にもとづいて、多種多様な秩序をもっています。神のうちにあっては、その情愛が無限だからこそ、無数の形で現れるのでしょうね。これも創造以前に予知されていたことで、その予測のもとで、自然の物質的肉体を伴って生きている人間の宇宙には、それだけの数の星が計画され、創造されているのではないかと思います」と。
(2) こんなことを話していると、道があって、霊たちがぞろぞろと列をなしているのが、北の方に見えてきました。かれらはおたがいに、足を踏む余裕もないほどくっついています。
わたしは天使たちに、以前この道を見たことがあり、そのとき霊たちは、軍隊の行進をしているようだったと言いました。また自然の世界を去っていく者は、みんなこの道をとおって行き、毎週、何千人もの人が死んで、この霊界にやってくるから、この道は、大勢の霊で埋まっているのでしょうとも言いました。
天使たちが、それにつけ加えて、この道は霊界では、その中央で終わっていると言います。つまり、
「わたしたちは、今その中央にいるのです。道が中央で終わっているわけは、ここから東の方は、〈神と隣人〉への愛を宿している社会、左の西方には、その愛に反する人の社会があります。前方の南側には、他の者より理知的な人からなる社会があります。だから、自然の世界からやってくる人は、まずここにくるのです。ここにいるあいだは、前世でそうであったように、外部の自分を表わしていますが、それがだんだんと、自分の内部に移されてきて、その性格が暴露され、そのあと、善人は天界のわが家へ、悪人は地獄のわが家へと、移されていきます」と。
(3) わたしたちは、霊たちが連れだっている道が、ちょうど終わっている場所のまんなかに立って、
「しばらくここにいて、何人かの新来者と話しあってみましょう」と、言いました。
そこで、新来者のなかから十二人を選びました。かれらはみんな自然の世界からやって来たばかりで、自分たちはまだ同じ世界にいるのだと思っています。それで、わたしたちはかれらに、天界や地獄や死後のいのちについて、どう感じているのか尋ねました。その中の一人は、次のように答えました、
「死後も生きるということ、天界や地獄があるということは、われわれの聖職によって、わたしの心に刻みつけられた信仰です。だから、道徳的生活をおくった者はみんな、天界に行けると信じてきました。生活が正しければ、だれも地獄に行くわけはありません。地獄など、悪徳から切りはなすため、教職者たちがねつ造した作り話です。神については、あれやこれや考えたところで仕方がありませんよ。考えたことなど、モミガラか、流れ去る泡沫ですよ」と。
その傍にいたもう一人が、口をはさみました、
「わたしは、天界も地獄も存在すると信じていますし、神は天界を支配し悪魔は地獄を支配していると思っています。相互は敵対関係にありますから、一方は他方の善を悪と呼んでいます。悪を善であるかのように見せ、善を悪であるかのように見せかける品行方正な人間は、両方の側にいるのです。だから、恵んでさえくれれば、わたしとしては、どっちの主に仕えたところで、変わりはありません」と。
(4) その傍にいた第三番目の男が言いました、
「天界や地獄は、わたしにとって関係はありません。いったいそこからやって来て、話をしてくれた人がいますか。人間が死んでも生きているというのなら、ものすごい数の死者の中で、一人くらい戻ってきて、それを知らせてくれてもいいでしょうに」と。するとまた、そのそばにいた四番目の人が口を出しました、
「この世に帰って、それを知らせてくれる人がいないわけを言わせてもらいましょう。人が息をひきとって死ぬと、幻影のようにそのまま消えていくか、口からでてくる呼気、つまりは風になってしまうからです。それでこの世に戻れるわけはないし、他の人間と話すことなどできませんよ」と。
 またもや五番目の人が言い出しました、
「みなさん、最後の審判の日まで待ったらどうでしょう。その日には、みんな自分の肉体にもどってきて、おたがいに会って話ができ、それぞれ自分の運命を話しあうでしょうに」と。
(5) まっ正面に立っていた第六番目の人が、笑いながら口をはさみました、
「ウジムシに食われた肉体、太陽の熱で焼かれた骸骨、それに霧散したチリに、風同様の霊がもどれるわけはないでしょう。エジプト人がミイラになり、薬剤師の手でエキスとか乳剤にされ、それが飲まれたり食べられたりしているというのに、もとの体になって話をするでしょうか。そんな信仰がおありなら、最後の審判の日までお待ちなさい。期待は永久に続くでしょうし、永久に期待はずれになるでしょうよ」と。
そのあと第七番目の人が言います、
「天界や地獄や死後のいのちがあると信じるなら、トリやケモノもおなじように生きると信じていいわけです。かれらにも、人間とおなじくらい品行方正で理知的なのがいますよ。ケモノが生命を失うというなら、人間だってそうです。全く同じ理屈です。一方から他方が帰結できます。人間だって動物じゃないですか」と。
そのうしろに立っていた第八番目が近づいて、言いました、
「天界を信じたいのならどうぞ。ただわたしは地獄は信じません。神は全能でしょ。だれでもみんな救えるはずです」と。
(6) すると九番目の男が、手をすりあわせながら言いました、
「神は全能であるだけでなく、情けぶかい方です。人を永遠の火に投げ込むことなど、できる方ではありません。もしだれかが地獄にいれば、その人をそこから引きあげて、救わないわけにはいかないでしょうに」と。
十番目は、列からはなれ、中央に出て言いました、
「わたしも地獄を信じませんね。神はそのおん子をこの世に送り、〈あがない〉が成就し、全世界の罪がとり去られたではありませんか。悪魔がそれに対して、何ができるというのですか。何もできない以上、地獄なんかありませんよ」と。
十一番目の人は祭司でしたが、それを聞いて、カッカしながら言いました、
「信仰をもっている人は救われるということを知らないのですか。キリストの功徳により頼む信仰です。神がお選びになった人は信仰を獲得するんですよ。この選びは全能の神の思し召しであり、ご計画なら、選ばれるにふさわしい人なんかいませんし、それに抵抗することもできません」と。
十二番目の人は政治家でしたが、おし黙っていました。何か最後に言うように乞われて、口を開きました、
「天界とか、地獄とか、〈死後のいのち〉について考えていることなど、何もありません。そんなことについては、だれも何も知らないからです。だが、祭司たちがそれについて説教するのは、とがめ立てはしません。民衆の心というものは、法律とか指導者に、見えない糸でしばられているんです。公共の救いというのは、そこいらへんにかかっているんでしょう」と。
(7) わたしたちは、以上のようなことを耳にして、肝をつぶし、おたがいに言ったのです、 
「この人たちはキリスト信者だと言われていながら、人間でも動物でもない。むしろ動物・人間なんでしょう」と。かれらを夢から覚めさせるため言いました、
「天界も、地獄も、死後のいのちも、存在しています。あなた方は、現在あるいのちの状態について何も知りませんが、その無知が追いはらわれると、確信がもてるようになるでしょう。だれでも死んですぐ後の何日かは、まだ前世に生きているものと思っています。時間は夢のように去っていきます。そして、その夢から目覚めても、人は前にいたと同じところにいると思っています。それは、あなた方の場合もおなじで、あなた方は前世で考えていたのと同じような考えで、話しているのです」と。
そこで天使たちは、かれらの無知を追いはらいました。するとかれらは、自分たちが別の世界に来て、知らない人たちの間にいるのに気づきました。
「おや、ここはどこだろう」と。そこで、
「あなた方は、もう自然界の世界でなく、霊の世界にいるのです。そして、わたしたちは天使です」と言いました。かれらは、目覚めたあと、言いました、
「あなた方が天使なら、わたしどもに天界を見せてください」と。わたしたちは答えました、
「しばらくここにいて下さい。すぐもどってきますから」。
わたしたちは、三十分ほどして戻ってきましたが、かれらはじっと待っていました。そこで、 「天界まで行きますから、わたしたちについて来てください」と言うと、かれらはついて来ました。わたしたちは、かれらを連れて、のぼっていきました。門番は、わたしたちがかれらといっしょだったので、門をあけ、入れてくれました。
門のところで、この外来者を迎えに出た人たちに、わたしたちは、
「この人たちを調べてみて下さい」と言うと、かれらはその外来者の囲りをめぐり、その後頭部がすこぶる空洞化しているのを見て、
「あなた方には悪事を働く愛のたのしさがあって、天界とむすばれていないから、ここから出ていって下さい。あなた方は、心のなかで神を否定し、宗教を軽んじてきました」といいました。
そこでわたしたちもかれらに、
「ぐずぐずしていてはいけません。でないと、追い出されます」と言うと、かれらは急いで、下の方に去っていきました。
(8) 家へ帰る途中、わたしたちは、悪事を働くたのしみがあると、この世界では後頭部が空洞化してしまうのはどうしてかを話しあいました。そこでわたしは、人には小脳と呼ばれる後頭部と、大脳と呼ばれる前頭部があって、小脳には意志の愛が宿り、大脳には理性による思考が宿っている
ためだと言いました。つまり理性の思考が、人の意志の愛をみちびいていかないとき、天界的なものを含んでいる小脳の最奥部は、脱落してしまう。そこで空洞化が生まれると言いました。

161・ 第三のメモ
ある日、わたしは霊界で、粉をひいているような音を耳にしました。それは霊界の北方位であったことです。初めわたしは、その音が何のことかいぶかっていましたが、「ひき臼」とか「くだく」というと、教義理解の助けになる内容を、〈みことば〉をもとにして探求することだと思い出しました。
音が聞こえてきた方向にむかって行きましたが、近づいてみると、音は消えました。そこには、地面にアーチ状の屋根が建ててあって、それが洞穴の入口になっています。わたしはそれを見て、中へ入り、下っていきました。するとそこに小部屋があって、その中でひとりの老人が書物の間に埋まって座っています。前に〈みことば〉を置き、自分が信じている教義に役立つことを、そこから探しているのです。これはと思ったところを書き込んだメモが、あたり一面に積んであり、隣の部屋には何人かの記録係りがいて、そのメモを集め、それに書き込まれていることを、ちゃんとした紙に書き移しています。まずわたしは、その人のまわりにある書物はどんな本か尋ねました。
その老人は、これは全部、「義認の信仰」について書いてある本だと言いました。そして、 「スヴェーデンやデンマークの著者は、深遠ですよ。ドイツはもっと深遠かな。英国出身者も、そうです。いちばん深遠なのは、オランダの著作ですな」と言い、以上の著者は、いろいろ違った意見を出しているけれど、義認の条項と、信仰のみの救いという点では、みんな同じことを言っているとつけ加えました。さらに言うには、
「わたしはいま、義認信仰の原点を〈みことば〉から集めています。つまり、父なる神は、人類の罪がもとで、人間への寵愛を失ってしまいました。でも人間を救わなくてはならないとの思いから、正義の断罪を自分の身に引きうけられる者によって、和解と、あがないと、仲介と、充足を求められ、しかもそれが、ご自分のひとり子による以外にはない、ということになりました。これが実現されて以来、おん子をとおして、父なる神に近づく道がひらかれました。『おん子のおかげで、おん父はわれわれを哀れんでくださる』と言っているのはそのことです。はっきり言いますが、以上は、理性と聖書が教えていること全部だと、わたしは見ています。おん子の功徳への信仰によって父なる神にいたるということ以外に、何が考えられましょうか」と。
(2) その老人が、理性と聖書が教えていることだと言ったので、わたしは肝をつぶしました。それはまさしく理性と聖書に反していることだからです。わたしは、それをはっきりかれに言いました。するとかれは、熱をこめて、「何をおっしゃる」と反論してきました。そこでわたしは、心をひらいて言いました、
「父なる神が、人類にたいする寵愛を失ったり、人類を責めたり、破門にしたりするようなことが、理性に反すると思われませんか。神にとっては、寵愛はその本質からくる属性ではないでしょうか。だから、寵愛を失うとは、神の本質を失うことで、神がその本質を失えば、もうすでに神ではなくなります。神がご自分以外のものになることができるでしょうか。信じてください、寵愛は、神の側からくるもので、無限ですから永遠です。[神の側からの寵愛はさておき]、人間の側からの神の寵愛は、人間がその寵愛をうけとらなくては、意味がありません。ところが、神の側からの寵愛が、万一失われたりすると、それは全天界と全人類に及ぶ、とんでもないことになるはずです。そういうわけで、神の側からの寵愛というものは、天使や人間だけでなく、地獄の悪魔にたいしてさえ、永遠につづきます。これこそ理性的です。だから、おん子の功徳への信仰をとおしてしか、父なる神に近づくことができないとは、いったい何のことですか。寵愛によって、いつまでもわたしたちは、神に近づけるのですよ」と。また、
(3) 「ただしあなたは、おん子のおかげで propter Filium 、父なる神に近づくことができると言われますが、おん子を通して per Filium と言われないのは、どうしてでしょう。おん子は、仲介者であり、救い主ですね。それではなぜ、仲介者であり、救い主である方自身に向かわないのですか。おん子は神であり人間です。
この世でも、皇帝や王や皇太子に直接会いたいとき、執事や紹介人が、必要です。主がこの世に来られたのは、みずからおん父に、お導きくださるためだったことはご存じでしょうね。そして〈おん子を通して、初めておん父に近づける〉のです。〈おん子はおん父のうちにあり、おん父はおん子のうちにある〉からこそ、わたしたちは、おん子をとおして、近づく以外にはありません。
いま、聖書をお調べくだされば分かるでしょうが、これこそ聖書にもとづいています。あなたのおっしゃるおん父への道は、聖書にも反するし、理性にも反します。わたしはあなたに申し上げます。父のふところにいまし、父のみもとにいます唯一のお方を通さないまま、父なる神にのぼっていくのは、厚かましいことです。ヨハネによる福音書14・6をお読みになりましたか」と。
老人はこれを聞いて、かんかんになって怒り、椅子からとびあがって、記録係りにわたしを追い出せと叫びました。わたしは急いでそのまま外に出ましたが、かれはわたしの背中に向かって、一冊の本を外に放り投げました。それは多分、自分の手につかんでいたものだろうと思いますが、その本は、〈みことば〉の書でした。

162・ 第四のメモ
霊たちのあいだで、ひとつの論争がまきおこりました。それは、〈みことば〉の中にある神学上の教義にかんして、主のみ力によらないで、何らかの真理を見とおすことができるかどうかという点です。これにはみんな一致して、主のみ力によらなくては、だれもそれが分からないということでした。それは、
 「人は天から与えられなければ、何ものも受けることができない」(ヨハネ3・27)からです。
 そこで問題になったのは、直接に主に向かわなくても、それを受けることができる場合があるか否かです。それにたいして、一方では、〈みことば〉が存在する以上、直接に主に向かわなくてはならないと言う人たちがいましたが、他方では、そのまま父なる神に向かえば、教義上の真理が分かると言う人たちもいます。そこでまず、この最初の問題に議論が集中しました。すなわち、あるキリスト信者が、まともに父なる神に向かい、主のうえを通り越して行くことが許されるかどうか、はたしてそれは、とんでもない傲慢であり、尊大であり、無礼であるかどうか、ということです。というのは、
 「だれもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14・6)と、主は言っておられます。ところが、これを保留にしたまま、かれらは、人間は生来の自然的光で、〈みことば〉から教義上の真理を見とおすことができると言います。これは反対されましたが、かれらは、父なる神に向かって祈る人には、それができると主張します。
かれらの面前で、ある〈みことば〉が朗読されました。それからひざまずいて、父なる神がかれらを照らしてくださるように祈りました。かれらが言うには、かれらの前で読まれた〈みことば〉からの引用は、あちこちで真理でしたが、実際は偽りだったということです。それで、退屈するまで何回も読まれたのですが、ついにはそれも、不可能になったと白状しました。 他方、直接主に向かっていった人たちは、真理を見とおすことができ、他の人たちにもそれを知らせたのでした。
(2) 議論がこんなふうに中断されたあと、深い淵からはい上ってくる者がいました。最初イナゴのように見えましたが、あとでは小人に見えてきました。かれらはこの世で、父なる神に祈り、信仰のみによって義とされると思い込んだ人たちでした。『黙示録』(9・1~11)に描かれているのは、このような人たちのことです。人は律法によらず、ただ信仰のみによって義とされるということを、理性の明るい光の下でも、〈みことば〉からも、はっきりしていると、かれらは言っています。
それはどんな信仰か尋ねられると、かれらは、「父なる神にたいする信仰です」と答えました。とにかく、かれらは尋問をうけたあと、天界から言われたことは、〈みことば〉に由来する教義については、一つの真理さえ知らなかったということです。それでもかれらは、光のもとで、自分なりの真理を見とおしていると言って聞きません。
「あなたが見ているのは、偽りの光ですよ」と言われても、「偽りの光って何ですか」と問い返します。そこで、偽りの光とは、偽りを確信させる光のことで、それはミミズクやフクロウが住みつく光に相応していると伝えられました。そこには、暗闇が光であり、光は暗闇です。またかれらに、光そのものである天界に目をあげると、暗闇が目にうつり、自分たちがやって来た深淵を見とおすと、光が目にうつることを分らせました。
(3) こんなふうに断定されると、かれらも腹を立て、光とか暗闇といっても、眼の状態のことを言っているので、その眼の状態のもとで、光だ暗闇だと言っているのに過ぎないと言い返します。それで、かれらが受けている偽りの光とは、偽りを信じこませる光のことで、その光は、情欲の炎から出てくる精神の活動にすぎず、夜になると、納屋の中でネズミを追うネコの眼が、欲情で炎のよう燃えて見えるのとおなじだ、と言いました。
これを聞いて、かれらはかっとなり、自分たちはネコじゃない、われわれは見たいと思うものを見ることができるんだ、と言いましたが、それじゃどうして見たくないのかと、問われるのを恐れて退き、自分の深淵へと、もどっていきました。そこにいた連中とその同類たちは、天使たちから言わせると、ミミズク、フクロウ、イナゴだったのです。
(4) かれらは、深淵にある自分たちの住み家にもどって、天使たちが言ったことを伝えました、 「われわれは、教義の真理にかんしては何一つ、知らないんだそうだ。かれらはわれわれを、ミミズク、フクロウ、イナゴ呼ばわりした」と。そこで騒ぎがもちあがりました。かれらは、 「神に祈って、上にのぼる許しを得、われわれも、大天使たちが知っている教義上の真理を、たくさん知っていることを証明してやろうと」言いました。神に祈った結果、許しが出て、三百人もの霊がのぼって行きました。地上に現れてから、かれらは言いました、
「われわれは地上で、著名人、有名人だった。信仰義認という秘義を知って教えていた。その確信あってこそ、光を見たし、その光は輝ける星のごとしだった。それはまた、現在のわれわれの住まいの中でも同じだ。
ところが、あなた方の傍にいて、われわれの仲間でもある者から聞いたが、その光は光でなく、暗闇だそうだ。あなた方は、〈みことば〉からくる教義上の真理について、われわれは何も知らないという。われわれは、〈みことば〉のあらゆる真理は、まばゆく光っていることを知っているし、われわれが知っている秘義を堀り下げて瞑想してみると、その輝きが真理から発していることも、信じてきた。だからして、〈みことば〉からくる真理を、われわれが大量に知っていることを、証明しなくてはならないと思う」と。それからまた、言いました、
「父なる神、それにおん子と聖霊がましますこと、この三位一体を信じなくてはならないことは、われわれにとって真理なのだ。キリストがわれわれのあがない主であり救い主であることも、真理だろう。また、キリストだけが義にましまし、功徳はまったくキリストにしかないこと、キリストの功徳や義を、すこしでも自分のものにしたいと思う人間は、不正・不敬であるということも真理だね。死ぬ運命にある人間は、だれひとり、自分の力で善ができないし、自分のうちに宿っている善という善は、すべて神からくるということも、そうだろう。善を手柄にしたり、偽善的なものにした場合、善は悪になってしまうということも、われわれが信じている真理だよ。それでも、善いことは行わなくてはいけないという真理もある。信仰というものがあり、神を信じなくてはならないこと、信じる者はみんな命をもつことも真理です。その他〈みことば〉からたくさん引用できる。あなた方のなかで、以上の一つでも否定できる人はおりますまい。それにもかかわらず、あなた方は、われわれの学校には、なんの真理も、たった一つの真理もないと、おっしゃる。何のうらみでそんなに反対なさるのです」と。
(5) それにたいし、次のような回答がもどってきました、
「あなた方がおっしゃったことは、そのものとしては真理にはちがいませんが、あなた方の心の中では曲げられてしまっています。それは偽りの原理をもとにして、ひっぱり出してきた偽りです。それが事実であることを、眼前にはっきりさせていただきましょう。ここからあまり遠くない所に、天界からの光が直接降りそそいでいる場所がありますが、そのまん中にテーブルが置いてあります。その上に紙があって、〈みことば〉からくる真理が書き込まれ、それが、刻みこまれた真理からくる光で、星のようにかがやいています。それで、あなた方の言っている真理を紙に記して、そのテーブルの上に置いてみてください。わかります」と。
かれらは、言われたとおりにして、その紙を護衛の者にわたしました。その護衛は、紙をテーブルの上に置いてから、かれらに、「さがって、テーブルの上を見ていてください」と言いました。かれらは、さがって見ていると、その紙は星のように輝きはじめました。そのとき護衛は、「あなた方が紙に記したことが真理だとお分かりでしょう。ただし、近づいてきて、じっとその紙を見つめていてください」と言い、かれらがそのようにすると、たちまち光は消え、紙は黒ずんできて、暖炉のススをまぶしたようになりました。そこで護衛は、「ご自分の手でその紙に触れてみてください。ただ文字には触れないように」と言いました。そのようにすると、めらめらと炎があがって燃えつくしてしまいました。その様子を見終わってから、かれらに、「もし、文字に触れていたら、バーンと音がして、指に火傷をしていたでしょう」と言いました。かれらがそこに立ちつくしていると、背後から声があって、「あなた方は、そのおっしゃっている義についての秘義を証明しようと、真理を悪用されました。もちろんその真理は、そのものとしては、真理にはちがいませんが、あなた方の中でひん曲げられてしまっています」と言われました。
そのとき、かれらが目をあげると、天界が血のように映り、やがて暗闇と変わっていきました。天使の心をもった霊たちの目のまえで、かれらはコウモリになったり、フクロウに変わったり、ミミズクに化したりしました。そしてかれらは、自分なりの暗がりに向かって逃げて行きましたが、その暗がりは、かれらの目には、そらぞらしい光でかがやいていました。
(6) そこにいあわせた天使的霊たちは、そんな場所やテーブルについて、今まで何も知らなかったので、目をまるくしていました。すると、南方位から声があって、「こちらに近づいてごらんなさい。もっとすばらしいことが目に入ります」と言われました。
そこで近づいてみると、一つの部屋に通じていました。その部屋の壁は、黄金色にかがやいていて、またテーブルもあり、その上に、天上の流れで、宝石をちりばめた〈みことば〉が置いてありました。護衛の天使は次のように言いました、「〈みことば〉を開くと、口では言い表わせない明るい光がキラキラと光ってみえるでしょう。
そして、〈みことば〉の上と回りには、宝石から虹のようなものが映ります。第三天界から天使がやってくると、〈みことば〉の上と回りには、深紅の帯状に虹がかかります。第二天界から天使がやってきて、その〈みことば〉に目をとめると、水色の帯状に虹がかかります。最外部天界から天使がやってきて、それに目をとめると、白色の帯状に虹がかかります。善霊がやってきて、それに目をとめると、大理石の輝きのように、いろいろな光を放ちます」と。
それがまた、かれらの眼前に示されたのです。そののち、護衛の天使が言いました、
「〈みことば〉をひん曲げる者が近づくと、たちまち輝きを失います。〈みことば〉に近づいて、目をそれに集中させると、まわりが血色になって、そこから離れるよう注意されます。危険だからです」と。
(7) 信仰だけが義とするという教義について、この世で指導的立場にあった著者がいて、大胆に近づいてきて、言いました、
「前世にあって、わたしは〈みことば〉をゆがめたとは思いませんね。信仰ともども愛も高く評価していたし、人は信仰していれば、愛のわざを実行し、その状態のもとで、聖霊によって、刷新され、再生され、聖化されると教えてきました。このような場合、信仰は孤立したものではなく、善行から切り離されたものでもありません。それは、よい木で実のならないものはなく、光のない太陽もなく、熱のない火が存在しないようなものです。わたしは、善行など必要じゃないと言う者は、まちがっていると言ってきました。それに、十戒とか悔い改めを大切にしてきましたし、こうして〈みことば〉にあることを全部、万全を期して、信仰の項目にあてはめてきました。そしてこのような信仰があって、初めて救われるということを弁護し、証明してきたのです」と。
かれは、〈みことば〉をゆがめてはいないと主張し、自信をもってテーブルに近づき、天使の制止もきかずに〈みことば〉に触れました。その途端、〈みことば〉から煙をともなった火が吹き出てきたかと思うと、バーンという爆発音があって、かれは部屋の角にたたきつけられ、一時間あまりも死んだようになって身を横たえていました。
天使的な霊たちは、びっくり仰天です。ここで言われたことは、たしかにこの人は、愛による善を、信仰から出るものとして、他の人たちよりずっと高く評価した点すぐれていましたが、その善行たるや、社会倫理といわれる政治的なものでしかなかったし、それも世の中の繁栄のためで、救いのためではなかったそうです。また、聖霊による隠れた業を仮定し、信仰があれば、その信仰に業が植えつけれらていくといいますが、人はそのようなことは、何も分からないはずなのです。
(8) 天使的な霊たちは、〈みことば〉をゆがめることについて、おたがい話しあいましたが、次の点でみんな同意見でした。つまり、〈みことば〉をゆがめるとは、〈みことば〉の真理を偽りの証拠立てに使うことで、〈みことば〉の真理が、〈みことば〉から切り離され、ここで息の根を止められてしまうのです。たとえば、以上のように、深淵からやってきた連中がいう真理は、現代的な信仰に応用され、その信仰から証明されます。ところが、その真理は、偽りに植えつけられたものなのです。これについては後述するつもりです。
愛は実践すべきであるとか、隣人には親切にしなくてはならないとか、〈みことば〉から、ある真理をとりあげますが、それを行わなくてはならない理由が、救いのためではない場合、人が行う善は、どれもこれも、報いが目的になります。そうなると、善ではないわけですから、その人は 〈みことば〉の真理を、〈みことば〉の外に排除し、それを殺してしまうことになります。というのは、救われたい者は、隣人を愛し、その愛に発して、人に善をするよう、主はご自身の〈みことば〉のなかで、命じておられるからです。その他の真理についても同じです。