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真のキリスト教



第三章 聖霊と神のおん働き


139節~157節


139 140 141 142 143 144 145 146 148 149 150 151 152 154 155 156 157

139・ [Ⅰ]聖霊は神の真理のことである。神のみ力は、ひとりの神から発しているが、その
   ひとりの神に三一性があり、それが神であり、救いの主である。
 聖霊は、〈神の真理〉のことですから、〈みことば〉でもあり、その意味で、聖霊は、主ご自身のことです。しかしながら、今日教会では、聖霊というと、人間を実際に義とする神のおん働きのことですから、ここでもその意味で用います。またそうするわけは、神のおん働きは〈神の真理〉によるおん働きで、主から出るものです。主から出るものは、その発出の源である主と、本質的にはおなじです。
 それはちょうど、普通の人間の場合、〈霊魂〉・〈肉体〉・〈両者から出るもの〉の三つがあって、それが同一の本質をつくっているようなものです。ただ主の場合、神であるとともに、人間です。その両者は栄化のあと、前にあったものと、あとからのもの、すなわち、本質 essentia と形相 formaが合体しました。ですから、主のうちにあっては、父・子・聖霊と呼ばれている三つの本質的特性 tria essentialia は、ひとつなのです。

(2) 主は、〈神の真理〉そのものであることは前述したとおりですが、それがまた聖霊であることは、次の箇所からも明らかです。
「エッサイの株から一つの芽が出、・・・その上に主の霊がとどまる。それは英知と理知の霊、 賢慮と才能の霊・・・である。・・・その舌をもって国をむち打ち、その唇の息で、悪い連中を 殺す。正義は、その腰の帯、真理はその身の帯である」(イザヤ11・1、4、5)。
「主は激しい流れのように来られる。エホバの霊は、その流れを押しながす。そのとき、シオンに、あがない主が来られる」(イザヤ59・19、20)。
「エホバである主の霊が、わたしの上にのぞんだ。エホバはわたしに油をそそいだ。貧しい者に福音をのべ伝えるために、わたしを遣わされた」(イザヤ61・1、ルカ4・18)。
  「わたしがかれらとする契約はこれである。・・・あなたの上にあるわたしの霊、わたしのことばは、あなたの口から、いまからのち、とこしえまでも、離れることはない」(イザヤ59・21)。

(3) 主は真理そのもので、主から出るものは全部真理ですから、主のことを弁護者 Paracletus といいますが、それもまた「真理の霊」とか「聖霊」と言われています。
  「わたしはあなた方に真理を語るが、わたしが去って行くことは、あなた方のためになることである。わたしが去っていかなければ、あなた方のところに弁護者はこない。もし去って行けば、あなた方に、弁護者をつかわそう」(ヨハネ16・7)。
  「真理の霊がくるとき、あなた方をあらゆる真理に導いてくれるであろう。・・・それは自分から語るのではなく、その聞くところを語るのである」(ヨハネ16・13)。
  「聖霊は、わたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなた方に知らせるからである。父がおもちになっているものは、みなわたしのものである。聖霊はわたしのものを受けて、それをあなた方に知らせたのだと、わたしが言ったのは、そのためである」(ヨハネ16・14、15)。
  「わたしは父にお願いして、別の弁護者を送っていただこう。それは真理の霊で、この世はそれを見ようとも、知ろうともしないから、それを受けることができない。しかしあなた方はそれを知っている。なぜなら、それはあなた方とともにおり、あなた方のうちにいるからである。わた  しはあなた方を捨てて孤児とはしない。あなた方のところに帰ってくる。あなた方はわたしを見るようになる」(ヨハネ14・16~19)。
  「父のみもとからくる真理の霊、つまり弁護者がくるとき、わたしについてあかしをするであろう」(ヨハネ15・26)。
  「その方は、『聖霊 Spiritus Sanctus 』と呼ばれる」(ヨハネ14・26)。

(4) 主が「弁護者」とか「聖霊」とか言われたのは、ご自分自身のことでした。主が世はまだそれを知らないと言われた〈みことば〉からも分かります。
  「あなた方はそれを知っている。」
  「わたしは、あなた方を孤児にしない。あなた方のところに帰ってくる。」
  「あなた方は、わたしを見るようになる。」
  「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」(マタイ28・20)。
 また「それは自分自身から語るのではなく、わたしから受けるのである」とのみ言葉からも明らかです。

140・ 聖霊とは、神の真理のことであり、それは主のうちにあったわけですから、主ご自身のことでもありました(ヨハネ14・6)。その聖霊は、主以外からは出るはずがありません。というのは、「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、聖霊がまだくだっていなかった」(ヨハネ7・39)。そして、栄化のあと、
  「かれらに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けなさい』と」(ヨハネ20・22)。
 主は弟子たちに息を吹きかけ、そう言われたのは、「息吹き」が、神のインスピレーションの外的な表象でありサインであったからです。インスピレーションとは、天使社会に吸収されることです。以上のことからも、主の〈おんみごもり〉について、天使ガブリエルが言ったことが、理性で明らかにされます。
  「聖霊があなたにのぞみ、いと高き者の力が、あなたをおおうでしょう。それゆえ、生まれ出る子は、聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう」(ルカ1・35)。また、
  「主の使いが夢に現れて言った、『心配しないでマリヤを妻に迎えるがよい。その胎内に宿っているものは、聖霊による・・・。』・・・かれは、初子が生まれるまでは、かの女を知ることは  なかった」(マタイ1・20、25)。
 ここで「聖霊」とは、父であるエホバから出る〈神の真理〉のことで、そのときマリヤをおおったのは、発出そのものである「いと高き者の力」なのです。ヨハネには、
  「〈みことば〉は神とともにあった。神は〈みことば〉であった。・・・そして〈みことば〉は肉体となられた」(ヨハネ1・1、14)とあります。
 ここで言う〈みことば〉とは、〈神の真理〉のことであることは、〈新しい教会の信仰について〉の節を参照してください(前3節)。

141・ 神の三一性は、主に内在しています。これは前述しましたが、それについては、もっとくわしく、当該の各節で説明していきます。ここではただ、人格の面で分けた三一性から生まれてくる矛盾を指摘しておきます。
 これはちょうど、ある教会の牧師が、信じるべきこと、行うべきことを、講壇から教えるさい、その傍にもう一人の牧師がいて、その牧師の耳もとに、「これこれのことをはっきり言い、それからあれも教えなさい」とささやきます。
 それからこの牧師二人が、壇下に立っている三番目の牧師に、「礼拝席のなかに入って、かれらの耳をあけ、そのことを心に注ぎこみ、きよく、たっとい、義のちぎりを結ばせなさい」と言っているようなものです。
 その人格のそれぞれが神であり主であるような三位の神となると、一つの世界に三つの太陽があるようなものです。高いところに一つ、その傍にもう一つ、その下に第三の太陽があって、それが天使と人間のまわりをめぐって、上にある二つの太陽の熱と光を、あらんかぎりの力で、人の精神と心と肉体のなかに注ぎ入れます。まるで精練用カマドの火力をあげていくように、原料を浄化・精製すると、どうなるでしょう。人間など燃え尽きて灰になってしまうのではないでしょうか。
 天界で三神が統治なさるとすると、一つの国を三人の王が治めるようなもの、一つの軍隊に同等の権力をもつ三人の司令官がいるようなものです。それはまた、シーザー時代のまえのローマ帝国に似ています。執政官、元老、護民官がいて、かれらのあいだでは権力を分散させながらも、いっしょにして、最高の権力をもたせました。
 天界にこんなことがあれば、矛盾であり、お笑い草であり、幻想です。父なる神が最高の執政官であり、おん子の力は元老に匹敵し、聖霊は護民官ということでしょうか。三位のそれぞれに、固有の属性的機能があり、その属性がたがいに交流不能だとすると、そんなふうになります。

142・ [Ⅱ]神のみ力とは、聖霊によるおん働きである。それにはおおむね、改革 Reforma-tio と再生 Regeneratio がある。改革と再生によって、刷新 Innovatio・活性化 Vivificatio・聖化 Sanctificatio・義化 Justificatio がおこなわれ、そこから悪よりの浄化、罪のゆるしがあり、その結果、救いが成立する。

 人が主を信じ、主を受け入れて、自分のうちに主が住まわれるよう、みずからを適応・調整するとき、主は以上のような順序で、その人の中で、ご自分のおん力を働かせられます。これは〈神の真理〉つまりキリスト教徒にとっては、〈みことば〉をとおして実現していきます。人が主に近づき、主が人の中に入ってくださる方法は、これだけです。前述したように、主こそ〈神の真理〉そのものであるとともに、主から出るものはすべて、〈神の真理〉だからです。
 ただし、〈神の真理〉は善から出ており、しかも仁愛から出る信仰に匹敵するということを知らなくてはなりません。信仰は真理以外のなにものでもなく、仁愛は善以外のなにものでもありません。〈善からくる神の真理〉、つまり〈仁愛から生まれる信仰〉をとおして、人は改革され、再生され、それによって刷新・活性化・聖化・義化が行われます。そして、このような成長と進展があって、人は悪からきよめられます。悪からきよめられるということが、罪のゆるしになります。
 いずれにしても、以上の主によるおん働きを、ひとつひとつ全部にわたって説明できません。というのは、それぞれに〈みことば〉によって確かめながら分析し、しかも理性で明らかにしていかなくてはなりませんし、ここでは今それは取り扱えません。読者の方はどうぞ、本書の順序にしたがい、信仰について、仁愛について、自由意志について、悔い改めについて、改善と再生について、述べてあるところを参照してください。
 主が、ひとりひとりの人間の救いのため、たえまなく働いておられることは、知っておく必要があります。そこには天界への段階があります。すべての人の救いを望んでおられますが、主にとっては、すべての人の救いこそ目的であって、そのような目的達成のお望みがあればこそ、その手段もお望みになります。この世に来られ、あがないと十字架の苦難をうけられた(マタイ18・11、ルカ19・10)のも、人間の救いのためでした。主にとっては、人間の救いこそ、その目的であったし、永遠にいたるまでそうです。だから、そのおん働きは中間目標であり、救いこそ究極の目的と言うことになります。

143・ このような力のおん働きが聖霊で、主を信じ、主をお受けするよう、みずからをととのえる人に、主は聖霊をおつかわしになります。「霊」は何を意味するか、次の引用句を参照してください。
  「わたしは新しい心をあなた方にあたえ、新しい霊をあなた方のうちにさずけ、救いの道をあなた方に歩ませよう」(エゼキエル36・26、27、11・19)。
  「神よ、わたしたちのうちに、清い心を造ってください。わたしのうちに、新しい、正しい霊を与えてください。・・・あなたの救いの喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささ  えてください」(詩51・10、12)。
  「エホバは、そのなかに人の霊をつくられる」(ゼカリヤ12・1)。
  「わが魂は夜あなたをしたい、わがうちなる霊は、朝あなたを待つ」(イザヤ26・9)。
  「新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか」(エゼキエル18・31)。
その他にもたくさんあります。
 「新しい心」とありますが、それは善への意志のことです。また「新しい霊」とあるのは、真理への理性のことです。主は、善を行い真理を信じる人、つまり仁愛の信仰をもっている人のなかで、以上のような働きをなさることは明らかですが、神はそのような人生を歩んでいる人に、魂を与えてくださいます。それで「自由の霊」と言っているのです。人間も自分の方から行動を起こさなくてはなりません。それで、「新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか」とあるのです。

144・ 「イエスは洗礼を受けると、天が開け、聖霊が鳩のように下ってくるのを、ヨハネは見た」(マタイ3・16、マルコ1・10、ルカ3・21、ヨハネ1・32、33)。
 このようなことがあったのは、洗礼が再生と浄めを表わしており、同じように、ハトもそれを示しているからです。聖霊はハトではないし、ハトの中に宿るものではないことは、だれでも分かります。天界ではよく、ハトが姿を見せますが、それが現れるたびに、その近くに立っている人の中で、再生や浄めにかかわりがある情愛や考えの相応が存在しているのを、天使たちは知っています。ですから、そのような人の傍に近づいて、かれらが考えていたこととは別のことを話すと、ハトが姿を見せていても、そこから消えていきます。
 これは、預言者たちにもいろいろなかたちで現れたのとおなじです。ヨハネは、シオンの山のうえに小ヒツジがいるのを見ました(黙示14・1、他)。主が小ヒツジでないこと、またその小ヒツジのなかにおられるのではないことは、だれもが知っています。小ヒツジというと、主の純真無垢の表象なのです。ですから、主が洗礼をお受けになったとき、主の頭上にハトを見、天から声があって、
「これは、わたしの愛する子」であることから、三位の神がいると思い込むのは、明白な誤りです。主が人を再生なさるのは、信仰と愛によることは、洗礼者のヨハネが言ったことからも分かります。 
 「わたしは悔い改めのために、水であなた方に洗礼を授けている。しかし、わたしのあとから来る方は、・・・聖霊と火とによって、あなた方に洗礼をお授けになるであろう」(マタイ3・11、マルコ1・8、ルカ3・16)。
 「聖霊と火とによって洗礼を授ける」とは、信仰の対象である〈神の真理〉と、愛の対象である〈神の善〉によって、ふたたび生まれ変わるように、なさることです。主の次の〈みことば〉も似ています。
  「だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることはできない」(ヨハネ3・5)。 
ここにある「水」は、他の箇所でもそうですが、自然の外部的人間のなかにある〈真理〉のことで、「霊」は、霊的内部的人間のなかにある〈善から出る真理〉のことです。

145・ 主は、〈神の善〉から出る〈神の真理〉そのもので、それが主の本質です。しかも、だれであっても、何かを行うには、自分の本質から行います。したがって、主がたえず願っておられることは、ひとりひとりの人間に、〈真理と善〉、つまり〈信仰と愛〉を植えつけること以外の何ものでもありません。
 これは、この世にあるたくさんのことがらから説明できます。人間はみんな、自分の本質がもとになって、欲求したり、考えたり、また許されるかぎり、話したり、行動したりします。たとえば、忠実な人は、忠実なことを考えたり、もくろんだりします。正直で実直で信心深く宗教的な人は、正直なこと、実直なこと、信心深いこと、宗教的なことを、考えたりもくろんだりします。その反対に、傲慢でずるく、下心があって貪欲な人は、自分の本質にあうことをやります。占い師は、そのやることは、占い以外の何ものでもありません。愚か者は、知恵に反することしか、しゃべりません。一口に言うと、天使が考えたり、もくろんだりすることは、天上的なことで、悪魔が考えたり、もくろんだりすることは、地獄的なことです。
 トリ、ケモノ、サカナ、ムシ類など、動物界に生息する下等なものも、みんなそうです。どんなものでも、その本質すなわち本性が認識の対象となり、また本質や本性にもとづいて、それぞれに本能があります。おなじく、植物界でもそうで、樹木・灌木・野菜などもみんな、それぞれの生来の本質は、果実や種を見て分かります。なんでも自分と同類のもの、同種のもの以外は、産み出しません。これはまた、土地でも、白粘土でも、高級な鉱石、下級の鉱石、鉱物と金属のすべてについて言えることで、ものはその本質によって見分けられるのです。

146・ [Ⅲ]神のみ力とおん働きとは、聖霊の派遣のことで、教職者の場合はとくに、照らしと教導がある。

 前章では、主のおん働きには、改革・再生・刷新・活性化・聖化・義化・浄化・罪のゆるし・救いがあると言いましたが、これは、教職者にも一般信徒にも、主から流れてくる流入です。そして、主のうちにあり、主がその中にまします人によって、受けいれられます(ヨハネ6・56、14・20、15・4、5)。
 しかし、それも特殊な場合は、照らし illustratio と教導 instructio の形をとります。それは教職者の仕事で、牧会の仕事に入るにあたって、人に与えられます。かれらはまた、熱意をもって説教をするとき、かつて主が、「聖霊を受けなさい」(ヨハネ20・22、マルコ13・11他)と言って、息を吹きかけられたとき、主の弟子たちが感じたようなインスピレーションを受けると、信じられています。またある人の場合は、その流入を感じとるという証言もあります。
 ただ注意しなくてはならないのは、説教をしているとき、大勢の者が熱意を感じて、感動したとしても、それが人の心のなかでの神のおん働きだと、思いこまないことです。そういった熱気は、狂信者たちにも、とんでもない偽りの教義を信じている者にも、ありえることです。〈みことば〉を見くだしては、神の代わりに自然を拝んでいます。信仰とか愛とかをリュックにつめこんでは出かけ、教えたり説教したりするときは、反芻動物の胃袋からとり出すように、目の前にひろげ、その中から聴衆の栄養になると見られるものを吐き出しては、説明する人たちもそうです。
 この種の熱意は、そのものとして眺めると、自然的人間の熱情にすぎません。ただし、その内部にあるものが真理への愛であれば、それは神聖な火で、これは使徒行伝にあるように、使徒たちの心に流れ入ったものです。
  「舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりひとりの上にとどまった。すると一同は聖霊に満たされた」(使徒2・3、4)。
 ところが、その熱意や情熱のなかに、偽りへの愛が隠されている場合、材木のなかでくすぶっている火のようで、やがて吹き出て家を燃やしてしまいます。
 〈みことば〉が神聖であり、主が神にましますことを否定する人は、家に帰って自由に、自分の背中にあるリュックを取りはずして、中を見ると分かります。イザヤ書にある「光の天使」とは、バビロン出身者のことであることは、わたしも知っています。かれらは礼拝堂に出入りし、講壇に立ちます。とくにイエズス会と名のる人たちは、そうです。かれらは熱情にあおられていますが、多くの場合、地獄の愛からくるもので、激しい声で説教し、天上の愛からくる熱意で話す人より、ずっと胸の奥底から息をはずませています。教職者には三種類の霊的働きがありますが、それについては後述します(155節)。

148・ このような内部と外部のちがいは、毒をいれた砂糖菓子のようです。かの預言者たちに仕えた少年が、食べるため野ウリをあつめ、これをもっていったところ、口に入れる寸前、「ナベの中に死毒がはいっている」と叫んだことを思わせます(列王下4・38~41)。また小ヒツジのような角が二本あって、龍のような話し方をするケモノが、地から這いあがってきたのに譬えることもできます(黙示13・11)。そのあとで、このケモノは「ニセ預言者」と呼ばれます。かれらは、都市に住む泥棒で、市民として居住し、道徳的・理性的に話もしますが、森に帰るとケモノになります。
 またかれらは海賊のようでもあり、地上では人間らしくしていますが、海上ではワニです。かれらはみんな、地上や町の中では、羊の毛皮を着たヒョウ、または人の面をかぶって、人間の服をまとったサルです。また別の譬えでいうと、香水をぬり、派手な化粧をし、花模様のついた白衣をまとった売春婦に似ています。自宅に帰りつくと、連れてきた男のまえで裸になり、自分のもっている疫病を感染させます。
 〈みことば〉にある神聖な内容や、主にある神性を心の中で否定する者がこんなふうになることを、わたしは霊界で、長年の経験から知らされました。そこでは、みんな最初のあいだは、自分の外部にとどまっていますが、外部はやがてとり去られ、内部に入れられます。そこでの喜劇は、悲劇に通じます。

149・ [Ⅳ]主は、主を信じる人のなかで、そのおん力を働かせてくださる。

 「聖霊の派遣」とは主のみ力のことで、主は、ご自分を信じる人たちの中で、そのみ力を働かせてくださいます。つまり主は、かれらを改革し、再生させ、刷新し、活性化し、義化し、悪から清め、ついには救いにいたらせます。それは、〈みことば〉にある箇所から、全部はっきりします。主を信じる人に、救いと〈永遠のいのち〉があることは、前述の箇所でも(107節)明らかです。その中から、とくに次の箇所を引用しましょう。
  「イエスは言われた、『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう』。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている聖霊をさして言われた」(ヨハネ7・38、39)。また、
  「イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」(黙示19・10)。
 「預言の霊」とは、〈みことば〉からくる教義上の真理のことです。「預言者」とは、教義を意味する以外の何ものでもありません。「預言する」とは、その教義を教えることで、「イエスのあかし」とは、主にたいする信仰を告白することです。次にある「あかし」も同じことです。
  「ミカエルのみ使いたちは、小羊の血と、かれらのあかしの言葉とによって、龍にうち勝った。・・・龍は、その残りの子ら、すなわち神の戒めを守り、イエス・キリストのあかしを持ってい  る者たちにたいして、戦いをいどむために出ていった」(黙示12・11、17)。

150・ 主イエス・キリストを信じる人は、そのような霊の力をえます。というのは、この方こそ救いであり、〈永遠のいのち〉だからです。なお救いであるというのは、「イエス」という名が示すとおり、「救う方」だからです。〈永遠のいのち〉であるというのは、主がその中に宿られる人また主のうちに宿る人には、永遠のいのちがあるからです。だからヨハネによる第一の手紙5・20には、主が「永遠のいのち」と呼ばれる方だと言っています。
 救いであり、永遠のいのちであるとは、救いと永遠のいのちを得るために必要なものが、全部そなわっているということです。だからこそ、改革・再生・刷新・活性化・聖化・義化・悪からの浄化と、最終的な救いが、すべてそなわっているのです。以上のすべてが実現するよう、主はひとりひとりの人間の中で働かれ、それを与えようと努力しておられます。そして、人がそれを受けいれるため、自分自身をととのえ次第、それを与えられます。もちろん。自分自身をととのえたりするのも主によりますが、人がもし自発的にそれを受け入れようとしない場合、主の側からの絶え間のない努力はあっても、実現はしません。

151・ 主を信じるということは、主をみとめるだけでなく、その掟を守ることです。主をみとめるのは、ある種の理性的思考にすぎませんが、主の掟を守ることは、意志による承認です。人間の精神は理性と意志からできていて、理性で考え、意志で実行します。したがって、人がただ理性で考えただけで承認したような場合、生半可な心で主に向かっているわけで、それを実行に移して、初めて全心で承認することになり、それが信じることにもなります。そうしないなら、人の心は、二分されます。表面では、高く飛びたいとあせっても、肉の方は下へ下へと向かいます。それはちょうど、天界と地獄のあいだを飛んでいるワシのようです。ところが人間というものは、眺めている方向よりも、自分の肉に流されます。それというのも、地獄の中にあるため、その方向に飛んでいき、自分の欲情に従って、悪霊たちに供え物をしたあと、にやけ顔をしながら、目をキラキラ光らせて、光の天使のふりをします。主をみとめながら主の掟を実行しない人は、死んだあと、このようにして悪魔になり下がります。

152 前章で述べましたが、人間の救いと永遠のいのちは、主の第一の目的であるとともに、最終の目標です。第一目標とか最終目標とかは、それ自身、中間目標も含みもっていますから、前述したような霊的働きは、主のうちに備わっており、主から人間に与えられ、しかもそれは、少しずつふえていきます。人間の心は、その身体と同じように成長していきます。つまり心では知恵が増し、身体では身長が増していきます。
 そのように、精神は、一つの領域からもう一つの領域へと高められますが、それは自然の領域から霊の領域への成長です。そして、霊的領域から天的領域へと向かいます。天的領域で人は英知をもち、霊的領域で人は理知をもち、最下の領域で人は知識をもちます。しかしこのような精神の高揚は、一定の時間をたどっていくもので、人が真理を知って、それに善を結合していく過程と同じです。
 これは家を建てるのに似ています。始めに壁・瓦・梁・板などを材料として準備し、土台を据え、壁を造り、部屋に区分し、門を建て、壁に窓をつくり、フロアからフロアへは、階段でつなぎます。以上の全部は、住まいが予測し目指す、快適で恥ずかしくない居住性という目的に含まれています。それは、礼拝堂を建てるときもおなじです。建築上の各部は、すべて神の礼拝という目的に含まれています。庭園とか田畑、それから事務所や商店などみんなそうで、目的にかなったように、部分の配置が行われます。

153・ [Ⅴ]主は、おん自らを源とし ex Se、父によって a Patre、働かれるが、その逆ではない。

 神のおん働きとは、ここでは聖霊の派遣のことで、それは前述したように、一般的に言って、改革、再生、刷新、活性化、聖化、義化、罪からの浄化、罪のゆるし、それに救いのことを言います。現在では、それが独立した神としての聖霊のおん働きとされていますが、実は主のおん働きです。これは、主から出て ex Domino、父による a Patre おん働きで、父から出て、主によるおん働きではありません。まずそれは、〈みことば〉によって確認され、それから理性によるいろいろな働きで、はっきりしてきます。まず、〈みことば〉からです。
  「わたしが父によって a Patre、あなた方に遣わそうとしている助け主、すなわち父によって
  来る a Patre exit 真理のみ霊がくだるとき、それはわたしについてあかしをするであろう」(ヨハネ15・26)。
  「わたしが去って行かなければ、あなた方のところに、助け主は来ないであろう。もし行けば、それをあなた方に遣わそう」(ヨハネ16・7)。
  「真理のみ霊である助け主は、・・・自分から ex se ipso 語るのではなく、・・・わたしから受けて ex meo accipiet、それをあなた方に知らせる。父が持っているものはみな、わたしのものである。み霊はわたしのものを受けて、それをあなた方に知らせるのだと、わたしが言ったの  は、そのためである」(ヨハネ16・13~15)。
  「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、み霊はまだ下っていなかった」(ヨハネ7・39)。
  「イエスはかれらに息を吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ』と」(ヨハネ20・22)。
  「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。何ごとでもわたしの名によって願うなら、わたしはそれをかなえてあげよう」(ヨハネ14・13、14)。
(2) 以上のことから、聖霊を遣わされるのは主であり、主のおん働きであることが、はっきりします。そのおん働きについては、現在は、聖霊をそれなりの神とし、その神のおん働きだとしています。主は、聖霊を、父によって遣わす、しかもあなた方に遣わすと言っておられます。その当時は、イエスがまだ栄化されていなかったので、聖霊はまだ存在しませんでした。しかし栄化されたあと、弟子たちに息を吹きかけて、言われます、「聖霊を受けなさい」と。それからまた、「わたしの名によって願うものは、なんでもかなえてあげよう。」 そしてなお、助け主は「わたしのものを受けて、それを知らせるであろう」と言われます。助け主とは聖霊のことで、これについてはヨハネによる福音書14・26を参照してください。「父なる神が、ご自身を出発点とし、おん子をとおして力を発揮される」のではなく、「おん子が、ご自身を出発点とし、おん父によって力を発揮される」のです。それがはっきりするのは、
  「神を見た者は、まだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである」(ヨハネ1・18)とあり、また、
  「あなた方は、まだ父のみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない」(ヨハネ5・37)とあるところからです。
(3) したがって、父なる神は、み子にあって in Filio 、み子に向かって in Filium、働かれることはあっても、み子を通して per Filium 働かれることはありません。むしろ、主はご自分を源におん父によって、働いておられます。それは、
  「父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである」(ヨハネ16・15)。
  「父は万物を、おん子の手にお与えになった」(ヨハネ3・35)とあり、また、
  「父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに、生命を持つことをお許しになった」(ヨハネ5・26)。
  「わたしがあなた方に話した言葉は霊であり、命である」(ヨハネ6・63)とあるからです。
 主は、真理の霊が、おん父によって来られる exeat a Patre (ヨハネ15・26)と言われます。つまり聖霊は、父なる神によって a Deo Patre おん子に向かって in Filium 来るわけで、
  「その日には、父がわたしにおり、わたしが父におり、あなた方はわたしにおり、わたしはあなた方におることが、分かるであろう」(ヨハネ14・11、20)と言われています。
 以上の〈主のみ言葉〉から、実に明白なことは、父なる神が、人間に聖霊を遣わされるというのは、キリスト教世界の誤りであり、また父なる神は、その聖霊を直接おくって下さるというのは、ギリシャ正教の誤りです。主は、ご自分を出発とし、父なる神によって、聖霊をおくられるので、その逆ではありません。この真理は、天界からくるもので、天使たちは、これがこの世でまだ開かれていないことから、「秘義」と呼んでいます。

154・ 理性をつかって推理すれば、いろいろ分かってきます。たとえば次のようです。
 使徒たちは、主から聖霊をいただいたあと、口頭や手紙をとおして、福音をのべ伝えました。これは、かれら自身が出発点となっていますが ex se ipsis、主によって a Demino 、なされたことです。ペテロも、ヤコブも、ヨハネも、パウロも、教えたり書いたりしましたが、それぞれ自分のもっている理知をつかいました。主はかれらみんなの心をご自分の霊で満たされましたが、各自は、持前の感知力いかんで大小がありましたが、それなりの能力を発揮しました。
 天界の天使たちはみんな、主によって満たされ、かれらは主のうちに宿っています。ただし各自はそれぞれの心の状態にしたがって、話し、行動しています。単純な者、知恵のある者などいろいろですが、それには測り知れない多様性があります。しかもなお、ひとりひとりは、自分を出発点として、主によって話しているのです。
(2) 教会の教職者もみんなそうです。真理のうちにあっても、偽りのうちにあっても、各自には自分自身の口があり、理知があり、自分の心を出発として話をしています。つまり自分が所有する自分自身の霊をみなもとにしているのです。
 福音主義者であっても、改革派であっても、プロテスタントであればみんな、ルター、メランヒトン、カルヴィンがつくった教義で教育をうけます。しかし、ルターやその教義自身が、教職者をつかって、話をしているのではなく、教職者たちが、ルターたちに依拠して、話をしているのです。それぞれの教義が、百千のやり方で説明できます。教義はまるで宝庫のようで、各自はそこから、自分の才能と好みに合ったところを取りだし、自分なりの才能をつかって、説明しようとします。
(3) 以上のことは、肺のなかで、肺に向かって働いている心臓とか、肺が心臓に依拠して、自分で行っている反応などによっても説明できます。この二つは、はっきり分かれた機能でありながら、相互に補いあって、ひとつに結びついています。肺は心臓に依存しながらも、自分から働いている反面、心臓は肺の力で働いているのでなく、自分なりに働いています。そうでなければ、両方とも止まってしまいます。これと同様のことが、人体の内臓の中での心臓の働きや、内臓に向かってする心臓の働きについても言われます。心臓は、体の全域に血液を送りこみ、内臓はそこから自分に役に立つ分を汲み込みますが、それも各部の機能に応じ、しかもその機能に応じた働きを果たします。それも多種多様です。
(4) これはまた、次のように説明することもできます。遺伝悪と言われる両親から受け継いだ悪は、人間のなかで、人間のなかに、働きかけます。これは下からと外から働きかけますが、それと同じように、主からくる善は、上からと内から働きかけます。悪が人間を媒介として働いているだけなら、その人は改善もされないし、罪を犯したことにもなりません。それと同じように、主からくる善が、人間を媒介として働いているだけなら、改善はありません。ということは両者とも、人間の自由選択にかかっているわけで、悪に依存して a malo 、自分を出発点として ex se 行為するとき、罪が生まれ、善に依拠して a bono 、自分を出発点として ex se 行為するとき、その人は潔白です。 悪は悪魔、善は主ですから、悪魔に依拠して a diabolo 何かをやれば、人は罪になり、主に依拠して a Domino 何かをやれば、人は潔白です。人間は、だれにも備わっている自由選択の能力によって、改革されるのです。
(5) 同じことが、人間の内部と外部について言えます。二つは違ったものでありながら、相互に補いあって一つになっています。内部は、外部のなかで、外部のなかに働きかけますが、外部を介して働いているのではありません。内部は何千もの働きを含んでおり、外部はその中から、自分の役に立つものだけを吸収します。
 人間の内部というと、意志的働きをするとともに、感知的な働きをする精神のことですが、厖大な情報の集積でありながら、人間の口から流れ出ると、フイゴの風のようにむなしいものです。内部に含まれているものは普遍的で、これは大洋か花壇か庭園に、たとえられます。外部は、それから自分に役立つものを、必要なだけとり入れます。
 主の〈みことば〉は、大洋であり、花壇であり、庭園です。〈みことば〉が人の内部に充満してくると、人は〈みことば〉に依拠して、自分から話したり行動したりします。しかし〈みことば〉が人を介して働くことはありません。
 主の場合もおなじで、ご自身〈みことば〉です。つまり〈神の真理〉であるとともに、それに伴う〈神の善〉です。主が人のなかで、人のうちに働かれるのも、ご自身つまり〈みことば〉を出発点とします。でも人間を介して働いておられるわけではありません。それというのは、人間は、〈みことば〉に依拠する a Verbo ときは、主に依拠し a Domino ながらも、自由に行動し、話しているのです。
(6) ただし、これをもっと身近に説明するには、霊魂と肉体の相関関係で示すのがいいでしょう。この二つはちがったものであっても、相互補足的につながっています。霊魂は、肉体のなかで in corpore 、しかも肉体のうちに in corpus、働きかけますが、肉体を介して per corpus 働いているのではありません。それにたいし、肉体は、霊魂に依拠しながらも ab anima 、自分を出発点として ex se 働いています。霊魂が肉体を介して働いているのではないことは、霊魂と肉体がおたがい相談してやっているのではない、ということです。霊魂は肉体にむかって、あれこれのことを行ったり、口頭でやるように、指図をしたり懇願したりはしませんし、また肉体は霊魂にむかって、何かを提供したりするように、要請することもありません。霊魂と肉体は、全体として相互に補足しあっています。
 主の神性と人性についても、同じようなことが言えます。主の人間的霊魂こそ、おん父としての神性のことであり、また、主の肉体こそ、その人間性です。そして、主の人間性は、ご自分の神性にたいして、何かを言ったり行ったりするよう、要請されることはありません。だから主は言われました、 
 「その日には、あなた方は、わたしの名によって、求めるであろう。わたしは、あなた方のために父に願ってあげようとは言うまい。父ご自身が、あなた方を愛しておいでになるからである」  (ヨハネ16・26、27)と。
 「その日」とは、栄化より後のことです。つまり、おん父と完全・絶対に一致合体したあとのことです。このような秘義は、主ご自身によるもので、ご自身の新しい教会に生まれる人たちのためです。

155・ 以上第三章では、教職者への聖霊の派遣とは、神のみ力と〔おん働き〕のことで、それはとりわけ、照らしと教導力で示されるということでした。しかしそれにも、感知力と性格調整という二つの媒介的な働きが加わります。ですから、教職者には、照らし illustratio・感知力 perceptio・性格調整 dispositio ・教導力 instructio の順で、働きかけがあります。
 照らしは、主によるものです。人の感知力は、教義上のことがらで形成された精神の状態にもとづきます。それが真理なら、光に照らされて物事をはっきり感じとるわけですが、それが偽りなら、ぼんやり感じとります。しかし後者の場合、思いこみによって、はっきりしているように見えることがありますが、それは偽りの光からくるもので、単に自然の眼にだけ、はっきり映るものです。
 性格調整とは、意志的愛がもつ情感からきます。そのような愛がもっているよろこびでもって、人を性格づけます。その愛が悪いもので、その結果、偽りであれば、情熱をかきたてますが、その情熱は、荒々しく粗雑で、パッと燃えあがるような外面上の様子をしながら、内部には、怒り、乱心、無慈悲をたくわえています。もしそれが、善からくる真理の情熱である場合、優しくなめらかで、キラキラした輝きと響きをもっており、内部には、隣人愛・感謝・慈悲があります。
 教導力が生まれるのは、以上が原因となって起こる結果です。主によって与えられる照らしは、人の心の状態にしたがって、それぞれに、いろいろな光と色になって現れます。

156・ [Ⅵ]人間の霊とは、人間の心のことで、その心から出てくるものは、みんな霊の働きである。

 人間の霊は、具体的には、その人の心以外の何ものでもありません。これは、死んだあと残り、それ以後は、「霊 spiritus 」と呼ばれています。その霊が、善い霊の場合、天使的霊というわけで、のちに天使になります。悪い霊の場合は、サタン的な霊ということで、のちにサタンになります。人間の心は、ひとりひとり、その人の内部人間をなしていて、それが実際の人間をつくり、人の肉体を形成する外部人間の中核になります。ですから、死によって肉体が捨て去られると、完全な人間の 〈かたち〉 plena forma humana を帯びることになります。
 人間の心 mens hominis が、ただ頭部にあると信じるのは誤りで、頭部には、人が理性をつかって考え、意志をつかって行動するとき、そのすべてが出はじめる始源の状態が存在するにすぎません。心自身は、肉体の中では、感じたり行動したりするために形成された派生的なものに包まれています。内部はしっかり肉にくっついていて、感覚作用や運動をもたらしたり、あたかも肉体が、自分で考え行動しているかのように、感知力を高める作用をします。しかし肉体自身が考えるということはウソで、知者ならだれでも知っていることです。
 そして、人の霊は、理性で考え意志で行いますから、肉体はみずからの力ではなく、霊の力で働いています。したがって人間の霊とは、人間の理知のこと、愛がもつ情愛のことで、すべてはそこから出て、そこから作用しています。人間の霊とは、以上のような心のもつ特性を示すことは、〈みことば〉からたくさん引用できます。引用してみただけで、だれでもはっきりしますが、ここでは多くの箇所から、少数を例として出しましょう。
  「ベザレルは、知恵と悟りと知識の霊に満たされた」(出エジプト31・3)、
  「ネブカデネザルは、ダニエルがすぐれた霊、知識・分別・英知の霊をもっていることを知った」(ダニエル5・12、14)。
  「ヨシュアは知恵の霊に満ちた人であった」(申命34・9)。
  「あなた方は、新しい心と、新しい霊とを得よ」(エゼキエル18・31)。
  「こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国はかれらのものである」(マタイ5・3)。「わたしは、心砕けて、へりくだる者とともに住み、へりくだる者の霊を生かす」(イザヤ57・15)。
  「神の受けいれられるいけにえは、砕けた魂です」(詩51・17)。
  「わたしは、憂いの心にかえて、賛美のころもを与える」(イザヤ61・3)。
 以下の場合は、「霊」とは、曲った邪悪な心の性格を示します。
  「主なる神は言われる、『自分の霊に従うおろかな預言者たちは、わざわいだ』と」(エゼキエル13・3)。
  「あなた方はもみがらをはらみ、わらを産む。あなた方の霊は火となって、あなた方を食いつくす」(イザヤ33・11)。
  「その人の霊はさまよい、偽りを言う」(ミカ2・11)。
  「そのやからは、神に心が定まらない霊をもつ」(詩78・8)。
  「淫行の霊」(ホセ5・4)。
  「人の心はみな溶け・・・霊はみな弱まる」(エゼキエル21・7)。
  「あなた方の霊にのぼることは、けっして成就しない」(エゼキエル20・32)。
  「その霊に偽りのない人」(詩32・2)。
  「パロの霊はさわいだ」(創世41・8)。
  「ネブカデネザルの場合もそうでした」(ダニエル2・3)。
 以上と、その他の多くの箇所から、霊とは、人間の心のこと、人間の心がもっている性格
talia quae mentis sunt のことであることが分ります。

157・ 人間の「霊 spiritus 」とは、人間の「心 mens 」のことです。〈みことば〉に何回か出てくる「霊の状態にある Esse in spiritu」とは、肉体から切り離された状態の心のことです。預言者たちは、このような状態で、霊界に存在するものを見ました。それを「神の幻示 Visio Dei」と呼んでいます。これは、霊界の霊や、天界の天使たちと、同じような状態だったわけです。人は、霊の状態にあるとき、心の目で見ているように、自分の肉体はそのままで、ある場所からある場所へと移されることができます。わたしも、ここ二十六年間、このような状態でした。肉体にとどまっていながら霊の状態にあり、その区別は明確でしたが、ときおり肉体から脱することもありました。エゼキエルも、ゼカリヤも、ダニエルも、黙示録を書いたヨハネも、その状態におかれましたが、それは次の引用からも、お分かりでしょう。エゼキエルは言っています。
  「霊はわたしをあげ、神の霊によって、幻のうちに、わたしをカルデヤの捕われ人の所へたずさえて行った。そしてわたしが見た幻は、わたしを離れてのぼっていった」(エゼキエル11・1、24)。
  「霊がわたしをもたげた。・・・わたしの後に、大いなる地震の響きを聞いた」(エゼキエル3・12、14)。
  「そして霊が、かれを天と地の間にひきあげ、・・・エルサレムにたずさえ行き、・・・憎むべきものを見た」(エゼキエル8・3以降)。
  「かれは四つの生き物を見た。それは、ケルブのほか、いろいろの姿をしていた」(エゼキエル1章と10章)。
  「そのとき、新しい地、新しい神殿、それを測る天使がいた」(エゼキエル40~48)。
  「そのときかれは、幻と霊のうちにあった」(エゼキエル40・2、43・5)。
(2) ゼカリヤにも同じようなことが起こりました。かれは天使がいるのを見たのです、
  「ひとりの人が馬に乗って、ミルトスの木のなかにいた」(ゼカリヤ1・8以降)。
  「かれは、四つの角と、測りなわを手にもった人を見た」(ゼカリヤ2・1、5以降)。
  「大祭司ヨシュアについて」(ゼカリヤ3・1以降)。
  「燭台が一つ、オリブの木が二本」(ゼカリヤ4・1以降)。
  「飛んでいる巻物とエバ枡のこと」(ゼカリヤ5・1、6)。
  「四両の戦車が二つの山の間から出てきた。また馬がいた」(ゼカリヤ6・1以降)。
 ダニエルにも同じようなことがあります。
  「四匹の獣が海からあがってきた。またそれについて・・・」(ダニエル7・1以降)。
  「雄ヒツジと雄ヤギとの戦いを見た」(ダニエル8・1以降)。
  「幻のうちにそれを見た」(ダニエル7・1、2、7、13、8・2、10・1、7、8)。
  「天使ガブリエルが、幻のうちに見えた。そしてかれと語った」(ダニエル9・21)。
(3) 同じように、ヨハネも黙示録を記したとき、次のように言っています、
  「主の日に、霊のうちにあった」(黙示1・10)。
  「わたしは、霊のうちにあって、荒野へ連れていかれた」(黙示17・3)。
  「霊のうちにあって、高い山のうえに行った」(黙示21・10)。
  「まぼろしの中で、馬を見た」(黙示9・17)。
 その他かれは、自分が見たものを記しています。たとえば、七つの燭台の中央にまします人の子とか、天界での幕屋・神殿・箱・祭壇とか、七つの封印がしてある書物と、そこから出てくる馬とか、玉座のまわりにいる四匹の動物とか、各種族出身の一万二千人の選ばれた人たちとか、シオン山の頂にまします小ヒツジとか、深い淵からあがってきたイナゴとか、龍とミカエルとの戦いとか、女が男の子を産んで、龍をのがれて荒野へ逃げていくこととか、一匹は海から、一匹は地上からのぼってきた二匹のケモノとか、くれないのケモノのうえに座っている女とか、火と硫黄の池に投げいれられた龍とか、白い馬と大晩餐会とか、聖なるエルサレムの都が下ってきたことと、そこにある門・壁・土台とか、生ける水の流れと月毎に実をむすぶ命の木とか、その他いろいろあります。
 ペテロ、ヤコブ、ヨハネが変容のイエスを見たのも、同じような状態でした。パウロもまた、天界から、口では言い表されないことを耳にしました。