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真のキリスト教

第二章 あがない主について

115節-137節

115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137


115・  [Ⅰ]あがないそのものは、地獄を征服し、天界をととのえ、それによって、新しい教会を準備することであった。

 あがないとは、以上の三つを意味しますが、それをわたしは、はっきり断言できます。というのは、現在でも主は、あがないのみ業を行っておられるからです。それは同時におこなわれた最後の審判とともに、一七五七年に始まりました。あがないは、それ以来今日まで続いていますが、その理由は、現在は、主の再臨 Secundus Adventus Domini のときだからです。そして新しい教会が創設されることになるのですが、それもまず、地獄の征服と、天界の秩序づけがなくては成立しません。わたしはこのすべてを目撃する機会があたえられましたから、地獄が征服された模様や、新しい天界が造られ、ととのえられた様子を述べることができます。ただしそれには、一冊の書物が必要になります。最後の審判が行われた様子については、ロンドンで一七五八年に出版した小著のなかで、明らかにされています。地獄の征服と天界の秩序づけ、それに新教会の創設は、それがなかったら人間はだれひとり救われないという意味で、あがないなのです。それをまた、順序よく述べてみます。
 まず地獄が征服されてから、天使たちの新しい天界がつくられ、天使たちの新しい天界がつくられてから、地上の新しい教会がつくられます。それというのも、この世の人間は、天界の天使および地獄の霊たちとしっかり結ばれていて、心の内部では、両者が行動をひとつにしているからです。ただこれについては、本書の終わりに出てくる「代の終わり、主の再臨、新しい教会について」の章にゆずることにします。

116・ 主はご在世当時、地獄に抗して戦い、それに勝ち、征服なさり、地獄をご自分の配下におかれましたが、それは〈みことば〉の多くの箇所で明らかになります。その中から、少しだけ引用しましょう。
  「『エドムから来る者、深紅の衣服を着て、ボズラから来る者は、だれだろう。はなやかな装いで、大能を帯びて進んでくる者は、だれだろう』。『正義を語り、救う力がある、わたしがそれだ』。『あなたの衣服はどうして赤いのか。あなたの衣服は、酒ぶねを踏む人のようだ』。『わたしは、自分ひとりで酒ぶねを踏んだ。民のなかで、わたしといっしょにやれる者はいなかった。だから、わたしは怒ってかれらを踏みつけ、いきどおりに満ちて、かれらを踏みにじった。だから、わたしの衣服には、かれらへの勝利の血がふりかかったのだ。・・・わたしの心には、報復の日のことがあり、わたしをあがなう年がやってきた。・・・わたしの腕がわたしを救ってくれた。・・・わたしは、かれらの勝利への血を、地上に流した・・・』。・・・主は言われた、 『かれらはわたしの民であり、子である・・・』と。だから主は、かれらの救い主になられた。・・・ご自分の愛と、いつくしみによって、主はかれらをあがなわれた」(イザヤ63・1~9)。 これは、主が地獄に対抗して戦われたことを示しています。はなやかで深紅の「衣服」とは、ユダヤ人たちが汚した〈みことば〉のことです。地獄に対抗する戦いや、地獄への勝利については、「怒ってかれらを踏みつけ、いきどおりに満ちて、かれらを踏みにじった」というふうに記しています。自分ひとりの力で戦われたということについては、「民のなかで、わたしといっしょにやれる者はいなかった。・・・わたしの腕がわたしを救ってくれた。・・・わたしは、かれらへの勝利の血を、地上に流した」と記されています。こうして、救いとあがないを果されたことについては、「だから主は、かれらの救い主になられた。・・・ご自分の愛といつくしみによって、かれらをあがなわれた」とあります。これが主の到来の原因だったことについては、「わたしの心には、報復の日のことがあり、わたしをあがなう年がやってきた」とあります。

(2) また同様、イザヤ書には次のようにあります。
  「主は、だれもいないのを見、仲介の者がいないのを驚かれた。だからご自分の腕で、勝利し、正義がご自分の支えとなった。主は、その胸当として正義を身につけ、その頭には救いのかぶとをかぶり、報復の衣服をまとい、熱意をコートのように身にまとわれた」(イザヤ59・16、17、20)と。エレミヤ書にもあります、
  「かれらはたじたじで、勇者たちも敗ける一方、あわてて逃げて、うしろをふり向くこともなか  った。・・・その日は、万軍のエホバ、主の日、報復の日、その敵にあだをかえされる日であった。つるぎは、食べ飽きるほどだ」(エレミヤ46・5、10)。
 これも前と同じように、地獄に対する主の戦いと勝利を意味します。ダビデも言っています、
  「ますらおよ、つるぎを腰に帯びよ。・・・あなたの矢はするどく、あなたのまえに民はくずれ、王の敵は胸をさしつらぬかれる。あなたの王座は永遠に限りなく続く。・・・あなたは正義を愛した。・・・だから、神はあなたに油をそそがれたのだ」(詩45・3~7)。
 その他にも、多くの箇所があげられます。

(3) 主はご自分ひとりで地獄に勝利をおさめられました。天使の力を借りることもありませんでした。だから主は、
  大能の勇者であり戦士である(イザヤ42・13、9・6)。
  栄光の王、力強いエホバ、戦いの英雄(詩24・8、10)。
  ヤコブの力強いお方(詩132・2)。
 などと呼ばれています。また、多くの箇所で、「万軍のエホバ」つまり「軍隊をひきいる主」と言われています。しかも、エホバの到来は、エホバの日であり、その日は恐るべき日、残酷な日、怒りの日、いきどおりの日、憤怒の日、報復の日、破壊の日、戦いの日、トランペットが鳴りわたる日、叫びの日、動揺の日などと言われています。福音書には、次のようにあります。
  「今は、この世がさばかれる時である。今こそ、この世の君は追い出されるであろう」(ヨハネ  11・31)。
  「この世の君がさばかれるからである」(ヨハネ16・11)。
  「しかし勇気を出しなさい。わたしは世に勝った」(ヨハネ16・33)。
  「わたしはサタンが、電光のように天から落ちるのを見た」(ルカ10・18)。
 「この世」とか、「この世の君」とか、「サタン」とか、「悪魔」などは、地獄のことです。

(4) その他、黙示録のなかには、初めから終わりまで、現代のキリスト教会の様子が描かれています。それに、主が再び来られること、地獄が征服されること、天使的な新天界が生まれること、それから、この地上に新しい教会が創立されるようになることなどです。黙示録のなかで、それが全部預言されていますが、それも今まで解明されていませんでした。そのわけは、〈みことば〉にあるすべての預言は、まぎれもない相応によって記されており、主によって解きあかされない限り、だれも、その一行さえ理解できないのです。
 ところが今や、新教会のため、黙示録のなかに記されていることが、『啓示による黙示録解説
Apocalypsis Revelata 』(一七六六年アムステルダム)で、全部あきらかになりました。マタイによる福音書24章にある主の〈みことば〉を信じる人は、現在の教会の様子や、主の再臨について、それが分かっていただけると思います。ただし、永遠のむかしから存在する三人格の神とか、あがないそのものとなったキリストのご受難とかが、もはや取り除くことができないほど、心のなかに根強く刻まれている人の場合、以上のような信仰は異常と思えるにちがいありません。いずれにしても、 (113節のメモで前述したように)、そのような人は、鉄片や硫黄のクズでいっぱいになった革袋に水を注ぐと、最初発熱し、それから発火するため、革袋がボロボロになってしまうように、〈みことば〉の純粋な真理である生ける水について、何か耳にしても、あるいは目で見、耳で聞いても、かっとなって燃えあがり、結局は、頭痛のタネになるばかりだと、その真理を放りなげてしまうのです。

117・ 地獄の征服、天界の秩序づけ、教会の創立については、いろいろな比喩で説明できます。まず強盗団とか反乱軍を思い出してください。かれらは国や町に侵入し、家々を焼きはらい、住民の所有物をかすめ、掠奪物を分配し、バンザイを叫びます。それにたいし、あがないとは何でしょう。正統な王がいて、軍隊をひきいて反撃し、剣で討ったり、捕虜にしたりして、掠奪されたものを奪いかえし、そのあと国の秩序を回復して、二度とこのような目にあわせないよう、安全を確保します。また別の例ですが、森林からおどり出た野獣の群れが、家畜や人間を襲ったと仮定してください。住民は自分の町を囲む城壁から外に出て、田圃を耕すことができず、畑は荒れ、人々は飢え死んでいきます。それにたいし、そのケモノたちを殺して、田畑をまもり、これ以上おなじような災厄がないようにするのが〈あがない〉です。
 またイナゴの大軍が来襲して、地上にある緑が全部食いつくされたとします。それを防ぐ手段となるのが〈あがない〉です。それからまた、春になって害虫が発生し、樹木の葉や果実を食いつくして、冬枯れの姿に変えてしまう場合、その害虫を駆除して、庭をもと通りの状態にもどし、花を咲かせ、実をならせるようにするのが〈あがない〉です。
 教会もおなじです。主は、〈あがない〉によって、悪人から善人をより分け、悪人は地獄へ投げ入れ、善人は天界へあげられました。正義とか公正が行われていない国があるでしょうか。正義や公正があるからこそ、悪人たちは善人仲間からとり除かれ、善人は暴力から守られ、おのおの自分の家の中で安全に暮らせるわけです。〈みことば〉にもあるように、自分がつくったイチジクの木やブドーの枝の下で、やすらかに座っていることができるのです。

118・[Ⅱ]このあがないがなかったら、人はだれも救われないし、天使も完全無欠な状態にとどまることができなかった。

 まず〈あがない〉とは何か、お話ししましょう。〈あがなう〉とは、罪の判決から救い出すこと、永遠の死から解放すること、地獄から人を奪いかえすこと、悪魔の手中からとらわれ人たちを取りかえすことです。それをなさったのは主ですが、それによって主は、地獄を征服し、新しい天界をお建てになりました。
 このようになさって、初めて人間が救われるわけですが、それというのも、霊界と自然界は、分離できないほど、しっかり結びついているからです。この結びつきは、とりわけ、霊魂とか精神とか呼ばれているものの内部で行われていて、善人の場合、その霊魂は天使の精神と、悪人の場合、その霊魂は地獄霊の精神とむすびついています。人間から、天使や霊が切りはなされたとすると、人はたちまち死んで、丸太のように動かなくなってしまうほど、この結合は緊密です。それとおなじく、天使も霊も、土台になっている人間がなかったら、存続することができないのです。そのため、教会が地上に創設されるまえに、霊界で〈あがない〉が行われ、天界と地獄が、まず秩序づけられなくてはならないわけです。それは、黙示録にもはっきり書いてありますが、新しい天界が造られたあと、新しい教会である〈新しいエルサレム〉が天界から下ってきました(黙示21・1、2)。

119・ 主によって、あがなわれなかったら、天使もその完全無欠な状態にとどまることができませんでした。そのわけは、天使のいる天界全体も、地上の教会と一つになっていて、主のみまえでは一人の人間 unus Homo を構成しており、その内部は天使的天界、その外部は教会という具合です。もっとくわしく言うと、その頭は最高の天界であり、胸と胴体は、第二天界および最外部天界であり、腰と両足は地上の教会です。そして、主ご自身は、この人間全体の〈たましい〉であり、〈いのち〉です。だからこそ、主があがないを行わなかったら、この人間 hic Homo の滅びにつながることになります。地上の教会が衰退すれば、両足と腰の部分が弱まり、最外部天界がおとろえを見せると、腹部に支障をきたし、第二天界の場合は胸部に、それから頭部にも迫ってきます。霊界が、肉体との相応関係を失ってくると、気を失うことになります。
(2) たとえで説明すると、もっとはっきりします。壊疽が足にできたとします。それはだんだん上にあがってきて、最初は腰部に、腰部を冒したあと、腹部の内臓に来て、ついには心臓近辺にまで発展します。そうすると、人間は死んでしまうことは周知のことです。また、横隔膜の下にある内臓におこる病気にもたとえられます。その部分がおとろえてくると、心臓の動悸が激しくなり、肺の呼吸もせわしく、やがて息絶えます。
 人間の内部 internus homo と外部 externus homo についても、たとえにあげてみることができます。外部がその機能をすなおにはたしていれば、内部は健全です。しかし外部が従順でなく、反抗したり、ましてや内部を攻撃したりすると、いずれ内部は疲れ切って、外部の楽しみに流され、それに同調するようになります。
 また山の上に立っている人を例にあげてみましょう。眼下に洪水でおおわれた土地がひろがり、その水がだんだん近づいてきて、自分が今いる山の上にまで迫って、水に押し流されそうになったら、どうでしょう。水の上を渡っていく小舟がないかぎり、救われる見込みはありません。また、ある人が丘の上から分厚い霧がだんだん自分の方に迫ってくるのを見、田畑や家屋や町並を、おおっていくとき、さらにそれが、自分のまわりをとり囲むようになるとき、自分がいったいどこにいるのかさえ、分からなくなります。
(3) 地上の教会が滅んでいくと、天使たちにも同じようなことが起こって、下位天界が消えていきます。天界も地上からの人間によって構成されているからです。人の心に善が失われ、〈みことば〉の真理が姿を消すとき、天界も悪の蜂起で洪水をおこし、地獄の濁流で溺れてしまうことにもなりかねません。ただし、それも主によって、善人は別のところに連れていかれ、最後の審判の日までまもられ、新しい天界へと上げられます。それについては、黙示録に、次のようにあります、
 「神の〈みことば〉のため、またその証しを立てるために、殺された人々の霊魂が、祭壇の下にいるのを、わたしは見た。かれらは大声で叫んで言った、『聖なる、真理である主よ。いつまであなたは、さばくことをなさらず、また地に住む者に対して、わたしたちの血の報復をなさらないのですか』すると、かれらのひとりひとりに、白い衣が与えられ、それから、『かれらと同じく殺されるしもべ、仲間や兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくのあいだ、休んでいなさい』と言われた」(黙示6・9~11)。

120・ 主によって〈あがない〉が行われなかったら、自然と霊の両世界の全キリスト教界に、邪悪がひろがっていきます。その理由はたくさんありますが、その中の一つを記します。
 人間はだれでも、死後、霊たちの世界に行きますが、そこでも以前とまったく同じ性格を保ちます。霊界に入ると、両親、兄弟姉妹、親戚、知人、友人と話しあうのに、邪魔する人はいません。まず、だれでも、夫の場合は自分の妻をさがし、妻は自分の夫をさがします。そしておたがいが、おたがいの仲間をいろいろ紹介しあいますが、その中には、外見はヒツジでも、内面はオオカミのような者がいて、信心深くこの世を送った者も、かれらの影響で堕落してしまうことがあります。この自然の世界には知られていない極悪非道な手口があります。だから霊たちの世界には、溜り水が緑色になって、カエルの子がうようよしているように、悪人がうようよしています。

(2) 悪人とつきあっていると、それに染まってくるのは当然です。泥棒や海賊といっしょに住んでいると、泥棒や海賊になるのと同じです。姦夫や売春婦といっしょに住めば、姦淫しか考えなくなります。喧嘩好きの者と交われば、だれにでも暴力をふるうようになります。どんな悪でも感染性があって、黒死病のように、ただの吐く息でも伝染します。ガンでも壊疽でも、その近辺を冒し、だんだんと遠くまでひろがっていって、最後は体ぜんたいを死にいたらしめると同じで、悪を楽しむ心、これは人間が生まれつきもっていますが、これが原因なのです。

(3) 以上のことで明らかなのは、主による〈あがない〉がなかったら、人間はだれも救われないし、天使たちも、その完全無欠な状態を維持できません。滅びをまぬかれるただひとつの避難所は、主に向かうことです。主は言われます、
  「わたしのうちにとどまりなさい。そうすれば、わたしもあなた方のうちにとどまるでしょう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなた方も、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができません。わたしはぶどうの木、あなた方はその枝です。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっていれば、その人は実を豊かに結ぶようになります。わたしから離れては、あなた方は何一つできないからです。人がわたしにつながっていないなら、枝のように外に投げすてられて枯れます。・・・火に投げ入れられ、焼かれてしまうのです」(ヨハネ15・4~6)と。

121・ [Ⅲ]主は、このようにして、人間だけでなく、天使たちもあがなわれた。

 このことは、前節で述べた「主による〈あがない〉がなかったら、天使たちも存続できなかった」ことに続きます。その理由として、前述したことにつけ加えると、次のようです。
 ① 主が初めてこの世に来られた当時、天界と地獄の中間にある霊たちの世界を、全部いっぱいにするほど、地獄は高みに這いあがって来ました。その結果、最外部と言われている天界を混乱におとしいれるばかりか、中間部天界にも侵入してきて、ありとあらゆる手段で悪影響をあたえ、主のおん支えがなかったら、絶滅されるほどでした。
 このような地獄の蜂起を描いているのが、シナルの地に建てた塔の物語で、その塔のいただきは天に達するほどであったとあります。その試みも、言語の乱れによって禁じられ、人々はちりぢりに散っていきました。その町は「バベル」と言われています(創世11・1~9)。「塔」とか「言語の乱れ」が何のことかは、ロンドンで出版した『天界の秘義 Arcana Caelestia 』に述べられています。

(2) 地獄が、これほどの高みにまで達したわけは何でしょう。主がこの世に来られたころ、全世界は偶像崇拝と魔術で、神から全く離反し、イスラエルの子らが属し、やがてユダヤ人たちも属した教会は、〈みことば〉をゆがめ、冒して、まったく荒廃していました。このような人たちは、みんな、死んだのち、霊たちの世界に流れていきますが、そこでかれらの数は、ますますふえました。神ご自身が到来し、そのみ腕の力がなかったら、追い出すことができないほどでした。それがどのように行われたかは、一七五八年ロンドンで出版した『最後の審判について De Ultimo Judicio』に記されています。主の到来は、ご在世当時、実現しました。
 現在ふたたび、主の到来が実現しました。前述したように、今こそ主の再臨のときです。これは、黙示録のあちこちで、マタイによる福音書(24・3、30)、マルコによる福音書(13・26)、ルカによる福音書(21・27)、使徒行伝(1・11)その他で、予告されてたとおりです。
 第一と第二の到来の違いを言いますと、最初に主が到来されたおりは、偶像崇拝、魔術、〈みことば〉の歪曲によって地獄の力が増したためですが、第二の到来では、いわゆるキリスト教徒と言われている人たちで、自然主義を吹聴する者や、永遠からいます三人格神とか、あがないの成就は主のご苦難によるという、根も葉もない信仰で心を固めて、〈みことば〉をゆがめてしまった人たちが、増えたためです。かれらは、黙示録(12、13章)にある「龍とその二匹の獣」です。

(3)② 主はまた、天使たちもあがなわれたわけですが、それが第二の理由になります。つまり、人間ひとりひとりだけでなく、天使もひとりひとり、みんな主によって悪から遠ざけられ、善のうちに保たれています。天使にしても人間にしても、自分の力で善のうちにいる者はなく、どんな善でも全部、主によるものです。天使たちは、霊たちの世界を足台にしていますから、それが取り去られることは、高座にすわっている人の足もとがくずれるようなものです。神のみまえにあっては、天使たちもきよくないことは、〈みことば〉の預言書だけでなく、ヨブ記にもあります。それというのも、〈かつて人間だった天使〉でない天使は、存在しないからです。
 本書の最初に、「〈新しい天界〉と〈新しい教会〉の信仰にかんする一般的原理とその細目」のところで述べたことがお分かりでしょう。つまり、
 「主がこの世に来られたのは、人間から地獄を取り除くためでした。すなわち、地獄と戦って、これにうち勝ち、征服し、ご自分に服従させるためでした」。
 それで、次のことも分かります。
 「神エホバがこの世にくだって、人間性をおとりになったわけは、天界にあるすべてのもの、〔地獄にあるすべてのもの〕、教会にあるすべてのものを、秩序づけるためでした。というのは、当時、悪魔すなわち地獄の力が、天界の力にまさっていましたし、地上では、悪の力が善の力にまさっており、罪の全面的な判決と罰が目前に迫っていたからです。神エホバは、この目前に迫る刑罰を、ご自身の人間性をとおして、お受けになり Hanc futuram damnationem Jehovah Desu per Humanum suum sustulit、こうして人間と天使をあがなわれました。ここで、主が来られなければ、だれも救われないことがよく分かります。それは現在でもおなじで、主が再びこの世に来られなければ、救われる者はだれもいないということです」(前2、3節参照)。

122・ 主は、霊界を解放なさいましたが、それによって、教会も罪の宣告をまぬかれることになりました。それを、国王を例にとって説明すると、王子が敵の捕虜になり、投獄され、鎖につながれていたとき、戦いに勝って、王子を救い、自分の宮殿に連れもどすようなものです。
 それはまた、サムソンやダビデのように、自分の羊たちを、ライオンやオオカミの牙から奪いかえし、森から牧草地に出てくるところをつかまえて、僻地まで追いかえし、茂みや砂漠の中に追いやってから、羊のところへもどって、安全なところで飼い、きれいな水の出る泉で、水を飲ませるようなものです。また、道端でトグロを巻いて、歩行者のかかとに噛みつこうとしているマムシを見つけた人が、その首をつかんだところ、マムシは腕に巻きついてきますが、それを家にもち帰り、頭を切り落としてその死骸を火の中に放り込むようなものです。
 また、花婿か夫が自分の花嫁か妻を襲おうとしている姦夫を見て、その男に向かっていき、その手を切りつけるか、腱や腰を痛い目にあわせるか、しもべたちに命じて外に追い出し、棍棒を手に、その家まで追わせるかします。こうして、自分たちの寝室をきよめるのです。「花嫁」とか「妻」というと、〈みことば〉では、主の教会を意味し、「姦夫」というと、主の〈みことば〉を冒し汚す連中です。ユダヤ人たちは、そのため主によって、「姦淫する民族」と呼ばれました。

123・[Ⅳ]あがないは、純粋に、神のみわざであった。

 主がこの世に来られたとき、地獄はどんなふうだったでしょう。また、霊たちの世界全体にも、地獄がどれほど幅をきかしていたことでしょう。主は、この霊界を、天界ともども、整理なさいました。それを知れば、以上のことは全部、神のみわざ以外のなにものでもないと、感嘆しないわけにはゆきません。まず、地獄の様子はどうだったでしょう。そこには、世界の創造以来、邪悪な生活とウソを信じて神から離反した、巨万の数にのぼる人間がいました。主がこの世に来られたとき、霊たちの世界全体にたいし、地獄がどれほど幅をきかしていたかは、前節で述べました。主が最初この世に来られたころ、その有様がどんなだったかは、〈みことば〉の文字の意味には啓示されていませんから、だれも知りません。
 しかし、主が再びこの世に来られたときの様子は、わたしが目撃したから、そこから以前のことも、結論づけることができます。これについては、ロンドンで一七五八年に出版した小著『最後の審判について』に記されています。それには、主が地獄を追い出し、消滅されたときのみ力についても記しています。その本の詳細は、ここに書き移しの必要はないでしょう。現存していることだし、ロンドンには、印刷したものが、まだたくさん残っています。それを読めば、だれでも、それが全能の神のみわざであることが、はっきりします。

(2) 第四番目の問題として、主がどのようにして、その後、天界と地獄の全体を整理なさったかですが、それについて、わたしはまだ記していません。というのは、天界も地獄も、その整理は、最後の審判以来今日まで、ずっと続いていますし、現在でもそれが続いているからです。本書を出版したあと、もし要望があれば、出版するつもりです。
 わたし自身について申しあげますと、これに関しては、主がもっておられる神としての全能を、日々、面前に見ましたし、見ております。
 ただしこれも、地獄に関していうと、〈最後の審判そのもの〉であり、天界に関していうと、〈あがないそのもの〉です。この二つは、はっきり違っていますが、それが見えれば、〈みことば〉の預言の象徴に隠されつつも、いろいろな相応をとおして、理性の光に照らされる記述も、たくさん見えてくるにちがいありません。

(3) 以上のような神のみわざについては、比喩で申しあげる以外にはありませんが、それもわずかです。たとえば、槍や盾や剣や大砲や小銃で武装し、戦略と狡智にたけた将校や指揮官にひきいられた世界の全民族からなる軍勢に、戦いをいどむようなものです。地獄というところは、われわれの世界にない、はるかにすぐれた戦術がたくさんあります。かれらは、それを使ってたがいに戦い、天界からやってくる者を攻撃したり、だましたり、取り巻いたり、悩ましたりします。

(4) 主が地獄と戦われる様子は、ほんのわずかですが、全世界にいる野獣との戦いにくらべられます。野獣を殺したり馴らしたりすることによって、〈主にある人〉に近づいて、襲ったり、噛みついたりしないようにすることです。それは、あるケモノが脅迫しようと頭をつき出しても、眼前でハゲタカが心臓を突くほど暴れるのを感じて、すぐ引っ込めるのに似ています。〈みことば〉で野獣とは、地獄の霊のことです。マルコによる福音書(1・13)で、主が四十日のあいだともにおられたという野獣は、地獄の霊のことです。

(5) それはまた、海岸が大津波で、あちこちの堤防を壊し、村や町になだれ入るのを防ぐのに似ています。主が地獄を征服されたのは、「黙れ。静まれ」(マルコ4・38、39、マタイ8・26、ルカ8・23、24)と言って、湖をしずめられたのに似ています。「海」とは、その他多くの箇所でそうですが、地獄を意味します。

(6) 主は現在でも、再生した人ひとりひとりのもとで、同じ神のみ力で、地獄に抗して戦っておられます。地獄は、悪魔的脅かしで人に攻撃を加えてきますが、主がこれに抵抗し、静められないかぎり、人はかならず、負けてしまいます。地獄は怪物人間のようであり、〈みことば〉にもあるように、巨大なライオンのようです。したがって、主がこのライオンや怪物を、手枷・足枷でしばってくださらないなら、人は、ひとつの悪から他のひとつの悪へと翻弄され、やがてみずから、もっと多くの悪の中に落ちこんでいきます。


・[Ⅴ]あがないそのものは、神が人間として受肉されないかぎり、成立しなかった。

 前節で述べたように、あがないは純粋に神のみわざであり、全能の神によるのでなければ、ありえなかったことです。それも、ご自分が肉をとって、人間にならなければ、できないことでした。というのは、神エホバは、本質上無限な方ですから、地獄に近づくことがおできにならないばかりか、地獄の中に入っていくことなど、もっての外だからです。まして神は純粋きわまりなく、最も始源的な方です。神エホバが、もしご自分のありのままのみ力で、地獄の霊たちに及ばれたとすると、一瞬でかれらを殺してしまうことになります。モーセが神を見たいと思ったとき、言われました、
  「あなたは、わたしの顔を見ることはできない。わたしを見て、なお生きている人は、いないからである」(出エジプト33・20)と。
 モーセでさえ見ることができなかったのですから、地獄にいる霊などは、なおさらです。かれらはみんな、末端のいちばんガサツな部分におり、しかも最も神から遠く、最低の自然にしかいません。だから、神エホバとしては、人間性を身につけ、いちばん末端にある肉体をとらなければ、何かのあがないを果たすなど、できないことです。
 敵を攻撃するのには、近づかなくてはできませんし、戦う武器がなくてはなりません。砂漠でヘビ、マムシ、トカゲを相手にするとき、胴体にはよろい、頭にはかぶと、手には槍をもって向かいます。海でクジラを捕えるのに、捕鯨用の船や道具を使わなくては不可能です。以上のようなたとえは、あまり適当ではないにしても、全能の神が人間性をまず身につけなくては、地獄に身をさらして、戦うことができないということです。

(2) また分かっていただきたいことは、主が地獄を相手になさった戦いは、口論や訴訟のように、口頭でなされたのではありません。こんな戦いでは用をなしません。それは、主のいのちそのものであった〈神の善〉から生まれる〈神の真理〉による霊的な戦いです。地獄の霊にとっては、視力をとおしてくる主の流入には、抵抗できないのです。主にはそのようなみ力があって、地獄の悪鬼どもは、それを感じただけで逃げ、深みに身を投げ、身を隠そうと、穴ぐらに入りこみます。イザヤ書にも、同じようなことが記されています。
  「主が立って地を脅かされるとき、人々は岩のほら穴にはいり、また地の穴にはいる」(イザヤ2・19)。黙示録にもあります、
  「かれらはみな、ほら穴や山の岩かげに身をかくした。そして、『さあ、われわれをおおって、み座にいます方の顔と、小羊の怒りとから、かくまってくれ』と」(黙示6・15~17)。

(3) 一七五七年、最後の審判が行われたとき、主は、神の善からでるみ力をあらわされましたが、それは、その審判について書いてある小著に記されていることから、はっきりするでしょう。霊たちの世界では、地獄の霊が占拠していた丘や山々は、その場所からもぎとられて、遠隔の地に移され、ある悪霊どもは、ずぶずぶと沈んでいきました。町や家や草原は、洪水で水びたしになり、かれらの住んでいたところは、根底からくずれ、住民もろとも深い淵や池や沼に追いやられましたが、その他にも、いろいろあります。これはみんな、〈神の善〉から生まれる〈神の真理〉の力で、ただ主だけがおできになることです。

125・ 神エホバは、ご自分の人間性によって、初めてこれを実現することができました。このことも、いろいろな比喩で説明できます。
 目に見える相手でなければ、だれも人と握手したり話したりはしません。天使にしても霊にしても、人間の体や顔のまん前に立ったとしても、見えなくては何もできません。人間の霊魂も、だれかと話したり、行動をしたりするのは、肉体あってこそ、できることです。太陽の光と熱にしても、まず大気中に入りこみ、その大気を通してでなくては、人間・動物・植物のいずれにも入っていくことはできません。また水を通過しなくては、魚類にも及びません。つまり、主体成立の素材をとおして、働きは存在するわけです。
 人は庖丁がなかったら、魚のウロコを取ることができないし、指を使わなくては、カラスの羽根をもぎとることもできないでしょう。潜水用の鈴を身につけてこそ、湖の深みに下りていけるのです。一口に言って、交流をおこなうには、それが正反いずれの作用であっても、そのまえには、二つの間には適応がなくてはならないのです。

126・ [Ⅵ]十字架の苦難は、主が最高の預言者として耐えられた最後の試練であるとともに、主の人間性が栄化されるため、おん父の神性と一致合体されるための手段であったが、〈あがない〉ではなかった。

 主がこの世に来られ、そのため人間と天使が救われるようになった理由が二つあります。それは 〈あがない〉と〈ご自身の人間性の栄化〉です。この二つはおたがい区別されてはいますが、救いをもたらすという点では、一つです。
 〈あがない〉とは何かは、前述しましたが、これは地獄との戦いであり、その征服であり、そのあとでなされた天界の秩序づけです。〈栄化〉とは、主の人間性と、おん父の神性との一致合体です。この栄化は、徐々に行われましたが、十字架の苦難をとおして完成しました。
 人間はみんな、自分の側から神に近づいていかなくてはなりません。人が近づいていくに応じて、神はご自身の側から人にはいってこられます。これは神殿にたとえられます。まず人間の手をつかって、建てられなくてはなりません。それから献堂式が行われます。そのあとで、そこで祈るわけですが、こうして神は臨在され、そこでご自身を教会に結びつけてくださいます。
 この一致が全うされたのも、十字架の苦難によるわけです。これは、主がこの世で耐えられた最後の試練で、その試練をとおして、〈つながり〉が生まれました。人間も、神から見すてられることはありませんが、外見上自分ひとりで戦っているような気がします。しかし神は、そのようなとき、人間の心の最も奥深いところで、もっとも近く現存し、支えておられます。だから人が誘惑に勝つとき、心の内奥部で神とむすばれます。それは主がご自身のおん父と、誘惑に勝つたびに、内奥部でむすばれたのと同じです。主は、十字架の苦しみで、ご自分が見捨てられたように思われました。
 それは十字架上で、
  「神よ、どうしてわたしをお見すてになったのですか」(マタイ27・46)。
 と言われましたし、主のみ言葉からも、次のようにあります。
  「だれかが、わたしから魂を取り去るのではありません。わたしが、自分からそれを捨てるのです。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もあります。これはわたしの父から授かった定めです」(ヨハネ10・18)と。
 ここで今わかることは、主は神性の面ではなく、人間性の面で苦難を味わわれ、それでもっとも奥深いところで、完全な一致合体が行われたということです。人間も肉体で苦しむとき、魂は〈苦しむpati〉のでなく、ただ〈悲しむ dolere 〉ということからも、説明できるでしょう。その人が勝てば、神はその人の悲しみもとり除いてくださいます。それは、人が目から涙をぬぐい去るような感じです。

127・ 〈あがない〉と〈十字架の苦難〉の二つは、はっきりと区別されなくてはなりません。船が砂流や岩にぶつかり、舵手・船長・船員もろとも死んでしまうように、「主によって救われる」ということについて、人の心は、全然誤った考えをもってしまいます。以上の二つを区別しないと、夢でまぼろしを見ているように、たわいもない作り話を本当と信じこんで、思いめぐらしたりします。あるいは、夜中に散歩に出て、樹木の葉をつかんで、それを人の髪の毛だと思いこみ、近よって自分の髪をその木にひっかけたりします。
 〈あがない〉と〈十字架の苦難〉は別のものですが、主が十字架のおん苦しみによっておん父と合体され、みずから永遠のあがない主になられたわけですから、人の救いのためのおん働きとしては、一つです。

128・ 栄化 glorificatio とは、〈主の神人性〉と〈おん父の神性〉との一致合体で、これは十字架の苦難で完成されました。この栄化について、主おんみずから、福音書で次のように言っておられます、
  「(ユダが)出て行くと、イエスは言われました、『人の子は、いま栄光を受けました。神もまた、人の子によって栄光をお受けになりました。神が、人の子によって、栄光をお受けになった以上、神はまた、それによって人の子に、栄光をお授けになるでしょう。それも、まもなくなさることでしょう」(ヨハネ13・31、32)と。
 この栄化は、神であるおん父と、おん子について言われています。「神は人の子によって栄光をお受けになりました」とか、「神は人の子に栄光をお授けになるでしょう」とかは、一致合体のことです。
  「父よ、時がきました。あなたの子が、あなたの栄光をあらわすように、あなたの子の栄光をあらわしてください」(ヨハネ17・1、5)。
 この〈みことば〉は相互の一致合体のことで、「父は子のうちにあり、子は父のうちにある」と言われています。
  「(イエスは)言われた、『いま、わたしの心はさわいでいます。・・・父よ、み名があがめられますように』。すると天から声があった、『わたしはすでに栄光をあらわしました。そしてさらに、それをあらわすつもりです』と」(ヨハネ12・27、28)。
 こう言われたのは、一致合体がだんだんと実現されていったためです。
  「キリストは苦しみを受けて、その栄光に入るはずではなかったでしょうか」(ルカ24・26)。
 〈みことば〉で、主について「栄光」をつかうとき、〈神の善〉と結ばれた〈神の真理〉のことを言っています。ここで、主の人間性は神性を帯びていたことが、はっきりします。

129・ 十字架の苦しみをお受けになるまでに、主が試練を望まれたわけは、ご自身が預言者であられたからです。かつて預言者は、〈みことば〉からくる教会の教義を表わすとともに、教会が当時どんな様子であったかも表わしました。それにはいろいろ表象がありましたが、かれらが神によって課されたのは、不正であり、苦汁であり、非道な扱いでした。主はまた、ご自身〈みことば〉でしたから、預言者そのものとして、十字架の苦難によってユダヤ教会が〈みことば〉を汚したという点で、ユダヤ教会自身を表わしています。
 それにもう一つの理由をつけ加えると、以上のようにして、両方の世界の救い主として、主が天界で認められるようになったことです。主のご苦難は、〈みことば〉が冒涜されたことを意味し、どのように冒涜されたかは、教会に属する人は自然的にしか理解しませんが、天使たちは霊的に理解しています。主が預言者そのものであったことは、次の箇所からも明らかです。
  「主は言われた、『預言者は、自分の祖国とか自宅の中では、あまり尊敬されないものです』と」(マタイ13・57、マルコ6・4、ルカ4・24)。
  「イエスは言われた、『預言者がエルサレム以外のところで死ぬのは適当ではないでしょう』と」(ルカ13・33)。
  「人々はみな恐れをいだき、『大預言者が(かれらの)間に現れた』と言って、神をほめたたえた」(ルカ7・16)。
  「イエスについて、かれらは、『ナザレ出身の預言者だ』と言った」(マタイ21・11、ヨハネ7・40、41)。
  「あなたの同胞のうちから、ひとりの預言者をあなたのために起こされる。あなたがたは、かれに聞き従わなくてはならない」(申命18・15~19)。
   
130・ 預言者は、〈みことば〉に由来する教義の面で〈教会の状態〉を表しています。教義にもとづいた生活という面では、次の箇所から分かりますが、これは預言者イザヤに命じられたことでした。
  「かれの腰から荒布を解き、足からはくつを脱ぎ、はだか、はだしで、三年間あるいたが、それはしるしであり、前ぶれであった」(イザヤ20・2、3)。
 預言者エゼキエルにも命じられましたが、これは教会の状態を示しています。
  「捕囚の荷物をととのえ、イスラエルの子らの目の前で、他のところへ移りなさい。昼間のうちに荷物をもち出し、夕方には壁に穴をあけ、そこから出ていくことです。顔をおおい、地面に目をやらず、イスラエルの家への前兆になるように。そして、『わたしは、あなた方の前兆となるのです。わたしがするように、あなた方はそうなる』と言いなさい」(エゼキエル12・3~7、11)。
 預言者ホセアも、教会の表象になるよう命じられました。
  「売春婦を妻にめとった。かの女は三人の息子を生み、その一人をエズレルと名づけた。次の子は哀れみをかけてはならなかった。第三の子は主の民ではなかった。またかれに命じられたことは、そこを出て、かつて男に愛された妻、自分にめとった姦淫の女を愛することであった」(ホセア1・2~9、3・1~3)。ある預言者には、
  「自分の目のなかに灰をぶっかけて、なぐられたり、傷を負ったりする」(列王上20・35、38)のを耐えるよう言われています。
 預言者エゼキエルには、教会の状態を表わすように命じられています。
  「一枚のかわらをとって自分の前に置き、それにエルサレムの町を描きなさい。それから町を包囲し、塁を築き、塹壕を掘り、陣営を設け、そのまわりに城壁くずしを配置しなさい。・・・それを自分の左脇の下に、また右脇の下にして寝なさい。・・・また小麦、大麦、豆、レンズ豆、あわ、はだか麦をとってパンをつくり、大麦の菓子は人の糞で焼きなさい。・・・ただし願いによって人の糞の代わりに、牛の糞を用いてもよろしい。・・・左脇をしたにして横になり、それに、イスラエルの家の罪を負い、寝ている日の間かれらの罪を負うのだ。かれらの罪は三百九十日に値する。それが終わったら、右脇を下にして寝て、ユダの家の罪を負いなさい」(エゼキエル4・1~15)と。

(2) このようにして、預言者は、イスラエルの家とユダの家の罪を負いました。それは、罪を取り除くのでも、罪をあがなうのでもなく、ただ罪の表象とか印になっただけです。それは次の引用からも、はっきりします。
  「エホバは、イスラエルの子らが自分の汚れたパンを食べるよう言われた。・・・見よ、わたしはパンを打ち砕く。・・・それはかれらが、パンと水にとぼしく、男はその兄弟ともども惨めになって、罪のため痩せこけさせるためである」(エゼキエル4・13、16、17)と。
 主についても、次のように記されています、
  「かれはわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。・・・エホバは、われわれすべての者の不義を、かれの上におかれた。・・・かれはその知識によって、多くの人を義とし、またかれらの不義を負う」(イザヤ53・4、6、11)。
 ここでは、全章にわたって、主のご受難があつかわれています。

(3) 主がみずから預言者として、〈みことば〉によってユダヤ教会の状態を表していたことは、主の苦しみのひとつひとつから、知らされます。主はユダによって裏切られ、祭司長や長老たちによって捕えられて、罪の宣告をうけ、殴打され、よしの棒で頭をなぐられ、茨の冠をかむせられました。また主の衣服はバラバラに分けられ、上衣はくじにされ、体は十字架につけられました。酢を飲ませられ、脇腹を槍で突かれ、墓に葬られ、そして、三日目に復活なさったのです。
 ユダによって裏切られたということは、〈みことば〉を保有していたユダヤ民族によって裏切られたことです。ユダはユダヤ民族の表象だからです。祭司長や長老たちによって捕えられ、罪の宣告をうけたということは、ユダヤ教会全体から受けた仕打ちです。殴打されたり、顔にツバをはきかけられたり、ムチで打たれたり、よしの棒で頭をなぐられたりされたことは、主の神的真理の面で、〈みことば〉にたいしてされた仕打ちです。茨の冠をかむせられたことは、かれらが〈みことば〉をゆがめたり、冒したりしたことです。衣服がバラされたり、上衣がクジにかけられたりしたのは、〈みことば〉の真理がことごとく散らされても、その霊的意味はそのまま保たれていたことを意味します。主の「上衣」は、〈みことば〉の霊的意味のことです。
 主が十字架につけられたことは、〈みことば〉が全部めちゃめちゃにされ、冒涜されたことを言っています。主に酢を飲むように差し出されたことは、たとえ〈みことば〉がゆがめられても、主がそれをお飲みにならなかったことで、真意が保たれたことを示します。脇腹をさしつらぬかれたことは、〈みことば〉の真理も、主の善も、ことごとく消滅したことを意味します。葬られたことは、母親に由来する遺伝的なものが退けられたことです。三日目に復活したことは、ご自分の人間性とおん父の神性との合体つまり栄光のことです。だからここで分かることは、「不義を負う」とは、不義を取除くことではなく、〈みことば〉の真理が冒涜されたことを表しています。

131・ 無学で単純な人のため、たとえでするとよく分かります。〈みことば〉から分析的にひき出し、しかもそれを理性で検討するより、たとえの方がはっきりします。
 国民にしても衛兵にしても、王の命に服し、その掟を守ることで、王と一つになります。
 ところが、それも王のために患難に耐え、さらに戦争などで起こりうることですが、王のために死ぬような場合は、いっそうです。友が友のために、息子が父親のために、しもべが主人のために、相手が願っていることを実行したり、かれらの敵から守ったり、その誉れのために戦ったりする場合もそうです。
 自分の花嫁になってもらうつもりでいる女性を、汚そうとしたり、自分と張りあって巻きぞえにしようとする連中と戦うことは、男にとって、そのおとめと心が結ばれます。これは人に刻まれた自然の法則によって、心の一致にむかうのです。主は言われます、
  「わたしはよい羊飼いです。よい羊飼いは、羊のために命を捨てます。・・・父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのです」(ヨハネ10・11、17)。

132・ [Ⅶ]十字架の苦難が〈あがない〉そのものであったとする考え方は、教会の土台をゆるがす偽りであった。それはまた、永遠のむかしから、神が三つの位格とする誤りといっしょになって、霊的なものは名残りをとどめないほどに、教会全体をゆがめてしまった。

 現在、正統派の教科書をうめているもの、小学校から熱をいれて教えこんでいるもの、説教壇からいつも説教され叫ばれているもの、それは外でもありません。父なる神が人類にたいし怒りを燃やされ、ご自身から人類を切り離されただけでなく、人類全体にわたって罪を宣告され、その結果、ご自身との交流を断たれたということ、しかしご自身のおん子がこの世にくだり、その罪責を負い、父としての怒りをなだめるように説得鼓舞なさるほど、あわれみ深くあられたということ、それ以外に、人間にあわれみをほどこす方法がなかったことなどです。おん子は人類への断罪をその身に負い、ユダヤ人たちからムチ打たれ、顔にツバをはきかけられ、神に呪われた人のように、十字架につけられたということです(申命21・23)。そのため、おん父は心がなだめられ、おん子への愛のゆえに、罪の宣告をとり消されましたが、それもおん父との仲介が行われた人にかぎられたということ、こうしておん子は、おん父のみまえで、永遠にいたるまで仲介者となられたということです。
(2) 以上のようなことが、現在教会堂のなかで聞かされ、森のこだまのようにその声が響き、みんなの耳に入ってきます。しかし、〈みことば〉によって理性が照らされ、健全になると、神は慈しみと優しさそのものであること、愛そのもの、善そのもので、それが神の本質であることを悟らないわけにはいきません。ですから、慈しみと善そのものなる方が、人間に怒りを燃やしたり、断罪を宣告なさったりしながら、依然として、神の本質を維持されることなど、ありえることでしょうか。こんな考えは、正しい心の人にでなく、正しくない心の人に、入ってくるのです。天界の天使たちでなく、地獄の霊たちが考えることです。神をそんな方だと思わせることこそ、間違っています。

(3) しかし、その理由をたずねられると、罪をあがなうために、十字架の苦しみを受けられたと言ってしまいます。それは、一連のウソが、次から次へと出てくるようなものです。酢の壺からは酢しか出てこないし、狂った心からは狂った考えしか出てこないようなものです。一つの結論から、つぎつぎと同じ系統の理論が生まれてきますが、これも始めの結論に隠れていたもので、そこから順次出てきます。つまり、十字架の苦難こそあがないであったという考えから、もっと躓きになり、神のみ名を汚すような考えが出てきますが、それについては、イザヤも言っています、
  「祭司と預言者とは、濃い酒のためよろめき・・・さばきを行うときつまずく。すべての食卓は、  吐いた物で満ちている」(イザヤ28・7、8)。

133・ 神とあがないについて、このようになった考えがもとで、霊的であるはずの神学全体が、最低の自然的なものになりさがりました。すなわち、神の属性が自然的になってしまったのです。しかも神がどんな方かとか、あがないとは何かなどは、救いと関係あることで、教会全体の土台です。それは、身体のあらゆる部分が頭によってコントロールされているように、それが霊的であれば、教会の全体は霊的になり、それが自然的であれば、教会全体も自然的になります。
 そこで、神についての考え方も、あがないについての考え方も、ただ単に自然的になってきました。つまりは、感覚的で肉感的な考え方なのです。したがって、教会の首長や信徒たちが教義上伝えてきたことは、全部自然的なものでしかありません。そこからは、偽りがかならず出てきます。自然の人間はたえず霊に反抗します。霊的なものは、空中をただよう幻影にすぎないわけです。〈あがない〉についての考えもそうですが、神についての考えが感覚的なため、救いの主である神への道が、強盗や泥棒でふさがれてしまっていると言えましょう(ヨハネ10・1、8、9)。また、神殿のとびらが壊されて、龍、みみずく、野獣やケモノが入ってきて、不協和音をかなでています。
 〈あがない〉とか神についてのこのような考え方が、現代の信仰を冒していることは周知のことです。父なる神に祈りますが、それは、おん子の十字架とおん血にたよって、罪をゆるしていただくためです。おん子なる神に祈りますが、それは自分たちのため、代祷と執り成しをお願いするためです。聖霊なる神に祈りますが、それは、自分たちを義とし、聖としていただくためです。これでもやはり、三つの神に、それぞれの役割に応じた祈願をしていることになります。これは、神のご支配を一種の貴族政治、階層政治とおなじように考えていることになります。あるいは、かつてローマ時代にあった三頭政治ではないかと思います。三頭政治という代わりに三人格政治とも言えます。

 悪魔にとっては、「分割して統治せよ」という命令ほど、口から出しやすいものはありません。つまり、人の心を分割して、反抗の意識をそだてることです。ここでは、ひとりの神への反抗であり、自分以外の神への反抗です。それは、アリウスの時代から今日まで続いています。それはまた、天にも地にも、いっさいの権能をもっておられる救いの主である神(マタイ28・18)が、その玉座から追放され、その代わりに自分の手先をすえ、それに礼拝をささげていることにはならないでしょうか。そんな霊を礼拝することは、主ご自身への礼拝の廃止ということになります。

134・ 以上に、次のメモをつけ加えておきます。
第一のメモ。
あるとき、わたしは霊たちの世界にある会堂に入っていきましたが、そこに大勢の人があつまっていました。かれらは説教が始まるまえに、〈あがない〉について討論していました。この会堂は四角形をしていて、壁には窓がなく、天井の中央が大きくあいていて、そこから天界の光が射しこんでいました。その光は、窓や側面から入ってくる光があったとしても、それよりずっと大きな照明になっていました。ところがびっくりしたことには、あがないの話の途中で、黒雲が北方から流れ入って、上方の明るい部分をおおってしまい、だれもおたがいに見ることも、自分の手のひらさえ見えないほど、暗くなったことです。みんな驚いて立ちつくしていると、その黒雲の中央が割れ、そのあいだから天界から遣わされた天使の姿が見えました。天使たちはその黒雲を両側面の外へ追い出し、それで会堂はふたたび明るくなりました。そのとき、天使たちの中の一人が会堂にやってきて、天使を代表して、会衆にむかって、光をさえ切った黒雲と暗闇の原因として、呼びよせたからには、何を話していたのかをたずねました。かれらは、〈あがない〉についてだと答えました。それは、十字架の苦難による、おん子のみわざであって、その苦難によって、人類はあがなわれ、永遠の刑罰と死から救われたのだと言いました。それにたいし、使いの天使は、「十字架の苦難によってとは何でしょう。どうしてそのようになるか説明してください」と言いました。

(2) そのとき、ひとりの祭司が来て言いました。
「わたしが順をおって説明しましょう。わたしどもが知り信じていることは、父なる神が人類にたいし怒り、罪の宣告をし、その慈しみを閉じられ、人はみな呪われた者として断罪され、地獄に価すると言われたわけですが、ご自身のおん子がその刑罰を身に受けることを、父なる神は望まれました。おん子はそれを承諾され、そのため地上にくだり、人間性を身につけ、十字架につけられ、こうして、人類の刑罰をご自分の身に移されました。『十字架の木にかけられた者は、みんな呪われた者である』とありますね。このようにして、おん子は仲介ととりなしによって、おん父をなだめられました。おん父は、おん子への愛のためと、十字架につけられたおん子を見て、あわれみに心を動かされ、人間をゆるそうと決められました。ただしそれも、おん父がおん子の義を転嫁できる人にかぎります。かれらは、怒りと呪いの子から、恵みと祝福の子になり、おん父はかれらを義とされ、救われるのです。その他の者は、以前から定められているように、怒りの子としてとどまります。これがわたしどもの信仰です。しかも父なる神が、わたしどもの信仰に植えつけられる義とは、わたしどもを義とし、救う場合の義しかありません。

(3) 天使は、これを聞いて、度胆をぬかれたように、しばらくじっと黙って立っていました。やっと口をひらいて、次のように言いました。
「キリスト教の世界が、こんなにも狂ってくるなんてあり得ることでしょうか。健全な理性からはずれて、そんな幻想をいだき、またおっしゃるようなパラドックスがもとで、救いについての基本的教義をゆがめて解釈しておられます。それでは、神の本質つまり〈神の愛と神の英知〉に、まるっきり矛盾しますし、神の全能と遍在にも矛盾しています。心の正しい主人なら、自分の下男や下女に、そんなことができるでしょうか。家畜でさえ、自分の子にそんなことはしません。とんでもないことです。それは、人類全体と個々の人間にたいして、神がなさった召し vocatio を無効にする点、神の本質にも反します。永遠のむかしから確立されている秩序を変更するわけですからね。人はそれぞれ自分の生活によって、さばかれるという秩序です。ある特定の人に、ましてや全人類に、愛や哀れみをかけないということは、神の本質に反します。おん子の悲惨なみ姿を見て、初めて哀れみを感じられるなど、神の本質に反しませんか。哀れみこそ神の本質ですから、ご自分の本質に、逆行することになります。神の本質は、永遠から永遠にいたるものです。その本質と違う状態にあったなど、考えられません。

(4) そのものとして、神の全能のみ力による〈あがないの義〉を、なんらかの存在、ここではあなた方が言っている信仰のなかに注ぎ込むことは不可能です。しかもその義を人間のものとすること、何らの仲介もなく、人を義認し、清いもの、聖なる者と宣言することはできません。責任主体の移行 imputatio だけで、人の罪をゆるし、人を新しくし、再生させ、救い出すことはできませんし、不義を義に、呪いを祝福に、変えることもできません。地獄を天界に、天界を地獄に変えることができるでしょうか。あるいは、龍をミカエルに、ミカエルを龍に変え、両者のあいだの戦いを中止させることができるでしょうか。あなた方の信仰による責任転移ですが、これをある人からはずして、他の人に移すことができるでしょうか。わたしたち天界にいる者でも、永遠にびくびくしなくてはならなくなります。ある人が他の人の罪悪の責任をとり、その結果、罪人が無罪になり、その罪が解消されるなど、正義にも公平にも反します。このようなことは、神の正義にも、人間の正義にも反します。キリスト教世界の人々は、まだ秩序があることを知りませんし、まして、神がこの世をお造りになったと同時に導入された秩序が、どんなものかも分かっていません。神が秩序に反することをすることは不可能で、そんなことをすれば、ご自分に反します。というのは、神はみずから〈秩序そのもの〉なのです。

(5) その祭司は、天使の言ったことが分かりました。それは、上方に天使たちがいて、天界からの光を注いでいたからです。祭司は溜息をついてから言いました。
「どうすればいいのです。現在では、みんながそんなふうに説教したり、祈ったりして、信じ込んでいます。口にのぼってくる祈りといえば、『善良にまします父よ、われらを哀れみ、あなたのおん子がわれらのため十字架上で流されたおん血によって、われらの罪をゆるしたまえ』ですし、キリストにたいしては、『主よ、われらのためにとりなしたまえ』です。われわれ祭司はそれに加えて、『われらに聖霊を遣わしたまえ』と祈ります」と。そこで天使は言いました、「祭司たちは、深くは理解していない〈みことば〉で眼薬をつくり、自分たちの信仰でめくらにされた眼にぬっているのです。あるいは、自分たちの教えた教義できずついた傷口の上に、膏薬をはりますが、それが古いために効かなくなっています。それで、あそこに立っている人のところへ行ってください」(と、わたしを指でさしました)。
「あの人は、主のみ力であなたに教えられます。十字架の苦難は〈あがない〉ではなく、主の人間性とおん父の神性とのあいだの一致合体であること、〈あがない〉とは、地獄の征服であり、天界の秩序づけであること、また主がこの世に下って以上のことを果たされなかったら、地上だけでなく天界でも、だれひとり救われる者がいなかったということです。また、創造と同時にうまれた秩序ということについても、教えられるでしょう。救われるためには、秩序にもとづいて生活しなくてはなりませんが、秩序に生きる者は、あがなわれた者の中に数えられ、選ばれた者といわれるのです」と。
そう言ったかと思うと、会堂の側面に窓が出来、四方位から光が射してきました。まばゆい光のうとなかを、ケルブ天使たちが飛んでいるのが見えました。あの天使は、上方の空いたところから、自分の仲間のところへあげられました。わたしたちは、よろこんで帰っていきました。

135・ 第二のメモ
ある朝、わたしが眠りから醒めると、霊界の太陽がキラキラ輝いて見えましたが、その太陽の下、はるかかなたに天界が見えました。それはちょうど、太陽に動かされている地球のようでした。そ
のとき、天界から口では表わせない声が響いてきました。それは続けて発音した場合、次のようで
す。「人間にまします唯一の神よ、あなたのお住まいは、あの太陽のなかです」と。
こんなふうに聞こえてきたのも、中間天界をとおって最下の天界に、そこからわたしがいる霊た
ちの世界に流れてきたわけですが、そのときわたしが感じとったことは、天使たちにとっては、ひ
とりであった神の考えが、次第に堕落して、三神の考えになったということです。そんなことを考
えながら、わたしは、三神を信じている者たちと話しあうため出かけていき、
『あゝ、なんて常軌を逸しているんでしょう。そんな考えはどこから来たのですか』と言いまし
た。すると、かれらの答えはこうでした。
「わたしどもは、三一の神というと、すぐ感じとる概念から、三つを考えます。とはいっても、
三つという数が、わたしどもの口から出ることはありません。何かを言うときは、いつも神はひと
りですと、はっきり言います。心の中にそれと違った考えがあったとしても、口から出てこないし、出たとしたら、神の唯一性をこわしてしまうことになるからです。それでも、心のなかにある以上、ときによって出てきますが、はっきり言えば、三つの神がましますと言ってしまうでしょう。しか
し自分を笑いものにしたくないから、言わないようにしているだけです」と。

(2) ここまでくると、かれらは今度はあからさまに、自分たちの考えを話しました、
「神は三つの人格にましまし、それぞれが神ですから、三神ではないでしょうか。われわれの教会では、聖とされる教義の宝庫をもとにして、おひとりの神が創造し、もうひとりの神があがない、もうおひとりが聖化をなさると、司教さまが教えている以上、それ以外のことは考えられません。
また三神には、それぞれに属性があって、相互の融通が不可能だと言っており、それは、創造、あがない、聖化だけでなく、責任転移 imputatio、仲介、おん働きがあります。われわれを造られた方は、またわれわれの責任を追及なさいます。もうひとりの方は、われわれをあがない、同時に仲介をしてくださいます。第三の方は、仲介による責任転移をはたし、われわれを聖化してくださいます。神のおん子は、父なる神によって人類をあがなうためこの世に遣わされ、こうして、罪滅ぼしと仲介、なだめと執り成しの役目をはたされたのではないでしょうか。そしてこの方は、永遠のむかしからまします神のおん子とともですから、父と子の二つの人格は、たがいに区別されています。このお二方は天界にあって、一方は他方の右に座しておられるということで、天界で決定されたことをこの世で実行する、第三の人格があってもいいのではないでしょうか」と。

(3) それを聞いているあいだ、わたしは黙って、自分のなかで考えていました、「ああ、とんでもないことを言う人だ。〈みことば〉のなかで言っている「仲介」の意味は、何も分かっていない」と。
そのとき、主のご命令で三人の天使が天界からくだってきて、わたしの味方になってくれました。それは三神の考えにひたっている連中と、内的な感知力をつかって話せるようになるためでした。それはとくに、「仲介 Mediatio 」とか「執り成し Intercessio」とか「なだめ Propitiatio 」とか「罪滅ぼし Expiatio 」についてでした。かれらは、それは第二の人格であるおん子のオカゲであると言っていますが、それもおん子が人間になられてからの話です。おん子が人間になられたのは、創造以来何世紀もたったあとのことで、それまでは前述したような救いの四手段はありません。父なる神にはなだめがなく、人類の罪滅ぼしも存在せず、執り成しと仲介をはたすため、天界から遣わされる者は、だれもいなかったのです。

(4) そのとき、わたしはインスピレーションを感じて、かれらと話しはじめました。
「できるだけ近づいて聞いて下さい。〈みことば〉のなかで、仲介、執り成し、罪滅ぼし、なだめとは、何を意味するかです。以上の四つは、ひとりの神がその人間性のなかでなさったお恵みのことです。父なる神は、近づくことのできない方であるとともに、どんな人間にも近づくことができません。というのは、エホバとして、ご自身の存在そのものが無限で、もしそのまま人間に近づかれたとしたら、ほのおが木片に近づくと火の粉に化してしまうように、人間を死滅させてしまうからです。モーセが主を見たいと思って言われたことからも、それははっきりするでしょう、
『わたしを見て、なお生きている人はない』(出エジプト33・20)とあり、主もまた言われました、『神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである』(ヨハネ1・18、マタイ11・27)と。また、
『あなたがたは、まだそのみ声を聞いたこともなく、そのみ姿を見たこともない』(ヨハネ5・37)と。モーセが顔と顔とをあわせてエホバを見、口ずからエホバと語ったとありますが、それは天使をとおしてなされました。アブラハムの場合も、ギデオンの場合も同じです。ところで、父なる神は、おんみずから人間性を身にまとい、人間に近づき、人間の話に耳をかたむけ、人間と語ろうとおもわれました。この人間性のことを神のおん子と言い、仲介・執り成し・なだめ・罪滅ぼしをなさいます。それでわたしは、〈父なる神の人間性〉がなされた以上四つの役割が何のことかお話ししましょう。

(5) 「仲介 mediatio 」とは、人間が父なる神に近づき、父なる神が人間に近づかれ、こうして人間を救いに教えみちびかれるための手だてになることです。「神のおん子」とは、「父なる神の人間性」のことで、「救い主」と言い、この世では「イエス」つまり「救い」と呼ばれています。「執り成し intercessio」とは、仲介が永久に続くことです。というのは、愛には、哀れみ、優しさ、恵みがあって、ご自分の命令を果たす人、ご自分のお愛しになる人のために、いつまでも執り成し、つまり仲介をはたされます。「罪滅ぼし expiatio 」とは、もし人がありのままのエホバに近づいたら滅びてしまう原因になる罪をとり除かれることです。「なだめ propitiatio」とは、人が自分の罪によって、罰を招くようにならないための、慈しみと恵みの働きを言います。それはまた、聖性を冒涜しないよう守ることでもあります。幕屋のなかの契約の箱のうえにあった「贖罪所propitiatorium 」とは、このことです。
(6) 〈みことば〉では、神が怒ったり、責めたり、試みたり、罰したり、地獄に投げ入れたり、宣告をくだしたり、むしろ悪いことをされているように、表面上語られていますが、神はだれにたいしても、怒ったり、責めたり、試みたり、罰したり、地獄に投げ入れたり、宣告をくだしたりなさいません。地獄は天界からほど遠いように、いやそれ以上無限に、以上のようなことは、神には縁のないことです。だから見かけ上の言いまわしでしかありません。
罪滅ぼしとか、なだめとか、執り成しとか、仲介とかいう言いまわしも、ある別の意味では見かけ上で、ご自身の人間性をとおしてなさる神への接近のこと、神からの恵みのことです。それがよく分かっていないから、神を三つに分けたりして、それを教会の全教義の土台にし、〈みことば〉を曲げてしまったのです。だから主が、ダニエル書や、そののちはマタイによる福音書(24章)で、言っておられる「にくむべき荒廃 abominatio desolationis」が起こりました。
そこまで言い終わると、わたしのまわりにいた霊たちの一団は、そこを去っていきました。そしてわたしは、実際に三神を考えていた連中は、地獄をめざしていくのを見ました。聖なる三一性はあっても、それは神・救い主・主である方のうちにあるとして、唯一の神を念頭においていた霊たちは、天界を目ざしていきました。エホバが人間性を帯びて内在している天界の太陽が、かれらの目に映ったのでした。

136・ 第三のメモ
わたしは遠くから、五つの校舎を眺めていました。その一つ一つを、天界からの光がとりまいています。第一の学校は、地上で早朝太陽がのぼるまえ、雲間からもれる紫色の光に映えているようでした。第二の学校は、太陽が昇ったあとの、あけぼののような黄金色の光につつまれていました。第三の学校は、この世で昼間見る白色光につつまれていました。第四の学校は、夕方の影がまじりはじめた、やわらかい光におおわれていました。そして第五の学校は、夕方の陰影のなかに立っていました。霊たちの世界にある学校とは、教育を受けた人たちが集まって、知識・理知・英知に役立ついろいろの秘義を討議するホールのことです。
それを眺めていると、わたしの心の中に、その中の一つに行ってみたい願いがわいてきました。それでわたしは、白昼の光につつまれている学校の方に、霊にあって、出向いていきました。中に入ってみると、教養人たちが集まって、主が天にあげられ、神の右に座したもう(マルコ16・19)
とは何かを、おたがいに討議しているのが見えました。

(2) 集まっている者のほとんどは、それが〈みことば〉にしたがって、おん子がおん父の傍に座を占めるというふうに解釈すべきだと言っていましたが、それがどうしてなのかが、問われていました。
ある者は、おん子は、その果たされたあがないのみ業のため、おん父によってその右に座らせられたと言いました。ある者は、愛が原因でお座りになったのだと言います。ある者は、だからこそおん父の相談役として、また天使たちがそれによって、おん父を褒めたたえるようになるためだと言います。またある者は、天にも地にもいっさいの権能を授けられたとあるからには、おん父に代わって支配する権能がおん父から与えられたと言っています。そして大多数の者は、おん父が、執り成しの恩恵にあずかる右側の人たちの祈りを聞かれるためだと言いました。
現在、教会に属する人々は、みんなおん父である神に向かってはいきますが、それはおん子に免じて、哀れんでくださいと祈るためです。これは結局、おん父がおん子のほうに顔を向け、おん子の仲介を受けいれてくださるようになることです。また、永遠のむかしからまします神のおん子だけが、おん父の右に座ることが出来る、しかもそれは、地上に生まれた人間としてのおん子に、ご自身の神性を伝えるためだと言っている者もいました。

(3) これを聞いて、わたしはびっくり仰天してしまいました。というのは、学者として霊界にしばらくの間とどまっていても、天界のことがらについて、こんなにも無知でいられる、ということです。しかもわたしが分かったのは、自分の理知により頼んで、英知のある者から教わろうとしないためだということです。おん父の右側におん子が座られるということに関して、もうこれ以上無知でいてもらいたくないと思い、わたしは手をさしのべて、かれらがわたしが言いたいと思っていることに、少しばかり耳を傾けてくれるよう頼んだのです。かれらがそれに応じてくれると言ったので、わたしは次のように言いました、
「おん父とおん子はひとつであるとか、おん父はおん子のうちにあり、おん子はおん父のうちにあるということを、〈みことば〉からご存じでしょう。主はこれをはっきりおっしゃいました(ヨハネ10・30、14・10、11)。もしこれを信じていないとすれば、神を二分してしまうことになります。そうなるのは、神について、自然的・感覚的と言いましょうか、むしろ物質的に考えている結果です。これは、この世でニケア公会議の時代から起こっていることで、そこで永遠のむかしからまします三つの人格神が導入され、それによって教会は、新しく塗り変えられた背景で、俳優たちが、ま新しい場面を演じる劇場になってしまいました。
神がおひとりであることを知り認めない人がいるでしょうか。もしこれを心と霊でみとめておられるのなら、あなた方が言われたことは全部、空中分解し、知者の耳には全くのナンセンスで、むだにひびいてくるばかりです」と。
(4) ここまでくると、怒りに燃え、わたしの耳をひっぱって、黙らせようとする者も大勢いました。ところが、その集りの議長は腹を立てて、
「ここは、神の唯一性とか複数性について話をするところではありません。われわれは、その両方を信じています。ここで話しているのは、おん子がおん父の右に座しておられることが、何を意味するかです。それについて何かご存じなら、話してもよろしい」と言いました。そこでわたしは答えました、
「話します。しかしどうか、静かにさせてください。右に座るとは、本当に右に座ることではなく、世にあってとられた人間性で表わされた神の全能のことです。これは、始源にあってそうであったように、究極の末端でもそうだということです。この人間性をとおして、神は地獄のなかに入り、滅ぼし、征服なさいました。こうして天界をととのえられました。またこうして、人間と天使をあがなわれ、永遠にいたるまであがなわれるのです。〈みことば〉を参照し、照らされると、「右」とは全能のことだと分かるでしょう。イザヤも言っています、
『わが手は地の基をすえ、わが右の手は天をのべた』(イザヤ48・13)と。また、
『エホバは、その右の手をさし、大能のかいなをさして誓われた』(イザヤ62・8)。
『あなたの右の手はわたしをささえられる』(詩18・35)。
『あなたのために強くするよう、おん子をかえりみてください。・・・あなたの手をその右手の人の上に置き、ご自分のために強くされた人の子のうえに置いてください』(詩80・15、17)。
ですから、次のことがどんな意味か分かってきます。
『エホバは、わが主にいわれる、「わたしがあなたのもろもろの敵を、あなたの足台とするまで、 わたしの右に座しなさい」と。エホバはあなたの力あるつえを、シオンから出される。あなたはもろもろの敵のなかで治めよ』(詩110・1、2)。
この詩篇の一篇ぜんぶに、地獄にたいする主の戦いとその征服がうたわれています。「神の右」とは、全能のことです。だから、主は、ご自分が『力ある者の右に』座するであろうと言われましたし(マタイ26・63、64)、『全能の神の右に』とも言われたのです(ルカ22・69)」と。

(5)ここまでくると、集まっていた者たちは、ガヤガヤし始めました。それでわたしは言いました。「注意してください。天界から一つの手が現れるかも知れません。わたしにも現れましたが、それが現れると、信じられないほど、ものすごい力で圧倒されるでしょう。『神の右』とはその全能であることが、わたしにはそれではっきりしました」と。
それを言い終わったかと思うと、天界の下の方に、ひろげた手のひらが見えてきました。それが眼に映った途端、恐ろしさのあまり、かれらは出口の方になだれをうっていき、ある者は窓から身を投げ、ある者は息が切れて倒れてしまう有様です。しかしわたしは、恐れもなく、かれのあとからゆっくり出ていきました。だいぶはなれてから、うしろを振りむくと、さっきの学校には暗雲がたちこめていました。天界からわたしに言われたことは、かれらが三つの神を信じてしゃべったため起こったことで、あの場所に、もっと健全な考えをもった者が集まってくれば、以前の光がもどってくるということでした。

137・ 第四のメモ
〈現代の信仰〉とか、〈それによって選ばれた者たちの義認〉にかんする著作や学識の面で、著名な人たちが集まる教会会議があると聞きました。それは、霊たちの世界で行われたもので、わたしも霊の状態で、出席するチャンスが与えられました。集まった人たちは教職者で、賛成派も反対派もいました。右の方に立っているのは、使徒教父とこの世で呼ばれていた人たちで、ニケア公会議にいたる何世紀かの間に生存していた人たちです。左の方には、その後何世紀かのあいだに、印刷したり手書き原稿であったりしますが、著作でその名が知られた人たちが立っていました。かれらの中には、ひげがなく、女性の髪の毛を材料にしてカールの入ったカツラをかぶった者がたくさんいました。またその中には波形のカラーをつけた者、羽毛でできたカラーをつけた者などがいます。それに対し、右側に立っている人たちは、ひげがあり、普通の髪をしていました。
左右に立っている人たちの前面には、今世紀に発表された著作の審査官が立っていて、手に杖をもち、それで床をたたいて静かにするよう言いました。かれは会議場の上段に登っていきました。咳払いを一つして、そのあと声高にしゃべろうとしましたが、咳払いの声が喉にひっかかってうまくいきません。
(2) やっと話し始めました。
「ご来席のみなさん、何という時代でしょう。平信徒のなかから一人の男が頭をもたげました。ガウンも帽子も月桂樹もないくせに、われわれの信仰を天界からひきずりおろし、黄泉の川に投げすてました。ああ、いまわしい! われわれの星だけが本物で、夜空にオリオン星座のように輝き、あかつきには明星のように光っています。その男ときたら、年は食っていても、われわれの信仰の奥義にかんしては盲目です。信仰が分からず、救い主である主の義も、仲介のみ業も、罪滅ぼしのみ業も分かっていません。したがって、罪のゆるし、再生、聖化、救いとつづく義認のすばらしさにはめくらなのです。
われわれの信仰では、三つの人格神、つまり神全体によって救いが成就し、しかも永遠のむかしから生まれたおん子の受肉によって、神がお救いになるわけですが、この男ときたら、第二の人格神、とは言っても、その人間性に救いを期待しているのです。しかしそれはたんなる人間性でしかないと考えないわけにはいきません。そんな考えから、自然主義という信仰がわいて出てくるのです。このような信仰は霊的ではありませんから、法王信仰とか聖人信仰と変わりません。カルヴィンがその当時、このような信仰から出てくる信心について、どんなふうに言っているかご存じですか。あなた方の中どなたか、信仰は何に由来するか、どうぞ言ってみて下さい。信仰は直接神からくるのではありませんか。救いのすべては、神にあるわけですからね」と。

(3) それを聞いて、ひげがなく、ちぢれ毛をし、首にカラーをしている左側の仲間たちは、手をたたいて叫びました、
「あなたは、大そう英知に満ちたことをおっしゃった。われわれは天界からくるもの以外は、受けつけません。そうでなかったら、信仰とは何で、どこからくるものか、かの預言者に語らせたらどうでしょう。それ以外のもの、それ以外のところからくるなど、とんでもない。信仰といえる信仰で、これ以外の信仰など、とんでもないことです。それは、天空の星座まで馬に乗っていって、星をつかみ、コートのかくしに入れてもって帰るようなもんです」と言いましたが、これは新しい信仰という信仰に、みんなでケチをつけるためでした。

(4) これを聞いて腹を立てたのは、ひげをたくわえ、髪は自然にのばした右側の男たちでした。かれらの中から老人がひとり立ちあがりましたが、その男はあとで若者のように見えてきました。
かれは天界からやってきた天使で、そこでは年々若がえります。そして言いました、
「いま講壇で大袈裟に言われたので、あなた方の信仰がどんなものか、よく分かりました。しかし、その信仰は、ご復活のあと、ピラトの命令で再び閉じられた主の墓のようです。その信仰を聞いて見ましたが、そこでわたしが見たのは、エジプトで魔術師が手品をしたときに使った魔術用の杖でしかありません。あなた方の目にある信仰は、外目には金箔の箱で、宝石で飾ってありますが、開いてみると、カラッポで、隅の方に法王たちの遺物の残りがゴミのように見えるだけです。あなた方の信仰がそんなふうだということは、現在でも外面の聖物でおおわれているという点、おなじことです。ほかの譬えを使ってみると、古代人のなかで女神ウェスタに身を捧げたおとめが、地中に埋められたため聖火を消してしまった話です。わたしは断言できることですが、あなた方の信仰は、わたしの目には、モーセがシナイ山に登っていったあと、イスラエルの子らがその前でおどった金の子牛のようだということです。

(5) こんなふうな譬えであなた方の信仰について語っても、びっくりしないでください。わたしたちは、天界ではそんなふうに話しているのです。わたしたちの信仰は、過去と未来をつうじて、いつまでも、神・救い主・主である方にたいするもので、その人間性は神であり、その神性は人間である方で、その信仰は、受け入れる器に応じています。そこから、霊的な神性は、自然的人間に合体し、自然的なものの中で霊的信仰がうまれます。したがって、自然的なものは、わたしたちの信仰をつつむ霊的光をとおして、透明になるのです。
信仰が成立するための真理は、聖書に記されている文の数だけあります。その真理はみんな星のようで、星々は自分のもっている光で、信仰を表わし、形づくっているのです。人は、科学scientia・思考 cognitio ・思い込み persuasio など、自分自分のもつ自然の光を介して、〈みことば〉から信仰を吸収します。それにたいして、主は、ご自身を信じる人々のもとで、それが確信・信頼・委託になるようになさいます。ここで、自然的・霊的な状態が生まれ、仁愛をとおして、生きたものになっていきます。わたしたちがもっている信仰は、宝石でかざられた女王のようであり、エルサレムの聖なる城壁の数だけあります。

(6) ただし、わたしが申しあげたことが、たんなる誇張だと思われ、それで過少評価されないよう、聖なる〈みことば〉から何かお読みしましょう。それではっきりするでしょうが、わたしたちの信仰は、あなた方が思い込んでおられるのとはちがって、人間性への信仰ではなく、全神性を含みもつ本当の神への信仰です。ヨハネは言っています。
『イエス・キリストは、本当の神であり、永遠のいのちである』(Ⅰヨハネ5・20)。
パウロは言っています、
『キリストのうちに、満ち満ちているいっさいの神性が、肉体をとって宿っている』(コロサイ
2・9)。
また、使徒行伝には、『ユダヤ人にもギリシャ人にも、神にたいする悔改めと、わたしたちの主イエス・キリストにたいする信仰とを、強く勧めてきた』(使徒20・21)とあり、主ご自身も、『天においても地においても、いっさいの権能が与えられた』(マタイ28・18)と言っておられますが、以上はわずかな引用にすぎません。

(7) それから天使は、わたしを見つめて、
「あなたは、福音派の人たちが、救い主である主について、どんなふうに信じているか、ご存じでしょう。かれらは、主の人間性はたんなる人間だと信じるほど、とんでもない考えをもっているのですか。また、その人間性に何らかの神性をみとめているなら、どの程度ですか。わたしたちも知りたいので、何か引用してください」と言いました。
わたしは、会衆のまえでかれら正統派の書物のなかから、一七五六年、ライプチヒで作成した「和協信条」と言われているものを引用して読みあげました、
「キリストのうちに神性と人性は一致合体して、ひとつの人格をなしている」(606、762ページ)。
「キリストは、不可分の人格のうちにあって、本当に神であり、本当に人間である。そしてそれは、永遠につづく」(609、673、762ページ)。
「キリストのうちにあっては、神は人であるとともに、人は神である」(607、765ページ)
「キリストの人間性は、神の全面的威光にまであげられた。これはまた、多くの教父たちの教えでもある」(844~852、860~865、869~878ページ)。
「キリストは、人間性の面で遍在し、すべてを満たしておられる」(768、783~785ページ)。
「天においても地においても、いっさいの権能は、人間性の面でキリストにある」(775、776、780ページ)。
「人間性の面で、キリストはおん父の右に座しておられる」(608、764ページ)。
「人間性の面で、キリストにむかって祈るべきであり、それは聖書に記されていることからも確かめられる」(226ページ)。
「アウグスブルグ信仰告白は、以上の信心を最大限に正しいと認めている」(19ページ)。

(8) これを読みあげてから、わたしは講壇に立っている人に向かって言いました、
「ここにお集りの方々はみんな、自然の世界では、同意見であられたと存じます。あなたもそうではなかったか、どうぞおっしゃってください」と。すると低音で答がありました、
「そうです。わたしはある著名人に同調していました。かれは、教会の著名人グループの団長でした」と。あまりにも低い声で答えたので、わたしは、
「その著名な団長さんは、どこにお住まいだったか、お尋ねしてもよろしいですか」と言ったところ、かれは、
「ルターの墓から程遠くないところに住んでいます」。わたしは笑って言いました、
「墓とはどうしてでしょう。ルターは復活して、現在は、〈永遠のむかしからまします神の三つのペルソナ〉を信仰したり、義認を考えたりした前非をあらため、新しい天界の幸福を味わっている人たちの方に移り、自分のあとに従ってきている不健全な心の持主を見て、笑っているのをご存じないのですか」と。かれは、
「知っていますが、わたしと何のかかわりがあるのでしょう」と言ったので、わたしは、その男の語調とおなじ低さで言いました、
「あなたが同調されたあの著名人に、インスピレーションを与えてください。かれは、属している教会の正統主義を裏切って、主から神性をとり去ったのです。そして結局は自分のペンでならした畑に、はからずも自然主義を植えてしまいました。われらの〈救い主である主〉への信心に反したことを書いたわけです。わたしはそれを心配していました」と。それにたいし、かれは、「それはできません。それについては、わたしとかれは、ほとんど同じ考えです。ただかれは、わたしが言うことは理解してくれませんが、わたしは、かれが言うことは全部はっきり理解します」と答えました。霊界は自然界に入り、そこにいる人間の考えを感じとることができるのですが、その逆はダメです。これは霊たちや人間が仲間づくりをするときの状態なのです。

(9) ここでわたしは、講壇に立っている男と話を始め、言いました、
「もし許していただけるなら、もう一つ質問をさせてください。福音派教会の「和協信条」と言うマニュアルの中には、キリストのうちにあって、神は人であり、人は神である、キリストの神人性は、不可分の人格のうちにあって、永遠につづくとあるのをご存じでしょう。それではどうして、かれにしても、あなたにしても、主への信心を自然主義で汚すことができたのですか」と。するとかれは、
「それは知っています。だが知りません」と答えたので、わたしは続けて、
「かれは、ここにいないから聞くわけにはいきませんが、その代わりに、あなたにお尋ねします。われらの救い主であり主である方の霊魂は、どこから来たのですか。母からだとおっしゃれば、あなた方は狂っています。ヨセフからだとおっしゃれば、あなた方は〈みことば〉を冒涜します。聖霊からだとおっしゃれば、それが神の発出であり働きであり、神エホバのおん子という意味であれば、あなた方は正しい。

(10) もう一つお聞きしましょう。位格的一致 unio hypostatica とは何ですか。もしそれが、一方が上で、他方が下であるといった二者間のようなことなら、あなた方は狂っています。ひとりの神を三つに分けたように、救い主である神を二分するからです。それが、霊魂と肉体とのあいだにある人格的一致なら、あなた方は正しい。これもあなた方の教義と、教父たちの教えにそったものです。「和協信条」を参照してください(765~768ページ)。「アタナシオス信条」も参照なさるといいです。次のようにあります。
『わたしたちが信じ告白する正しい信仰とは、わたしたちの主イエス・キリストは、神であり、人であるということです。神であり、人であるといっても、二つでなく、ひとりのキリストです。これは実体の融合 confusio substantiae によるものではなく、人格の一体性によって、おひとりなのです。理性的な霊魂と肉体とが一つとなって、一人の人間になっているように、神と人間が一人のキリストになっているのです』と。

(11) わたしはまた、コンスタンチヌス大帝によってニケア公会議招集の原因となったアリウスのいまわしい異端とは、何であったかを尋ねました。それは、主の神人性の否定以外の何ものでもありません。エレミヤが言っている言葉を、どう解釈すればいいでしょう。
「見よ、わたしがダビデのために、一つの正しい枝を起こす日がくる。かれは王となって世を治め、・・その名は「主はわれわれの正義」ととなえられる」(エレミヤ23・5、6、33・15、16) 「〈永遠のむかしからましますおん子 Filius ab aeterno〉など言われるとは、とんでもないことです。そんなふうな解釈では、〈あがない〉はありません。神のおんひとり子であった方が、おん子として時間のうちに生まれたもうた Filius natus in tempore, qui Unigenitus Filius Dei fuit (ヨハネ1・18、3・16)と言われれば、正確です。〈あがない〉をとおして、その方は義となられました。そこからあなた方の信仰が生まれてくるはずです。イザヤ書9・6その他を読んでみてください。そこでは、エホバみずから、この世に来られると預言されています」と。 それを聞いて講壇の男は、黙って背を向けました。

(12) こんなことがあってから、議長がこの会議を祈りをもって閉じようとしていました。すると突然、左側のグループから一人の男が立ちあがりました。頭のうえに頭布をかぶり、その上に帽子をおき、その帽子を指で触れながら、言いました、
「わたしも、あなたのいる世界で、あの男といっしょでしたよ。そこではかれは、大へんな名誉職にありましてね。それが分かるのも、わたしはかれと一心同体ですからね。」と。それでわたしは、
「その名誉職にあった人はどこにお住まいですか」と尋ねると、かれは、
「ゴッテンブルグです。かつてわたしは、かれが言ったことから、あなたの新しい教義は、マホメット教くさいと思ったことがあります」と答えました。
その声を聞いて、使徒教父たちが立っていた右側の人たちは、みんな顔色をかえて驚いたのが分かりました。わたしは、かれらの心から口ずさんでいるのが聞こえました。それは、
「ああ、なんと罪深い時代だろう」という叫び声でした。わたしは、その人たちの義憤をしずめるため、手をさし出して、自分の話に耳を貸してくれるよう頼みました。それで、わたしは次のように言いました。
「わたしは、その名誉職にあった人が、そのようなことを手紙に書き、それがあとで印刷されたのを知っています。そのとき、もしかれが、それがどんな冒涜であるか分かっていたら、指でひき裂いて、火に投げ入れたことでしょう。この種の中傷は、ユダヤ人がキリストの奇跡は、神以外の力だと言った(マタイ12・22~32)とき、主がおっしゃったことでもあります。そのほか、主は言われました、『わたしの味方でない者は、わたしに反対するものであり、わたしとともに集めない者は、散らす者である』(マタイ12・30)』と」。
そこまで言ったとき、あの男の仲間は顔色を失いかけましたが、何とかもちこたえて、
「わたしが耳にしたことは、今までになく不吉だ」と言いました。わたしは続けて言いました、
「問題になっているのは、自然主義とマホメット教という二つです。これは悪意のある嘘であり、下心があって作った話です。この二つの中には死毒があって、主を礼拝する聖なる心から、意志をそらせ遠ざけます」と。それからさっきの仲間に向かって、わたしは言いました、
「もしできたら、ゴッテンブルグの人に、黙示録3・18と、同じく2・16に、主によって言われたことがありますから、読むように、お伝えください」と。

(13) こう言い終わると、ガヤガヤし始めましたが、天界の光が降りそそいで、静かになりました。その光のためか、左側にいたグループから右側に移った者も、たくさんいました。左側に残った者は、くだらないことしか考えないで、自分の師と仰ぐ連中の言うことに依存する者、主の人間性しか信じない者です。天界の光に照らされると、かれらはまるで打ちのめされたように見えましたが、左から右へ移った者らには、その光が降り注いでいるように見えました。