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真のキリスト教

第二章 あがない主について

あがないについて

114節

あがないについて

114・ 主には、祭司職と王職という二つの職能があり、このことは、教会では周知のことです。ただし、それがどんなことか分かっている人が少ないので、これから申しあげます。主は、その祭司職の面で「イエス」と呼ばれ、その王職の面で「キリスト」と呼ばれています。またその祭司職の面で、〈みことば〉では「エホバ」・「主」と言われ、王職の面で、「神」・「イスラエルの聖なる方」また「王」とも言われます。
 この二つはたがいに区別され、愛と英知の関係に似ており、同じことですが、善と真理との関係にも似ています。したがって、神の愛とか神の善をもとにして、主が何かをなさるとき、それは祭司職によって実行なさっており、神の英知とか神の真理で何かをなさっているときは、王職によって行っておられます。〈みことば〉でも、祭司や祭司職は、神の善をあらわし、王や王職は、神の真理をあらわします。イスラエルの教会では、以上の二つによって、祭司たちや王たちを表象していました。ただし、あがないに関しては、両方の職能をかねています。いずれにせよ、どこが祭司職に関係し、どこが王職に関係するかを次に述べていきます。個別的にはっきりさせていくため、次のような項目分けで説明します。
[Ⅰ] あがないそのものは、地獄を征服し、天界をととのえ、それによって、新しい霊的教会を準備することであった。
[Ⅱ] あがないがなかったら、人はだれも救われないし、天使も完全無欠な状態にとどまることができなかった。
[Ⅲ] 主は、このようにして、人間だけでなく、天使たちも、あがなわれた。
[Ⅳ] あがないは、純粋に、神のみわざであった。
[Ⅴ] あがないそのものは、神が人間として受肉されないかぎり、成立しなかった。
[Ⅵ] 十字架の苦難は、主が最高の預言者として耐えられた最後の試練であるとともに、主の人間性が栄化されるため、おん父の神性と一致合体されるための手段であったが、あがないではなかった。
[Ⅶ] 十字架の苦難があがない自身であったとする考えは、教会の土台をゆるがす誤りであった。それはまた、永遠のむかしから、神が三つの位格であるとする誤りといっしょになって、霊的なものは名残りをとどめないほどに、教会全体をゆがめてしまった。
 以上について、それぞれの項目を検討していきます。