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父長島達也・霊界入り
 
2006年12月21日(木)午後2時30分 76歳

6ヶ月の闘病記

父は間質性肺炎を発病し、2 年前の2004年6月頃から、酸素補給に頼る生活となっていました。今年4月には、一週間気胸で入院。そのとき、病院で最後を迎えたくないと思ったそうです。わたしたち娘一家は父からの要望で、今年の7月、アルカナ出版の後を継ぐ意を決し、米国から越して来ました。

当時、朝と夜、一日2回階段を上り下りできていましが、病状は徐々に悪化し、酸素の必要量がどんどん増え、やせ衰えていきました。階段の上り下りもすぐにできなくなり、2階のベットルームと書斎を行き来するだけの生活から、ベットルームで の寝起きだけとなり、座ることもつらくなっていきました。9月くらいからは、「自分はどうせ死ぬから」と言って、人に会うことも好まず、流動食も減り、まさに、「霊界へ行く心の準備」をしていたように思います。クリスマスの曲や、ブリンアシンでされる日曜日の説教などをよく聞いていました。 母は訪問看護を週に3回お願いし、ブドウ糖の点滴や、鉄剤の点滴をお願いしていました。

 
しかし、9月の中旬頃に、どうしても会いたいと言う事で、同じ教会のメンバーのある方が、新潟からわざわざ訪問されました。介護の経験のある彼女は、父に「自分で死期を決めてはいけない。それは神様だけが決めることだから」と忠告しました。そして、色々なものを食べるように助言し、主治医とも連絡をとって、父が「生きるべき」ことの大切さに目覚めさせてくれたのです。
 

その後、寝たきりとなったのですが、寝ている方が食べ物もよく通り、顔が見違えるほど健康的になりましたが、何でも自分で出来、勤勉で、働き者だった人間が、寝たきりになるのは楽ではありませんでした。夜は「絶望的に長い」と洩らし、始めのころは色々と文句を言っていました。母にとっても大変でした。毎晩汗でびっしょりになるシーツを取り替えるのをいやがったり、パジャマを着替えるときに文句を言ったり、食べ物の味付けにうるさくいわれても、母は献身的に世話をしていました。

文句が出る一方、だんだんと、父は人が変わりました。人生の深い反省の日々が続きました。家族に「ごめんよ」と何度言ったことか。「人生を急ぎすぎた」ことをとても後悔しているようすでした。それでも毎日役に立つことを探そうと必死でした。毎朝わたしは部屋に呼ばれ、カレンダーを見せて日づけを確認し、今日一日何があるかを報告し、課題を与えてそれについて書くようになったのは、10月の終わりくらいからでした。家族について、知人、尊敬する人、色々な課題で書いてもらいました。アルカナ通信にも投稿してもらおうと、12月はクリスマスについて書いてもらいました。それも、12月中旬くらいになると、中途半端で終わるようになりました。それからは、毎朝課題を与えてくれるように尋ねていたのが、尋ねなくなり、ほとんど書くこともできなくなりました。そして最近のものは、ほとんど意味の通じないものとなっていました。 


当時、米国から帰ってきて適応するのがむずかしく、家族の中で争いがよくありました。父はいつも「大丈夫か」と心配してくれました。仕事も収入もないわたしたちに、「全てはうまくいくからね」とよく励ましてくれました。「この仕事(アルカナ出版)は天職だから」と言われた時は、わたしも、帰ったことを悔やみ、他人に任せたほうがよかったのではないかという失望感にもよく襲われていたので、その言葉にはかなりの疑問がありました。しかし、問題があると、父と話をするようになったのは、父がいつも楽天的な応答をしてくれるからでした。夫婦喧嘩をしたとき、父のところへ二人で行ったこともあります。父を見ると天使のような表情だと思うことがよくありました。


最後の一ヶ月は、父にとって本当につらい闘いだったと思います。呼吸の苦しさから、寝ているときに大きな声を出すことが多くなりました。酸素チューブの影響で、鼻の粘膜が弱まり、鼻血がしょっちゅうでていました。ベット際に備え付けた呼び出しベルを鳴らす間隔が、初めは、一日10回程度だったのが、ひっきりなしになり、常に誰かがそばにいることを望みました。時間の間隔がわからなくなってきました。要求の強い父に、母は生理的な必要に応えるのに精一杯。そばにいて、手を握り、祈ることが、わたしの役目でした。ダンをとても頼り、聖書やスエデンボルグの著作をベット際で読んでもらうのが日課でした。ダンは家族の人間以上に、父を尊重し、父の声に耳を傾け、必要に応えていました。わたしとダンが父の傍に座っているとき、父がわたしに「ダンは本当にGood Manだ」。と言ってくれました。ほんとうに、自分の父親のように貢献してくれて、わたしは感謝の言葉しかありません。

他界する2週間前くらいから、耳の聞こえが急に悪くなり、メガホンを使わないと聞こえなくなりました。日中も、うつらうつらしたと思ったら、目覚めて人を呼ぶことが多くなりました。そのうつらうつらした状態のときに、幻想を見ることも多くなり、悪い考え・不安などの流入にさいなまれることが多くなりました。そのたびに、「神様は全てを善い方向に導いてくださっているから、全く心配しないでいいんだよ」と言うと、納得して安心してくれました。山田茂氏の訳した「祈りの手びき」を好んで祈りました。祈りは父を安心させ、祈りで苦しみを乗り越えられました。祈りによって、自分には悪しかないから、毎日<みことば>を読まないといけないと確信していました。自分で訳したヨハネによる福音書の11章から13章までのコピーをベットの傍の棚に置いて、それを読むこともよくありました。 

亡くなるちょうど一週間前、12月14日、とても苦しそうな父を見て、今日にでも他界するのかと気をもやしました。一日中苦しみが波のように襲ってきているようでした。ダンが父を見たとき、ベットから起き上がろうとして、危機一髪で助けたこともあります。次の日に訪問した主治医は、「大丈夫でしょう。たんぱく質のお魚と肉をもっと食べるように」くらいで、終わってしまいました。考えすぎたのかと思っていましたが、次の日は、本当に天使のように平和な顔をしていました。苦しみもほとんどなく、病気が好転している用に思いました。

しかし次の日以降は妄想を見ることがますます多くなり、咳が増えていきました。話もほとんど出来なくなりました。酸素を通すチューブをはずしてみたり、毎朝汗でびっしょりだったベッドが濡れなくなりました。ダンが死に直面している人が、死に至る段階を説明したウェブサイトを見つけました。実際にそこで解説しているとおりに物事が運ばれていきました。わたしが祈りをしても、うとうとすることが多くなりました。最後の3日間は夜もほとんど寝ずに、妄想や寝言で母を起こすことが多く、母は一週間ほど寝不足状態がつづきました。介護も限界に来ており、他人に介護を任せることは何度も頭をよぎりました。

他界する2日前、「ちょっと机持ってきて。起き上がって見るから。また仕事ができるかもしれない。」と言いました。「え?」と思いましたが、頭を上げさせ、紙と鉛筆をさしだしましたが、息が続かずほとんど書けませんでした。夜寝る前に、父はダンに「Good Bye、Dan」と言いました。「明日また会うよ」と、ダンが言っても「good bye, good bye」と言うのでした。そしてわたしや母に「ありがとうよ。」と何度も言いました。

他界する一日前は、比較的平和でした。それでも常に誰が付き添うようにしていました。うつらうつらする状態が長くなっていることは確かでした。毎食欠かさず飲んでいたコンソメスープを半分しか飲まず、しょっちゅう飲んでいた野菜ジュースもほとんど飲まず、水だけを要求しました。しかし、わたしが夕食に作ったハヤシライスはよく食べてくれたようでした。母に「家に帰ろう」と何度も言いました。

12日朝3時半ごろ、大きな音で目覚めると、母が携帯用ボンベを取り出していました。酸素の機械が動いていないとのことでした。よく見ると、機械に取り付けてある水の容器がきちんとはまっていなかったので、それをはめ直しました。それで事は済んだのですが、父はいつもよりもずっと頭が冴えた状態で、「自分は色々なことをしていたけど、お母さんには、食べたりオムツを取り替えたりだけの生活で、切腹した方がいいかもしれない」「主治医の先生に頼んで命を絶ってもらった方がいいんじゃないか」「そこの3人の中南米の人は帰ったか」ととんでもないことを言うので、「それはあまりよくない考えだから、断ったほうがいいよ」と言いましたが、目は一点を見つめたまま。少し祈ると、「そこにあるクリスマスのビデオ見た?」「あ、そこの人見た?色んな人がいる、きれいだね」とわたしに語りかけました。わたしが父に言ったことは、ほとんどまともな返事として帰って来ませんでした。それからわたしはベットに戻り、休んだけれど、朝7時ごろから父は昏睡状態に陥ったようです。母もわたしも、父がずっと夜中起きていたので、ただ眠っているのかと思いました。いつもより眠りが深いし、うつらうつらしている状態がなく、目を全く閉じて寝ているのは、少し心配でした。 

その日は娘の保育所のクリスマス会があったので、朝9時半ごろ家を出、帰ったのは昼の12時半を過ぎ。父がまだ眠っている、まだ朝ご飯を食べない、ゆすっても起きないと母から聞いて、ひどく胸騒ぎがしました。午後の4時から自分たちの英会話教室のクリスマス会も予定していたので、その準備もあるし、昼も準備しなくてはならないし、わたしの頭はパニックになりそうでした。とりあえず昼食を準備し、父の傍でみんなで食べました。母は一生懸命父の名を呼んで、からまっている胆だけでも吐かせようとしましたが、母が呼ぶとちらっと目覚め、また昏睡状態に陥っていました。昨日までよく食べていたので、まだまだ大丈夫だと思っていましたが、ダンはもうすぐ他界するから心の準備をしたほうがいいといいました。2時15分頃部屋へ行くと、父の顔色が変わっていました。手や足も冷たくなっていました。メガホンを取って、父の耳に向け、わたしと母、ダンで、祈りました。「祈りの手びき」から祈っている間に、呼吸の間隔が徐々に長くなり、最後に全く呼吸をしなくなりました。 

父の顔は苦しみ抜いた表情ではなく、安らかに、平安に満ちた、美しい顔でした。

 父 がなくなるまでの間に、わたしたちが成長する間、全く口にしてくれなかった言葉「愛しているよ」を初めて父から聞きました。父からの聞きなれない言葉を受け入れるのは、とてもむずかしかったです。ほとんど握ることのなかった手を握るのも、実はとても抵抗のあることでした。最後はわたしの働きや祈りを感謝し、わたしの考えを受け入れ、愛してくれた父に、わたしは言います。


「本当によく苦しみに乗り越え、がんばったと思います。善いお手本を示してくれてありがとう。ベットの上で、そこまで再生をする努力ができたのは、神様の力・祈りの力・妻の支え、そして家族の絆の何ものでもありません。お父さんとは長年ぎくしゃくした関係だったけど、最後の4ヶ月で、今までの人生の中で一番いい関係を取り戻せたと思います。神様、お父さんと意義のある時間を過ごさせてくれて、ありがとう。新教会を見つけてくれて、著作を翻訳してくれて、本当にありがとう。いなくなってしまってとても寂しいです。」

次女・フロスト峰子