翻訳者のひとり言
Nov 17, 2006(翻訳者が病に伏しているため、娘による記載)
人と人とのふれあい
 手を握り合い、口頭で話し、共に祈るのは最高の触れ合いであろう。眼を見つめ、表情をたしかめ、お互いをしっかり記録しあうのもいい。
 日記も手紙も出会いも、人と人との出会いが条件となる。人と人との出会いには、人を求め、探す必要がある。人を求めるとき、人を見つけることができる。

妻への手紙
1930年・自分の産まれた日、その日から妻との人生が始まった。それがどのようになるか、誰が予測し得たであろう。音楽は万能で、動作はすばしっこく、対人関係がわたしよりはるかに上手であった。これからも健康であって欲しいと思う。似始めて分かってきたことが多いのは当然であるが、今さら妻(老妻)の健康を心から願う。健康を害することの内容、極力注意してください。・・・・

May 5,2006
新教会の日本伝道には、二つの恒常的チャレンジがある。一つの日本人の精神構造の問題、もう一つ言語構造の問題である。そしてこの両者は複雑にからみあっていて、日本人であるわれわれにとって、恒久的課題となる。
 まず精神構造がキリスト教的土壌にかみ合うため、相互の接点を綿密に分析し、その相互作用を認識しておくことである。たとえば「信仰はタテマエ上であって、本音にはならない」とある人が言ったとき、タテマエ・本音の相互関係を知らなければ、否定も肯定もできない。「礼儀を弁えない人間は、一人前ではない」と言われた際、礼儀と道徳の関係、しかも礼儀と隣人愛との関係を知らなければ、何も応えられない。日常生活で経験する日本的意識には、その他、理性と感情、公と私、先祖の供養、仏教的・儒教的範疇にぞくするものが数知れない。
 もう一つは、聖書を始めとするキリスト教用語と論理の流れを理解することである。翻訳にしても通訳にしても、原文ではこうだが、日本人にはこう言ったほうが分かりやすいと思われることが多い。一番いい例は「愛」である。これを「大切」に置き換えると、思ったより迫力がある。「親を愛しなさい」より、「親を大切にしなさい」のほうがぴんとくる。文脈では、名詞主導文を動詞主導文にする。「理解は困難である」より、「分かり難い」ほうが分かり易い。また「やりもらい」を挿入すると分かりやすくなる。「主から与えられた賜物」より、「主からいただいた賜物」のほうが関係がよく分かる。


December 13, 2005
 宗教には修行が必要である。修行のない宗教は、頭だけの理想論になる。宗教が修行であるためには、ある種の一途がなくてはなるまい。結婚に似ていて、一人の配偶者に限定してこそ、いい結婚になる。それと同じように、一つの宗教に専心しなくては、修行ができない。その意味で、折衷宗教や、宗教の混合は、一途性に欠けるから、宗教性を深めることはできない。重婚によっては、結婚を完成できないのと似ている。

November 6, 2005
実際に、著作の原典訳または英訳に取り組んで、汗を流して読まないかぎり、訳者の「ひとりごと」が、「ひとりごと」に終わってしまう可能性がある。時代の風潮は、ますます軽薄になりつつあるようだ。テレビの番組だけで判断はくだせないけれど、圧倒的に多くの時間が、お笑い、食べ物、健康維持に費やされる。Vita brevis, ars longa(人生は短く、芸術は長し)という言葉があるが、Vita ante mortem brevis, vita post mortem longa (死に至る人生は短く、死後に続く人生は長し)ではないか。「人生は短い。飲み、食い、歌い、騒ぎ、楽しくやろう」で終わってしまっては、まことに、もったいない話。

August 24, 2005
 過去75年の生涯で、わたしにとって、最高最大の収穫は、スウェーデンボルグを知ったことである。著作には、読む人を夢中にさせるようなことは、何も書いていない。淡々と語っているだけであるが、読めば読むほど、学べば学ぶほど、これは本物だという実感を深める。
どのような知識学問でも、学べばそれだけ自分なりの手柄になる。しかし、著作は学べば学ぶほど、手柄意識を失ってくる。つまり功績感がなくなる。むしろ「自分は一体今まで何を学んでいたんだ」という絶望的自己嫌悪と、「やっと真理を発見できた」という感謝のこもった満足感が同居する。わたしは躊躇なく、スウェーデンボルグの著作が神の啓示の書であると信じる。一言でいえば、自分の中にある地獄から、自分を救ってくださるのは、栄化された主の神人性しかないからである。

 
August 8, 2005
今日は特別の日である。8月8日というと、筆者が小学生後半と中学時代に住んでいた広島県福山市がB29による本格的空襲に見舞われた日である。1945年8月8日、15歳のわたしは、姉といっしょに防空頭巾を頭に焼夷弾の雨の中をくぐって、郊外に向かって走っていた。近くのカトリック教会をのぞくと、ドイツ人のマイエル神父さんが、聖母マリアの像を自転車に積んで、やはり空襲の中、町から脱出していた。深津高地という戦車の練習場がある高台から、全市を見下ろすことができた。一面火の海である。わたしたちの家財を疎開させた知人の家が、5キロ先に見えた。
 カトリックの洗礼をうけたばかりのわたしは、ロザリオを繰りながら、疎開先の家まで火がまわらないよう一心に祈った。市内中心から火は転々と移り、類焼をまぬかれない情勢だった。夜も明けるころ、類焼の火は、疎開先の家の隣に移っていた。しかもそのあたりの民家は、全面的に火が移って燃えた。しかしそのブロックでは、不思議にも一軒だけ燃えない家があった。夜があけて、わたしたちは、疎開先の家の様子をみるため、山を下りた。近づいてみると、類焼をまぬかれたのは、わたしの祈った家だった。家主のおばちゃん曰く「何しろ必死になって、バケツで水をかけたのよ」と。
 わたしは今でも思う。おばちゃんに勇気と力を与えたのは、天使ではなかったか、と。


August 7,2005
最近自分の人生があまりにも、日本国民の一人であると意識に囚われすぎていたと感じるようになった。バチカンのロマンという番組で、筆者のかつての同級生、浜尾枢機卿が登場した。かれはバチカン市国の市民権をもって、バチカンの移民政策担当官をしている。かれは「自分たちは、ここで働きながら、自国の代表だなんて考えたことがない。各国出身の職員が同じ事務室で働きながら、みな家族のようだ」と。これは、カトリックならではありえない現象だ。筆者も若い頃、カトリックだったし、しかもイエズス会に6年留まったが、自分がどこの出身で、どの地域の代表だと思わせることが少ないのはカトリックの長所であろう。何人であろうがすぐ友人になれるし、話合える。これこそ、世界的宗教の長所ではないだろうか。


July 19, 2005
 家内は言う、『あなたは、自分が書いたことを実行しない』と。わたしは応える、『自分は橋造りの土木作業員。天界への橋造りをやっている。自分は最後に渡れたらいい』と。
 わたしは、妻に暴力をふるったことはないが、もし万一暴力をふるったとすると、アルカナ出版の出版物は、みなインチキかというと、そうでないと思う。日本では、人物信仰が根深く、人を見て、その人の信仰の教義の真偽を決める傾向がある。しかしそれは大間違い。主の弟子を見みるがいい。みな凡庸な漁師だった。しかし主のみ教えの真理であることには変わりはない。主を見て、その教えの真偽を決めるべきで、不完全きわまる弟子たちを見て、決めるわけにはいくまい。だから翻訳者がどんな人間であろうと、原本のすばらしさには、変わりない。演奏者がどんな下手な演奏をしても、作曲者の天才には変わりはないのと似ている。
 信仰者は、模範生ではない。死ぬまで、いや死んでからも求道を続ける求道者である。倒れては起き上がり、ころんでは立ち上がる巡礼者である。

May 11,2005
事故が起こるたびに、責任者が記者たちの面前で謝罪する。それは、今回のJR西日本の列車事故だけでなく、会社の不祥事があばかれるたびに、責任者が被害者たちの前、マスメディアの前に頭を下げる。謝罪することは、被害者たちにとって、わずかでも慰めになれば、当然のことであろうが、これが建前として、儀式化してしまうと、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で、同じ不祥事が繰り返される。新教会教義の中の「罪の赦し」は、一般人にとっても参考になる。神は、すべてを赦しておられるが、本人が罪から離れないかぎり、本人の罪は留まるのである。例えば、人命軽視するようなことは
、絶対に繰り返さないと会社が心から誓い、再出発するのでなければ、人命軽視の罪は、赦されておらず、本人に留まる。会社ぐるみの犯罪のような場合、責任者が交代するだけでなく、会社のトップと従業員の全員が、意識を変えない限り、同じ犯罪は繰り返されるであろう。そうなると、トップの一時的謝罪は、茶番劇に過ぎなくなる。しかし、宗教心が欠けた場合、どのようにして、人命軽視を矯正できるか、わたしには分からない。死んだ犠牲者の背後に、創造神を信じ、創造神の助けを求めてこそ、改善の本筋を行くように思う。


May 3, 2005
キリスト教徒になって、「神の愛」という言葉を何百回、何千回と聞いたし、口にして来た。しかしその理解の程度は、「愛」が分かる程度にしか、理解できない。しかも自分が日常生活で、憎みより愛を、疑いより信頼を、譴責より赦しを、怨念より寛容を実践していなければ、用をなさない。若い頃は、理性は飛躍する。実在の生命を超える直観や照明が与えられる。したがって、愛についても、愛の実践限度を超える理解力が与えられるものである。ところが年をとると、生命力が衰えるとともに、理解力は、生命力の限界にぶつかり、生命力と運命をともにする。しかし、それにもかかわらず、若いころの理解力を超える洞察力が深まるのは、どうしてか。それは病人ほど、健康のすばらしさを知る洞察力をもってくるのと似ている。


December 29、2004
 人生は絶えざる発見であるのか。知的に成長しているためなのか。こんなこと、どうして今まで知らなかったのだと思う。恥ずかしいことであるが、74歳にしてやっと分かってきたようなことが多すぎる。今までの人生は何だったのだ。未熟なせいか、成長が遅かったのか。恐らく、臨終の床でも、同じことを考えるかもしれない。臨終のときの祈り。「神さま。このまま世を去ることが思し召しなら、結構ですが、もしできれば、この世でやり残したことを、あの世でやらせてください。第一、教義の勉強、第二、人への役立ち、第三、再生への励み」。

December 21, 2004
 この世での幸福とは何だろう。幸福の追求は、快楽への追求とは違う。快楽は長続きがしないし、覚めれば以前より、不幸になることが多い。名誉や地位も、周りの人が幸福であろうと推察しているだけで、本人は名誉や地位の維持に、心配が山積しているから、幸福感は少ない。では何が幸福か。健康か。健康は、幸福の条件になるが、幸福そのものとは違う。勿論、カネや財産ではない。
 幸福は満足にあり。満足は満ち足りることにあり。満ち足りることは、ささやかな事柄に充足感をもつことだろう。それではわたしの満足は何か。 夜の熟睡、面白い夢、早朝のコーヒー、午前中の翻訳、昼食後の午睡、午後の雑用、夕方の散歩、夕食時のクローズアップ現代。・・しかしこれでは、自己満足に過ぎないではないか。結局、結論。家族、周りの人、社会に役立つことではないだろうか。しかし役立ちには、実感があれば、なおさらの励みになるのだが。

October 14,2004
 マイホームにしても、マイカーにしても、ローンで支払っている者にとって、借金は重荷である。返さねばならないという義務感、それまでは本当に自分のものとは言えない肩身の狭さが重荷になるのだろう。ところが、この重荷感は、霊的次元で考えると、とんでもなく傲慢な独り善がりと言えるのではないか。主の祈りの中に、「われらが人に赦すごとく、われら負債を赦したまえ」とある。これは、われわれの日常すべては、負債だらけであることを前提にしている。天界の教義によると、人間は、みずから善を産み出すのでなく、神よりの善をいただく器に過ぎない。すべてがいただきものである。つまり全部が負債なのである。もしすべてが負債であり、いただきものであれば、それを重荷と思うのは、自分は、神からいただかなくてもやっていけるという、とんでもない傲慢心が前提になっているからではないか。キリスト教徒になって、60年、やっと「われらの負債を赦したまえ」の意味が少し分かってきた。


July 16, 2004
筆者にとって、70代に達したことで、うれしいことがいくつかある。今年8月の誕生日で74歳、というとよくもこんなに年取ったな、と思う。しかしキリスト教のおかげで、死を恐ろしいと思ったことは一度もない。むしろ待ちにまった日が来るという感じである。
 とは言え、これはスウェーデンボルグのオカゲであるが、死んだらすぐ天界に迎えられるなど、とんでもないことだ。これは謙遜で言っているのでなく、自分がだんだん分かってきたから、そう考えるまでである。天界は自分にとって、まばゆるて目もあけられないし、息苦しいところだ。『天界の秘義』を訳していると、天使とは、天界とはが、だんだん手にとれるように分かってきた。
   天界とは、まさしく天使の社会である。
   ところが、自分は天使ではない。
   だから天界へは行けない。
 非常に単純な三段論法である。まずは、浄化のため、地下界 terra inferior で、しばらくは荒廃を味わなくてはなるまい。カトリックで教える煉獄である。これは精霊界の地下のほうにあって、地獄に接しているらしい。遺伝悪で罰せられることはないが、遺伝悪に荷担した分だけ、自分の責任で、招いた罪と悪の残滓は、洗い落とされねばならない。
 それにもかかわらず、死は待ち遠しい。その理由は、
1.死後、はじめて自分本来の人生が始まる。しかも永遠に続く人生である。
2.自分が一番所属したい社会で生活できる。類は類を呼ぶ。
3.天界の教義を本格的に学ぶことができる。多くの先輩の教えを受けられる。
4.言語の壁がこわされ、共通語で交流できる。つーかーの会話が可能になる。
5.自分の正体が明らかになるとともに、他人の正体も明らかになるから、だまされることがない。
6.自分がこの世で、追求してきた社会がまがりなりにも、実現できる。同士が見つかる。
7.物質的肉体の制限から解放され、猛烈な勢いで、理想に向かって進める。
8.共同研究で、〈みことば〉の真髄に触れることが次第に可能になる。
9.結婚愛の理想が実現できるように仕向けられる。
10.理想的な教会に所属し、理想的な礼拝式に参加できる。
11. 自分に最も適した職業を通して、所属社会に奉仕できる。しかも尊敬する先輩に囲まれて。
12. 最も効果的な方法で、善と真理という霊的実りを生産することができる。

 その他、いくらでも挙げることができる。
 以上を自分の理想と思われる方、死はその入口であるから、楽しいではないだろうか。死は、この世の晴れの卒業式、あの世への入学式である。70代、でなければ、80代で卒業できれば、みなさんお先に失礼と、永遠の眠り(実は覚醒)に入ることになる。祝えヤ祝え!

April 13, 2004
スウェーデンボルグの著作の中には、「真理は善の器である」とか、「真理は善の〈かたち〉である」、また「善は真理の土壌である」という言葉がある。これは信仰と愛との関係にも通用する。「信仰は愛の器である」、「信仰は愛の〈かたち〉である」、また「愛は信仰の土壌である」ということになる。
 愛のないまま、知っていることを行ったにしても、その行いは、愛の行いにはならず、真理を実践したに過ぎない。「人を自分のように愛しなさい」という戒めをそのまま実践しても、愛の行いにならないということである。
 しかし同時に、そのような借り物的愛の実践から始まって、人は次第に本物の愛が理解できるようになり、主から愛の流入をいただくことによって、始めて、愛に根ざして真理を実践できるようになる。初期の段階では、真理から愛を求めていた時代があったが、そのような修行が何年か続くと、愛から真理を求めていくようになるということらしい。
 イラクにいる三人の人質とその家族の悲しみを思って、これを他人事でなく、心から涙するようになればだが、それこそ菩薩の心であり、主キリストの心になる。それだけでなく、イラクにいる何百何千の家族とその苦しみ、自爆テロをして息子を失った家族、憎しみと不幸の悲劇が繰り返される事実にわがことのように同情するのは、人間ができることでなく、神のなさることである。

February 10, 2004
人生問題についての判断の軸になるものは、神の存在と、死後の〈いのち〉の二つではないだろうか。この二つは、宗教をもっているかどうかにかかわらず、万人に備わっている自然的良心の声のようなものであろう。これを認めることで、人生は変わってくる。神への愛と天界への愛が、自己愛と世間愛にたいする歯止めになる。あらゆる悪に抵抗する力は、ここから生まれている。四大悪といわれる殺人、姦淫、うそ、盗みなども、神の掟に反するから行わないという思いになるし、死後の〈いのち〉こそ本来の自分の〈いのち〉であると信じれば、この世の不幸にも耐えられる。
 もちろん偽宗教家が無学単純なものをひきつける餌にする可能性もあるが、それだからといって、宗教を排するのは、赤ん坊をたらいの水といっしょに流してしまうことになる。偽宗教家にたいしては、各自が警戒し、よく学び、よく考え、よく議論することで、排除していくしかないだろう。


December 29, 2003
スウェーデンボルグが記している教義は、人間がこの世で享受できる最高の知恵だと思う。それはなぜか。教義にしたがって生きていると、自分自身の人間としての頼りなさが深刻な事実として受け止められてくるから、どれhど知恵をいただいても、傲慢になれなくなる。
良心的な医者が患者の内臓をあらゆる医療技術をつくして調べ、どれほど癌におかされているかを患者に説明するとする。患者は、はたしてそれを自分の優越に結びつけることができるだろうか。
 また一瞬一瞬健康を支えられているのは、神の愛と知恵にもとづく配剤と知る時、患者はそれを自分の優越に結びつけることができるだろうか。
 天界の教義を知り、それに従って生きていると、多くの知恵をいただくけれど、それによって傲慢になれない。
 この世の知恵は、ほとんどの場合、本人の傲慢に結びつく。外面的に謙遜であっても、内面で謙遜になることは、非常に難しい。しかし、スウェーデンボルグの教義だけは、内面的に謙遜にさせる。謙遜にさせるというより、自分の本性を知って恥じ入ると同時に、それが真理であることを喜ぶのである。ある意味で、そら恐ろしい教義である。


November 17, 2003
日本国民は、いまどうなっているのだろう。すべてがムードに流れていく。テレビを見ると、健康ブーム、料理ブーム、クイズブーム、ドラマは時代物ブーム、髪の毛は茶パツ・ブーム、政治となると、小泉ムームに、安部ブーム、パソコン・ブームに、携帯電話ブーム、ヤンキーズ松井ブーム、マラソンブーム、勝負ごとムームに、スポーツブーム、何もかにも、周りを見て決めていく自主性のなさが恐ろしい。だれの責任か、マスコミの責任だろうか。責任不在で、人の真似し、有名人や人気の上下で事を決め、流されていく。恐ろしく、感覚的・感情的で、非理性的な群集と化していく。
 さて、イラク情勢は、われわれ日本人の責任を自覚させるきっかけになるかもしれない。自衛隊派遣にふみきろうが、踏み切るまいが、旗印を明確にするチャンスになるだろう。
 平和憲法路線を貫くのが理想的であったとしても、それにはガンジーのように、恒久の平和を絶対に築くだけの哲学が必要であるが、日本人には、それがない。宗教的確信がないところには、哲学も生まれない。ブームに流される民衆は、哲学と無縁である。
 東京がアルカイダの標的になれば、そのときは、日本人が目覚めるときかもしれない。日米の同盟関係を犠牲にしても、平和憲法をまもっていこうとするか、テロが大都市で頻発しても、米国の傘下で安全を守ってもらうことを優先するか。
 おそろしく世界情勢に無関心な日本人も、今度こそ、自国の平和を世界の平和の視野から、眺めていくようになるだろう。 これは災い転じて福となすチャンスではないか。



September 30, 2003
時間とは、物質の第四次元的変化をあらわす尺度であることは、哲学的常識であるが、人生に変化が感じられなくなると、時間がたつのが速くなる。ところが人生の変化と言っても、物資的変化だけでなく、精神的変化も含めるとなると、思考や情愛で変化が乏しくなると、時間の進行速度が増すことになる。ということは、考えることが少なく、周りの生活環境が変化に乏しければ、それだけときのたつのが速い。



September 1, 2003
 道に迷って、通りがかりの人に道を尋ねるとき、その人の言うことを信じるのと、信じないのとでは、雲泥の差が生まれる。場合によっては、まるで反対方向にさまようことさえある。しかし幸いにも、ほとんどの人は、道を正確に教えてくれる。わたしの経験からすると、尋ねた人をだまそうとして、ウソを言う人にあったためしはない。
 それとよく似ているが、スヴェーデンボルイの著作を空想的なオカルトの書とするのと、正しい人生の指導書とするのとでは、雲泥の差が生まれる。また聖書解釈の参考書にするのと、著者の証言を信じて啓示の書とするのとでは、雲泥の差が生まれる。
 多くの人は、迷ったとき通りがかりの人の言うことを信じ、レストランでは、ウエイトレスの言うことを信じ、駅では駅員の言うことを信じ、新聞を読んでは、新聞記者の記事を信じ、お金を払っては、商品の価値を信じ、約束をしては、相手を信じ、タクシーに乗っては、運転手を信じ、本を読んでは、著者を信じ、学校では教師の言うことを信じて生きている.
 信じる根拠はあまりないにもかかわらず、信じて裏切られることは、そんなに多くない。
 それでは、当代随一の科学者、哲学者、神学者であったスヴェーデンボルイを100%信じないのは、なぜか。
 アインシュタインの書いたものを信じなければ、相対性原理は分からない。それと同じように、スヴェーデンボルイの大著『天界の秘義』を信じて読まなくては,かれが伝えようとしている人生の最大の秘義は分からない。
 わたしはスヴェーデンボルイの著作の原典訳を始めて二十年になるけれど、半信半疑の時代も若干あった。しかし信じれば、目が開かれるという体験は、動かせないものがある。原典約3ページの翻訳が毎日の日課になっているが、毎日の生きる力をその翻訳からいただいている。神を信じれば、神の愛が分かるのと同じである。


August 3, 2003
 「近くに、どこか新教会があるでしょうか」という質問をよく耳にする。教会とは、建物のことだと思っているらしい。しかし、実際はそうではないのだが。外観に迷わされ、本質を見失うことがないようにしたいものである。
 スウェーデンボルグは、著作の執筆時代、日曜日にかならず教会堂へ行ったわけではない。それでもれっきとしたキリスト教徒であったことは、万人が認めるところである。かれは天界は人の心以外のところにはないと記している(天界と地獄57,328参照)。
 主も言われた。「神の国は、ここにあるとか、あそこにあるというものではない。あなた方のうちにあるのだ」と (ルカ17・20-)。
 

J
une 11, 2003
 ロボットが老人の孤独を癒すことができるだろうか。No である。老人の孤独は深刻になるだろう。ヒトゲノムによる遺伝子治療が病を克服できるだろうか。No である。人間は病の恐怖におびえるようになる。クローン技術の発達が人権尊重につながるだろうか。Noである。「単なるコピーの分際で何を言う」とばかり、不平等はつのり、人権は無視されるだろう。
 神を失った人類の暴走はしばらく続くかも知れない。人間は父なる神なくしては、浮浪者、孤児、浮き草にすぎないことを心底から体験するだろう。宇宙が偶然にビッグバンから生じたとの宇宙観は、徹底的に改められねばならない。二十一世紀は、ひょっとすると、人類史にとって、無宗教時代の突入にならなければいいが、と願うのみ。小生を含め、高齢者にとって、あの世に召される前、残す言葉があるとすれば、 May God be with you!!


May 10, 2003
天文学者が大宇宙を眺めて考え、生物学者が小宇宙を眺めて考え、われわれ普通人が自分の心臓に手をあてて考えることは、どれも大差のない驚きであるはずだ。宇宙にも、原子核にも、人体にも、神秘がつまっている。いずれ人知で解明できる日が来ると思うのは、とんでもない人間の傲慢で、この傲慢が神秘を見て神秘とせず、驚きもせず、感謝もしない冷たい心に育て上げる。人間は、自分自身の感情の一つさえコントロールもできないし、客観視することもできない。それでどうして宇宙の神秘を解明できると豪語できるのだろう。傲慢は眼を眩ませる。スヴェーデンボルイは、「肉眼は霊眼を閉じさせるが、霊眼は肉眼を開かせる」と言った。別言すれば、感覚経験に基礎を置く科学万能主義は、霊的なものにたいして鈍感にするが、霊的なものに眼が開かれている人は、科学の限界を知っているとでも言えるのでだろう。スヴェーデンボルイは科学者から、啓示者になったのには、そのような動機付けがあった。




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