翻訳者のひとり言
April lst, 2003 
スエデンボルグのカタカナ表記で問題になることがある。書物や辞典によって、スウェーデンボルグ、スヴェーデンボリ、スヴェーデンボルイと、まちまちなので、なんとか統一できないか、と。かな表記には、宿命的な不正確さがあり、どう綴っても正確ではない。たとえ,前半のSweden だけでも、スエデン、スエーデン、スエーデヌ、スウェデン、スウェーデン、スウェーデヌ、スヴェデン、スヴェーデン、スヴェーデヌ、スゥエーデンと、いろいろ可能であるし、後半の borg にも、ボルグ、ボリ、ボルイ、ボーリ、ボリィ、ボーリィ、ボーリー、ボリー、ボールイ、ボリイと、いろいろ可能である。
 今ここにあげたものだけでも、前半が10通り、後半が10通りで、その組み合わせは、全部で100通りになる。原語での発音を耳にして、日本人がカタカナ表記すれば、十人十色になるのもいたしかたないだろう。
 すると、今日本で流通している表記の数は、せいぜい三通りか四通りで、たいした数ではないから、お互いの耳を信頼して、共存させるほうがいい。どれも不正確な点で共通しているのであるから、欠陥表記の仲良し共存以外にはないだろう。
 アルカナ出版では、1985年の『天界と地獄』初版出版のおり、現地読みに近いと判断してスヴェーデンボルイにしたが、原典訳以外では、スエデンボルグ、スウェーデンボルグも小社で使用している。人名表記には、カタカナを用いず Swedenborgで統一したら、一番簡単ではなかろうか。いや、そうなる日も近いのではないだろうか。

March 30, 2003
ある人に自著を託して意見を問うたら、ミスプリントだけを訂正してくれた。学生に自分の授業運営にたいするコメントを頼んだら、教室の通風の悪さを指摘された。道を問うてきた人に道案内で指差したら、指差す方向を見ないで、指の爪の垢を眺めていた。そんな思いをした方はおられるだろうか。本質的なことが、付帯的なことによって、すり変えられる。
 スウェーデンボルグの著作をプレゼントしたら、訳語につまずき、活字につまずき、印刷・製本につまずく人がいる。内容をよく吟味して読まない人は、本質を見落とすため、せっかくのチャンスが見失われる。
 戦後、カトリックは主のことを「イエズス」と発音し、プロテスタントは「イエス」と発音して、双方がいがみあった時代があった。現在は、遠藤周作あたりのおかげで、「イエス」で統一されている。
 それに似たいがみ合いはないだろうか。本質を見落としで、付帯的なことだけに注目すると、見当違いなずれができ、いがみあう。日本人たるわれわれには、画一化にたいする異常な郷愁があるためであろう。どちらでもいいことでも、統一して揃えたいと思い、つまらぬことでいがみあいの原因をつくる。われわれは、おたがいネクタイの色でいがみあう必要はない。どちらでもいいものは、どちらでもいい。本質的なことで議論しよう。
 

March 13, 2003
スウェーデンボルグの著作は、読みこなさなくては、なかなかその真髄が分からない。これは人間社会での子弟関係に似ている。弟子入りするさい、師匠に会って、その人物に身も心も託してこそ師事したことになる。師事には、師匠と弟子の間の信頼関係が大前提となる。
 したがって、スウェーデンボルグの著作を200年前の神秘家の書き残し程度に見ていたのでは、師事したことにならない。そして師事しないかぎり、師匠はその真髄を明かしくれない。いやむしろ弟子として、心を託していないため、心を閉鎖したまま、師匠に近づく結果、師匠は、弟子として扱ってくれない。
 もちろん本当の師匠は、スウェーデンボルグでなく、主である。主は、スウェーデンボルグを通して、人間再生の秘訣を開示された。これが天界の秘義に記されている。毎日の原典翻訳作業で、砂をかむような日々が続くことがある。それでも辛抱強く、食い下がっていくと、突如、新しい光が与えられるため、今までの知識や理解をふもとのほうに見下ろすことができる。ただしこれは、人を傲慢にするよう光でなく、自分自身の正体を暴露して躊躇しない残酷な光でもあるが、その残酷さに祝福の香りが漂う。

January 18, 2003
スウェーデンボルグが偉大な神学者、啓示者であることを認めながら、スウェーデンボルグの著作を読もうとしない人が案外多いのには驚く。かれらの大半は、だれだれが書いたスウェーデンボルグ解説書を読むか、伝記をよむことで満足している。自分の目で著作を読み、本人の記した言葉を噛み締め,黙って冥想することで、スウェーデンボルグの著作は少しずつわかっていくものであるが、解説書では、二番煎じ、三番煎じになり、最悪の場合は、ゆがめて理解し、まちがった像を描いてしまう。週刊誌の特種をあさるような、即席の物知り的読み方では、人生を変えることができる原動力にはなるまい。


December 6, 2002

天使たちは、善と真理のうちに生きているため、悪や偽りにたいして身震いするほどの嫌悪感をもっていながら、人の悪と偽りを見て、それを釈明しようとするとある(AC1088)。人については良く思い、良く語り、悪く解釈しない。これを「悪を憎みて、人を憎まず」というが、どれが理解できるのは、頭だけでは不可能。心に仁愛を宿していなければ、それは分からない。自分にそれが分かるかと問われれば、分からないと答える以外にはない。愛がないと分からないことがたくさんあるが、これもその一つであろう。「愛は人の長所を見る」という諺がある。人の長所が見えないのは、愛がないからだ。

November 30, 2002
先日家内といっしょにコンサートを聞きにいった。めったに行かないのに、ピアノ教師である家内とのおつきあいをしないうちに人生が終わるのを恐れて、たまにはということでついていった。わたしのように門外漢となると、シンフォニーにしても、アンサンブルにしても、音が
美しく組み合わされて流れていくことしか分からない。一人前の音楽家になると、微妙な演奏技術に耳をそばだてるだろう。さらに本当の専門家になると、音楽を思想として捉えているのではないだろうか。
 それでふと思った。旧約聖書の物語は、普通人にとって、4000年まえの歴史物語でしかない。イサクの息子ヤコブは、兄エサウの長子権をレンズ豆の煮物で買い取ったという話。スウェーデンボルグはその物語の背後にある意味を内的意味として描き出した。それは天使たちが歴史物語をどうみるかということである。音楽を音の流れとしてしか見ない凡人より、思想としてみる専門家のように、歴史を物語としてしか見ない人間にたいして、天使たちは、人間再生の必然的な葛藤の過程として見る。聖書の一字一句がそうであれば、現在訳している『天界の秘義』には想像を絶する知恵が含まれているに違いない。恐ろしい話ではないか。これこそ、ネコに小判の思いで翻訳を続けているが、ときたま、内的意味を閃光のように、鈍感な精神を照らすことがある。


November 21,2002
スウェーデンボルグを知ると、精神に一大革命が起こる。来世があるかないか、科学と宗教は一致するか、従来のキリスト教の誤りはどこにあるか、諸宗教は一つになれるか、などの問題でさえ、瑣末なことに見えてくる。それはわたしの生き様を徹底的に問われるため、スウェーデンボルグの著作の内容に賛成するかどうかさえ、瑣末なことに見えてくる。
 かつてわたしは、スウェーデンボルグの著作を神の啓示として信じている人を横から眺めて、この人は心底から、本気で、信じているのだろうかと疑ったことがある。そして今、自分のそのような疑いは、あまりにも幼稚な疑いであったことを反省している。まことに著作の内容を100%信じ、大山のごとき不動の信念で生きている人がいるのは、現代の奇跡ではないかと思う。そのような人に接すると、福音書の信仰が現代でも生きているのが実証される。唯物主義、快楽至上主義、無神論、世俗主義の最中にあっても、キリスト教が現代にも息づいているのを感じさせる人が実在する。マザーテレサはそのような人であった。しかしマザーテレサさえ、氷山の一角なのだ。

November 7, 2002
最近よく夜中に目覚めて眠れなくなることがある。昨夜など3時間くらい眠れなかった。しかし目覚めている時間は無駄ではなかった。最高によい時間として利用できた。それは詩篇を口ずさむこと、それを吟味することは、祈りにもなり、精神の栄養にもなる。日中なかなか精神を集中する時間がないが、夜中眠れないときほど、精神が集中できる時間はない。肉体の緊張はほくされており、じっとしているから、純粋に精神だけを集中させることができる。何と有効な時間のつかい方であろう。


October 13, 2002
 やがてよき時代が到来するのではないかと期待するのは、自分がいつかは善良人間になれる日がくるのではないかと、期待するようなものである。だれも責めることができないのは、社会を構成する構成員の中に自分自身も加わっているからである。チームが弱いのは、だれだれのせいでなく、チームの一員である自分のせいである。人を責めても何も始まらないが、自分を責めて改めれば、すべてが始まる。人間の社会は、一人から始まる。一人が改善されれば、一歩前進する。それをスウェーデンボルグは、自己改革 reformatio といった。悔い改め, 自己改革、再生が人生のすべてである。


September 22, 2002
カトリック、プロテスタントを含め、従来のキリスト教は、最後の審判を地球の破滅のような大団円に結びつけ易い。しかし新教会の教えでは、自然界の破滅と全く違う次元のことがらになる。スウェーデンボルグが霊界で目撃したiudicium ultimum には、いろいろな和訳が可能である。「終末的裁き」「決着的裁き」「結末的粛清」「満期の決着」「周期的決着」など、「最後」と訳してしまうと、これしかない最後と誤解されやすいが、ultimum は、時間だけでなく、状態の修飾にも使われるため、「最終」とか「最後」より、「結末的」「決着的」「満期的」のほうがいいかも知れない。精霊界での悪霊の充満が、天界とのバランスをくずし、この世にくる天界からの流入を阻害するため行われる精霊界の粛清であって、必要とあらば、何回でも行われる。つまり悪が充満することで、審判の機が熟し、その結末がつけられることを言う。しかも人間が死後すぐに受ける審判も最後の審判に含まれる。



August 27,2002

希望をもって開幕したはずの二十一世紀は、あるいは思想的混迷期への突入かも知れない。超大国となったアメリカがテロ撲滅のためとは言え、世界的規模での核戦争を引き起こす可能性もある。そこには混迷した世界観、民族主義、宗教観が錯綜して、前方を見え難いものにしている。60億の人類を乗せた地球号を、核戦争による破滅から救うため、原点にさかのぼって考える必要がある。戦争を引き起こす人間にある憎悪と敵意は、何に由来するか。これは人間生来の本能か、野蛮性か、知性の堕落の結果か。科学技術の発達は、それに歯止めを設けることはできないのか。問題解決の基準としての「正義」には、どのような限界があるか。正義と報復のバランス。敵意は正義の制裁によって、消滅しないのではないか。それでは、正義以外の基準は何か。赦しは、何を根拠にして可能になるか。慈悲は敗北に通じる可能性はないか。世界宗教といわれる、キリスト教、仏教、イスラム教、またユダヤ教に、解決策を求めることができるか。できるとすれば、どの程度か。できないなら、他に解決策はないのか。米政府の政治的意図には、非キリスト教的要因はないか。キリスト教的要因を深めることによって、反戦を明確にしていく方法がないか、など。スエデンボルグの著作を咀嚼することは、考える葦を増やすことになる。そしてこの小さな葦の考えの一つ一つが、自分を動かし、人を動かし、社会を動かしていく。

August 13, 2002
 「日本に未来はあるか」という質問を、「わたしに未来はあるか」の質問に切り替えてみると、分かるが、日本の未来は、わたしの未来であるため、ひとごとではない。ところがわたしは自分が日本人であるにもかかわらず、日本の未来とわたしの未来を別物だと思ってしまう錯覚にかられることが多い。自己逃避である。日本人が幸福になるように努力するのがわたしの責任だ。

July 20, 2002
人類史は前進しているか,後退しているか、といった大問題を目前にすると目がくらむ。しかし小宇宙から大宇宙を見るつもりで、自分自身の個人史を人類史の縮図と見れば、どうだろう。わたし個人は、人は年をとるとともに良くなったか悪くなったか、という質問になる。自分の個人史で、人類史に共通するものをとりあげてみる。すると次のような体験が思い浮かぶ。
1.〈いのち〉をあまり大事にしない意識が、大事にせねばならないという意識に変わった。
2.人にはみな幸福に生きる権利があるから、その権利はだれからも剥奪されてはならないとの意識が強くなった。 3.人知を結集すれば、徐々にではあるが、人類のかかえる問題はまがりなりにも、解決への方向へ向かう。議論の究極には、人間の理性と良心が奥座にひかえているとの確信が深まった。戦争、疫病、抑圧、差別、富分配の不平等、環境問題にかんして、あまり無茶なことはしない希望が増した。 4.社会問題、経済問題、科学技術、医療、福祉などで、問題解決の糸口はいつかは見えてくる。無知、暗黒、混沌、分裂のかなたに、光がある。


July 5, 2002
 人間性の出発は合理性の誕生にある。合理性の誕生を経ていないあいだは、人間のようであっても、まだ人間ではない。合理性の誕生によって、人は真理を追究し、その真理という器を、愛という〈いのち〉で満たしていく。人間の〈いのち〉は愛の成長に比例するが、その愛の成長は真理の枠内で成長する。それをスヴェーデンボルイ通して、徹底して教わることで、より人間らしい人間になる。抽象的な理論のようであるが、抽象的に見えるのは、日本語のせいで、実際は極めて具体的、現実的な経験上の事実なのだが。


June 24, 2002
スヴェーデンボルイは繰り返し記している。エゴは悪そのものである、と。愛も善も〈いのち〉も全部主からくるものであって、人間からではない、と。それにもかかわらず、人間は神の像として、天界の天使になれる。それではどこにその秘密があるのか。一口でいうと、愛や〈いのち〉は人間にはないが、愛の器、〈いのち〉の器になれるということである。すると、毎日の努力は器の管理にある。千差万別の流入があって、感情を動かし、思考を回転させているが、その真偽善悪を仕分けていくことでしかない。それを怠ると、一生を無駄にすることになる。


J
une 11, 2002
真理は善の形であるとか、器であるとか言われている。真理を信仰に、善を愛に置き換えることもできる。すると信仰は愛の器であるということになる。スヴェーデンボルイは、随所で本当の信仰は愛なくしてはあり得ないという。換言すれば、真理は善に依存しなくては、真理になりえないということになる。ということは、真理を語っているようでも、また信仰があるようでも、愛のある善人でなければ本物ではない。人生も晩年になって反省してみると、自分は真理を追究してきたが、中身になる愛のなさを痛感する。しかし、信仰的真理を追究してきたからこそ、愛の欠如を実感できるわけで、信仰上の追究がなかったら、愛の欠如さえ気付かず、一生を終えたかもしれない。わたしは一生をかけて、真理を追究した。そして、その真理をついに発見した。その真理とは、自分が癌にかかっているという真理である。


June 3, 2002
西欧語を日本語に翻訳するさい、障碍ともなるし、挑戦にもなる事柄が三つある。それは言語的障碍、概念的障碍、歴史的障碍である。
言語的障碍とは、日本語は西欧語に比べ、字体や発音に言語学習の大半のエネルギーを奪われることである。たとえば、英語で word と言えば、だれで書けるし、読めるし、即座に意味が分かる。ところが日本語では、言葉, 単語、語などと いろいろな文字がでてくる。さらに「コトバ」、「ことば」とかな書きもできる。キリスト教的用語とし使えば、〈みことば〉、御言葉、聖言などという。それに漢字では、その筆順まで会得していなくてはならない。文字と発音だけで、意味の理解にいたらないまま終わる事が多い。
概念的障碍は、意味内容が漠然としていて、明確でない場合が多いことである。英語で truth と言えばだれでも分かるが、日本語で、真理、まこと、真実、事実などなど、truth か、fact か、faithfulness か、 sincerrity か区別できない。しかも「正確さ」と「真理」とを混同する場合が多い。大半の日本人は、 true と correct の区別ができない。
歴史的障碍とは、積み重なった偏見がもたらす誤解によって、概念自身がひん曲げられていることである。真理というと、オウム真理教を思い出すといった類のもので、真理の意味がますます不透明で不純なものになる。
旅行などで、日本人同士が英語を使って交流することがあるが、そのさい、日本人同士でもつきあいがスムーズになるのは、どうしてか。以上の三つの障碍を一気に乗り越えられるからであろう。簡便さ、機能性、国際性、表現力、正確度、緻密度などで、英語を公用語にとりいれざるをえなくなるのではないか。



May 22, 2002
スヴェーデンボルイの著作にある相応の科学は、最古代人にとって、科学中の科学 sicence of sciences であったと言われている。人類の太古に有史人類には不可能と思われるような巨大な構築物が可能であった。それはドルメンの巨石、エジプトのピラミッド、さらにはナスカの巨大模様など、これについて今回来日するエリック・サンドストローム師が1986年にThe New Philosophy誌4・5月号に寄稿している論文は、興味を引く。旧約時代の出エジプト記にある紅海の水の分離、新約時代における湖水上の歩行がどのようにして可能であったかを論じる。現代人は宇宙探索を行えるようになったが、いまだに太古の巨石一つさえ充分な解釈を与えていない。現代の最先端科学も、太古時代の科学中の科学には及ばないのだろう。スヴェーデンボルイはこれについて、触れているが、かれ自身 Mathematical Philosophy of the Universals という学問に関心をもっていた。これは古代人が会得していた相応の科学の別名である。 現代最先端の科学が太古の科学に及ばないとは、人類の堕落が英知の喪失につながった証拠ではないだろうか。


May 11, 2002
数年前、来日したキング司教に質問したことがある。人生も晩年になると、試練・誘惑は少なくjなるのではないかと。ところが司教いわく、「いや反って多くなるし、大きくなる」と。理由は尋ねなかったが、著作を読んでいるうち、気がついたことの一つは、人の再生は、上層部から始まって、末端部にいたるということである。合理性の目覚めに始まって、霊的真理を理解するまでは順調に上昇気流に乗ったような調子だが、それが意志、感情、感覚にまでくだり、日常の生活で骨肉になるには、一生にわたる長い道程が必要になる。それが試練・誘惑のかたちで表面化する。主の最後が十字架だったことを思い合わせると納得がいく。そして主のご復活が、人の再生の勝利を表象するものになる。


May 7, 2002
70歳を過ぎたというのに、家内も自分もどうしてこんなに忙しいのだ。家内は毎日階下で音楽を教えている。生徒はひっきりなしに来る。自分は自分で、二階で天界の秘義第三巻の翻訳、アルカナ通信の作成と発送、書籍の注文受けと発送、HPの点検、メールの受信発信、それに今年は6月にサンドストローム牧師夫妻の来日、10月にはキング司教夫妻の来日準備に追われる。精神が砂漠化しないため、ひまを見て、Swedenborgの1742年作、Rational Psychology をめくってみた。人生も終わりに近いのに、雑用もこんなにも多い。学ぶべきことがこんなにも多く、学んだことを忘れるのがのがこんなにも速い。ざる頭に水を注げば、水は去る。


May 3, 2002
最近毎晩のように夢を見る。しかも極めて鮮明な映像、言語、しかも匂いまで伴ったものが多い。現在住んでいる田舎や、穏やかな田園風景は現われてこない。都会の人ごみと雑踏、団体生活、ラッシュ的混雑、種々の男女との出会い、ちょっとした会話,電車やバスの乗り継ぎ、などが圧倒的に多い。出会う人のタイプは大抵30年以上も前の人がほとんどだ。いつまで続くこのタイプの夢!



April 23,2002

現在キリスト教徒20億、イスラム教徒12億、ユダヤ教徒1500万、合計32億以上。これは世界人口60億の半数以上になる。したがって32億以上の人類は旧約聖書を信じているわけだ。キリスト教徒もユダヤ教徒もアブラハムを信仰の父と仰ぎ、イスラム教徒もイブラヒムの名前で、アブラハムを父とあおぐ。アブラハムには、晩年になるまで子供がいなかった。妻のサライは、子供ほしさに自分の女奴隷ハガルを差し出して、アブラハムに子を産ませた。それがイシマエルである。ところで、アブラハムが100歳のとき、妻サライは子供を産んだ。それがイサクである。イサク、ヤコブの流れがイスラエル人で、現在のユダヤ教徒を生み、イシマエルがアラブ人、現在のイスラム教徒を生んだ。だからイスラエルとパレスチナは、同じアブラハムを父祖とする腹違いの兄弟である。旧約聖書に次のような一節がある。
「主の使はまた彼女に言った、「あなたは、みごもっています。あなたは男の子を産むでしょう。名をイシマエルと名づけなさい。主があなたの苦しみを聞かれたのです。彼は野ろばのような人となり、その手はすべての人に逆らい、すべての人の手は彼に逆らい、彼はすべての兄弟に敵して住むでしょう」(創世記16・11―12)。現在のパレスチナ人の運命を予告しているかのようだ。スヴェーデンボルイは『天界の秘義』1950Bで次のように記している。「善から切り離された真理は、本節では「イシマエル」が表象しています。・・・それは野ロバと似ており、すべてに敵対するとともに、すべてによって敵対されます。むしろ戦い以外には考えることもないし、求めることもありません。共通の楽しみは、勝つために戦う情愛です。勝てば勝利を誇りますから、野ロバに似ています。また荒野のラバであり、森のロバのようで、他のものと共存できません。これこそ善の欠けた真理がもつ〈いのち〉、仁愛の欠けた信仰のもつ〈いのち〉です」。アラファト議長を思い出す。旧約聖書を知らないなら、世界情勢も分からないと言われるが、その一例である。

April 20,2002
人体には無数の細菌が寄生しているが、日常われわれは気付かないし、気にもしない。それを一々気にしたり、駆除に躍起になったりすると、生きていかれまい。それより、快食、快眠、快便、適度に運動して、生活を楽しくしたほうがいい。それと同じように、社会には、黴菌がはびこっているが、それが原因で自分自身も不幸になると思うのは思いすぎだ。政治腐敗も、犯罪も、社会不安も、それを自分自身の幸不幸の原因にする必要はない。悪は排除しなくてはならないが、自分自身の小さな欠点さえ、なかなか排除できないのなら、社会にたいして怒る拳は、自分の上にかざすのが順序だろう。スヴェーデンボルイは教えてくれる。
「人間のエゴは悪そのもので、善と真理はすべて神より来る」と。


April 12,200
キリスト教のすべてを含め、最大の掟、最高の法、最重要の教義は何か。旧約聖書にある、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、主なる神を愛せよ」である。キリストもそれを断言された(マタイ22・37)。そこからすべてが出発し、そこへすべてが帰着する。現代人、地球人類、日本民族、地球上の人間は今病んでいるが、その原因は一つしかない。神を愛さないからだ。


April 2, 2002
 
「感性を磨け」「感性を鋭く」・・・またか!と思わせる。現代の日本に必要なのは、鋭い理性であり、磨かれた理性なのに、「理性を磨け」がほとんど聞こえてこない。せんだっての朝日新聞に、ちょっと目を通しただけで、見出し活字で、「感性」という言葉に三回お目にかかった。名のある物理学者までが「感性を磨け」のようなことを言ってい.た。
 汚職、公金横領、公私混同のすべては、権利、義務、責任という理性的な道理判断の欠如からくる。私利私欲というが、お世話になった人には、自分の地位を利用して恩返しをしようと思うのは、理性でなく、感性からくる。義理、人情、タテマエ、本音、恩、身内びいきに心が引かれるのは、理性でなく、感性の声である。人間社会に、好き嫌い、縁者びいき,恩返し、縄張り意識、公私混同、公金詐欺は横行するのは、理性の欠如からくる。そればかりか、男女差別、地位差別、身分差別など差別意識も、感性が磨かれれば、増大するだろう。感性中心は自己中心にすぐ移行するからだ。小中学校のの教育にも、感性教育という言葉を聞くが、理性教育は、ほとんど耳に入らない。現代の教育者、知的エリート、オピニオンリーダーたちのの理性はどうなったのだろう。国際社会で役にたつのは、理性であって、日本的感性ではないのだが。

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March 26, 2002
朝食時に家内とともにラジオのFM放送で音楽を聴く。一人の偉大な作曲家が世紀を越えて、人類の心を豊かにしてくれている。例えば、バッハがそうだ。世界を動かすのは一人で十分であるのを証明しているようだ。偉大な頭脳、偉大な精神、偉大な魂は、単独で行動する。スヴェーデンボルイもそうである。回りを気にして、周りにあわせえて自分の行動を決める社会では、偉大な魂が育ち難い。一千万人の凡人より、一人の知者のほうが、社会に貢献すると言った人がいた。若い魂は、海外で成長してもらいたい。


March 21, 2002
人類は古代教会の時以来、理性が意志から分離されたとスヴェーデンボルイは記している。堕落した意志に理性までもが引きずられて堕落しないためである。堕落した人間でも高尚なことを考え、喋れるのはそのためである。地上の国家の政治体制として、神政、あるいは政教一体が理想的に見えるが、それが巧く機能しないのは、宗教と政治は目的が異なるためだけでなく、人間の意志と理性が分離しているからで、宗教と政治は機能的に分離させなくてはならない。理性で悟ったことをすぐ実行できないのは人類の宿命なのだ。主イエスが処刑される前夜、ペテロの剣をたしなめ、「あなたの剣をさやにおさめなさい。剣を取る者はみな剣で滅びる」(マタイ26・52)と言われた。しかし現在にいたるまで、キリスト教国家といえども、武器を捨てない。イエスキリストこそ、無抵抗の鏡であるが、何十億といるキリスト教徒も、その理想を実現するには、あまりにも堕落しすぎているため、武器を取らざるを得ない。あまりにも堕落しすぎていても、理想は武器を捨てることをだれもが知っている。それにもかかわらず、堕落した相手から身を守るために武器が必要になる。


March 19,2002
〈みことば〉の内的意味について、次のように考えた。「オーケストラの指揮者は、自分で弾かなくても、ある楽譜に目を通しただけで、音楽が響いてくる。普通人は楽譜に目を通しても、何も響いてこない。ピアノの鍵盤を楽譜に沿ってたたいてみて、やっと音がでるが、作曲家が意図した音楽を聞くまでには、長い音楽の修業が必要だ。〈みことば〉もそれによく似ている。地上の人間は、文字上の意味に釘付けになり、それから奥へはなかなか進めないが、天使が同じ〈みことば〉を耳にすると、内的意味が響いてくる。楽譜は文字上の意味、音楽は内的意味である。文字上の意味と内的意味には切っても切れぬ縁があり、それを「相応」と言うが、われわれ地上の人間の理解を越えながらも、内的意味を知るため、文字上の意味の勉強はぜったい欠かせない。音楽家のように楽譜を見ただけで音楽の流入があって感動できるようになるためには、まず楽譜の勉強から始めねばならないと同じく、天使のように、文字上の意味だけで霊的意味や天的意味の奥義を理解するようになるには、文字上の意味の勉強は、絶対欠かせない。さて、われわれが『天界の秘義』を読み、スヴェーデンボルイを通して内的意味の説明を聞いても、素人が楽譜を見ながら、高度の音楽を聞いているようなもので、歯が立たない。にもかかわらず、再生が進めば、次第次第に、目から鱗が落ちていく。著作は、天使の英知の一端を味わい、天界に行くための指南書である。生易しいものでないことだけは確かだ。一度目より、二度目より三度目、三度目より十度目と、真剣に取り組むことで、理解は奥行きを増してくる。ヒマラヤ登攀は、一歩一歩登りつづけることだ」。


March 13, 2002
 社会全体が社会に長年蓄積され、無視されてきた悪に目を光らせるようになったことは、好ましいことではないだろうか。摘発され、糾弾され、裁かれた人を見て、わが襟を正す姿勢が生れてくる。告発はブーメランのように、やがては自分の身の反省になる。一億円の脱税を見て、自分自身の十万円の脱税に気付く。幼児虐待のニュースを見て、自分の子を不当に扱っているのに気付く。
政治家のウソを知って、自分の日常のささやかなウソを反省する。食品ラベルの偽ものから、自分の店の底上げ商品を改善する。社会は共同責任で成り立っている。スヴェーデンボルイの著作にしばしば瞠目するような一節が姿を現す。「自分の悪と偽りを知って、それを改善したいと思い始めるとき、人間は初めて合理的人間になる」と(天界の秘義1943)。

March 5, 2002
 徳島県に住む者として、「徳島県知事逮捕」は、息がつまる思い。ただ検察側の取り調べも始まるまえから、マスコミで「逮捕」という言葉を使うのは、人権侵害だろう。有罪か無罪かも決っていないうちに、あのように報道されたら、遠藤氏の政治生命を断つことになる。政治生命を断たれることは、肉体の生命を断たれるのと同jくらい、本人には痛手ではないか。基本的人権の問題だが。

March 2, 2002
 小泉内閣の構造改革の先行き不安、失業率の上昇、ペイオフ金融不安、不良債権処理の停滞、中小金輸の破綻、企業の倒産、デフレスパイラル・・・、経済や金融にはあまり知識のない自分だが、政府も国民も、ボタンを一つ掛け違えて、解決を急ぎながら、同じところを堂堂巡りしているように見える。問題はカネでもモノでも機構でも組織でも構造でもなく、心の問題ではないか。人が人を信じなくなってきている。信じて自分が損をしたくないから、みな財布の紐をしっかりしめ、人の出方をうかがっている。銀行は信用で成り立つというが、銀行だけでなく、商売はみなそうだ。売り手と買い手の間も信用で成り立つ。それだけでなく、政府と国民、権者と債務者、経営者と被雇用者などみな信用でこそ成り立つ。信じあってこそ、うまくいく。親子でも、友人でも信じあってこそ交流が成立する。市場が冷え切っているというが、人間同士の信用が冷え切っているのではないか。その証拠になるかどうかだが、犯罪が増えてきている。今の日本に必要なものは、問題解決の知恵だが、知恵は、信じるところから生まれる。信じるためには、愛する必要がある。その愛は人が作り出せるものでない。神は愛なり。神からのいただきものなのだが。


Feb. 28, 2002
アフガン戦争で、あれほど日本政府は、大騒ぎして国連とアメリカのエロ撲滅戦線に貢献したようにみえたが、アメリカ国防省のテロ撲滅貢献国26カ国のリストに載っていなかったそうである。外務省は早速クレイムをつけたため、リスト洩れを認めて、リストに入ったそうだ。
 これは日本の対米意識が、米国の対日意識に比べて、過大であることが理由の一つにあげられるが、それより日本政府と国民全体の目的意識ではないかと思われる。
 テロ撲滅のためというより、湾岸戦争の恥を注ぐとか、Show the flag とか、国際社会で名誉ある地位を占めるなど、テロ撲滅の目的より、恥じや外聞やお付き合いで行動したばあい、印象は非常に薄くなる。これをopportunism というが、Oportunists は 目的意識や使命感が希薄なため、外見でどうあれ、人間の行動としての価値が低いのは否めない。 
 知識は現象を求め、理知は原因を追求し、英知は目的を見ると、スヴェーデンボルイが記している(DLW202)。また天使は人を見るのに、その目的を見てすべてを知るとも記されている(AC1317)。残念ながら、現在の日本は現象を求めて無駄な知識を氾濫させ、目的を失って夢遊病者のように右往左往しているように見受けられる。日本だけではなく、世界は現在、著作による精神文明化以外には、永続的問題解決はえられないと思う。

Feb.18, 2002
神を愛することと、隣人を愛することは、聖書の教えの中核、キリスト教の基本であるとともに、新教会のおしえでもあり、人類普遍の法と言ってもいい。ところが愛することと、好きであるのを混同する人が多い。隣人を愛するといっても、好きにならねばならないわけではない。理性よりも感性を大切にする日本人には、その区別が難しいようだ。だから、キリスト教の隣人愛など守れないという。しかしそれは誤解である。好き嫌いはだれにでもあるし、どこの国の人にもある。しかし気持ちや気分を重視しないで、理性が指し示す真理を重視するのが、新教会である。頭で分かったことを実行すればいいわけで、隣人愛だからと言って、日常生活で仲良くしなくてはならないわけではない。嫌いな人がいても、その人の幸福を侵害しないで、冷静に助ければ、立派な隣人愛になる。

Feb.13, 2002
 世の学者の著した書物には、学問の世界で権威をもつ人からの引用がある。しかし驚くことに、スヴェーデンボルイの著作には、聖書以外に参考文献は何もない。古今東西にわたって、〈みことば〉の内的意味について記した学者がいないためであろう。それだけでなく、自著内でのおびただしい参照箇所があって、各章、各節、各ページがたがいに連関をもち、首尾一貫した整合性を保っていることも、驚くべきことである。

Feb. 11, 2002
現在『天界の秘義』第二巻を校正中であるが、創世記第14章の始めにある「天使の霊の言語」は、多くの人の興味を引くのではなかろうか。訳文の一部を紹介しよう。

1637. ・・・霊たちは、同じ土地で生まれ、同じ言語で教育を受けたものと思わせるほど、人の言語を流暢に自然にしゃべります。それはヨーロッパ出身でも、アジア出身でも、その他の地域出身でも同じです。・・・霊たちは、人と話しているとき、その言語は自分の母国語であるかのようです。人が長けている他の言語でも同じです。A 霊たちの身についている言語は、単語を連ねる言語でなく、思考概念的な言語で、あらゆる言語にとっての普遍的な言語となります。霊が人に寄り添っている場合は、その思考概念が人の単語の中に落ち込み、そこに相応と適合があります。それで霊たちは、口にする単語が自分のものとしか思えません。つまり人の言語をしゃべっていても、自分の言語をしゃべっているとしか思えません。わたしはそれについて何度か霊たちと話しました。来世にやってくると、すぐ気づくことですが、霊魂はみな全世界のあらゆる言語を理解する才能が与えられています。それは母国語と変わりません。人が何を考えていても感知してしまいます。その他にももっと優れた才能が発揮されます。肉体の死後、霊魂たちは、どこの地方の人、どの言語の人とでも語り合い、会話することができるようになります。

Feb. 4 で提起した問題は、次のような解答が得られた。

 「しかし信仰の真理、すなわち教義事項は、仁愛の〈いのち〉を形成するため絶対必要です。前者なくしては、後者は形成されません。後者の〈いのち〉こそ死後、人を救うものになります。それなくしては、信仰の〈いのち〉も存在しません。仁愛がなかったら、信仰的〈いのち〉は不可能だからです。(天界の秘義2049C)。
 「あらゆる真理は、善を受けいれる受け皿です。そして真理が純粋であればあるほど、それだけ数を増していき、それだけ器として、より多くの善を受けいれることができるようになります。しかも善を秩序づけ、結果的には、善を具現するmanifestare ようになります。そしてやがては真理を通して善を輝かせないかぎりは、真理であると見えないほどになります。つまり真理が、天的で霊的なものになります。 そして仁愛だけの善の中では、主のみが現存されます。こうして人は、主に結ばれ、善つまりは仁愛を通して良心が与えられます。その良心にもとづいて、人は真理を悟り、公正を実践します。ただしそれは、〈善すなわち仁愛〉を同化適用した〈真理と公正〉にしたがってた実践です」(天界の秘義2063B)。

Feb. 6, 2002
 先日のテレビで、アメリカのある病院で、末期癌患者に精神科の医師が対話集会的なものを繰り返すことによって参加した患者が参加しなかった患者より、何年か寿命を延ばしたというドキュメンタリがあった。心が晴れやかになることによって、癌細胞を攻撃するある種の体内分泌が増え、それによって癌の増殖を抑えるということだ。
 人がスヴェーデンボルイの啓示神学を学ぶことで、死が来世への移転に過ぎず、蛹が蝶になる過程であることを知れば、死を恐れなくなるだろうし、死が美しいもの、慕わしいもの、願わしいものになる。それはキリスト教の教え、聖書の教えでもあるのだが。

Feb. 4, 2002
きょう訳した原典に次のような一文があった。平易な一文であるが、意味深長である。
"
secondum veri qualitatem et quantitatem, se habet charitas apud homenem".
英語にまず訳してみると、"according to qaulity and quantity of the truth, charity is to be given in a human being. "和訳を試みる。★真理の質と量に呼応して、その人なりの仁愛が備わっていることになる。★人にある仁愛は、本人の真理の質と量に呼応したものである。★人の中に仁愛があるとすれば、それは本人の真理がどのような性格の真理で、そかもどれくらいの大きさの真理であるかによって違ってくる。★人の中に仁愛があるとすれば、本人がどのような性格の真理をどのくらい把握しているかによって、決ってくる。結局は、「★人の仁愛は、真理の質と量に呼応するものとなります」にした。
 分かりやく訳すること、しかも原意を最大限に汲んで訳すことは、翻訳者の良心的義務と責任であるが、訳し終えただけで済まされない問題がある。それは、スヴェーデンボルイが、この一文で何を伝えたいかを前後関係から察知することなのだが、それが分からないと、スヴェーデンボルイの啓示神学のモザイクの一部が欠落することになる。例えば、スヴェーデンボルイが常づね警戒を呼びかてているよに、真理把握が仁愛に直結せず、遊離したものになる可能性のあることである。Jan.7に記したが、天界の秘義3905にある指摘との関係をどのように考えるべきだろう。ついでに、二人の英訳者の訳文をかかげてみよう。
Potts:● according to the quality and quantity of truth, so is the charity with a man.  Elliott:●as is the nature and the amount of truth present with man, so is the charity present with him.



Feb. l, 2002

スヴェーデンボルイの著作の翻訳にかんして言うと、翻訳者は、井戸掘り職人のような人間かと思う。一生懸命井戸を掘って、美味しく冷たい水を周囲の人に飲ませる、それが目的で、一心不乱に毎日掘る。井戸掘りの自分も、たまには湧き出る水をゆっくり飲んでみたい。だがその閑がなかなか見つからない。
 掘った水を飲んでくれる人も、種々様々である。ほとんどの人は、井戸掘り職人は、毎日たっぶり水を飲んでいるはずだから、水の味は熟知していると思うが、それは誤解である。賞味する閑を惜しんで掘りつづけているのが現状である。ある人は、水を賞味してくれないで、水をくむ容器がお粗末だと言って文句をつける。井戸掘りとしては、水さえ飲めればいいと思っているのだが。別の人は、井戸掘り職人のわたしに、水を飲む人たちの集まりを作ってくれと言う。ちょっと贅沢ではないかなあ。
 だけどある人は、一杯飲んで、容器には目もくれず、これこそ本物の〈いのち〉の水だ。こんな美味しい水を飲んだことがないと言って、友人・知人・親戚に声をかけ、水のありかを教える。
 こんな人に出会うと、井戸掘りの苦労が報いられる。水を汲むには、水漏れのしない容器を提供しなくてはならないが、同時に容器を意識させないように、掘ったばかりの湧き出るおいしく水を飲んでもらうことだ。それが井戸掘り職人として一番うれしいことだ。


Jan.29,2002
 ピラトは主キリストに向かって、「真理とは何か」と質問した(ヨハネ18・38)。それに対してのお答えは福音書に記されていないから、直接の返答はされなかったらしい。たたし同じ福音書の中で、それ以前に、「わたしは、道であり、真理であり、〈いのち〉である」(14・6)と言われた。
 日本語で、「真理」というと、抽象的概念で、論理的正確さを示す修飾語のような印象を受ける。また、ヨハネ福音書の冒頭に、「神は〈みことば〉であった」なども、どうして神が文字に過ぎない言葉なのだろうと思いやすい。ところが真理は論理的正確さのことでもないし、言葉が文字に過ぎないものでもない。真理にしても言葉にしても、本来は「実体」や「実物」を示す概念で、論理や文字はその実体を載せる器に過ぎない。
 「真理」は「本当のこと」、「本当のこと」は「本物」であることからくる。「言葉」は「知恵の結晶」、
「知恵の結晶」は「知恵者」なのであって、「真理」も「言葉」も架空の抽象概念ではなく、主体となる実体を示す。したがって、「わたしは真理である」と言われたのは、「わたしは本物である」と言う意味であり、「神は言葉であった」は、「神は知恵の源泉であった」と言う意味になる。

Jan. 22, 2002
『天界の秘義』を毎日訳していると、しばしば砂をかむような単調さに襲われることがある。しかしその単調さが、ある文脈で、突如ダイヤモンドの光を放つ。ラテン語原典に接していられるのは、原典訳者の特権ではあるが、問題は文脈の置くに流れるもう一つ別の文脈を見ることであって、スヴェーデンボルイは、これを内的意味という。
 それは山を見て神の崇高さに打たれるのに似ている。山を愛する人でも、山をみて無感動な日々が続くことがる。しかし時として、山頂を仰ぎ見るとき、山頂に到達したとき、思い出の中にある山を眺めるとき、持続的・永続的な感動を噛み締めることができる。訳者でなくても、読者であれば、だれでもそれを味わうことができるが、それは再生への努力に比例する。しかも机上の空論でないことが恐ろしい。

Jan. 21, 2002
スヴェーデンボルイがみずから記した著作を読まないで、スヴェーデンボルイについての研究書や評論を読むことは、読者にとって誤解の落とし穴になる。結婚相手の女性か男性にじかに会う前に、その周囲の人々に本人の噂を聞いてしまうと、最初から偏見をもって相手を見てしまうのと似ている。ときには自分当てのラブレターの内容を、恋敵から説明してもらうようなことにもなりかねない。ほとんどの人は自分にとっての利害得失、好悪の感情に左右されて、他の人を判断するからである。
 ベートーベンの音楽について評論を書きたければ、まずベートーベンの音楽を自分の耳で聴かねばならない。音楽を聴く前にベートーベンについて書かれた評論を読んでしまうと、他の評論家の二番煎じのような評論しか書けないことになる。


Jan. 20, 2002
 「口で教えるより、行いで教えなさい。行いで教えるより、存在で教えなさい」とはある教育学の本に載っていた言葉で、20年以上まえに読んだ覚えがある。ところがスヴェーデンボルイの著作から教わることは、よく似ているが、もっと人生の本質にかかわってくる。つまり「口で信じるより、行いで信仰を表わしなさい。行いで信仰を表わすより、愛と生命で示しなさい」ということになる。死後残る人の実態は、本人の愛を中核とするありのままの人間である。類は類を呼ぶで、あなたとよく似た人が集まって社会を作った場合、あなたは幸福ですか?という深刻な質問になる。それがあなたが所属する死後の社会であるとすれば、わたしは天国へ行くか、地獄へ行くかという質問は愚問でしかない。今あるわたしの裸の人間像が、死後の姿なのだ。


Jan. 18, 2002
 アフガン復興会議が日本で開催される。国際的な貢献度で日本が評価されることは、復興にたずさわる人たちの励みになるに違いない。あらゆる不幸と悪は、やがて善用されるために、主がお許しなることだという教義は、新教会にしかない。新教会の教義が日本人に受け入れられるようになる日は、まだ数十年、あるいはもっと先のことかも知れないが、希望はある。きょうバス司教からもらったメールにhも、そのような文面があった。There must be people who know something of the New Church, and who live in Japan.  I hope and pray that one day we will begin to discover them and that they will begin to form the nucellus of a strong group in Japan.  These things do grow slowly.

Jan.14,2002
 今朝の新聞で、与党三幹事長が、アラファト議長と会見した記事を見た。小泉総理は東南アジア諸国を歴訪中だそうだ。そこで思ったが、現在の日本は、かつてほど敵視したり敵視されたりする国が少なくなった。主義主張が希薄なのが幸して、世界の紛争の調停役には、適しているとしたら、世界平和のために無上の貢献をすることになる。


Jan. 13, 2002
和訳では『死の瞬間』などで、日本でも知られているキュプラー・ロス博士は、「わたしは死後の生命、来世の存在を信じているのでなく、知っている」と再三断言した。日本でも、霊前で手を合わせたり、犠牲者に黙祷をささげたりしているのを見ると、暗黙のうちに来世を信じていると思われるけれど、来世とか死後の〈いのち〉にたいして、世間の目をはばかってか、迷信臭い後ろめたさを感じてか、正式の信仰告白として公言する人がいない。
 美智子皇后陛下が、皇太子妃としてスペインを訪れ、マリア像の前で跪いて祈ったと聞いた。彼女は、聖心女子大時代、カトリックの修道女から影響を受けながら、皇族になってから、国内でも宮中でもホンネで行動できないとしたら、気の毒である。外国ではわりに本音をあらわしながら、国内でタテマエで行動が制約されるとすれば、日本人にとって喜劇的な悲劇である。同胞にたいする猜疑心からか、遠慮か、世間体か、残念なことだ。国内でホンネ、外国でタテマエで行動するというのなら分かるが。人間が人間として最も大切にすべきものは、自由であるが、その自由を大半の人が放棄して、一億右へ習えになれば、わが国の民主化はあまり前進していないことになる。日本人には、聖書が必要だ。聖書がなかったら、人間の尊厳とか自由は理解できないのではないか。

「神は、自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された
」創世記1・27。

Jan. 11, 2002
 天的天界では、説教者を霊的天界から招聘するということは、人間の知恵では思いつかないことではなかろうか。小学校の先生が大学に赴いて、大学の教授たちに講義をするようなものである。そこには現世では考えられないような英知が実現される。身分、肩書き、地位、実績などは考慮されない。あるがままの自分を知れば、講義するものがだれであろうが、その人から学ぶことがあるから、上位天界の天使たちは、下位天界の天使の説教を聞くのである。

Jan.7,2002

質問:みことばについて。特に旧約聖書。天界の秘義を読んでいますが、内的な意味解釈が続いています。内意を知らないと自然的な解釈(字義通りの解釈)では理解できないとかかれている部分をよく目にします。では、歴史的な物語として記されている旧約聖書は、どこまでを事実として捕らえて解釈するのが自然でしょうか?過去のできごとはすべてまぼろしのような物とも考えられますので、この質問の答えになんの価値があるのか不明ではありますが、たとえば、具体的に
アダムから始まる聖書の登場人物はすべて実在したと考えるべきでしょうか?それとも象徴的なものとして考えるべきでしょうか?数についてもしかりです。内的な意味としてしか意味を持たないものなので
しょうか?(大和市 岡義朗)

お応え:オーケストラの指揮者は、自分で弾かなくても、ある楽譜に目を通しただけで、音楽が響いてきます。普通人は楽譜に目を通しても、何も響いてきません。ピアノの鍵盤を楽譜に沿ってたたいてみて、やっと音がでますが、作曲家が意図した音楽を聞くまでには、長い音楽の修業がいります。

 〈みことば〉でも同じです。地上の人間は、文字上の意味に釘付けになり、しかもそれから奥へはなかなか進めません。しかし天使は、同じ〈みことば〉を耳にすると、内的意味が響いてきます。

 楽譜は文字上の意味です。音楽は内的意味です。楽譜と音楽には切っても切れぬ縁があり、それを「相応」と言いますが、われわれ素人には理解を越えながらも、楽譜の勉強はぜったい欠かせません。音楽家のように、楽譜を見ただけで音楽の流入があって感動するよいうになるためには、まず楽譜の勉強が欠かせません。それと同じように、天使のように、文字上の意味だけで霊的意味や天的意味の流入があり、奥義を理解するようになるには、文字上の意味の勉強は欠かせません。

 さて、わたしたちが『天界の秘義』を読み、スヴェーデンボルイを通して内的意味の説明を聞いても、素人が楽譜を見ながら、高度の音楽を聞いているようなもので、歯がたちませんが、それにもかかわらず、楽譜と音楽の関係を知り、再生が進んで天使の考えに少しでも近づけば、それだけ理解が深まります。ということで、音楽家になるためには、楽譜が不可欠なように、天使のように内的意味を理解するには、文字上の意味は不可欠です。それについては、『四教義集』にある「聖書についての新エルサレムの教義」49-59をぜひ読んでみてください。



Jan.6, 2002    今日考えたこと。

 
キリスト教最大の掟は、申命記6章にあるように、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして主なる神を愛する」ことだと、主もマタイによる福音書で言われている。最近思うことであるが、これは神自らが人間にたいして実践したいることではないか、と。すなわち「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、主は、人類を愛しておられる」からこそ、そのような掟が出現したのではないだろうか。

Jan.5、2002  『天界と地獄』改訂第五版の「訳者あとがき」に次のような出版意図を付け加えた
「ご承知のとおり、二十一世紀に入って間もなく、世界は、民族を主軸にした宗教間の対立と衝突を目前に、共存への道を模索しています。高度に発達した物質文明の陰にあって、旧来の宗教と思想が、国家・民族間の溝を大きくしています。イスラム社会と西欧との亀裂も、テロ事件で、その一部が暴露されたに過ぎません。暴力が暴力を生む地球人の思想的貧困には、危惧の念をいだかざるを得ません。

 
 
人類全体は、実現できる共通目標をはっきり堅持してこそ、協力と協調が生まれます。文明の衝突を代表する二大宗教、キリスト教とイスラム教、さらにはイスラエル・パレスチナ問題の背後にあるユダヤ教とイスラム教、以上の三宗教は、いずれも旧約聖書という同一の宗教的原点をもっており、等しく唯一の神を認め、死後の世界を信じます。この公分母にたいし、共通の理解をもつことで、和解が可能であることは明らかです。
 
 無宗教的といわれながらも、わが国民多くは来世を信じています。墓前に手をあわせ、亡き身内に敬意を表わし、犠牲者には黙祷をささげ、失われたわが子が、「天国」にいると信じます。また卑劣な行為がまかり通る社会を、「地獄」という言葉で表します。「天国と地獄」は、われわれの日常に頻出する、親しみのある宗教用語です。

 西欧キリスト教では、ダンテの『神曲』にも登場する善人と悪人の死後の運命は、人間本来の因果応報という願望が、集約されています。わが国でも、平安朝末期の地獄絵図などには、業と苦の因果関係が、執拗に描かれます。どの宗教にも、死後の生命を肯定的にとらえ、清算の果たせない現世のかなたに、死後の生命の存続を信じます。人間本来の願望に無意味なものはなく、願望の存在がその実現を前提とするなら、死後の生命存続への希望が不毛になるはずはありません。 
 本書は、今世紀の人類だけでなく、わが国の読者にたいし、精神の潤いとして、少なからず貢献するものと信じます。宗教的確信の根源ともいうべき来世の有無と、思想的混迷の克服は、生きがいの再生に通じ、生きがいの再生は、人生の「痛み」を乗り越える力になります。

 
 来世への信仰は、現実逃避と思われがちですが、キング牧師やマザー・テレサのように、世界を動かす宗教家の活動を見れば、明白です。わが国でも、数多くの教育者、医療活動家、福祉事業家が、宗教的確信のもとで、社会改革や改善に貢献しています。事実は、現世逃避どころか、生きがいの充実化につながります。墓場で終わる人生より、墓場を越えていく人生にこそ、世に生きるための希望と力を与えることは、疑えないからです。書名にある「天界」と「地獄」は、一見架空な印象を与えながら、最も奥行きのある現実性を孕んでいます。小社発行の原典訳が、初版以来読者層を広げているのは、そのような理由によると思われます。


Jan.4,2002
小泉総理の「構造改革」は、一言でいうなら、頭の改革、心の入れ替えで、政治家の一人一人が自己改革をしなければならないとの意味であろう。私よりも公を大切にする、派閥優先でなく国民優先にする、地位を利用しないなどで、結局は、〈みことば〉による自己改革しかない。自己愛、世間愛で動かないことだが、それには、確固とした人生哲学が必要になる。


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小泉「構造改革」に思うこと
 松本士郎