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天界の秘義 第五巻

Arcana Caelestia vol. 5

訳者あとがき − 本書解説をかねて

『天界の秘義』第五巻の出版を準備中の現在、訳者の住む地方都市徳島、しかも弘法大師の生地とされる町にも、キリスト教関係の映画が、たまに上映されることがあります。今回は、2004年5月1日全国一斉に封切りされた「パッション」を題材にして、この「訳者あとがき」を記してみようと思います。徳島市でただ一つの上映館を訪れました。平日の午前とあって、百席ほどの客席の中、観客は数人程度。米国では公開館数が3000館を越えるまで圧倒的に拡大し、全米で一位を獲得するまでの超ヒット作も、非キリスト教国日本では、キリスト教映画は、あまり注目を集めません。 いずれにせよ、今回のあとがきでは、「パッション」に上映されたキリストの苦難と、本書『天界の秘義』第五巻の示す内容が、どのように噛み合うかを素描してみたいと思います。

 

1.キリストの苦難の位置付け
2.スヴェーデンボルイの著作に描かれたキリストの苦難の意味
3.従来のキリスト教との相違
4.『天界の秘義』第五巻における中心的教義
5.夢の中で見たヤコブの梯子について
ま と め

 キリストの受難を扱った映画「パッション」から、『天界の秘義』第五巻の要約にまで発展してきました。それでは、後者の人間再生のプロセスが、どのように、前述のキリストの苦難と関係づけられるか、最後に「まとめ」として触れておきます。

 従来のキリスト教は、キリストの苦難と十字架、しかもその血潮によるあがないに、キリストの一生のクライマックスを置く傾向があります。その証拠に教会の印は、常に十字架です。それににたいし、スヴェーデンボルイの著作に基いて設立された新教会では、主の受難を、悪の力への勝利の前触れであり、その一生のクライマックスは、むしろ主の人間性の完全神化という面で、復活にあるとしています。因みに、初代キリスト教会の迫害時代、カタコンブに描かれたキリストは、十字架より、良き牧者のイメージのほうが強かったとされています。

 卑近な例を挙げて説明すると、人の一生を飾るものは、人の最期を飾る本人の死に様であると言う考えがあります。本人が人生の最終段階まで、強く、雄々しく、勇敢に、慈悲深く、生き抜いたあと、潔く死ぬということは、本人の一生の輝かしい証になることはたしかです。

 しかし死後の〈いのち〉を信じる者にとっては、本人の新しい死後人生に焦点を置きます。人の一生は、物心ついたときから、幼年期、青年期、成人期を経てつくりあげられます。したがって、毎日の一瞬一瞬の蓄積から成り立っており、それが死後の〈いのち〉の継続と発展につながっていきます。

 スヴェーデンボルイの著作では、キリストの一生を、絶え間のない試練・誘惑の連続と考えます。それはマリヤから継承した自然的人間を、みずからの魂であるエホバなる神性に、一歩一歩近づけていく熾烈な戦いです。そのような試練・誘惑の最期を飾るものが十字架であったと考えます。「このことは、ご自身の人間性が、徹底的に試されることによって、実現しました。その試練の究極は、十字架上の苦しみでした。主はそれに耐えられました」(真のキリスト教3)とあるのは、そのことです。しかも、前述のように、福音書に記されているのは、最期だけで、荒野の誘惑がどれほどであったかなど、弟子たちに知らされなかったこともたくさんあり、分かって記録されていることは、ほんの僅かであることが指摘されています(541ページ)。

 人間の一生を飾るのは、本人のこの世での最期の一瞬にだけ集中するのではなく、本人がこの世で形成した〈いのち〉全体です。しかも主は、現在、エンマヌエル(われらとともなる神)であられるなら、十字架ではなく、復活こそ主のシンボルになります。十字架は、罪・死との戦いであったのにたいし、復活は、罪・死への勝利であり、死と罪からの解放を意味します。

 人類があがなわれたのは、主の十字架上で流された血によるというより、主が地獄の力、悪の力に打ち勝って、ご自分の古い人間性を完全に神化されたことによります。われわれが主を信じ、主の掟を守り、悪を避けて、地獄の力に征服されないよう祈り願うとき、復活の主、臨在の主は、神化された人間性を通して、神的力を流入として、われわれに注がれます。それが人間の一人ひとりにとって、あがなわれることであり、救われて、天界に迎えられるきっかけになります。

 救いは一瞬で起こるものではなく、日々地獄から解放されていくことによって、救われていきます。罪の赦しも、本人が悪から脱却していくことが罪の赦しになります。なぜなら無限の慈しみの主は、人間のどのような悪にたいしても、当初から赦しておられます。ただ地獄が悪人を罰すると言うように、人の周囲に徘徊する悪霊や悪魔と、本人とのつながりが緊密である限り、悪から解放されておらず、赦しにつながりません。自分自身も、自分の悪を赦していないわけです。

 ルカによる福音書に、姦淫している女がつかまえられて、石殺しにされようとしていました。その是非を問われて、「あなた方の中で、罪のない者は、石を投げなさい」と主が言われたとき、一人ずつ去っていったという話が記録されています。主はその女と二人だけになったとき、「あなたの罪は赦された。安心していきなさい。もう罪を犯さないように」と言われました(ヨハネ8・1-11)。人がもう罪を犯すまいと決心したとき、罪が赦されます。罪を犯すまいと決心することが、悪霊からの解放につながるからです。

 イエスの十字架の傍にいた盗賊も同様です。かれは「み国でわたしのことを思い出してください」と言ったとき、「あなたはきょう、わたしと一緒に楽園にいるであろう」と言われました(ルカ23・43)。自分の非を認め、自分の罪を悔い、もう二度と罪を犯すまいと思うとき、罪から離れ、自動的に罪が赦されたことになります。主は、赦しの条件として、償いを課することはありません。

 ペテロの質問にたいして、主は「七度を七十倍するまで赦しなさい」と言われています(マタイ18・21-22)。これは四百九十回赦しなさいという意味ではなく、無限にという意味になります。

 映画「パッション」の中で、残虐極まりない拷問の繰り返しがあり、観客を戦慄させますが、なぜキリストは、それほどまで苦しめられねばならなかったかという質問が発せられます。これは当時のユダヤ人たちの残虐性に帰することも可能ですが、キリスト教的解釈からすると、人間の罪深さにたいする仲介者キリストの償いであるとか、父なる神の怒りをなだめる謝罪であったとか、旧約聖書にあるスケープゴート(レビ16・20-22)に因んだ解釈など、いろいろあります。

 しかし著作による全般的解釈では、キリストの一生にわたる試練・誘惑の究極を示すもので、肉体だけでなく、主の精神も究極まで、苦しみを甘受しました。「わが神、わが神、なぜわたしを捨てられたのですか」(マタイ27・45)は、精神的暗黒の極を示すものです。地獄の力による悪にたいしては、悪で報いず、むしろ赦しと慈悲で報いることこそ善の勝利になります。その結果、主が肉の母マリヤから継承した古い人間性は、地獄の勢い、悪霊・悪魔から、完全に解き放たれ、徹底的に神化され、栄化される結果になりました。

 人の救いは、主の勝利への参加です。主が解放された人間性、神化された人間性から、悪に対抗する力、地獄に屈しないエネルギー、新しい人間性の情愛として、愛、恵み、感謝、謙遜、祈り、服従、堅忍の恵みをいただきます。それは前述のヤコブの息子たちによって示される再生のプロセスを、父ヤコブの見た夢の梯子を上下するようにして、循環的に上昇下降しながら完成に向かい、最終的には、主のみ国に入ることを予測させるものです。

 人間再創造の神的プログラムは、現存する復活のキリスト、栄光と臨在の主によって実現しましたし、今現在も、実現しつつあります。われわれは、主をモデルにし、みずからの再生を賭けた人生を営むことになります。

                                                2005年6月19日  訳者